三 婚約
夏が過ぎ、秋も深まった神無月のころ。一度はもちなおした太子の病が、悪化した。
一方、北条も焦りをみせてきた。斉藤淳のひそかな門下生たちの働きで、よくないことがつづいたのだ。密輸の露見、中大路の不備などを指摘され、北条の管轄だった役職をふたつ落とした。沙枝姫のことに関しても、統領がなかなか首を立てにふらなかった。
そもそも、沙枝は、統領がもっとも寵愛した正妃の一人娘であった。その正妃が若くして他界したあと、統領は宮廷の采女たちよりも沙枝をかわいがっていたといっても過言ではない。
例によって、リュウは祓えの儀式のために宮廷に上がっていた。
「リュウ!」
深窓の姫君は、琴の音を正確に聞き分けては、彼に会いにきた。
「沙枝は相変わらず耳ざといなあ…」
「リュウも、今日も相変わらずきれいだわ」
そうして、二人の、二人のためだけの時間が始まるのだ。
「今日はね、リクエストがあるの。いい?」
いまはもう裸で見所のない、梅の木の下までやってきたところで、沙枝が言った。
「はいはい、お姫様。なんなりと」
「わたしのために、琴を弾いて。やさしい歌がいいわ。…泣きたくなるくらい、やさしい歌をきかせて」
「沙枝………?」
そのときになって、リュウはようやく沙枝の様子がおかしいことに気づいた。
どうして、はじめに気づかなかったのだろう。いつもまっすぐに見つめてくる少女が、この日は視線を合わそうとしなかった。いつもの蔵の裏ではなく、わざわざ後宮にも近い『梅の庭』にいきたいと言った。
「なにか…」
詮索の言葉を、沙枝は無言でかぶりを振ることで拒否した。
「………やさしいうた、だな」
リュウは、手にしていた琴に指をかけた。
リュウの声が、琴の音の上に乗って、せつない旋律を奏で出す。沙枝は、まぶたを閉じて、じっとうつむいたままそれに聞き入っていた。
一曲が終わったあと、沙枝はまっすぐ顔をあげた。そしてリュウのほうにちゃんと向き直り、
「リュウ、今日ね」
沙枝がなにかを語りかけたとき。
ヒュッと空気を切る音がした。
「沙枝っ」
固いものが当たる。木の実の一種だ。
「くそっ、どこのどいつだ!」
「リュウ、待って! ちがうの!」
とっさに沙枝をかばったあと、リュウは我を忘れた。彼女の声も、耳に入らなかった。彼女を狙ったものを挙げることしか考えられなかった。
木の実が飛んできた方角に走る。案の定、ひとつの人影。
「こいつ、どういうつもりだ!」
「きゃっ」
黄色い声を上げて、犯人はあっさりと取り押さえられた。
「え?」
犯人は、まだ若い女性だった。それも宮廷に仕える侍女らしい。リュウがひるんだすきに、侍女はリュウをふりはらった。
「太子様を呪い殺させたりなんかしないんだから!」
捨て台詞を残し、侍女は後宮のほうに消えていった。
「凪羅妃様の侍女なの。わたしが神官のあなたといたから、誤解したのね」
いつのまにそばに来ていたのか、沙枝が静かに言った。
「ああ…そうか」
リュウは、ようやく事情を解した。
凪羅妃。太子の生母。ただひとり、今上の男宮を産んだ妃だ。
宮廷内での沙枝の立場はあまり良くない。統領が彼女をかわいがればかわいがるほど妃や采女たちの嫉妬をかう。彼女の血筋が高貴であればあるだけ、だれも気軽に声をかけない。
「リュウが初めてだったの」
対等に話しかけてくれたのは。
伏し目がちにまぶたをしばたかせ、そこで、沙枝はころりと表情をかえた。
「でもリュウも、どんなにきれいでもやっぱり男の人なのね。びっくりしちゃった。せっかくの双髻が台なしよ。結い直してあげる」
「沙枝」
背伸びして、リュウの髪にのばしてきた少女の手を、彼は取った。
「沙枝…俺は男だよ」
リュウのまっすぐな瞳を受けて、沙枝は頬を染めた。
「あ……わたし、ね。婚約!」
「え?」
「成雅兄様と結婚するの。たぶん、今ごろ父様が発表してるはずよ」
「うそだ!」
突然の彼を地の底にたたき落とす告白に、リュウは思わず叫んでいた。
そんな素振りはなかった。統領は北条隆信が自分の息子を押してくるのをかわすだけで精一杯だったはずだ。いや、精一杯なふりをしていただけ…?
「じゃあ、おまえは……」
沙枝の大きな目が、じわりと潤んだ。
「行きたくない…本当は。だって、父様、わたしを降嫁させるおつもりなの。わたしが統領になんかならなくてもすむように」
「降…嫁…って……、秦氏側はそれを了承してるのか?」
「いいえ。葛城様と父様が」
葛城。もっとも統領に近しい一族。葛城なら、統領の個人的な願いにも、よろこんで奔走するだろう。葛城氏と秦氏の一派、それに反北条の若者たち(淳の門下生)が賛成すれば、沙枝と成雅の結婚を押し切ることは可能だ。
だが、降嫁となれば。
事態が混乱すれば、北条がつけこんでくるのは目に見えている。
「リュウ…わたし、こわい。成雅兄様は好きだけど、父様から離れるなんて考えられないのよ!」
「沙枝」
「宮廷にいたいの。今のまま、父様のそばにいたいの」
沙枝の告白は、まさに寝耳に水だった。父統領にいれこみすぎているとは思っていたが、いまの言い方では。
「父様が好きなの」
リュウに、返す言葉はなかった。口を開けば、自分勝手な愛の言葉になると痛いほど分かっていたから。
沙枝を突き放し、それはいけない、とただ首を振った。
「リュウ……」
沙枝が涙ぐんだ。けれど沙枝がリュウに何を求めているのか、彼には分からなかった。
「降嫁、しろよ。俺も手伝ってやるから。あいつは…秦成雅はおまえに本気なんだ。父親のことなんか、すぐに忘れられるさ」
少女の瞳が揺れた。
リュウは、そのときはっと息を呑んだ。沙枝がそのとき待っていた言葉。それがその黒い瞳の奥に見えた気がしたのだ。彼女自身、まだ気づいていない…。
「そう、ね。ごめんなさい。わたし、なんだかおかしなこと、言ったわね」
沙枝は、それからすぐに「今日は帰る」と去っていってしまった。
取り残されたリュウの手のひらには、花の香だけが残った。少女の髪の香油だ。
*
都を横切る山門川のほとり。氏族の館とはとても思えない小さな家があった。
中臣、斉藤淳の館である。そこは質素な上、祭祀関係の書物で埋め尽くされていた。一見は。
その書類の山の向こうに、三十歳くらいの男性が一人。神官の装束を着くずして、文献を読み漁っている。
「中臣様。統領様が沙枝姫の降嫁を計っているそうですよ」
「葛城とか。今日の発表を聞いて、どうせそんなことだろうと思ったよ。あの人の考えそうなことだ」
淳は手厳しい。
「まあ、こっちはそれを利用させてもらうがね。どんなつもりにしろ、北条をふりきって成雅殿との結婚を進めてくださったことは、千金に値するよ。リュウ、おまえの出番だ。あとはおまえの動きがものをいう」
「分かっていますよ。こっちは任せてください」
「なんとしても、秦成雅殿に摂政の座についていただく」
そこまで言ったところで、淳は書物から顔をあげた。
「リュウ、お茶でも飲まないか? いい葉が手に入ったんだ」
その表情がまた、一瞬前と打って変わって子どものようなのだ。
「はいはい。入れればいいんでしょ、俺が」
*
「またか! 今月に入ってから何件目だ!」
晴れ渡った日。館の外を冬の砂塵が舞う中、四十をすぎた男性が怒声を張り上げた。
館の中は、いかにも質実剛健といった感じで、無駄な飾りが一切ない。
「中大路の不備から始まって、もはやミスでは済まされんぞ」
「ちが、ちがいます、北条さま! われらは」
「分かっておる。裏切者がおるのだ。中臣の手のものが。あの清廉潔白な秦成雅では考えもつかんだろうよ。あのくそ神官だ。祭りごとを教えるふりで、政治を説いておったのだ」
今回指摘された北条の失態。北条の蔵の中、いつのまにかすり替えられていた、証拠ともなるべき文献。その複製を調べさせたところ、それが中臣の家で製造されている紙を使用していることが分かったのだ。
「結婚の発表が強硬できたのも、やつに毒された若人どもが動いたからだ。やつはどんな手を使ってもわしを追い落とそうとしてくるだろう」
北条隆信は、険しい顔つきをそのままに、ため息をついた。
「つまり、相手は神官…ですか」
「あれが神官であるものか! 政略家だ。わしの父も顔負けの、な」
「しかし神官相手では、手が出しにくいのも事実です。それに第一、統領家の冠婚葬祭は中臣の管轄……不利です」
「平群…おまえの率直なところは、なかなか好きだぞ」
隆信は、ふと表情をゆるめた。
彼のような男がいるからこそ、北条はまだ権力を保っていられるのだ。
「いい気になっていられるのも、いまのうちだ。神官が政治に口出そうなど、身の程知らずだと思いしらせてやる。かならずやつの手のものを挙げてみせよう。やつのことだ、使用人の中にでも紛れ込ませているんだろうよ」
隆信は、ありったけの怒りをこめて、拳を壁にたたきつけた。