ウィーガニズムについて真剣に考える
ウィーガニズムとは何かということを私なりに端的に説明すると、価値ある命を食してはならないという思想である。私は価値ある命の犠牲というのを認められない人間だ。人間の幸福の為に動物が犠牲になるという現状をどうしても受け入れられないのである。そして、率直なことを言うと私は植物の命について考えることがあまりない。植物が犠牲になることに何の感情も抱かない人間である。そんな私に動物の命が犠牲になることに何の感情も抱かない人間を説得する術は無いが……。一つ言えるとしたら、動物の命が犠牲になることを許してしまったら、人間の命が犠牲になることも許さざる負えなくなるのではないか? 私はそれを懸念している。
ウィーガニズムとカーニズム(その他もろもろ)の議論になるとどうしても善と悪の話にならざる負えない。私はウィーガニズムを進化した思想と考える。勿論、進化した思想ではあるけどそれを受け入れる人が必ずしも進化した人とは限らない。何故なら、動物の命を大事には思っても人間の命を大事に思ってない人もいるからである。そういうウィーガンは私からしたら遅れてる人である。進化した人は人間の命についても動物の命についてもどちらも考えられる人でないといけない。環境問題や食糧危機の解決にウィーガニズムを掲げる人もいるが、それがウィーガニズムが進化した思想だということを裏付けている。
で、肉食をしないとどうしても生命を維持出来ないという人もいるかもしれない。だが、だからと言ってその為に動物の犠牲を安易に許してしまってもいいのか? 何かそれを解決する策は無いか? と考えるべきである。例えば培養肉でそれを解決出来ないかなど、私は培養肉を食べたことがあるのだが、動物の肉にも引けを取らないくらい美味しかった。娯楽として培養肉はクリアになっているのだから、栄養としてもクリアに出来るように作れるはずである。
功利主義という、少ない犠牲で幸福の総合値を高めようという思想があるが、私はそれは合理的だと思えても賛同は出来ない。私は極端な理想主義者だ。なので、そういう観点から功利主義を批判する。人間の命も動物の命もどちらも犠牲にならない。そんな理想的な状態を目指すべきだと私は考える。
私は人間は本質的には自由であってはならないと思っている。私自身も自由ではない。もし、私に自由があるなら私はとうの昔に死んでいる。私は自殺に成功した人間だ。要は既に死んだ人間である。だけど今も尚、この世に縛られている。そういう点からも私に自由はない。私に自由がないのだから、私以外の人も自由であってはならない。ちょっと自由というと語弊があるかもしれない。要は皆、自由ではあるけど、その自由には制約があるのだということ。神は人間を善に生きるように制作した。人間に悪を選ぶ自由は許されていない。悪を選ぼうものならその責任を負わなくてはならない。
話をウィーガニズムに戻そう。ウィーガニズムは動物の命を奪うことを悪だと考える思想だ。そして、それを正義にするなら、動物の命を奪う悪を犯す人間を糾弾する必要がどうしても出てくる。
もし、全ての人間に完全な自由を与えてしまったら、社会は無法地帯になっているはずである。そういう点でも悪を犯す自由を認めてはならない。
人間は善に縛られるべきだと私は考える。私は悪を犯すくらいなら自由意志なんて無いほうがいいと考える人間なのだ。それを私は私自身にも課したいと思う。
何をするのも自由だという人に言おう。貴方は神によってその犯した自由の責任を背負わせられるであろうと。
私なりにウィーガニズムについて考察して見たが、私の主観で考察しているためどうしてもウィーガニズム擁護の発言に徹することしか出来ない。ウィーガニズムを悪だと考察してみても結局、自由がどうのこうのの話にしかならない。私は先ほども言った通り人間に悪を犯す自由があってはならないと考える人間だ。なので、ウィーガニズム批判はどうしても出来ない。
一応、私の主観ではあるが、私なりに理性的にウィーガニズムについて一生懸命考察しているつもりではある。今の世の中の人達は自由を叫ぶので、自由が必要ないという私の意見は受け入れられないだろう。それは理解しているつもりである。なので、批判したければ大いに批判してくれるといい。私は私なりにその批判に真剣に答えるつもりだ。
このエッセイがウィーガニズムについて今一度、考える機会になってくれることを切に願う。