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第49話 大人の世界

紀伊は早速その日の夜からその店で歌うことになった。

こんな所で歌を歌うのは初めてだった。

紀伊はまるで花嫁衣裳かというようないまいち気に入らない赤一色の衣装を見て、ため息をつくと舞台の端の方から客席を見た。

「おじさんばっかりじゃない。」

たくさんの人間が他人の歌を、何かを飲みながら聞いていた。

そしてその隣に侍る女達。

(ちゃんと聴いてもらえるかなあ。)

前の歌い手が大して拍手もしてもらえず、歌い終わると紀伊の番になった。

はじめの一歩が非常に重く、次に出した一歩はすそに引っかかりつんのめった。

(帰りたい。)

けれど今帰る場所は本当の家ではない。

それでも大芝や巳鬼の待つ家に帰るためにはお金が必要だった。

(逃げてもどうしようもない。こんなこと秋霖に比べればマシ!)

そんな思いが紀伊を強くした。

紀伊が緊張した面持ちで舞台に立つと、紀伊の美しさのためか歓声が起こった。

はじめは皆、興味本位だった。

美しい飾りを見るようなつもりだったに違いない。

しかし紀伊が一度歌い始めると、その場にいる者全員の動きが止まった。


傍に蝋燭がゆらゆらとゆれ、紀伊の影を動かし、幻想的に本人を照らし出す。

そんな中で聞こえるまるで自分を包み込むかのような少し高くそして優しい歌声。

誰もがその空間に酔いしれた。

そして紀伊が一曲歌うごとに、鳴り止まぬ拍手が起こり、紀伊が三曲歌う間誰も私語をする者はいなかった。

(こんなのでよかったのかな。)

不安を覚えつつも紀伊は舞台を終え、笑顔一礼し後ろへ下がった。

歌い手達が雑然と支度をしている控え室にはいると、その後すぐに紀伊を採用した女性が控え室に飛んで入ってきた。

「あんた、すごいやん。お客さんみんなあんたにぞっこんや、どうする?あんた誰かの愛人にしてもらえるで。」

女は早速、金にものを言わせ紀伊を求めてきたものの名前の一覧を見ながら満足そうに指折り儲けを考えていた。

けれどそれは紀伊にとっては気持ちの悪い話だった。

「愛人!嫌です!そんなの!いりません。」

「なんでや、一生贅沢に暮らせるで。」

紀伊は首を振った。

「そんなことのために歌ってるわけじゃなくて!」

(歌を歌うと秋涼様が撫でてくれて花梨様が褒めてくれて。軌刃が微笑んでくれるから。)

心のうちもしらぬ金持ちの男の愛人なんて真っ平ごめんだった。

けれどそんな紀伊の心など女には通じなかった。

「ほな、どうや、このお大尽さん、どや?きっと高齢やし、体の付き合いはないで?」

「そんなんじゃなくて!」

あまりおかしなことに巻き込まれないよう、紀伊はここでの立場に境界線を張ることにした。

「あの、じゃあ名前も全部非公開っていうことにしといて下さい。ほら神秘的な歌姫でしょう?お客さん増えますよ。」

紀伊が逃れるために言った言葉に女は何かひらめいたらしく、顎に手をあてて無言のまま、紀伊の顔をじっくり眺めていた。

「神秘の歌姫。」

「え?神秘?」

「そうや。神秘の歌姫や。ここに来んとあわれへんねん。それええな。売れるで。めっちゃ売れるわ。」

女は嬉しそうに扇で仰ぎながら高笑いした。

それを手を振って見送ると紀伊は一つため息をつき椅子に座る。

「とんでもない所に来ちゃったかも・・・。」

紀伊は少し後悔しながら、帰り支度を始めた。


紀伊の働いているお店はこの辺では知らぬ者のいない高級店であったが、紀伊の出現により次の日からのお客の入りは今まで無かった記録的なものになった。

人づてで毎日噂が広がってゆく。

そして紀伊の舞台はその噂に負けるものではなかった。

そのため毎日紀伊が歌う三時間前にはもう満員になり、店は大盛況でとなっていた。

店の人間も紀伊を逃すわけにはいかないので、紀伊に破格の報酬を出した。

紀伊はそのおかげで旅仲間の内で一番給料が良かった。


「はあ、お前が稼ぎ頭になると思わなかった。でも気をつけなさい、何を考えているのか分からない奴もいるからな。」

巳鬼は反対こそしなかったが世間を知らない紀伊のことを保護者として少し心配していた。

「大丈夫ですよ。歌うたってるだけですし!」

そう言ったものの紀伊が仕事に行くといつも花束がたくさん届いてあり、高価な指輪もたくさん届いていた。

花束こそ受け取れるものの、高価そうなものには気が引けた。

「こんな大きな宝石のついた指輪。」

紀伊が驚いていると店主の女がやってきて自分の指にはめた。

「いらんねやったら、私もらうわ。」

「え?そんな!返してくださいよ!」

「もう、誰にもうたか忘れたわ。」

(絶対嘘だ!)

「ほな、おおきに。」

「ちょっと、待ってくださいよお!」

けれど女は足早に紀伊の元から離れていってしまった。

「くそお・・・。」

それでも紀伊は気を取り直し、自分の本来の仕事を遂行しようと立ち上がった。

この店で働く者達にこの辺で茶髪で姿形の良い人がいないか尋ねて回った。

けれど、どの人も首を横に振るだけだった。

その上、待合室で最近魔物に殺される人が増えているという噂をきくようになった。

紀伊はその噂話をきくと話している者達に詰め寄った。

「本当に魔物なんですか?」

「え?そうらしいわ。こんなん、今まで殆どなかったんやけどね。残ってんのは服と血の跡だけ、肉体はないねんて。」

その姿を紀伊も見たことがあった。

「ここでも・・・。何で・・・。秋涼様。」

(やっぱり秋霖のせいなのね?)

紀伊の焦りは募る一方だった。

「こんな所で油を売ってるわけにはいかないのに・・・秋涼様が危ない目に遭っているかも知れないのに。私はここで何してるの?」

紀伊は自分の無力さが情けなかった。

お金をかせいだって帰れるわけじゃない。

会えるわけじゃない。

でもお金がないと生きてゆくこともできない。

「私は何のために旅にでたのかな。寂しくなるだけだよ。」



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