[追記あり]書き専さんの貴重な才能と文化の発展について
「読まなければ読まれない」みたいな空気感が、サイト内にある気がして。これって、書き専の人にとっては……というか、文化の発展を考えたときに、あるいは好ましくないことなんじゃないかしらと思って。
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ちょっと前のことですが、こちらが一方的に惚れ込んでお気に入り登録していた作家さんがなろうを離れちゃいました。いずれファンアートでも贈ろうかしらと思うほど、素敵な情景を書かれるかたで……。
でもね、もともと不安には思っていたんです。他ユーザさんとあまり交流をした形跡がなく、いわゆる感想クレクレ文を投稿していたものだから……
ちなみに、クレクレ文というと、エッセイとしての投稿でただの心情の吐露みたいなものは、それまでも他ユーザさんのを見かけていたんですが、そのかたのクレクレは詩のジャンルでして、しかもきちっと音数をそろえた詩の形式で書かれていました。表現はというと、他の投稿作品に比べちゃとても及びもつかないようなものだったんですが、それでも詩としての表現を試みているのがわかるもので……出来はともかく、そういう姿勢に感動したんで感想欄へもお邪魔したんですよ。
そしたらですね、大ショック。なんと、作品に関する感想がほぼなし。「めげないで」などの作家へのエールや、「交流してみたら」などのアドバイスばっかりで、だれも詩としての表現に触れてなくて。その作家さんはふつうにお礼の返信をしていたし、欲しかった感想コメントがもらえたんだからそりゃ嬉しかったのも本心なのかもしれないけれど、だれも詩として読んでないんだなと思うと、私は悲しかった。そういう私も、厳密には詩の表現よりも作家の詩作への姿勢を評価したのだから、これまた純粋な作品への評価ではないのかもしれないですが。
……って、スミマセン。「ちなみに……」が長くなってしまった。元のレールに戻ります、がたんごとん。
でね、そのかたのお名前が消えたとき、やっぱりなと思ったの。いや、直接のきっかけはわかりません。聞いてないから。ただやっぱり、違和感を感じてたんだろうなとは容易に想像できるわけです。
違和感。うーん、どう説明したものか。私の話でもしましょうか。
私ははじめ、書き専のつもりで登録しました。私の書くものはちょっとした短編なので、どこかの賞に応募するとかそういうものじゃないんです。ただ、やっぱり書いたものをどこかに発表してみたいってのがあって。
で、アカウント作って投稿しました。それから二ヶ月……誘惑に負けました。なにかって、読んでもらうための交流を始めたんです。
もちろん、手当たり次第ではなく、読みたいと思ったものを読んで気に入ったらコメント、という感じでしたけど、とにかく積極的に交流を仕掛けてみたんです。
その頃、私と同じ頃に投稿し始めたかたに特にアプローチをかけました。私と同じでまだあまり他人に読まれていない方々……、少しのあいだ、お互いに読み合ったり励ましたりしてたと思います。でも結局、姿を現さなくなってしまうんですよね……アカウントは残っていても、投稿や交流がまったくなくなってしまって。
ああ、優れた作家さんが、愛想を尽かして去ってゆく……ひとり、またひとり……
なんとなく、わかりますかね。
要するに、彼らは読者は欲しかったかもしれないけど、読み合いをする作家仲間が欲しいわけじゃなかったんではないかと。
想像ですけど、彼らにとっては、作家は作家・読者は読者だったんだと思う。だから、私のように「読まれたいから読む」という思考に至らなかった。それをして得られるのは読者ではなくて作家仲間だと、もしかしたらそこまで明確に思考した人もいるかもしれない。や、わかりませんけどね。
もちろん、読まずに書ける作家はいない。自覚的に作家として活動するには、やっぱり良いものを読まなくてはいけない。古いものを知らず新しいものを生むことはできないから。……でもそれは、その作家が本気であればあるほど、ネット小説以外に求めるものだと思う。なぜって、ネット小説は比較的新しいものだし、どれが名作かってのが判別がつかないから……。
私の場合は、ここでの交流や他ユーザさんの投稿作品を読むことに別の意味を見出だしました。
読む読まない・読まれる読まれないにかかわらず、同じ趣味を持った方々とのおしゃべりは楽しいし、はじめは距離を置きたかったいわゆるネット小説みたいなものも、書籍とは違ったノリや魅力があるなと思って読むのが楽しくなった。そしてなにより、出版物では味わえない、趣味の作家だからこその粗さというか、その洗練されていないとがった部分が感じられるのが新鮮で、楽しくて。読んでいるときはもう、作家じゃなくて読者なんです。ギブ・アンド・テイクじゃないんです。
もしかしたら、私と交流ある人のなかには、「私はこんなに読んでるのに、あんたは読んでくれないのね」とふしぎに思ってる人もいるかもしれないけど、あるいは逆に、「私はあんたのを読もうとすら思わないのに、めげずに読みにくるのはどういう了見?」とふしぎに思ってる人もいるかもしれないけど、でもそれは、こういうわけなんです。今ではもう、作家である私と読み手である私は別なんです。たぶん、アメーバみたいに分かれちゃったんですよ、ええ。
その意味で、私はいわゆる書き専あるいは読み専の人と近い。つまり、作家は作家・読者は読者と考えていて、相互交流だとは思っていないという意味において。
だから、つまりね……、
「なんで読んでくれないのよ!」
「お前も読んでねーじゃん」
「ふぇ……?」
っていう書き専脳の困惑がね、わかるんですよ。読むのと書くのって、別じゃんねえ……って。
じゃあ不満言わずに読まれるもの書けよって話なんですが、読み手が良質な書き手を欲するのと同じように、書き手も良質な読み手を欲しているんです。(これがある意味、健全なギブ・アンド・テイクですね。)
そして、皮肉なことに、こういう不満をみっともなくしゃぱーって漏らしちゃう人にかぎって、いいものを書く作家さんだったりするんです。
美しいものを書く人ってね、人間なんですよ。「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」じゃないですが、美しいものを表出する人ってのは、中身はどろっどろのべちょっべちょなんですよ。そして孤独で寂しがり。なかには孤高の書き専さんもいるけれど……、やっぱりね、孤独な人の書くものって、また違いますよ、たぶん。
私は、こういう繊細な書き専さんが、「読まなきゃ読まれない」みたいな風潮に愛想を尽かして去っていくのが悲しいです。孤独な作家、書き専であることが読まれることの妨げになってはならないと思うんです。
アマチュア文化の発展のためには、やっぱりみんなが書き手兼読み手になるのが好ましい……メタ的な視点を持っている人はこう考えます。それは正しい。
でも、文化の担い手がすべてメタ的な視点を持っているわけじゃない。そして、持っていない不器用な書き手たち、自分がアマチュア文化の担い手のひとりだということにすら気がついていないような書き手たちにこそ、優れた才能がある。それを、文化全体の発展のための犠牲としていいわけがない。(同時に、コメントが出てこない不器用なサイレント読み専さんも、切り捨ててはいけない存在だと思いますよもちろん。)
私は、読み専・書き専・両刀遣い・単なるおしゃべり……、なろうがさまざまなスタンスのユーザさんにとって住みよいサイトであればいいなと思っています。
我々の文化の発展を祈って。
[追記(2019/10/18)]
感想欄へいただいたコメントなど見て、私の感じていたことって、これなのかな……ってことばが出てきたので、追記します。
……なんでしょう、書くだけのユーザさんの作品が見つけづらいってのはわかるんです。でも、そこじゃなくって。
すごく極端な言い方だけど、
「ん? お前書き専? へえ、おもしろそうなの書いてんじゃん。でも書き専、俺たちの輪に加わる気、ない。……じゃあ読んでやらね」みたいな……
いや、これはすごく極端で意地悪な表現だけど、でもなんとなく、作品ではなしに、「読んでくれる人」「交流してくれる人」の作品を選んで読んでいるユーザさんがいるんじゃないかって気がして。そういう空気が、少しでも温かいほうに変わって、なろう全体・アマチュア創作界全体が良くなっていけばいいのになって思って。