§208 奇跡・1 3/25 (mon)
最後の展開を追加(2021/1/4)
その日が一週間の中で最悪の日なのは、午後一の授業が数学だから。
カリキュラムを作る人はもっと考えてほしいなぁとぼんやりしていた私は、明日が終業式だという緩みもあって、もう先生が何を言っているのか分からないくらい、もうすぐやってくる春を先取りしたかのような、うららかな日差しに身をゆだねかけていた。
人前で平気でキスをしちゃうくらい仲良しになった上下の瞼が、またもやTPOを無視してイチャイチャしようとしていたその瞬間、私は思わず変な声を上げていた。
「ふわっ?!」
同じような反応を見せたのは私だけじゃなかった。少なくとも前を向いていたクラスメイトたちは、全員なんらかのリアクションを見せていた。
だって、その瞬間、先生が光っていたのだ。
いや、べつに頭がってわけじゃないよ? まだまだお若いし、数学の担当だってことを除けば、なかなか人気のある先生だし。
ただ、先生の体が、神様みたいに淡く輝いたのだ。
それを見たクラスメイトは全員が驚いていたが、その驚いているクラスメイトの体も同じように輝いているのを、それより後ろの席の人たちは目撃していた。
クラスの反応に、板書をしていた先生が振り返り、そうして、私たちを見て息を呑んだかと思うと、そのままチョークを取り落とした。それが黒板前の、一段高くなった木の床に落ちた音が教室に響いた瞬間、光がめいめいの目の前に集まって――
「うわっ?!」
――カードになって、机の上に落ちた。
その歴史的な日、日本国籍を有している人の許に、等しく奇跡が訪れていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
そのニュースが彼らの元に届いたのは、昨日の報告書をまとめつつ、ダンツクちゃんがやたらと懐いていた二人の正体をJDAに問い合わせる書類を作成していた時だった。
「成宮さん! これ、これ!!」
村越が焦ったようにそう言って、TVの音量を上げた。
昨日の顛末がどういう報道になるのかを確認するために、ニュース専門チャンネルを始めとする数局の放送をマルチウィンドウでチェックしていたのだ。
「なんだ?」
そこでは、アナウンサーが日本中で起こった不思議なカード出現現象に付いて、速報で興奮したように告げていた。
どうやら生放送でも、出演者に同じ現象が起こったらしかった。劇場でも、試合中でも、運転中でも同様で、あちこちで事故も起こっているようだ。
「なんだこれは?」
「ま、まさか、お願いって……」
杉田がそのニュースを見ながら絞り出すようにそう言った時、準備室の電話が鳴って、村北内閣情報官から現在日本中で起こっている現象についての情報がもたらされた。
「はい、はい……わかりました」
受話器を置いた成宮に、村越が身を乗り出すようにして訊いた。
「で、なんですって?」
「どうやら、日本中で、Dカードを所有していなかった国民全員に、Dカードが配られたらしい」
「それか……」
そのことを分かっていたように呟いた杉田に、三井が、「お前、知っていたのか?」と尋ねた。
「いえ、僕たち彼女に言ったじゃないですか」
「なにを?」
「ほら、『乙は、甲が乙の国民に奉仕する準備をすることを認める』ってやつですよ」
「あ、ああ、確かに」
それは、最初に彼女に対して送ったメッセージの中にあった宣言だ。
「彼女の言う『奉仕』の内容が分からなかったから、とりあえず準備をすることだけを認めて、『奉仕』の内容を見極めようという話でしたよね」
「そうだ」
「つまり、彼女の奉仕は、Dカードを所持していることが前提になる何かってこと?」
村越が、何かを考えるように右手の指を唇に当てて呟いた。
「Dカードの所有にどんな意味があるんだ?」
モンスターを最初に倒した時に得られるDカードは、その不思議な現象――最初から自分の名前が書かれている等――から、当初は盛んに研究された。
だが、そもそも取得したスキルの確認程度にしか利用できなかったそのカードの研究は、自然に下火になっていき、特に大きな業績を残すことなく現在では忘れ去られたようになっていた。
「スキルオーブを使用するためにはDカードが必要らしいですけど、それ以上の細かいことはことは調べてみないとなんとも」
「すぐに問い合わせよう」
「どこへです?」
「JDAとダンジョン庁、あとは学術会議か?」
杉田がうっとおしそうに手を振った。
「ダンジョンの専門家なんて所属していませんよ」
なにしろダンジョンを研究するような研究者は大抵が若い。大御所たちが顔を連ねているような組織に、若造が入り込む余地などないのだ。
「答申も勧告も10年くらい行われていませんし、分科会の要望を押し付けるような提言ばかりじゃないですか。答申しても、まともな答えなんか――そうだ、〈鑑定〉持ちの女性がいましたよね? 彼女なら、専門家以上に詳しいのでは?」
「三好梓か……」
珍しく渋い表情を浮かべる成宮に、杉田は首を傾げた。
「何か問題が?」
「以前村北さんに、『藪はつつくな』と言われたんだ」
「藪? いいですねぇ、どんな蛇が出てくるのか、興味ありません?」
「あのな」
元をただせば、今回の事件は杉田の暴走が始まりだった。
面白そうに眼をくるくると動かしている杉田を見ていると、手に竹槍を携えて藪に突撃していく様子が目に見えるようで、成宮は眉間の苦悩を深めた。
「一応JDA経由で問い合わせはしてみるが――」
「なんです?」
「余計な事だけはするなよ?」
「余計なことって?」
「彼女の事務所にアポなしで突撃するとかだよ!」
実際彼女たちは世を儚んで隠遁しているわけではない。別に事務所も隠されていないし、Dパワーズのメンバーにしても、JDAが彼女たちに付けた管理監にしても、その足取りを追うのは簡単だし、実際に事務所の場所も判明しているのだ。
「だけど報告書を見る限り、DADのガーシュウィン氏は入り浸ってますよね? ロシアのネルニコフ氏が訪れたなんて報告も見ましたよ?」
「もしかしてお前、あの膨大な関連書類に全部目を通したのか?」
「当たり前でしょ。情報なしで政策が立案できるわけないじゃないですか」
いや、俺たちが立案するのはダンジョンの向こう側との外交についてなんだがと成宮は内心苦笑したが、それに探索者が無関係であるとは決して言えなかった。
なにしろ、渋谷騒動が起こるまで、向こうとの接点を持っていたのは探索者だけだったからだ。
「それに、Dパワーズがやっているブートキャンプとやらの教官は、現役DADのメンバーですよ。一体我が国はなにをやってるんです?」
「何をって……」
「スキルオーブのオークションが始まった時点で、速攻ツバをつけとかなきゃいかんでしょ。奇貨おくべしなんて、今更言われなくても」
彼の言い分は実に最もだったが、今更それを蒸し返されてもどうしようもない。
「だから、遅ればせながら、うちのメンバーの誰かが入り浸っても問題ないと思いません?」
あまりに非常識な杉田の言葉に、常識人の三井がダメを出した。
「大ありだよ! 第一どんな理由で訪問するんだ?」
「うーん。なんとなく楽しそうだからってのはどうです?」
「……楽しそうなのはお前だけだろ。見知らぬ政府の役人に用もなく居座られて喜ぶ人間がどこにいるんだよ」
「ああ、政府の役人って嫌われてますからねぇ……」
「見知らぬ、ってところだろ!」
「まあ、あそこはダンジョンイノベーションの震源地らしいから本当にそうできるなら、それに越したことはないが、それよりも今は昨日の事件の分析と考察だ」
「分析ったって、僕らは、渋谷へ行ってダンツクちゃんを追いかけて、工事現場で屋上まで駆け上がったら、座り込んで、例の二人と、フランス人らしい三人のごたごたを見てただけですからねぇ」
分析するほどのこともありませんよと、杉田が両手を広げて処置なしと言ったポーズを取った。
「そう言えばあのフランス語を話していた人たちは? 軍の身分証明を見せられたときは驚きましたが」
「本人の説明では、単に探していた男を見かけて追いかけてきただけで、今回の騒動には無関係らしい」
「その探していた男というのは? ダンツクちゃんを連れた二人組を追いかけていたみたいですが……」
「現在大使館へ問い合わせているが、回答があるかどうかはわからんな」
「僕たちも欲しいですよねぇ、捜査権と逮捕権」
腕組みした杉田が真面目な顔でそう言ったが、昨日みたいな状況がそうホイホイ起こってもらっちゃ身が持たない。
「職務分掌規定の逸脱も甚だしいな」
「ほら、あるじゃないですか、殺しのライセンス的な」
「バカ言うな。せいぜい、警察機構から誰かを出向させてもらうくらいしか手はないよ」
ちぇっ、と舌打ちした杉田は、すぐに気を取り直して言った。
「一つだけ言えるのは、ダンジョンの向こうの連中ってのは、こちら側の体制や社会構造をある程度尊重してはいますが、こちら側のルールには興味がなさそうってことですね」
「どういう意味だ?」
「だって、彼女はあそこで学習したはずですよ」
「何を?」
「自分たちの存在が争いの原因になることを、です」
ただ姿を現したというそれだけで、いろいろな勢力がそれを奪取しに行動した。
中には渋谷のど真ん中でスモークグレネードまで使った勢力もあったらしい。渋谷の駅前は監視カメラだらけなのは、周知の事実なのにだ。
つまり少々外交的な軋轢が生じたとしても、現れたものを確保するのが重要だったということだろう。
ダンツクちゃんらしき少女と一緒に現れた、大人の男がどうなったのかは、彼らにも知らされていなかった。
「にもかかわらず、何事もなかったように、『お願いは分かった』の翌日にこの事件です」
杉田はカード出現のニュースを繰り返し報じているTVを指差しながらそう言った。
「しかもこの対象は、日本の国土の上にいた人じゃなくて、日本国籍を有している人だけなんでしょう?」
「今のところ、そうみたいだな」
それが社会構造を理解している証拠だと、杉田は言った。
「つまり、諸外国は準備の許可を出していないから対象外になったってことか?」
「そもそも接触しているかどうかも怪しいですけどね」
だが、その対象をどこからどうやって取得したのかは分からない。
すくなくとも戸籍情報にアクセスしなければ、日本国籍を有しているかどうかは分からないはずなのだ。
「まさか各地方自治体に記録されている戸籍簿を覗いたとでも?」
法務省が戸籍のデジタル化を認めたのは1994年だ。
以降地方自治体単位でデジタル化が行われたが、当時の法務省と自治省が検討していたデジタル化の助成金が国会審議で否定されたため、それが出ないと分かった瞬間一様に先送りが始まったのだ。
なにしろ、一件あたりの入力費用が二千円と言われていた情報だ。そのコストは馬鹿にならなかった。
「成宮さん」
「なんだ?」
「新潟県加茂市の住民にDカードが出現したかどうかをチェックしてもらえますか。ああ、東京の御蔵島村でもいいですけど」
「どうして?」
「1994年以来、20年以上かけて戸籍のデジタル化が行われた結果、ほとんどの自治体はデジタル化済みですけど、その二つは現時点でまだデジタル化されていない自治体(*1)なんですよ」
もしそこに何らかの異常――Dカードが出現していないとか――があったとしたら、ダンジョンの向こうの連中は、確実に日本のネットワークに侵入している。
不正アクセス行為の禁止等に関する法律によってそれを取り締まれるかどうかは分からないが。
「あれはオープンネットワークじゃないだろ?」
「マイナンバーと同じなら、LGWANを使ったクローズドネットワークということになっていますけど、LGWAN-ASPや省庁LANを介してインターネットと物理的に接続されていると思いますよ」
もっとも繋がっているからと言って侵入できるかどうかは別の問題だが。
「それを理由に逮捕するのは無理だぞ」
「当たり前ですよ。そんなことを言ったら、昨日のは、もろ不法入国じゃないですか」
もっとも政府、つまり外務省にとって国交のない国であっても、入国審査は法務省の管轄だ。法務省がウンと言えば入国は可能なのだ。
ダンジョンの向こう側が、法務省の言う「政令で定める地域の権限のある機関」と認められればだが。
もっとも、今の状況なら必ずウンと言うだろう。
「ともかく相手の手がどこまで伸びてるのかを知ることは重要でしょう?」
特別なノートPCを使ってやり取りしているとはいえ、彼らが無制限に地球のネットワークに侵入しているとしたら、JDAの口輪は外されているということだ。
しかもパスワードが必要なネットワークへのアクセスも簡単にできるとなったら、それは非常に由々しき問題だ。仮に戦争になったら確実に負けるだろう。
もっとも、ダンジョンが作り出せるような勢力と戦争をしたら、そうでなくても勝ち目なんかないけどね、と杉田は苦笑した。
「そりゃそうだが……一応調査は要請しておく」
「よろしくお願いします」
要請のメールを書きながら、成宮はふと呟いた。
「しかしどうして日本だけでこんなことが起こってるんだ? ダンジョンは世界中にあるのに、ダンツクちゃんは代々木にしかいないのか?」
仮に彼女がダンジョンマスターのような存在なら、各ダンジョンに一人ずついてもおかしくはない。
もっともそれは、人類が人類の文化の中で育んだ、フィクションの物語に準じていれば、だが。
「碑文によれば、128層を越えるダンジョンは、繋がった世界へと渡る『通路』となるってことですけど」
「なら、128層を超えるダンジョンなら、向こう側の誰かが、ダンツクちゃんよろしく存在するかもしれないってことか?」
だが、そんな話は誰も聞いたことがなかった。
128層を超えるダンジョンが、代々木だけだという可能性はあるかもしれないが。
「どうしてそんな存在が、代々木にだけいる、または代々木にだけ姿を現しているんだと思う?」
考えても分からない思考の渦に巻き込まれそうになった時、パンパンと手を叩く音が聞こえた。
「はいはいはいはい、皆さん。そういう考察は専門の先生方に任せるとしてですね、今は、この後どうするかを考えるべきですよ」
何しろ準備はなされたのだ。この後、奉仕も許可したら、日本はいったいどうなってしまうのだろう?
それは恐ろしくも甘美な誘いのように思えた。
「ともかく、今のところ国民全員がDカードを取得したという前提で――」
そう言ったとたん、杉田は何かに気が付いたように動きを止めた。
「杉田さん?」
突然活動を停止した杉田を訝しむように、村越が横から、彼の顔の前で手をひらひらと振った。
「や……」
「や?」
村越が、覗き込むようにそう尋ねた途端、杉田がばね仕掛けのように跳ね起きた。
「やばいよ!」
「きゃっ!」
突然立ち上がった杉田を、成宮と三井が驚いたように見上げた。
時折奇矯なことをする男だが、ここまで取り乱したところを見たのは初めてだった。
「成宮さん! すぐに文科省と法務省、それにダンジョン庁の担当者に連絡してください! あ、TV局への連絡があるから総務省も!」
「す、杉田? 一体どうしたんだよ?」
彼は頭をがりがりと掻きむしった。
「あー、もう! いいですか?! 何の訓練もダンジョン教育もされていない国民全員がDカードを取得したんですよ!!」
「あ、ああ」
「一度壊れた人間関係は、何年も修復されたりしないんですからね!」
「はぁ?」
「社会の危機なんですってば!」
「「「はあああ?」」」
*1) 電子化されていない自治体
2019年3月25日現在。
加茂市は2019年9月に、御蔵島村は2020年9月に電子化され、日本の戸籍簿は完全にデジタル化された。
奇跡はちょい分割で。