六 饗宴
正月、睦月もなかば。ようやく冬の風に、春の香りが混ざり始めたころだった。
リュウこと北条誠は、それまで以上に活動していた。
「おまえ…危険すぎないか?」
中臣・斉藤淳の塾のほかの門下生たちが戸惑った。彼らは、沙枝と『琴弾き』の話と北条誠の失踪とを併せて考えられる数少ない人物だったから。
彼らには、誠が自棄を起こしているように見えた。
「どうせ向こうはこっちの手の内を知り尽くして、しばらくは動けないだろうと油断している。北条の最強の私兵をもぐには、いまがチャンスだ。万全は期しているさ」
誠は、不敵に微笑んでみせた。
父を追い落とすことに、ためらいはなかった。
「ま、たしかに相変わらず見事な腕だ」
大伴邦明がそう評価した。
北条の一番の資金源は、銅市場の独占だった。それは貨幣の独占にもつながる。
誠は、北条が不正に自分のふところへしまいこんだ銅貨の帳簿を盗み出してきていた。
北条から銅市場を奪い取ろう、というのである。資金ぐりが行き詰まれば、北条の最強の軍団も縮小せざるをえなくなる。
おいつめられた隆信が牙をむいたら、反逆者として処罰する。牙をむかなくても、私兵が弱体化すれば、北条をつぶしやすくなる。
「あとはおまえらの働きにかかってんだぜ? 俺の苦労、無駄にしてくれるなよ」
誠が言った。
「おまえは?」
「俺もあとひと仕事するさ。幸い、俺は北条の人間だからな。北条に理解者の一人はいる」
「リュウ」
自分を北条の人間だという誠に、そこまで黙していた斉藤淳が声をあげた。そんなふうに自分を卑下するな、と。
「行ってきます、中臣様」
誠は、淳がそれ以上に言をつぐまえに、中臣の館をあとにした。勘当同然に飛び出した北条の家へと。
宵闇が、誠にはたまらなくありがたかった。
*
大伴邦明を中心とした氏族の若者たちの働きで、北条が銅市場を失って、一週間がすぎた日。秦成雅のもとへ一人の男がやってきた。
五十歳に近い男は、北条の使用人だと言った。
「僕にお話があるということですが?」
「へえ、わし…わし、北条の館にはもう三十年以上おるだけど、さすがに今回はおそろしうなって……旦那様は、気が触れておしまいになたとしか思えねえ……なあ、秦様。あんたなら統領様の覚えもめでてえと聞いた。どうか旦那様を止めておくんなまし」
男は、北条が統領を刺して、天下に君臨しようとしているのだと言った。
風が吹く。北から南へと。
茜色に染まった夕の空を、猛スピードで雲が流れて行く。
都を見渡せる丘の上で、誠は風を受けていた。彼のかたわらには、淳。
計画のときをじっと待ちながら、淳が誠に話しかけた。
「リュウ。おまえはおまえだよ」
「はい? いきなりどうしたんです?」
「いや、その…おまえは私の唯一の家族だ。おまえが北条を捨ててきた日から、そうだと思っている。だから、その、敬語はやめにしないか」
誠は、目から鱗がおちた気がした。
おまえはリュウだ。淳に拾われた、ただのリュウという少年だと彼は言うのだ。
穏やかな暮らしができるかもしれない。
そのとき初めて、誠は自分の未来のことを考えた。それまでは、北条の落ちるときが自分の人生の終わりだと信じて疑わなかった。
けれど、北条誠を捨てて生きるという道もある。
「そうですね…兄に敬意を払っているというところで納得しませんか」
「リュウ」
淳が嬉しそうに微笑んだ。
「日が…中臣さま、日が沈みますよ」
山の向こうに、赤い太陽が落ちて行く。北条にとって悪夢の一夜が始まるのだ。
宮廷の北東の一角、衛府(警察)のある宜秋門から松明あかりが生まれ、それはすぐに南にくだり、やがて北条の館に流れついた。
「始まったな」
淳がつぶやいた。誠もうなずく。
北条が武装しはじめたところで、内部告発をしてもらい、成雅に検挙してもらう。それで北条は終わりだ。そういう計画だった。
北条が統領を刺す準備をはじめた段階で押さえようというのは、先走りすぎなのかもしれない。だが、沙枝の結婚式は三日後で、その日を安心してむかえるためには、北条をつぶしておくしかなかったのだ。
「若様」
ふいに二人のところにひとつの影がやってきた。
「じいさん、世話をかけたな。あとは中臣様が面倒みてくれるから」
「若様こそ、お気をつけなせえ。北条の処罰にともなって、若様にまで害が及ばないとは言えねえ。若様は都にお残りなさるんだろう? わしは鄙に住まわせてもらって、のんびりすることにするがねえ。若様のご健勝、この老体、及ばずながら祈っておりますよ」
老人はそう言って、その足で山へはいっていった。中臣の所有する土地へと。
翌朝一番に、北条に謀反の疑いがかかったことが統領の口から報告され、大臣や有力氏族は軒並みおどろいた。いきなりの急展開であった。
ただ、その密告をした男は消え、普段ならぬ武装についても、北条隆信が自衛手段だといいはったため、処分は一ヶ月の謹慎に落ち着いた。
「くそ、成雅の甘さを計算にいれ忘れていたな」
自分の館で、誠を前にして、淳はめずらしく声を荒げた。
「せっかく北条を一網打尽にするチャンスをやったというのに、自衛だなどといういいわけを信じるバカがあるか!」
「まあまあ、多少の計算違いは仕方ありませんよ。お茶でもいかがです?」
「リュウ、おまえは気にならないか?」
「北条の最強部隊、村雨はおさえたんでしょう? 結婚式は二日後。村雨さえおさえてしまえば、あの人に力はありませんよ」
「そうだな……私の取り越し苦労だ……」
淳は、不安そうに窓の外をあおいだ。
*
淳の心配をよそに、何事もなく、沙枝姫の結婚の日はやってきた。
梅の美しい季節の挙式だった。天気が良ければ、昼からお披露目の宴が梅の庭で行われるという話だったから、いまごろ沙枝は、念願の梅見の宴を叶えているんだろう。
誠は、淳の館にいた。
淳が使用人をおかない主義のため、その館の中に独り。抜け殻のような自分を感じていた。
たった一人を失うことの大きさといったら。
こんなはずではなかったのだ。偶然に沙枝と知り合って、それから、度々会うようになってからも。自分にとって大切なことは分かっていたから。
打倒、北条。事態は、その夢にまた一歩近づこうとしていた。成雅と沙枝の結婚で。
北条は確実に追い詰められていたし、村雨のさしおさえも含めて、最強の私兵軍団は四分の一にまで縮小されていた。
ほぼ、淳が思い描いていたとおりに。
けれど、誠は。
「情けない……いまさら北条誠に戻って、どうするっていうんだ………」
北条に未練はない。本当に。未練があるのは、沙枝。どうにもあきらめきれない、それをなんと呼ぶのか。
誠は、頭を抱え込んだ。
そのとき、慌ただしい馬の蹄の音がして、やがてそれは館の前で止まった。すぐに、ドアの音。
「リュウ! 大変だ、お披露目の宴が……」
淳が秘密を守り通してくれたため、彼が北条誠だとは知らない神官仲間だった。
「む、むらさめが…! 村雨が、統領様を刺した…!」
「どういうことだ!」
「成雅様が監視下においたのは、村雨じゃなかったんだ! 本物の村雨が、いまお披露目の宴に───」
*
誠が駆けつけたとき、宴の席は血の嵐が吹き荒れている真っ最中だった。
いやになるほどよく見知っている北条の私兵──特殊部隊・村雨の男たちが刀を抜いていた。真っ白な梅花が、赤く染まって、誠は一瞬、桜が咲いているのかと思ったほどだ。貴賤を問わず、たくさんの人々が倒れていた。その中に統領の姿もあった。村雨はおそらく、彼を真っ先に狙ったにちがいない。
そんな中、成雅が沙枝をかばって、矢表に立っていた。剣をもって北条の精鋭を相手にしている。普段の穏和さとは打って変わって、かなりの腕であった。その腕で、かろうじて沙枝は守られていた。
その場に父、北条隆信の姿はない。もとより、自分が前線に出てくる人ではなかった。
それが今回は仇になる。
誠は、そんな冷静な判断を頭の片隅でしながら、みずからの剣を抜いた。そして、成雅と北条の兵の間に割って入る。
キインッ!
北条の私兵を押し退けて、誠は成雅に刃を向けた。
「俺が剣技ってもんを教えてやろう」
成雅にははじめて見る、北条誠の真剣な目だったろう。いや、北条の村雨を含む、その場にいた全員がおどろきに目を見張った。そしてどよめく。これがいつもチャランポランな、あの、北条誠なのだろうか?
リュウと誠の両方の顔を知っていた斉藤淳と門下生たちも、また、おどろいた。なにをするつもりなのかと。
そして、成雅のうしろではっと息を呑んだ沙枝。けれど、もうあとには引けないから。
誠は、一方的に成雅を攻めた。
最初、戸惑いを隠せなかった成雅だが、刀を合わせだすと、表情を引き締めた。
強すぎたのだ、誠は。
きんっと鋭い音が何度か起こった。成雅も十分強かった。けれど、誠の相手ではなかった。圧倒的な強さで押して、誠は成雅の剣を弾いた。
成雅に剣先をつきつける。
「沙枝姫は俺がもらう」
彼女に横恋慕していた誠。まわりは、その行動に自然な解釈をもった。
誠は、剣の柄で成雅を殴り倒すと、沙枝のほうに向きなおった。
「沙枝、来い」
座り込んで立ち上がれない少女の前に、膝をついて手を差し伸べた。
そのときの沙枝の瞳。信じられないものでも見るような、絶望のまなざし。
「いけません、曲がった行いは結局、自分を苦しめるだけです」
中臣、斉藤淳が間に入った。
「神官は、怪我をしたくなかったら、ひっこんでな」
誠は殊更に乱暴な言い方をした。
「おやめなさい」
淳も引かない。彼の覚悟が分かったから。
北条とともにゆくと。淳が、それだけはさせまいと心に誓ってきたこと。
誠は、知らず、剣をにぎる手のひらに力がこもるのを感じた。彼に剣技を仕込んでくれた人。ひとたび剣を合わせれば、勝負がどうなるか分からない。今回だけは、譲れなかった。
そのとき、沙枝が動いた。
自分から、誠のほうに。
指先が触れて、手のひらが重なる。そうして、沙枝はそのまま意識を手放した。
少女の温かな重みを受け止めて、誠は最後に淳を見た。
悔いのない目で。
沙枝が自分から手を差し出してくれた、それが救いになるような気がした。
「お待ちしています」
そのことばを淳に残して、誠は立ち上がった。
「おまえら、引き上げだ」
北条の兵たちに号令をかけ、かえってゆく。北条の館へ。
凱旋、であった。




