二 疫病
その年の夏は、異常に暑かった。巷では疫病が蔓延し、領廷(政府)が民に開放していた施薬院(民の唯一の病院機関)も、手のほどこしようがないほどであった。
そして、それは桜宮をも揺るがせた。
もともと病弱であった時の太子が、疫病に倒れたのである。御年十三歳。
「聞きましたか、巨勢殿」
「ええ、阿部殿。どうやら今週あたりが峠だとか」
大臣たちが宮廷にあがって、寄るとさわるとその話題になった。とくにこの巨勢氏と阿部氏は反北条派で、太子の病気の話には敏感だった。
「もしも…となると、やはり沙枝姫ですか」
「太子様は今上のただお一人の若君でしたから、あとはお血筋から、ほかには考えられないでしょう」
「となると、ですよ、通例でいけば、沙枝姫様の即位後は、その夫となるものが」
「摂政、でしょうな。いくら北条でもこれはくつがえせないでしょう。ですから、北条側はどんな手を使っても、沙枝姫のお相手にあのうつけを持ってこようとするでしょう」
「しかし、沙枝姫の許婚は、秦成雅殿。成雅殿は統領様の覚えもめでたいし、沙枝姫とも仲睦まじくていらっしゃる」
「なによりも秦家は、統領家に縁りの格式あるお家柄」
「北条とて、簡単に割り込むことはできますまい」
「そう、そして成雅殿が摂政となれば、北条もこれまでのようにふんぞり返ってはおられんでしょう」
「おお、うわさをすれば」
「成雅殿。いまから出仕ですか」
巨勢氏と阿部氏は、その姿を認めるやいなや、歩み寄っていった。
二十歳とは思えないほど落ち着いた雰囲気をもつ、秀麗なる好青年。やさしい萌葱色がよく映えている。衣冠束帯は彼のためにあるのではないかとさえ思えてしまう。
成雅はすぐに巨勢、阿部両氏に気づいて、笑顔を見せた。
「巨勢殿に、阿部殿。連日暑い日がつづきますが、お体のほうは差し障りございませんか」
「おかげさまで、いい按配ですよ。成雅殿は統領様のお呼びだしですか」
成雅が、『秦殿』とならないのは、彼がまだ秦家の長を務めていないからである。しかし、落ちぶれかけていた秦家を立て直したのは、ひとえに成雅の働きだった。政治をよく解し、そしてその温和な人柄で、波風たてることなくそれを政策に反映させた。彼の最大級の悪口が、「あいつは八方美人だから」である。
「沙枝姫もこの暑さにはまいっているとのことですが、具合はいかがなんですか?」
巨勢氏が聞いた。二人の結婚話に進展はないのか、と。
「あの人のは、いつものわがままですから」
成雅は、そこでくすりと笑った。彼らの知らない、素顔の沙枝が思い浮かんだのだ。
彼の愛しい姫君。許婚として、統領が引き合わせてくれたときから、三年間。沙枝が彼のただ一人の女性だった。
「では、統領様に呼ばれておりますので」
成雅が二人の前を辞そうとしたとき、その人物はやってきた。
「おおっと、悪りいな、廊下の真ん中につったってるもんだからさ」
袖をわざと成雅に引っかけた。無欄の袴を着くずして、あろうことか、その生地に藤の濃い色を使っていた。統領以外は禁止されている二藍にほど近い色合い。頭髪も、冠をかぶらずに髪を背中に流していた。どうみても、出仕する格好ではない。
「き、北条…誠殿」
「失礼ではありませんか」
「いかめしい雁首ならべて、統領のご機嫌とりか。宮仕えってやつは大変だな。ま、俺には関係ないがな」
誠は重鎮たちを無視し、成雅に向けて言った。
統領が、奇跡的に北条を押さえて取り立てたのが成雅だった。成雅が健在であるのは、敵を作らない彼の人柄に、秦家の必死の守護と統領の庇護があってのたまものだった。だから誠はそんなものの必要のない自分を誇ったのである。
そして摂政になるのは自分だと、宣戦布告したのだ。
「そうやって好き勝手にしていられるのも今のうちだ。統領をないがしろにしたこと、いずれ後悔することになるだろう」
成雅は、彼にしてはめずらしく厳しく返した。
政治的な問題もあったが、誠なんかに沙枝を不幸にさせてたまるか、という思いもあった。
「衣色かあ? これは二藍じゃないぜ。二藍なんか手に入らないからな。ま、手に入らないものほど憧れるのが人間ってもんでしょ。それとも、お堅い成雅どのはちがうのかな?」
誠が意地悪く言った。沙枝のことだ。
宮廷の約束事を守り、誠実な人柄を評価されている成雅だって、沙枝姫を手にいれようと画策している。本来なら力のある北条がもうらいうけてやる姫なんだと。早くいうなら、このどろぼう猫め、とそういうわけである。
どっちがだ、と成雅は言い返しかけてやめた。そんな言葉の通じる相手だとは思えなかった。
「失礼する」
きびすを返した成雅を、誠は黙って見送った。
*
太子の病を祓うため、宮廷は、祓えの儀式で明け、それに暮れた。
その甲斐あってか、太子は寝台の上で身体をおこせる程度まで回復した。
「リュウ! 久しぶりね、どうしたの。わたし、リュウまで疫病にかかってやしないかと心配してたのよ。でも今日の琴の音を聞いて安心したわ。やっぱり、リュウの琴がいちばん好きだわ、わたし」
「沙枝様」
「様はつけないで、やり直し」
「……沙枝」
「うん、合格」
「沙枝…、なんなら一曲弾こうか。神職者としてではなく」
「ほんとう? 流行の歌も弾ける?」
「もちろん」
祓えのために宮中に参内したリュウが、沙枝に曲を奏でることもあった。リュウの使う琴は、箜篌というたて琴の一種だ。だから気軽に持ち運べる。
ふたりは、人通りのすくない、祭祀関係の蔵の裏っかわに腰をおろした。
「本当なら儀式のとき以外は弾いちゃいけないんだけどな」
「そうなの?」
「これはな。『さ』の神に捧げる儀式のために作られたものだから」
「ふうん。でもわたしのために弾くぶんには構わないでしょ」
わたしは神にもっとも近い、統領家の姫君なんだから。沙枝の言葉には、自嘲が入っている。
北条に抑え付けられ、ろくに発言もできない統領が、いかほどのものか。統領を護っているはずの『さ』の神が、北条に乗り換えたのだとしか思えない。
「ばあか。言って、落ち込むような言葉なら、口にすんな。言霊の力を失うぞ」
「うん……」
そうだね、と沙枝は素直に頭を垂れた。そのままリュウにもたれかかる。
侍女相手でも打ち解けない、神経質だと評判の沙枝姫が、これだけなつくのは、めずらしいことだった。
リュウは、そっと琴の弦を一本爪びいた。
そして、曲を弾き始める。沙枝が好きだといった流行の歌を。
*
「リュウはわたしを姫君として意識しないでいてくれるでしょう? だからだと思うの」
一度だけ、沙枝が言ったことがあった。
「成雅様は…その、俺のことを知ってんのか?」
そうリュウが尋ねたときのことだ。
父統領だって知らないと沙枝は答えた。沙枝が、いうなら、リュウのような下のもの交わっていること。
「でもリュウといるとね、なぜだかすごく安心するの。父さまの次くらいかなあ…」
「そういえば初めて会ったとき、父様と兄様って言ってたよな?」
沙枝姫に兄はいない。
「ああ、兄様っていうのは、成雅兄様のことよ。やさしい人だと思うし、好きだし、それになにより、ちゃんとわたしを見てくれる人だけど、やっぱり『兄様』ってのが一番近いの」
「じゃあ、俺は?」
「リュウ?」
そのとき彼女が言ったのだ。
結局、それ以上の答えはくれなかった。
リュウが沙枝を姫君として意識しないからなんなのか。…いや、沙枝自身、まだ知らなかったのだ。
*
リュウが一曲を弾き終わるころ、かの貴公子はやってきた。
「沙枝、こんなところにいたのか」
秦成雅。沙枝の許婚。やわらかな空気がいつも彼を取り巻いている。
「兄様。彼…リュウに琴を聞かせてもらっていたの。知ってらっしゃる? 彼の琴は本当にすばらしいのよ」
沙枝は安心しきった笑顔を成雅に向けた。
「それは知ってるよ、統領様もいたくお気にめしていらっしゃるからね。けれど、こういうのは感心しないな」
「成雅兄様……」
「戻るよ。統領様がお待ちだ」
沙枝は、子どものようにぷうっと頬をふくらませた。それだけ彼に気を許しているということだ。
「父様には内緒ね、兄様」
「ああ、約束するよ。だから、沙枝」
「はあい。……リュウ、太子さまのご病気、祓ってあげてね。父様が悲しむの」
沙枝は、父統領が自分のすべてなのだと、いつも迷わずに言い切った。
「またね」
最後にそう言い置いた沙枝に、成雅が顔をしかめたが、彼女が反省するようすはなかった。
遠ざかってゆくふたつの影。腕をからませて、仲睦まじいという評判に偽りない。
それがリュウには、苦くて。
*
「おい、それ、それは違うぞ」
夜も更けたころ。
川のほとりの小さな館は、灯りに満たされた。灯りと若者たちと書類の山に。
その質素な造りからは想像しがたいが、中臣、斉藤淳の館である。
彼は十年ほど前から、神職者のための塾と称して氏族(貴族階級)の若君たちをひそかに募り、政治を説いていた。
その日は、彼の第一期生たち、もう宮廷に出て活躍しているものたちが一同に会していた。
「えっと、これは?」
「これは北条が浦和とひそかに取り引きしている証拠」
「浦和って、あの悪名高き海賊?」
「なあんか、みみっちいのが多いよな」
「要するに、北条の信用を落とせたらいいんだよ」
リュウと淳とで集めた北条の書類。それを彼らがタイミングを図って、世に、ひいては統領の前に出すのだ。そうすれば北条だってなんの責任もとらないわけにはいかない。
北条の手のもので独占されている、宮廷の要職。それを淳の門下生たちが奪っていこうという計画の第一弾だ。
その合間、リュウが席を離れたときに、ふと一人が言った。
「しかし、リュウのやつは相変わらずやりますね。これだけの資料を、よくもまあ……」
「たしかに、感心するな。表には出てこられない分、僕たちではとうてい出来ない役割をしてくれてるよ」
みな、そこで一様にうなずいた。同じように淳の教えを受けながら、決して表舞台にでることのない、リュウ。それがみんなには不憫でもあり、歯がゆくもあった。
リュウは、秦成雅以上のものを持っていたから。
「そういえば、最近、リュウが琴を弾いてるみたいですけど?」
大伴邦明が言った。
「ああ、彼は腕がいいから。統領様のご指名でね」
中臣、斉藤淳がそれに答えた。
そこへ、リュウの靴音。淳は、とたんに表情をゆるめた。
「みなさん、お茶が入ったようだよ」