第80話 こんなことしてあげるのは貴方だけ
紀伊は馬に乗りながら黄金色に光る田圃を見ていた。
後ろにいる周は朝起きてからずっと嬉しそうに鼻歌交じりに紀伊の手に触れていた。
そのくすぐったさに紀伊も時折、つねったり、くすっぐたりいたずらを繰り返していた。
そしてなんてこともなく声をかけた。
「知ってた?この田圃金色でしょう?これはね、金を栽培してるのよ。」
「へえ、こんな無防備に?泥棒が多いんじゃないの?」
「え?ああ、それはね、実は見張りがたくさんいてね・・・。」
しかし紀伊がその後詰まると、周は後ろで大笑いした。
「あり得ない!いくら世間知らずの俺でもそれぐらい知ってるよ。これは米だろ。紀伊そんなこといって俺をだましてたのか!さては駱駝も嘘だな!ん?縁結びは?」
「縁結びは本当だよ?」
紀伊はいたずらっ子のように声をあげて笑った。
一方、周は自分の無能さを嘆いた後で、適当なことをいう紀伊に腹が立ったようだった。
「そんな悪い子には。」
そう言うと紀伊のあごの下に手を添え、上を向かせた。
「え?何?痛いの嫌よ!」
怯えた唇に相手の唇が触れた。
それは本当に触れるだけのもので、ただ腕が触れるだけのようなものであったが、二人にとってそれは特別だった。
「な、何するの!」
紀伊が驚き目をむくと、周は真っ赤な顔をしながら口を尖らせた。
「そんなに怒らなくてもいいじゃないか。紀伊可愛いから、接吻したいって思うのは当たり前だろ。だって俺、彼氏だし。」
周の言葉に一瞬紀伊は止まったが、その後、お互いに恥ずかしくなり俯いた。
(周は本当に私が好きなのかな。好きな子がいるっていってたよね。私のこと?それとも、別の子?私はただ暇つぶしなのかな?)
「周の好きな子って・・・誰?」
「紀伊だよ。」
「だって会った時にもはもう好きな子がいるっていってたじゃない。」
「ああ、うん。それはまあ大人の事情で。でも、今の俺は目の前にいる紀伊が可愛くて、愛しくて仕方ないんだ。」
(答えになってないよ。)
「じゃあ、その好きな子に比べて私は上?下?」
「紀伊は何よりも上だ。俺の命よりも。」
「私、そんな好きになってもらえることした覚えないよ。」
「紀伊が気づかないだけだよ。」
(訳わかない。なんでそんなにはぐらかすかな。)
どんどん機嫌の悪くなる紀伊に周は手を回した。
「ねえ、笑って。俺、折角の初接吻の思い出は笑ってる紀伊がいいよ。」
(・・・初接吻?)
「本当に?初接吻なの?私と、って意味?」
「違うよ、正真正銘の俺の初接吻。しょうがないなあ、ほら。」
周は紀伊の手を取ると自分の胸に手を当てさせた。
(え?)
あまりの鼓動の大きさに紀伊が驚いて見上げると周は恥ずかしそうに顔を横へと向けた。
「あんまりかっこ悪いことさせるなよな。」
(可愛い・・・かも。)
紀伊が目じりを下げると周は頭を掻いて息を吐いた。
「カッコ悪い、俺。」
紀伊がそんな周の手を取ると、周は目を紀伊へと向けた。
「何もカッコ悪くなんてないよ。安心した。」
紀伊は周の手を自分の胸へと導いた。
そして心臓の上で手を重ねると周を見上げた。
周は紀伊の思いも寄らぬ行動に驚き、手を戻そうとしたが、紀伊はその手を押さえつけた。
「好き。」
紀伊のその言葉に周はただ止まって紀伊の顔を見つめた。
そして掌に感じる紀伊の鼓動の高まりを感じると目じりを下げた。
「紀伊は本当に天使みたいだ。いつも、俺を幸せにしてくれる。」
「こんなことしてあげるのは周だけなんだから。」
紀伊は恥ずかしくなり下を向くと、周は満面の笑顔で紀伊の右頬に口付けた。
「好きだ。紀伊。」
「私も好き。」
会ってまだそう時間も経っていない。
この人のことはまだ分からない。
でもこの人の心が、気持ちが、温かさがたまらなく好き。
紀伊は周の胸の中に納まって瞳を閉じた。
(きっと、この世に二人になっても大丈夫、秋霖がどれだけ手を伸ばしてきても。この人と二人でいれば、幸せなのかもしれない。お父さんと、お母さんもそう思ったから二人であの村で暮らしたのかな。)
紀伊は秋と手を繋いで自分の両親へと思いを巡らせた。
今なら、魔城を出て好きな人と一緒になった母の気持ちが分かった。




