四 二藍(ふたあい)
年明けを目前にひかえた宮廷は、沙枝姫の話題で持ちきりだった。
北条を押し切って、結婚を発表した二人。
「成雅殿は念願叶って、いまはどんな気持ちですか」
「このうえなき幸せですよ」
などなど、社交辞令とはいえ、成雅は隠し切れない喜びそのままに、応えた。彼は、沙枝を本当に愛していたから。
そんな会話の最中、一人がぽろりと言った。
「しかし、成雅殿にはそのほうが安心なのかもしれないが、沙枝姫の人見知りは、すこし問題だね」
統領として即位するならという前提のもとの発言だった。それにしてもぶしつけな、場を引かせる問題発言であった。
本人がその失言にはっとしたとき、横槍は思いもしないところから入った。
「そりゃあな、統領をうしろにみるような輩にふりまく愛嬌なんか持ってないってことだろう」
「きたじょう…」
宮廷はじまって以来の問題児、北条誠だった。
「しゅ、出仕していらっしゃったのですか」
その場に集まっていた公達は、そろっておどろいた。彼はまともに出仕しないときのほうが多かったから。それでも北条隆信の息子というだけで、誰も彼をとがめられなかった。
「まったく馬鹿どもが群れている光景ほど見苦しいものはないな。いや、しかし、成雅殿はそれに耐えて沙枝姫を射止めたんだったな」
嘲笑を残して、誠はすぐにふいと身をひるがえした。
「なんだ、あいつは」
「いったい、何がいいたくてわざわざ絡んでいったんだろう」
「さあ…彼の考えることは分からん。なにせ父親の権威をかさにきて、ろくに出仕もしない遊び人だ……われわれとは頭の構造がちがうんだろう」
興味なさそうにそう言ったのは、若手で頭角を表しつつある大伴邦明だった。
残されたものたちは、誠の不可解な行動に首をかしげあったが、成雅はすこしちがった。
一度、沙枝を、身分違いのものでは手に入れることのできない二藍にたとえた彼。もしかしたら、彼は意外と………。
*
桜宮の南、都の中心に近いところに、北条の館はあった。大きさは有力氏族の中でも一番だったが、華美な造りではなかった。館の主の興味が装飾にないことが分かる。
そこをうかがう影がひとつ。
リュウだった。
北条が中臣を始末しようと動き出したのに対応して、次の計画の準備に入っていた。そのための証文を探しにきたのだ。
だからその会話を耳にしたのは、まったくの偶然だった。
「…平群、もう一度」
「はい。人を寄せ付けないことで有名なあの中臣の館に、リュウという若者がいるようです。琴弾きの神官ということですが、彼が中臣の懐刀であることは間違いありません」
「つまり、そやつが裏で動いて、この館に忍び込んでおったということか」
「十年ほど前から中臣の館にいるようです。みなしごを、よほどうまく仕込んだようですね」
「十年…やつが塾を開きはじめたころか。でかしたぞ、平群。すぐにやつらの尻尾がつかめるだろう」
二人のいる部屋の窓の下で聞いていたリュウは、やれやれと肩をすくめた。
これからは、用心しなければならない。北条のマークに合うのは必至だ。
リュウは、そっとその場を離れた。
その夜は引き上げる。
いま、自分が北条につかまるわけにはいかなかった。琴弾きの役目も、自粛しなければならないだろう。
*
不穏な空気のまま迎えた年明け。正月の七日。
ずっと危篤であった太子が薨じた。
自動的に統領の企みも消え、沙枝姫に継承権がおりてくる。
粉雪の舞う寒い朝、リュウは後宮に参内した。前の太子の死の穢れを祓うために。統領に指名され、断り切れなかったのだ。
統領を新主に、中臣を審神官、それに琴を弾く者を加えて、三者で行われる祓えの儀式の間中、リュウは上の空だった。
沙枝は、このことをどう受け止めたのだろう?
結局、リュウは沙枝の降嫁に関しては動けなかった。動くひまもなく、太子が薨じてしまったのだ。
「リュウ、今日は調子が良くなかったな。北条の動きか? だが北条の手のものだって、後宮には入り込めないだろう。それともほかになにか気になることでも?」
儀式のあと、斉藤淳が言った。彼の一番の内弟子ともいえるリュウである。彼の気になることは、淳にとっても重要なことである場合が多かった。
「いいえ。桜宮で親しくしている侍女がいるといいましたでしょう? 彼女のことです」
「それは、また…リュウにはめずらしいことだね。……そうか、また今度お祝いでもしよう」
「…なんでそうなるんです?」
「だって、めでたいじゃないか。リュウ。その女性にひかれているんだろう? 私は前々から、おまえにそういう感情があってもいいと思っていたんだ。そうか。参内するのがこれで最後になるんなら、気もそぞろになるだろうね」
そういう問題なのか。それでいいのか。
「中臣様も…三十すぎて独身ってのは、つらいんじゃないですか?」
「リュウくんってば、一言多い」
とたんに、くすんとすねた淳の返答。
これじゃあ、寄ってくる物好きな女性もいないかとリュウはきびすを返した。
「そういうわけで、お先に失礼します」
*
沙枝はいつも後宮の外で待ち伏せているから、とりあえずそこをあとにしようとリュウが歩き出して、どれほども行かないうちに、彼女は立っていた。
雪のちらつく庭で、じっとリュウを待っていた。死の穢れを浄化するといわれる白い装束が、雪の白にとけてしまいそうだった。どこか思いつめたようなまなざしが、せつなさを誘った。
「なんだ、そうやってしおらしくしてれば、ちゃんと深窓の姫君に見えるじゃないか」
リュウの軽口にも、彼女は応えなかった。
「とにかくここは出よう。人が多すぎる」
ただでさえ、派手にメイクアップしているリュウと、統領の姫君である。人目をひいてしまうのは、免れなかった。
侍女や采女たちが、不審な顔をして横を通りすぎてゆく。リュウを見知っている神官仲間だって。
「な」
沙枝、と呼び捨てにすることもはばかられて、リュウは一歩を踏み出した。もうしばらくいれば、淳とはちあわせすることにもなる。
けれど、沙枝はそれに従わなかった。
「リュウ」
公衆の面前で、リュウの背中に抱きついたのだ。いくら女装をしているとはいえ、男性であるリュウに。
「沙……」
「わたし、馬鹿だから…父様が好きで、その気持ちが変わるだなんて思ってもみなかった。けど…、いつのまにか父様よりもあなたを好きになってたみたい」
リュウの背中に、リュウにだけ届けられた告白。けれど、沙枝の気持ちは傍目のだれにも明らかだ。
そのとき駆け抜けた戦慄を、リュウはどうすれば良かったのか。
思わず振り返って抱きしめようとして、彼は淳の姿を見つけた。いまから帰ろうとする淳の。
その目を見た次の瞬間、リュウは沙枝を突き放していた。
「冗談でもこういうこと、しちゃいけませんよ。俺、もう桜宮には来ませんから。あなたはどこまでいっても二藍なんです」
「リュウ!」
沙枝の泣きそうな声を背中に受けて、リュウはその場から逃げ出した。
一気に後宮を駆け抜ける。やがて建春門にたどりついたところで、秦成雅に会った。沙枝をその手に抱くことを許された、ただ一人。
そのただ一人が、リュウに対して穏やかでいられなかったらしい。
「沙枝を惑わすな」
短く、それだけ。リュウには、沙枝と堂々とその名を呼び捨てにできることが、どうしようもなく妬ましかったのだけれど。
成雅もまた、追い詰められていた。自分の愛する姫は、いつまでたっても自分を見てはくれない……。
*
川のせせらぎを、リュウは聞いていた。
もうすぐ仕事を片付けた淳が帰ってくるだろう。床を占領してなおあふれそうな書物の山の中で、リュウが考えることは一人の少女のことだった。
切羽つまった少女の告白。あれは結局、自分にどうしろと言ったものだったのか。
川の流れ以外、なんの物音も聞こえてこない、静寂。外はもう闇に沈んでいるだろう。
ふいに物音がして、扉が開いた。
「リュウか」
家の中に灯されていた明かりで、淳がそう声をかける。返答する必要はなかった。それは問いかけではありえなかったから。
「宮廷の侍女とは、よく言ったものだな」
淳が非難めいたことばをふっかける。リュウは、きゅっと握りこぶしをつくった。
「もう…過ぎたことでしょう?」
「過ぎたこと? この朝の夕のことで?」
「だから、どうだと?」
「リュウ、私は別に責めているつもりはないよ。ただ、辛いのはおまえだろう」
辛いだろう、そう言われて、それまでリュウの中で張り詰めていたものが切れた。
「大丈夫か?」
さらに慰めを口にされて、リュウはたまらなくなって立ち上がった。淳に背を向ける。
すぐに淳が歩みよってきた。
よしよし、と子どもにするように頭をなで、抱きしめてくれる。
リュウは、泣いた。とめどなく涙のあふれるままに。
「すみませ……こんな、覚悟してたはずなのに」
「あんなふうに意思表示されたら、だれだって揺らぐさ」
「中臣様にも、そんなことがあったんですか?」
「まさか。そんな場面になったら、私は迷わずに彼女をさらっている。だが、おまえはちがう。……それに、彼女だけはこの私が許さないから」
「ひど…なぐさめのあとに言う台詞じゃないでしょう」
「そうだな」
けれど、そうやって誰かに禁止されるほうがよっぽど気持ちのやり場がある。自分で自分に禁じるよりは、いくらも楽なのだ。
「おれだって…幸せにしてやりたかった…」
そして、リュウのつぶやきは、淳の胸の内だけに。
*
「平群…平群。われわれは、最後にして最大の切り札を手にいれたやもしれぬ」
「どうしたんです、突然」
「おまえが中臣の懐刀としてチェックしていた神官だ。今日の儀式に『琴弾き』として参内していたみたいなんだが…」
「ああ、沙枝姫をなにかあるとかないとか、うわさになってましたね」
「そうだ。それが成雅に絡まれているところを偶然見かけたんだが…あれは、おまえもよく知っている男だったよ」
「えっ?」
そのとき平群に向かって微笑んでみせた北条隆信の表情は、どこか苦々しかった。