第70話 琉陽という人
「何で・・・?」
「お前、俺が隣で人を食べてても我慢できるか?」
「嫌!そんな大芝見たくない!」
「俺だってしたくない。ここらが潮時なんだよ。」
「大芝ぃ・・・。でも大芝と離れるなんて嫌だよ!」
紀伊は大声で叫び、また泣いた。
大芝はそんな紀伊の頭に手を置きながら花梨に声をかけた。
「紀伊の話じゃあ、秋涼はそんなに悪い奴じゃないみたいだな。」
花梨はその言葉に何度も頷いた。
「ええ。とても素直で、心が優しいの。もう少し時間があれば琉陽様にも分かってもらえたかもしれない。」
「分かりたくないな。そんなこと。・・・でも、お前たちは苦しんだんだろ?姉弟ということとか、俺が死んだこととか、母親のこととか。そのくらい分かる。」
すると花梨は必死に涙をこらえながら頷いた。
「ええ・・・。母は自分の生んだ子供がそんな関係になったことを知って心に病を負った。そして秋霖はそんな愛する人を救うために私を何度も殺そうとした。私がいなくなれば息子と母親に溝はなくなると。」
花梨は唇を噛んだ。
「・・・秋涼はだから封印したのよ。私を守るために自分の父を。あの子は母よりも私を選んでくれた。それは女として嬉しいことだったけれど、母を想う娘としては見ていられなかった。だから私たちは姉と弟に戻ると決めたの。姉弟として一生お互いを見ていこうと。」
「え?そんなの辛すぎるよ!秋涼様はそれ賛成したの?」
花梨はただただ涙を落としながら紀伊の頬を包み込んだ。
「はじめは分かってくれなかった。あの子は気持ちに素直だから。でもね、私たちを見ると泣き出す母と自分たちのせいで父親を知らない秋矢を見て納得してくれた。でも、それがお互い重荷で辛くて仕方なかった。」
(そんなの悲しいよ。好きな人が隣にいるのに報われないなんて。)
「秋涼さまぁ。」
紀伊はいつも優しく笑ってくれた秋涼を思い出すと胸が締め付けられた。
あの能天気さの後ろにそんなこと隠されているなんて考えたこともなかった。
「けど、紀伊が来てくれて私たちは一生なることのない父親と母親の役が出来ることになった。幸せだったのよ、二人とも本当に。」
「本当に?」
「ええ。あなたが私たちの手元に来たとき、二人とも久しぶりにお互いの顔を見て笑ったの。」
花梨は紀伊の涙を拭くと琉陽の前に立った。
「私は秋涼を選んだこと、一つも後悔してません。」
琉陽はそんな花梨に微笑んだ。
「紀伊には何度も救われた。」
「私、何かしてあげられた?」
「ああ、充分だ。あの森から俺を連れ出して、色々なものを見せてくれた。俺のことを実は心配してくれてる婆さんにも出会えたしな。…
それに…花梨ともこうやってもう一度話ができた。」
「師匠は知ってたの?」
大芝は頷くと紀伊の頭を撫でた。
「そしてそんな紀伊を育てた花梨と秋涼にも救われたのかもしれないな。」
「大芝。」
紀伊が顔を上げると大芝は頬をつねった。
「ありがとうな。今まで。」
「ちょっと待って!」
紀伊が慌てて掴もうとしたその手をすり抜けて大芝は、漆黒の夜の闇へと消えていってしまった。
「大芝!」
「琉陽様!」
二人の声だけが響いた。
紀伊はその後暫く、ただぼんやり大芝のいなくなった方を見つめていた。
(森で初めて会ったときは、魔物のこと憎んでて嫌なこと目一杯言う嫌な奴だった。でも、今になって想えばそんな気持ちになるの当たり前だよね。)
紀伊はそれからの大芝を思い返した。
(いつからか隣にいてくれるのが当たり前だった。まるで空気みたいに私と一緒にすごしてくれた。いつの間にかちゃんと私のこと分かってくれて優しく私のことを見守ってくれた人だった。・・・大芝もちゃんと分かってくれてたんだね。ありがとう。)
紀伊は立ち上がり、そして魔城を睨んだ。
(秋霖だけは絶対許さない!お父さんとお母さん、それに大芝いろいろな人があの人のせいで悲しい目にあった。あいつの存在だけは絶対許さない。これ以上悲しい思いをする人が出ないように、私は戦う!)
微かに見えるその城はもう故郷として懐かしいものではなかったが、逆に魔王に怯える人々のような怖れもなかった。
ただ、今までのように逃げるのではなく戦うと決めてから自分の心は驚くほど静かにそして強く燃え出したことに紀伊はまだ気がついてはいなかった。




