昔、男ありけり
宮中には人ではない“何か”がいる。
義麻呂は“あの日”以来、人には見えないものが見えるようになってしまった。
西暦718年、7月。
奈良の都、平城京の外れに小さな寺があった。
チーン……。
お堂いっぱいに鈴の音が響く。
まだ外は暗いというのに、住職の読経にたたき起こされる。
(まだ…寝かせてくれ)
そう思った男の名は、高連義麻呂。
下級役人の下っ端で、実家は難波長柄豊碕宮にある。
子供のころから難波津から出発する遣唐使船を見ていたので、都で働くのが夢だった。
間借りしているのは右京九条西三坊にある殖槻寺だ。
「もう最初の太鼓が打たれたから、各門が開いておる時間だな」
和尚の独り言が義麻呂を追い詰める。
「ふぁあ~……」
仕方ない起きるか。
眠たい目をこすりながら義麻呂は手早く身支度を整えた。
朝飯はお供え物のお下がりだ。
「ありがとうございます」と手を合わせていただく。
とりあえず汁物だけ飲んで、あとは玄米に塩をふりかけて握り飯にした。
それを竹の皮に包み、紐で縛って持ちやすくし、腹が減ったときに宮で食べるため持って行く。
「行ってきます」
家を出たあと、義麻呂は西市の近くを通って秋篠川にかかる橋を渡った。
(そういえば以前ここで……)
義麻呂はある出来事を思い出しかけたが、どっと人があふれてきて我にかえった。
(みんなが急いでるってことは遅れてるってことか)
少し早めに歩く。
そして朱雀大路より一つ手前の通りを北へ向かった。
(朱雀門までが遠いな……)
宮の近く左京には、長屋王や「古事記」を撰した太安万侶、「日本書記」の編纂を任されている舎人親王らの邸宅がある。
あんなに大きな家はいらないが、宮に近いのは正直羨ましい、と思う義麻呂。
「ふぁあ……」
大あくびをしながら宮へ向かう人々の群れに混じった。
写本の途中で居眠りしてしまった義麻呂はハッとした。
(よだれが……)
気づくと同僚たちは一心不乱に筆を走らせていた。
『地域の特産品 川や山の名前 伝承』など。
それぞれの国の特色をまとめたものを送るように、という元明天皇の命が出され、
それに対する回答として、国司たちが書き上げたものが続々と平城宮に届いていた。
それらを元に下級役人たちが手分けして複数の写本作りに携わっていた。
読んでみるとなかなか面白い。
その中の一つに若狭国のものがあった。
塩、イワシ、イカ、鯛、ワカメ、米……。
御食国と言われるだけあって都ではなかなか手に入らない食べ物の名前が列挙されている。
(りつは元気にしているだろうか)
義麻呂の妹はその若狭の国で暮らしている。
難波津にいたころ、よく来る行商人がいて、りつに息子の嫁に来て欲しいと話していた。
はじめは嫌がっていたりつだったが、そのうち息子を連れて行商に来るようになり、二人はだんだんと恋仲になりやがて夫婦になった。
遠いので会うことはなかなか難しい。
ドシン バタン ドドドドド……!
まるで鼠がいるかのような振動に義麻呂の思考は乱された。
(今日もやたら子鬼たちが走り回っているな……)
(なんで陰陽寮の人たちは何もしないんだろう?)
義麻呂は天井をドタバタを走り回る子鬼たちが気になって仕方なかったが、同僚たちはまるで気づいていない。
「これ捨てるならもらっていいか?」
最近入った番上官(*)が同僚に声をかけている。
見たところ彼は練習用に使った紙くずや板きれなどを収集していた。
「いいけど、何に使うんだ?」一人の写経生が聞く。
確かに。
こんなに墨で汚れていては尻をふいたりしたらとんでもないことになる。
「字を習いたいってやつがいて、そいつにやろうかと」
なるほど。
それなら協力してやってもいい。
「屑箱に入ってるのはどうせ燃す物だから持っていってもいいぞ」そう誰かが答えた。
それから義麻呂はその番上官に気づかれないようにそっと、色んな所で出た紙や板を屑籠に入れておくようになった。どれも字が書かれてあるものだ。
「えっ……なんでこんな高級な紙が入ってるんだ?」
番上官は驚いてキョロキョロ辺りを見回している。
驚くのも無理はない。
その紙屑は朝堂院の高級役人が使っていたものだからだ。
字を失敗して床に投げ捨てたものだからもらっていい。
義麻呂は普通なら下級役人が出入りしないような所へも平気で行った。
そして小間使いが後片付けするようなものでも拾ってしまうのだった。
さすがに水汲み場は女官たちが多いので行きにくいが、それでも偶然を装ってたまに井戸の方にも行ってしまう。
彼女に会ってから。
『それは女官か?』
いつだったか。
妙な姿の女性が夢に出てきたことがあった。
髪の毛は異様なほど短く、キラキラした羽衣のような衣をまとっていた。
まるで天女だと思った。
しかし、練習用の紙に天女を描いていると同僚にこう言われた。
「好きな女官でもいるのか」と。
女官……。
そういえば天女の羽衣ではなくて、女官が身に着けている装束だったのかもしれない。
それから宮中でたまに見かける女官の中に、夢で見た女性がいないか探すようになってしまった。
ただ、宮中の女官はよそよそしい。
男性と目を合わすことは無作法だし、
配偶者がいる女官もいるのだろう。
義麻呂のことを認識しようとする気配が全くなかった。
宮中で女官と親しくなろうなどと思ってはいけないのだ。
だから……。
井戸で偶然、義麻呂を見て驚いたように立ち止まった女官に出会ったとき、衝撃を受けたのだ。
目が合ったのは一瞬だったかもしれない。
ずいぶん長いようにも感じた。
彼女は「命婦」と呼ばれるような高位の女官だった。
それからときどき、彼女が通りそうな場所を選んで出没するようになった。
井戸は会う頻度が高い。
彼女たちの情報収集の場なのかもしれない。
話はしたことがないし、いつも目が合うだけ。
それでも満足だった。
(しかし……夢の中の女性に似ているような違うような)
(髪の毛は命婦の方がずいぶん長い)
考え事をして歩いていたとき、いつの間にか中務省の辺りまで来てしまっていた。
漏刻博士が守辰丁という小間使いに鼓の調子を見させている。
(というと、ここは……)
ふと人の気配を感じた義麻呂は振り向いて驚いた。
こちらをじっと睨んでいる男がいたからだ。
(さすがに、ここは勝手に入ってはいけなかったか)
そう思って踵を返そうとしたそのとき。
彼の発した言葉に、義麻呂は体の動きを止めてしまう。
「下道命婦が迷惑がっている」
*番上官=非常勤