解決編② 菌類研究室の凶刃
後日、鑑識班は冬香の推理を裏付け、傾きかけたメンツを何とか保った。
冬香の指摘通り、凶器は額から侵入し後頭部を貫いていた。
精密検査の結果、シャーレ蓋のめくれあがった箇所から菌類由来の物質が検出され、破損が菌類によるものであると判明した。
学会では大騒動に発展している。針状の突起を伸ばす菌類など前代未聞である。早速詳しい研究を推し進めたかったが、被害者と同じ目に遭いたくないと多くの著名研究者が辞退した。
警察による研究でも詳しいことはわからず、様々な環境下においても新種の菌は沈黙を続けていた。なぜ、事件当時に針が伸びたのかは未だに解明されていない。ニュースでもセンセーショナルに報道されお茶の間をざわつかせた。『菌類にも口を噤みたいことがあるのだ』と唱えた文学論者もいた。
予期せぬ事故が起きる可能性が高いので、思うように研究が進まなかった。
この事態に新島重三博士の一番弟子だった渋木佐知が名乗りをあげた。
生前の新島博士のレポートや日誌などを頼りに、新種菌類に関するアプローチを日々少しずつ進めている。新人の楠鉄次郎もプロジェクトに参加した。ちなみに立花耕哉は真っ先に辞退した。
彼女らの功績第一号は新種菌類の名称を決定したことだ。
毎回『新種菌類』というのも憚られていたので、早急に名称を確定するように学会からも指示があった。
名称公開当日、白衣姿の集団の中心に座った佐知は、横に座る楠に促され、静かに立ち上がった。
「この名称を、命を懸けて発見された亡き新島博士に捧げます」
テーブルに伏せてあったプラカードを捲り、正面で待機している報道陣に披露した。
一斉にカメラのフラッシュが押し寄せた。
「新種菌類の名称は……ニードルコッカス・ジュウゾウと命名します」
プラカードには『Needlecoccus juzoii』と大きく書かれている。属名の直訳は針球菌、種小名は亡き新島博士の名前からとってある。
フラッシュの嵐の中、佐知は誇らしげな笑みを浮かべていた。
記者会見の模様をスマホで見ていた甲原は思わずニヤけてしまった。
十月に入り、寒風が暑さに慣れていた体を撫でていく。悴んだ指が滑りスマホを落としそうになった甲原は画面を割ってしまう前にコートのポケットにしまった。時刻は午後六時を過ぎていた。
――いい笑顔じゃねえか。
事件後の取り調べで彼女と何回か顔を合わせた甲原だったが、こんなに晴れ晴れした表情を見たことがなかった。横に座っている楠も元気そうで何よりだ。
――まったく、してやられたぜ。
彼は『アフロディーテ探偵事務所』の名刺を取り出した。
アフロディーテ――美と愛の女神の名だ。
彼女とは腐れ縁になりつつある。今回が何回目なのか忘れてしまった。
いつも颯爽と登場し、思いもよらぬ視点から事件を解決して、煙のように去ってしまうのだ。
今回も同様だった。推理を披露した後、『依頼が立て込んでいますので』と言い残してどこかへ行ってしまった。見惚れていた部下の背中を叩き、急いで新種菌類――ニードルコッカスの厳重保管を命じたのが懐かしい。
コートの中でスマホが鳴った。
部下からだった。今回の事件の報告書のまとめを任せたが、上から突き返されたらしい。良い機会かと思ったが、なにせ犯人がいない殺人事件だったこともあり、少し荷が重すぎたのかもしれない。
――手ぇ貸してやるとするか。
今回も女神様に全てもっていかれてしまった。協力関係にある探偵事務所とはいえ、後始末くらいしっかりせねば、鑑識班同様、メンツを保つのに苦労するだろう。
甲原はコートの襟を立て、最寄り駅に向かって歩き出した。
通りを歩く人々も冬の装いだった。工事現場から重機の音が響き、通りを行き交う車のエンジン音と即興のセッションを繰り広げている。
そんな中、毛皮のコートに身を包んだ女性とすれ違う。女性はインテリチックな銀縁眼鏡をして、耳にスマホを当てていた。
早歩きをして駅に向かう甲原の背後で、女性が小声で言った。
「ご連絡ありがとうございます。アフロディーテ探偵事務所の……えっ? 聞こえない? これはすみません。少々お待ちを――」
女性は喧騒から逃れるように歩を速めた。甲原の姿はやがて雑踏に埋もれて見えなくなってしまった。
即席のセッション場を後にし、改めて女性は言った。
「先程はすみません。改めまして、アフロディーテ探偵事務所所長の冬香と申します。どのような案件でしょうか?」
参考:学名――Wikipedia
完
読んでいただきありがとうございました。
こんな菌がいたら顕微鏡を覗くのも命がけになってしまいますね。
人類に多大な恩恵をもたらす菌類ですが、実際はどう思っていることやら……。
このように怒りの矛先を向けられないように、日々感謝して過ごすことも大切かもしれません。
いつもの如く、駆け足気味でしたが、お楽しみ頂ければ幸いです。
ありがとうございました!