遺言
悲しくも悔しくも、何ともなかったといえば嘘になる。
ただ知っていた、というだけだ。
芹沢鴨は、自分が単なる駒に過ぎないと知っていた。
新撰組という生まれたての若い組織が、大きく成長し、飛躍する為の。
怒りさえ感じなかった、という事実も嘘になるのだろうか。
綺麗事だと、負け惜しみだと人は笑うのだろうか。
「芹沢さん、あんた逃げた方がいいぜ」
ついさっきまで目を据わらせていた永倉新八が、急に真面目な顔を作った。しかし片手では猪口を傾けている。
「なんだと? どういう意味だ」
新撰組巨魁局長・芹沢鴨は、凄みを利かせたような声で応じる。酒癖の悪いこの男の、地声ともいえる。
「あんた程の男が、わからねぇでもあるめぇ」
永倉は、根拠を語ろうとはしない。かつて同門で鍛錬した男と、どんな窮地でも安心して背中を任せられる無二の仲間達との間とで、板挟みになっている。
芹沢は、二つに分かれてしまった新撰組の片翼を担う立場……それ以上に最高の地位にありながら、守る筈である京洛中での乱暴狼藉甚だしく、元から“壬生浪”と蔑まれた評判をさらに落としていった。
他の隊士がどんな働きをしても、効果のないくらいに。
「俺達は、あんたを斬る」
“近藤達は”と言わないところが永倉らしい。
懸念している芹沢暗殺計画について、全くの蚊帳の外にされているのにも関わらずだ。
信頼し合っている近藤派幹部達の中で、なぜ自分だけ何一つ知らされないのか、その理由さえわかっていた。
元同流派であるというほんの少しの疑念と、それ以上に一本気な心意気ゆえ、綿密な計画から除外されたのだ。
芹沢は手酌していた徳利を、無造作な仕草で畳に置いた。
「何故だ?」
「……だから、ヘタな芝居はやめてくれって」
これから誰も知らない、芹沢鴨の心を語ろう。
そう喉奥で呟いたかのように、芹沢は胸中を振り返った。
書にも声にさえ表れることのない、遺言。
知っていた。
転落する坂の始まりから、わかっていた。
しかし酒が無ければ體が疼き、いくら呷っても枯渇し、気が狂いそうになる。
命乞いなど、決してすまい。
我が命、所詮あの日牢獄で捨てたもの。
ただひとつだけ、願いがある。
その時は、お梅の好きな星の輝く夜がいい。
そして、お梅のいない、ひとりの夜がいい。
叶うならば、どんな惨い死に様を晒すことも厭わない。
新見が死んだ……こんな宵でもいい風が吹く。
憂き世すべてを、忘れられるようだ。
「可笑しなことを言う。浮き世すべては、猿芝居ではないか」
幕の引き際は、自分次第だと。
了