助けてもらう側なのに、どうしてそんなに偉そうなんですか?
少し前に世間を騒がせた障害者JR乗車拒否問題についての私の意見を述べたいと思う。
詳しく解説することもないため、この事件について知らない人は調べてほしいが、意地悪な言い方をすると「障害者I氏による理不尽なクレーム」が起こったという問題である。
なお、私の率直な印象であるから、少し挑発的なタイトルになっていることは謝罪する。
また、今回の問題は「障害者が~」というよりは、I氏の人格に対しての批判であり、障害者に対するネガティブなイメージを持っているわけではないことはご理解願いたい。
さて、私は先日、短編で「強い弱者」というエッセイを書いた。
(強い『弱者』 https://ncode.syosetu.com/n1573gq/)
おかげさまでたくさんの方に読んでいただき、「弱者であることを盾にして我儘を言う人に注意せよ」という主張を聞いていただくことができた。
今回の事件はまさに「障害を盾にした我儘」だと思うのだが、それだと前回のエッセイと被ってしまうので、今回は「障害者の扱い」について自分なりの意見を述べたいと思う。
よく、「障害者差別をするな!」「障害者と健常者を平等に扱え!」という主張がある。
しかし、私はこの意見は少しズレているように感じる。
「障害者を差別するな!」「平等に扱え!」ではなく、「障害者を特別扱いしろ!」というのが正しい主張ではないか。
本当に障碍者と健常者を平等に扱うと困るのは障碍者の方であろう。
障害者と健常者を同列に扱うためには、障害者のハンディキャップを埋めるくらいの特別扱いをする必要があるのである。
目が見えない人のために点字ブロックを設置します!
目が見えない人のために音声案内板を設置します!
耳が聞こえない人のために字幕放送をします!
足が不自由な人のためにエレベーターを設置します!
これらのどこが平等なのか。
これらは全部、障害者のための特別扱いであろう。
ただ、障碍者に対する特別扱いに問題があるとは全く思っていない。
他人が特別扱いされることに、眉をひそめるのは人間の悲しい性だが、このような特別扱いに文句を言う人はほとんどいないだろう。
障害者が自分のハンディキャップのために理不尽な扱いを受けることはあってはならないことだし、基本的人権を定めた憲法にも違反する。
また、今は健康でも、事故や病気で皆障害者になることが十分に考えられる中、バリアフリーな社会が進むことは大変喜ばしいことである。
誤解がないように繰り返すが、私も障害者を社会が特別扱いすることには何の疑問も持っておらず、障害者の方たちが暮らしやすい社会をつくることは、先進国として当然の義務であると思っている。
私が言いたいことは「この国は障碍者を特別扱いしている」ということを自覚するべきである、ということだ。
もし、このような意識があったとしたら、不便なことがあったことに対して「差別だ!」と喚く人もいなくなるだろうし、障害を盾に我儘を言う人もいなくなるだろう。
私の高校の同級生にM君という障害者がいた。
彼は、生まれつき体が成長しない病気で、いつも車椅子に乗っていた。
学校は彼のために、彼のクラスだけ移動教室を行わない、体育の免除といった特別扱いをした。
しかし彼は、「皆に気を使わせるのは申し訳ない。できる限りのことは自分でやりたい」と言った。
彼は体育祭の種目には出られないから体育祭実行委員になった。
彼は掃除で机が運べないから雑巾で床を拭いた。
体育ではタイム測定や審判などをしていた。
私たちは、そんな彼に敬意を払って、彼が本当に助けを必要としたときは全力で手助けをした。
助けてもらうのが当たり前という態度で我儘なクレームをしたI氏。
なるべく負担をかけないように歩み寄る努力をしていたM君。
障害を理由に理不尽な思いをすることは、決して許されることではない。
しかし、障害というよりは人格の問題で、I氏のような障害者も中にはいる。
ただ「助ける健常者、助けられる障害者」という構図で固定するのではなく、障害者の方も歩み寄る努力をしてほしい。
私はこれが本当のバリアフリーだと思うのだ。
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