§206 渋谷騒動(前編) 3/24 (sun)
西高東低の冬が戻って来たかのような気圧配置の中、その日の渋谷は、寒いながらも抜けるような青空を見せていた。
「まるで僕たちの将来を暗示しているかのようですね!」
朝からテンションMAXの杉田は、いつになく生気にあふれ、ついでにドレスアップした様子で、朝のすがすがしい空気を深く吸い込んでは、白い息を吐きだしていた。
対照的な残りの3人は、寝不足の顔で背を丸めながら、杉田の後ろをとぼとぼと疲れた足取りで歩いていた。
あれから呼び戻された杉田と4人で、対応や質問についていろいろと議論を行ったが、なかなか結論の出ない中、今日のために普段通りに就寝した杉田と、朝までになんとか対策をひねり出さなければとミーティングを続けた3人の差が、今の様子に現れていた。
「ご機嫌なのはいいですけど、杉田さん、ちゃんと朝のブリーフィングの内容を覚えてらっしゃるんでしょうね?」
村越が、疑わしそうな眼差しで杉田を見た。
朝食をとりながら昨夜の対策の内容を、杉田に詰め込もうとした3人だったが、すでに心ここにあらずな状態だった彼は、それを覚えているのかどうかとても怪しかったのだ。
「大丈夫、大丈夫。世の中には出たとこ勝負って言葉があるんだから」
「それって、全然覚えてないって事じゃないですか!」
「大丈夫だって、僕らは一応……」
何か言おうとした杉田が突然何かに気が付いたように立ち止まって黙り込んだ。
「どうしました?」
何かあったのかと村越が、心配そうに杉田の顔を覗き込んだ。
「そういや、この組織の正式名称ってなんなんだっけ?」
「そこ?! いまさら?!」
いつもピシッとしたスーツに身を包んでいる三井が、心なしかよれたスーツで疲れたように、「内閣官房国家安全保障局D交流準備室だよ」と答えた。
それを聞いた杉田はおかしそうに笑った。
「交流なのにDCとはこれいかにってやつですね」
電流の交流のことはAC、直流のことをDCと呼ぶのだ。
「Dはともかく、どこにCの要素があるんです?」
遊びの延長のように楽しそうに笑う杉田に、仕事の延長で付き合わされている気分の村越が、ささくれだった目つきで突っ込んだ。
「Cabinet Secretariat(内閣官房)」
「遠い! 遠すぎますよ!」
「ははは、村越さん怒るとシワが増えますよ?」
「大きなお世話です!」
「そういうわけで、僕らは一応、DAC準備室の精鋭じゃないですか」
村越は「だから、何?!」と心の中で絶叫して眉間にしわを寄せていたが、疲れていた成宮たちはすでに突っ込む気力もなく、単に思いついたことを口にした。
「デジタルアナログコンバーターみたいだぞ、それ」
「外務省的には、開発援助委員会(Development Assistance Committee)でしょう?」と三井が疲れたように言った。
「じゃあ、経産省的には分散型自律企業(Decentralized Autonomous Corporation)ですね」と村越が諦めたように放言した。
「何言ってるんですか、皆さん。DACと言えば、デヴィルアームドコンバットユニットでしょう」
「なんですそれ?」
「死ね死ね団の精鋭部隊」
「はあ?」
「知りません? Die Die Gang」
杉田たちの会話に、なんだかポン酢を作る季節に、材料のかんきつを盗んで歩く組織のようだなと苦笑しながら、成宮は隣を歩く三井に尋ねた。
「それで、結局警備部には応援を依頼したのか?」
「私服が何人か出ているとは思いますが、マルタイの容貌を伝えられませんでしたのでなんとも」
「そうか」
「なんです? 何かあるんですか?」
「いや、それならとっくに漏れてるなと思ってな」
「は? どこにです? 相手は警備部ですよ?」
なにしろ、例の転移石で、日本は一気に世界中の注目を集めたはずだ。その技術の出所を探る仕事は、最高のスタッフに最高の優先度が与えられたに違いない。
そこへ、新しくできたダンジョン関連の怪しげな組織から警備部へ護衛が依頼されて、しかもマルタイがはっきりしない?
そりゃあ注目を集めるだろう。
「ま、筒抜けだろうな」
「そんなバカな。もしもどこかへ漏れたとしたらJDA経由でしょう?」
あの怪しげな掲示板と警備部の信用度は、比較できるほど近いとは思えなかった。
「だといいな」
信じたい事柄に足首を掴まれているように見える三井に、それを是とも否ともせずに成宮が答えた。
「ともかく、今日の渋谷はどこの組織がウロウロしているか分からない、まさに伏魔殿ってやつさ」
「とは言え、ここは日本ですよ? 流石に銃器の類は出てこないでしょう?」
成宮の言葉に、不安そうに村越が身を震わせた。
「去年の、異界言語理解の騒動の時は、結構発砲もあったらしいぞ」
「うそ?! そんなことニュースじゃ一言も――」
「ま、そういう判断が、あったんだろうな。どこか上の方で」
「ボディアーマーを借りてくりゃ良かったですかね」
「デートにそんなものを着て行くのは無粋でしょ?」
そうして彼らは宮益坂下の交差点を駅の方へと曲がって、山手線のガードを潜ろうとしていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
『ほう。なかなかうまく溶け込んでいるじゃないか』
D交流準備室の連中が、宮益坂下を駅の方に曲がり、ちょうどみずほ銀行の前を通過しているのを、道路の反対側を駅へと向かう黒塗りの高級車の後部座席から眺めながら面白そうにつぶやいた。
待ち合わせ場所がハチ公前だというのは、どんな馬鹿が決めたのかと憤ったが、ともかく今日の目的は神の眷属たるものを我が教団にお迎えすることだ。
競争相手は、日本の準備室とやらを筆頭に、各国の諜報機関の面々になるだろう。
◇◇◇◇◇◇◇◇
そのころ俺たちは、井の頭通りの一方通行を逆に進みながら、西武のA館とB館の間を歩いていた。
「それにしても今日は寒いですね、先輩」
「もうじき春だってのになぁ……で、待ち合わせはどこだって?」
「ハチ公前だそうですよ」
「嘘だろ?」
確かにメジャーな待ち合わせスポットだが、目茶苦茶人が多い上に、周囲の全員がスマホで写真撮っていると言っても過言じゃない超絶撮影ポイントだぞ。
あんなところにダンツクちゃんが直接顕現したりしたら、大騒ぎじゃすまないだろう。大体、雨が降ったらどうするつもりだったんだ?
「でも、本当に覗きに来ちゃっていいんでしょうか」
鳴瀬さんが思案気に、頬に手を当てていた。
「いや、だって、何が起こるか分かりませんし」
「はあ……」
「何が起こるにしろ、現場にいた方がフォローしやすいでしょう?」
「フォローする気があったんですか!?」
「そりゃもちろんしますよ。火の粉が飛んで来そうになった時は」
「……ですよね」
がっくりと肩を落とした鳴瀬さんは、それでも、上司には報告したらしかった。
しかし、ダンジョン由来の問題とは言え、場所は渋谷の駅前なのだ。管轄が違うため、どうにも介入は難しいらしかった。
せいぜいがダンジョン庁への報告を行うくらいだが、前代未聞の出来事だけに、昨日の今日で政府が主体的に動くことは難しいようだった。
なにしろ、ダンジョンの向こうとの接触は、今のところないというのが正式見解なのだ。ここで素早く対処してしまうと、その言葉自体が怪しまれるというジレンマもあったようだった。
そんなこととは全く無関係に、気楽な様子で歩いていると、三好が渋谷センター街と書かれた街灯を見上げながら言った。
「先輩。地元じゃないから良く分からないんですけど、センター街って、一本南じゃないんですか?」
「本来はな。だけど今は、井の頭通りも文化村通りもセンター街だと名乗ってるから。大体、今日俺たちがずっと歩いてきた道は、昔は宇田川で道なんかなかったらしいぞ」
渋谷川の水系は、軒並み暗渠化されていてもはやどこに川があったのかも良く分からない状態だ。
八幡のところで、宇田川に合流していた河骨川なんて、臭くてどぶ川になっちゃたからという理由で蓋をされて下水道にされたという悲しい川だ。
「へー、あの辺も川だったんですね」
「〈春の小川〉のモデルになったくらいきれいだったらしいけどな」
「あ、はーるのーうらーらーのーってやつですか?」
「そりゃ、隅田川だろ!」
◇◇◇◇◇◇◇◇
『深い水底でじっとしていたような男が、どうして急に動き始めたんだ?』
『分かりませんが、どうやら各国の諜報機関の連中も行動を起こしているようです』
『つまり、渋谷で何かがあるって訳か……』
『DGSE(フランス対外治安総局)に問い合わせますか?』
CD(ダンジョン部隊)とDGSEは、CD関連で紹介されたゲストが、DGSEのおひざ元でやらかしたために、現在少しぎくしゃくしていた。
あの部屋に残された血痕は、デヴィッドのものと一致しなかった。いったい誰の血痕なのか、あのマンションで何が行われていたのか、それを報告するまではなかなかうまくいかないだろう。
それでも重要な情報を仕入れておいて、こちらに全くよこさないということは、国家的な利益の枠組みからも考えにくい。
『さすがに情報を伏せてるなんてことはないと思うが、一応さりげなく問い合わせてみろ』
『了解です』
◇◇◇◇◇◇◇◇
星乃珈琲の前に停車しているTV局の中継車めいたバンの中では、USのCIAとNSAの合同監視チームが待機していた。
フォンティーヌにいる連中が所属している部署だ。
『渋谷でダンジョンの向こう側の何者かが顕現する? って、東京に来てから異世界物のフィクションを演じている気分になるぜ』
『どうやら、警備部から官邸に上がった情報らしいです』
『さすがは、元大手コンサルの上級駐在員だ。日本政府の情報提供に関する言質が効いてるな』
大使の経歴には、大手コンサルタント会社の上級駐在員として、日本に3年間赴任した経歴があった。
『で、我々はどうすればいいんです?』
『こいつは、日本の政府マターだ。俺たちはとりあえず連中が何をしているのかの監視だな』
まさか、ダンジョンの向こう側の使者を誘拐するわけにもいくまい? と、チームリーダの男は冗談を飛ばした。
その星乃珈琲では、3人東洋系の男たちが、窓際のスクランブル交差点を見下ろせる席で話をしていた。
『どうやら辺りには世界中の同類がたむろしているようです』
後から入って来て席に着いた男が、先に席についていた二人のうち、ごつい体格の男に向かって報告した。
『我が国は、あれほど広い国土を有しながら、どういうわけかダンジョンの個数自体が少ない。しかも虎の子のそれは、インド国境の微妙な位置にあるありさまだ』
『探索者5億人プロジェクトも、なかなか進まないようです』
仮に1日に10万人を登録したとしても、1億人の登録に3年近くかかるのだ。
そうしてひとつのダンジョンで1日に10万人を登録することは不可能に近い。
『港と同様、金銭で支援して長期の借り入れを検討したが、初期の混とんとしていた時ならともかく、世界は迅速にWDAを立ち上げて管理を委託した、我々にとっては非常に望ましくない事態となったわけだ」
『残念です』
とは言え、一つしかダンジョンがなかっ我が国は、それに固執して世界的な機構から爪弾きにされるわけにはいかなかった。
東洋と西洋では流れる時間のスパンが違う。彼らはいつものように、長い時間をかけてその組織を求める形にすればいいと考えて、表向きは同調した。
『残された道は、ダンジョンの制作者にお願いして、我が国にも多くのダンジョンを作ってもらうしかない』
『お願いですか?』
『そう、お願いだ』
男は薄い唇で、にんまりとした笑いを浮かべた。
『何が何でも、お願いをしなければな』
男は酷薄な視線を、話を縮こまって聞いていたもう一人の男へと向けた。
『やることは分かっているな?』
『ああ』
前日、あの拷問部屋めいた場所で、今日ここでやるべきことを聞かされたとき、彼は絶望した。一言でいえば犯罪者になれと言われたに等しかったからだ。
今すぐ始末されたところで、輝ける日々は失われたりはしない。栄光はすべて過去のものになってしまっていたとしても、それはそこに存在していたのだ。
だが、生きてそれを泥にまみれさせろと言われるとは……
――我々の面子を潰した人間には、相応の罰が必要だと思わないか?――
あれは、仕手を仕掛けた相手の話かと思っていたが、まさか自分のことだったとは。
◇◇◇◇◇◇◇◇
渋谷のハチ公前は、いつものように若者たちで溢れていた。
いつもと違うのは、その中に、何をしているでもない外国人の姿が多数あったことだ。意外かもしれないが、ハチ公口でたむろする外国人は想像するよりもはるかに少ないのだ。
彼らはお互いに認識し合っていたが、それをおくびにも見せてはいなかった。
そうして時計の針が10時を指した時、それは起こった。