秋篠川
「下道命婦が迷惑がっている」
そう男に言われ、義麻呂は面食らった。
「迷惑……」
「心当たりあるだろう」
ドンッ
ドドドドドドドドド……
そのとき、またしても天井を子鬼たちが走り回っているのが見えた。
義麻呂が見上げると、相手の男も同じように天井を仰ぐ。
そして正確に子鬼たちを目で追い始めた。
(えっ)
驚いた義麻呂は思わず聞いてしまう。
「見えてるんですか?」
男の視線が義麻呂に戻り、こう言い放つ。
「当たり前だろ。陰陽寮の人間だ。お前と同じように見えてる」
「……!」
そう、ここは中務省の陰陽寮。
天武帝が創設し、占星台が設けられている場所だ。
天文・暦・気象を司り、国の吉凶を見定める。
水時計もここにある。
その時計によって漏刻博士が時を知り、小間使いに鼓を打たせた。
早朝の太鼓の音で朱雀門はじめ宮中の十二門と羅城門が開かれる。
ドドドドドドドドドッ
ドン ドン!
(陰陽寮なのに子鬼が走り回ってていいのか)
相変わらず男は天井を睨むだけで何もしない。
不思議に思った義麻呂は呑気にも聞いてしまった。
「なぜ退治しないんですか?」
「……」
男はなぜかフッと笑った。
(えっ……何?)
「実害がなければ見て見ぬふりをする。いちいち些末なことに煩わされたくないからな」
「……(そういうもんなのか)」
「それに、怖いのは人の念の方だ」
「人の念……?」
「恨み、妬み、執着。そういうものの方が手強い」
「……」
「由利に近づくな」
「……由利……?」
あっ。
その瞬間、義麻呂は下道命婦の名前が由利だとわかった。
「……」
「なぜ由利にまとわりつく?」
そんなことを言われても。
だいたい、この人は下道命婦とどういう関係なのだろう。
そればかりが気にかかる。
義麻呂の心を読んだかのように男が名乗った。
「私の名は下道比呂。由利は妹だ」
妹……。
そうか。
ホッとしたのも束の間。
「今後、妹にまとわりつくのを見かけたら容赦しない」
比呂の強烈な言葉に義麻呂は打ちのめされた。
「うっ……」
「……?」
しかし苦しそうな表情を浮かべていたのは比呂の方だった。
「どうしたんですか」
心配してたずねると、比呂はつぶやいた。
「三輪山の巳ぃ様か……」
「……?」
「以前、蛇を助けなかったか?」
「蛇……そういえば」
義麻呂は秋篠川の橋の上で、人に捕まってジタバタしている蛇を見かけたことがあった。
可哀想に思い、なけなしのお金で買って逃がしてあげたことを思い出す。
「藤原京からの遷都の折に、あやまって運ばれてきてしまったのだろう。元は三輪山に属する蛇で山の神の使いだ」
「そうだったのですか」
「私に“この者は良い性質のものだ”と訴えてきた」
「はぁ……」
「神の使いに嘆願されては私もお前に手が出せない」
なるほど。
あのときの蛇が守ってくれているのか。
「ふぅ……」
比呂は深いため息をついて言った。
「由利にこれ以上近づかないなら大目に見る」
宮からの帰り道。
義麻呂は秋篠川の橋の上で立ち止まった。
そうか。
ここで。
寺に帰るとなぜか慌ただしかった。
来客か?と思った義麻呂は和尚の様子を伺う。
「妹さんは御食国に嫁いだから食べる物に困ることはないと義どのは言っておったなぁ。はるばるお前さんに会いに来てくれよったよ」
なんと、妹のりつが来てるのか……!