§202 スパイとデートと女性の正体 3/22 (Fri)
2回に分けるべきかどうか悩んだんですが、めんどくさいから1回でいいですよね? ね?
「起きませんね」
昨日誘拐……もとへ、救出して来た女性は未だに目を覚まさない。仕方なく三好の部屋へ寝かせておいたのだが、あれから半日以上そのままだ。
アルスルズのシャドウバインドは、最低6時間は目を覚まさないことが分かっているがどこまで目を覚まさないのかは謎だ。
「シャドウバインドの効果の最短はともかく、最長って記録してるか?」
「田中さんに引き渡しちゃいますから、分かりませんよ」
「だよなぁ。これって、大丈夫なんだろうな?」
熱があるわけでも、自発呼吸が行えないわけでもなく、見た目はただ健やかに寝ているようにしか見えない。
「今まで、あれで死んだり後遺症が残ったりした人は聞いたことがありませんから平気だとは思いますけど……麻痺アレルギーってありますかね?」
「あるかい、そんなの」
アレルギーで麻痺することはあっても、麻痺に対するアレルギーなんてそんなバカなものはないだろう。
「24時間たっても目覚めなかったら医者に連れて行きます?」
「医者なぁ……最初は町医者だろ? 日本の町医者は無保険を嫌がるからな。こいつに保険があると思うか?」
「一応JNTO(日本政府観光局)で、外国人を受け入れる医療機関は検索できますけど……保険以前に、彼女のパスポートってどこにあるんだと思います?」
「それかー」
そもそも日本国籍があるのかどうか以前に、名前も知らないのだ。どう考えても俺たちが受診させるのは変だろう。
「いっそのこと行き倒れで通報するとか」
「最後はそうするしかないですかねぇ……」
ランク7のキュアポーションも1本あるが、そもそもこの状態が病気かどうかも分からないのだ。
午後には鳴瀬さんが事務所にやって来るだろう。
俺たちはやむを得ず、起きたら下に来るように書いたメモと、何かあった時のためにドゥルトウィンを監視に残して事務所へと下りた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
昼を少し回ったころ、その人物は、代々木ダンジョンにほど近い民家の、カーテンを閉めきった薄暗く寒い部屋の中で、目の前に座っている男に状況を報告していた。
どうして、灯りもエアコンもつけていないのかは分からなかったが、今しも墓から出て来たばかりのヴァンパイアのような容貌の男には、妙に似合っているように思えた。
「なるほど。それで、そのノートがあれば、神の眷属と直接話ができると言うわけかね?」
「そう言う触れ込みです」
「そしてそれが唯一の連絡手段だと言う事か」
「今のところは」
ダンジョン内に登場すると言うさまよえる館まで行くことは物理的に難しい。なにしろヴィクトール達ですら戻ってこられなかったのだ。
かと言ってイザベラは、Dパワーズの連中から情報を引っ張り出すことを、どういう訳かためらっている。
もっとも、もうしばらく今のままでいれば、すぐにおとなしくなるだろう。
「もう少し上手く付き合っていけたはずなんだがな」
あの女の能力は脅威だが、魔結晶の在庫もほぼない以上、その力を簡単に振るえたりはしないだろう。護衛の連中にも近づくなと言ってある。
連中が余計な欲望を彼女で満たそうとしさえしなければ、彼女がその能力を護衛に発揮することもないだろう。
「は?」
「いや、こちらの話だ。それで、それは持ち出せるのかね?」
「持ち出しは不可能ですね」
只の一般のボロ屋にしか思えない建物には、最新のセキュリティシステムと、警備の人間が配されていた。
それが内調だか、自衛隊だか、はたまた警備部だかは知らないが、精鋭であることは、ほとんど顔を合わさずとも、わずかにすれ違う機会だけで感じられた。
なんというか違うのだ、空気が。
「アプリケーションのコピーは?」
「試してみることはできますが、コピー可能かどうかはわかりません。また、なにか特殊なアクセスログが記録されている可能性は排除できません」
「ふーむ。今バレるのはまずいな」
世界で最も神に近づいていると断言できる日本政府の情報が得られなくなるのは問題だし、目を付けられることも避けたい。
ただでさえ、COSの中佐が俺たちをかぎまわっているのだ。便宜を図らせたあの男が漏らしたのだろうが、面倒なことこの上ない。
お蔭で、マリアンヌたちの身柄まで隠さなければならなかった。
「勝手にそこへ何かを書き込むことは可能ですが、書き込んだログは残ります」
「自由に向こうとやり取りするのは難しいか。せめて待ち合わせ場所でも指定して、お誘いできれば良かったんだがね」
暗い笑顔で冗談を言ったデヴィッドだったが、報告している人物はクスリとも笑わなかった。
「ともあれ、話はわかった」
そう言ってデヴィッドは、厚みのある封筒をその人物に渡した。
その人物は、満足そうな笑顔を浮かべると、その封筒を受け取ってバッグの中にしまった。
「また何かあったらよろしく頼む。何しろ君をあのチームに入れるのには苦労したからね」
いくら信者がいると言っても、日本での活動はまだ浅い。
あちこちから手をまわしてそうとう無理をしたため、もしかしたらどこかでほころびがあるかもしれない。もっとも、そのほころびが露わになる前に、目的を達成すればいい。そうすれば後のことはどうにでもなるはずだ。
彼は本気でそう考えていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
経産省出身の村越芽衣が、ここは昼食をとるのが面倒だからお弁当にしようかしら、などと考えながらドアを開けると、自称ヲタクの杉田が、真剣な顔つきでソファに腰かけて、ダンツクちゃんノートの前で何かをしていた。
「杉田さん?」
「あ、おっかえりー」
村越と同期であることが判明した杉田は、彼女に対して結構砕けていた。
もっとも丁寧語を使っていたところで、杉田が本当に相手に対して敬意を抱いているかどうかは別の話だったが。
「杉田さん、お昼は?」
「まあ、コンビニで適当に」
村越の方を振り向きもせず、コンビニおにぎりを2個片手でかざしながら、杉田は、一心にダンツクちゃん質問箱にアクセスするノートPCに、一本指打法で何かを入力していた。
「ちゃんと食べないと持ちませんよ。って、さっきから何をやってるんですか?」
「何って――、アプローチ?」
「はぁ?」
意味不明な発言に、村越は眉をしかめながらノートの画面をのぞき込んで、そこに書かれている文章を目にすると、その内容にあきれ果ててため息を吐いた。
「……何、考えてるんですか」
「え、どっか変? 女の子的に」
「そうじゃなくて、その内容……」
そこに書かれていたのは、まるで高校生のデートのお誘い文句だったのだ。要約すれば、「次の日曜日に、渋谷で合わない?」だ。
「いや、いいでしょ、別に。日曜って休みなんですよね? 違うっけ?」
「そうですけど。それ以前に、漢字間違ってますよ」
「僕的には、これで正解なんですけどねぇ……」
そう言ってカーソルをその文字まで戻した杉田は、仕方なさそうに「会」と入力しなおした。
この男は、いきなり相手をホテルに誘う気なのかしらと、眉間のシワを深めながら、彼女は苦言を呈した。
「私たちの仕事は、政策の立案ですよ? そのため向こうの情報を集めている状況なのに、何を勝手に向こうの人と会おうとしてるんですか」
「会ってみないと分からないことも多いでしょ。人間、交渉は顔を合わせてやるのが一番ですよ」
「だから勝手に交渉しちゃダメでしょ!?」
「じゃ、デートってことで」
入力し終えた文章を確認するように見直している杉田の横からその文章を確認した村越は、これは送らせちゃダメな奴だと内心冷や汗をかいていた。
「それ、みんなに知られたら絶対止められると思いますけど」
「だから、誰もいない今、入力してるんじゃないですか。送信しちゃえば、こっちのもんですからね」
「確信犯ですか!」
「大丈夫、大丈夫。ほら、内谷さんも言ってたじゃない。『個人的なディール』だって。見逃してくれますよ、これくらい」
「だーめーでーすー!」
今にも送信してしまいそうな杉田の右手を思わずつかんだ村越は、杉田をPCから引きはがそうと、そのまま力任せに彼の体を引っ張った。
不意を突かれた杉田は、勢い余ってソファに倒れこみ、二人はソファの上でもつれ合うことになったが、それは、折悪しく昼食を済ませた成宮がドアを開けたのと同時だった。
ソファの上でもつれ合っている二人を見て一瞬固まった成宮だったが、そこは大人の余裕を装って、内心の動揺を押し殺しつつ言った。
「おいおい、部内恋愛を咎めはしないが、職場ではやめとけよ」
「な、何の話ですか!? 私は彼の蛮行を止めようと……」
あまりにタイミングの悪い勘違いに、思わず顔を上げた村越が目を離した隙を、杉田は見逃さなかった。
「ほいっと」
「ああ?!」
カチャリとした音に振り返った村越は、絶望したような声を上げた。
杉田は、村越に両腕をつかまれ押し倒されながらも、その隙をついて、右足でリターンキーを押してメッセージを送信していた。
「蛮行? いったい何の話だ?」
「すみません、手遅れでした……」
村越から説明を受けた成宮は、やり切ったとドヤ顔で、おにぎりを頬張っている杉田を横目に、書き込まれた内容に目を通した。
「杉田。これ、本気なのか?」
「もちろんですよ! 冗談で女の子を誘って許されるのはイケメンだけですからね! ついでに言うと社会に出てしまえば、それが許されるのはイケメンのエリートだけですから」
成宮は、いや、お前財務省本省採用のキャリアだろうがと、心の中で突っ込みを入れながら、本気でそう言っているらしい杉田になんというべきか悩んでいた。
しかし、すでに送られてしまったものは取り消しようがない。なんとか、それをプラスの方向に持っていかなければ。
「まあ、送っちまったものは取り消せないし……それに、怪我の功名ってことになるかもしれないからな」
顔を引きつらせながら、そうフォローする成宮に、村越が追い打ちをかけた。
「再起不能の大けがじゃなきゃいいですけどね」
「怖いことを言うなよ。で、杉田。もし、本当に彼女が出てきたとして、何かプランがあるのか?」
起こってしまったことを悔やむより、それをチャンスに変えようというポジティブさが成宮の優秀なところだったが、杉田の回答は成宮の想像の埒外だった。
「プラン? えーっと、まずはお茶をするとかですか?」
「お前……まさか、本当に何も考えてないのかよ!? ただ、誘ってみただけ?!」
「いや、評判のいいカフェくらいは調べておきますよ」
「そうじゃないだろ……」
こいつは本当に選抜試験を潜り抜けてここにいるのかと、成宮は頭を抱えそうになったが、気を取り直すと、村越も交えて、もしもこのデート(?)が現実になった場合の対応について相談し始めた。
午後の業務も始まっていないのに、キャリア官僚が3人、真顔で渋谷デートの検討をするという、なんとも奇妙な絵面だったが、当事者たちは真剣だったのだ。この事態を引き起こした一名を除いて。
だが、どんなに検討したところで、人じゃない何かを地球上でどうもてなすのかなんて、結局誰にも想像することはできなかった。分からないことが多すぎたのだ。
「私達って、向こうの人が何を食べるのかすら、まだ知りませんからね」
なにしろ人間なら鉄板の飲食が地雷になりかねない。肉が食べられないとか、ハラールだのハラームだの言うくらいならなんとななるかもしれないが、場合によっては、生の虫が大好物なんてことだって十分にありうる。
「そういうのは、いくら美少女でもちょっと引きますよね」
「いや、お前ね……」
そう言う問題じゃないだろうと、成宮は頭を抱えた。
そうしてこの話は、結局、どんな生命体でも水なら大丈夫だろうという程度のところに落ち着かざるを得なかった。
「そんなことより、成宮さん」
至極真面目な顔をして、バカみたいなことを話し合っている二人に呆れながら、村越にはひとつの懸念があった。
「なんだ?」
「相手って、人間に見えるんですか? エルフくらいならともかく、ドラゴンや巨大な昆虫みたいな生命体だったりしたら、渋谷がパニックになりますよ?」
「ああ!?」
すっかり相手が人間っぽいものだと言う認識を持っていた成宮は思わず声を上げたが、杉田は平然と答えた。
「いや、意外と平気じゃないかな」
「ええ?」
「現代人って、深夜、一人ぼっちの時にそれが現れたというのならともかく、真昼間に都会のど真ん中にそういうものが現れたとしても、たぶん殺戮が始まるまでは、逆に近寄ってくると思いますよ」
写真を撮りにね、と杉田が笑った。
確かにそうかもしれないと、二人は顔を見合わせたが、さすがにそれはごまかせない。
「もっとも美少女以外は付き合えませんからね。どこかからこっそり確認しなきゃなぁ……しまったなぁ、写真を送ってもらえばよかった」
そんな非常識なことを呟いている杉田を見ながら、お前、本当にデートのつもりだったのかよと、成宮は再び呆れていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「こんにちは」
お役所の昼休みが終わるころ、鳴瀬さんが事務所の扉を開けた。
三好の部屋の謎の女性は、まだ起きてきていない。
春物のコートを脱いで、ハンガーにかけながら、彼女は早速連絡事項を話し始めた。
「転移石の件ですが、発表は今週末に行われることになりました」
「今週末? 今日は金曜日ですけど……今日ってことですか?」
「そうですね。無理ならおそらく明日になるかもしれませんが」
土曜出勤ってやつか。俺も昔はよくやったっけ。
「へぇ、お渡ししたのはつい先日なのに、ずいぶん早いんですね」
「最初の報告をいただいてから、斎賀がすぐに根回しをしてましたから、一部の人間だけが知っている極秘プロジェクト扱いで進行させていたようですよ」
「何しろ転移ですからねぇ」
コーヒーを入れたカップを用意しながら、三好が他人事のようにそう言った。
いや、お前も当事者の一人だろ。
「結局政府方面は?」
ダンツクちゃん質問箱のえらいひと版が稼働してると言うことは、上には伝わっているはずだが、いままでどこからも横やりが入っていないと言うことは、普通のルートじゃないはずだ。
「連絡は課長が行っていましたから私には良く分からないんですけれど、どうもダンジョン庁とは別のルートらしくって」
社内でも直属の上司2名くらいしか知らないはずですと、鳴瀬さんが苦笑を浮かべた。
そりゃ、こんな話を一般省庁を経由して上にあげたりしたら、どこから漏れてどこに横やりが入るか分からない。
かといって、伝えないわけにはいかないという苦肉の策だろう。
「事後が大変そうですね」
省庁にだっていろんな面子があるだろう。頭越しにされた部署なら、嫌味の一つや二つは言いたくなるに違いない。
さもあらんとばかりに肩をすくめた鳴瀬さんは、ただ、「仕方ありませんね」とだけ言った。
「それで、昨日斎賀と一緒に、32層へ荷物を運ぶ実験をしたんですが――」
そう言って彼女は昨日やった転移石による燃料の輸送実験について教えてくれた。
それによると、結構な大質量が同時に転移させられるらしかった。俺たちがやったのは所詮アルスルズの同時移動程度だから、せいぜいが数百キロだろう。
「だけど、不思議ですよね。転移っていったいどういう物理現象なんでしょう?」
それを聞いていた三好が、首を傾げた。
以前も似たような話をしたことがあるが、今回は大質量付きの転移だ。DPハウスみたいなものが一緒に転移できちゃうかもしれないと話していたことが現実になりそうなわけだ。
「もしも1層の空間と32層の空間が不連続だとしても、この宇宙の中に実在する空間なら、AとBの間には距離があるわけで、ニュートンだろうがハミルトンだろうが、質量を持った物体の移動にはエネルギーが必要ですよね?」
「仮にこの宇宙とは別の場所に存在する場所だとしても、その両方を含む高次の空間を考えれば、同じことだな」
その距離にもよるけれど、おそらくは莫大なエネルギーが必要になるだろう。なにしろ距離は惑星間なんてレベルじゃないのだ。
「昔の戦艦を引き上げて宇宙船に改造しちゃうアニメで、空間を捻じ曲げてAとBをくっつけてから移動するって説明を見ましたけど――」
「そりゃ移動距離が減ると言うだけで、移動してないわけじゃないからな」
第一空間を捻じ曲げるエネルギーはどっから来るんだ。ブラックホールでも作るのだろうか?
「AとBの空間を重ねて入れ替えたらどうです? 距離の移動はゼロってことで」
「そりゃ核融合反応が捗りそうだ」
空間が重なった瞬間、そこにあった原子同士が重なったらどうなるのか、ひょいとよけるだけで済むはずがない。
「結局、一番ありそうなのは」
「以前から話にでてた蠅男方式だろうな」
「ああ、死んだら黒い光になる確率は、ひじょーに高いってことですか」
「なんです、その黒い光って?」
不思議そうに首をかしげる鳴瀬さんに、俺たちは、以前考察した内容を説明した。
最初は自分の体が、そんなことになっているかもしれないと言う点に驚いていた彼女だったが、人間ドックにも異常はなかったし、医学的な知見からも実感からも、以前と大きく変わったような感じはしないと感想を述べた。
「結局人間は、圧倒的な便利さを前にすると、表面に現れない問題は些末な事として取り扱ってしまいそうな気がします」
そう言って鳴瀬さんは笑った。
実際、それまでのスーパーに比べれば、人が定価と呼ぶ、圧倒的に高い価格の商品が並んでいる小規模小売店が世界を席巻したのは、ただ圧倒的にコンビニエンスだったからだ。
転移ができることと、自分の体がもしかしたらDファクターで構成されてしまっているのではないかということは、医学的に区別がつかないのであれば、確実に前者が選択されるだろう。
「だけどあらゆるものを再構築するために必要なDファクターの量って半端ないですよね?」
「たぶんな」
「それって、Dファクターが枯渇しませんか?」
「枯渇か……」
最初からDファクターで構成されていると思われるモンスターはリポップするとしても、元のモンスターを構成していたDファクターの再利用だと思えば大した量の消費にはならないだろう。
一度Dファクター化した何か、例えば人間でもそれは同様だ。
「分解されたDファクターと再構築に必要なDファクターの量が同じなら、コピーでもしない限り大した問題にはならないと思うが――」
「質量保存の法則みたいなものですね」
「――問題は初回だな」
Dファクターで構成されていないはずの原子を分解して、果たしてDファクターにすることが出来るのだろうか?
もしできなかったとしたら?
もし巨大質量を、次々と転移させたとしたら?
その結果、再構築するだけのDファクターが、再構築場所になかったとしたら?
「連続して同じ場所に新規転送した結果、周囲にDファクターが足りなかったりしたら、再構築が途中で……うわっ、なんだかグロい想像をしちゃいましたよ」
三好が嫌そうに顔をしかめた。
そりゃ、蠅と合成された男以上に、不気味な現象が生まれそうだ。
「以前、地上で転移を試した時、上手くいかなかったじゃないか」
「そう言えば」
「だから、足りない場合は転移に失敗するんじゃないかな。ただの希望的観測だけど」
あれは他にも座標系の問題だとか、いろいろな要素が考えられるわけだが、そういう可能性だってあるだろう。
「いずれ、この技術が広く使われ始めれば、どこかの天才物理学者がきっと解明してくれるさ」
「そういう意味では、所詮凡人ですからねぇ、私たち……」
「ま、そういうことだな」
そのセリフと聞いた鳴瀬さんは、引きつった笑いを浮かべていたが、たぶん気のせいだろう。
「今の話を聞くと、結構な質量を持ち込めそうな気がしますね」
「そうですね。なにか32層へ持って行きたいものが?」
「重機や、せめてフォークリフトが持ち込めるといいんですけど、1層へ持ち込むのが難しくて」
「ああ、入り口の大きさに限りがありますからね」
「あれ? 先輩。転移石ってダンジョン内で使えるんじゃありませんでしたっけ?」
「だから転移させたいものを1層へ持ち込むって話なんだろ?」
そこまで言って、俺ははたと三好が言いたいことに気が付いた。
スライムを叩いて歩いたとき、ダンジョンを出たことになるのは、入り口からしばらく行った場所だった。
つまり――
「まさか、あの境界の内側は、もしかしてダンジョン扱いなのか?」
「じゃないかと思うんですよ」
「あの境界?」
俺たちの話についていけない鳴瀬さんが、そう訊いた。
「ダンジョンって地上に影響を及ぼす範囲があるんですよ」
「地上に? 確かに現実空間を針のような形状が占めていると言われてますけど、その頭の部分みたいなものでしょうか?」
「はっきりとは分かりませんが、恐らくそうだと思います。で、代々木だと、ダンジョンの入り口から入ダン受付までの通路のちょうど半分くらいの位置にその境界があるんです」
「え? どうやってそれを?」
そう言えば、ダンジョンが地上に影響を及ぼす範囲があると分かってはいても、その境界を正確に知る汎用の方法があるなんて話は聞いたことがなかった。
「ま、まあそれは、地道に、いろいろとですね……」
まさかスライムの経験値をチェックしながらいろいろと試したとは言えず、かといって適当な言い訳も思いつかなかった俺は、言葉を濁すしかなかった。
「はぁ」
「そ、それはともかく、その内側ならダンジョンとみなされて転移が可能なんじゃないかと思うわけですよ」
入り口から境界までの距離は、最低でも5メートルくらいはあったはずだ。ダンジョンの入り口を囲む円がどのくらいの半径かは測ってみないとわからないが、それによっては――
「三好、日本の戦車の大きさってどのくらいなんだ?」
「ちょっと待ってください」
彼女はすぐに10式戦車を検索して、結果を教えてくれた。
「全長が9.42メートル、全幅が3.24メートルですね」
「それって……」
ざっと計算した俺は、もしも内径が3メートルあれば、5メートル幅のドーナツに――
「ギリギリ収まるじゃん!?」
全幅が3.24メートルなら、全長はぎりぎり10メートルまでドーナツの中に収まるのだ。
「え、それって……」
「うまくすれば、戦車級までは持って行けそうですよ」
幅が8フィートの40フィートコンテナは、ぎりぎりアウトだが、20フィートコンテナなら楽勝だ。
つまり俺たちが運ばなくても、物資は32層に届くわけだ。ビバ転移石!
「44トンもある物質が、向こうで再構築できるかどうかが問題ですけどね」
「まあそうだな」
それに仮に戦車を持ち込んだとしても、それが利用できるのはその層だけだ。
補給は地上に再転移させるにしても、本当に運用したいなら、持って行きたい階層の転移石を作らなければならないだろう。
「それに、ダンジョンの領域って、空中はどうなってるんでしょう?」
「空中?」
「ほら、例えば、L字型の何かを持って、境界ぎりぎりに立った時、空中で境界の真上からはみ出している部分はダンジョン内にあるとみなせるのかってことです」
それは結構重要な問題だ。
それが可能なら、タイヤの部分だけ確実にダンジョンの上にあれば、たとえば砲のようなものは厳密にははみ出していても構わないことになって、運用が楽になるだろう。
「転移時の転移領域の認識と言う観点から考えれば転移対象になりそうですが、もしもそうなら、ダンジョン外に大きくはみ出した物体も、ダンジョン内に立ってさえいれば、転移対象になるってことですよね?」
「これはもう、やってみるしかないだろ!」
そう言って俺が立ち上がった時、階上から、ぺたぺたと裸足が立てる足音が聞こえて来て、住居部分からおりてくる階段に現れた足が「J'ai faim~」と声を上げた。
「え?」
鳴瀬さんは、その女性のものらしい足を見上げながら驚きの声を上げた。
「どなたです?」
「えーっと……どなたでしょう?」
「は? 何を言って……」
そんなやり取りをしている中に現れた、少し乱れたつややかな黒髪に、ブルーグレーの瞳の美しい少女を見た鳴瀬さんは、思わず絶句していた。
「?」
そりゃ知らない人が寝巻みたいな恰好で現れたら驚くかもしれないが、いくら何でも、この驚き方は激しすぎる。
「も、もしかして、マリアンヌさん?」
「え、鳴瀬さん、ご存じなんですか?」
「ご、ご存じもなにも……え、本物なんですか?」
鳴瀬さんは、ソファから立ち上がって、階段から顔を覗かせた女性に近づくと、フランス語で話しかけた。
『あなた、もしかして、マリアンヌ=マルタンさん?』
『そだよ。どうして知ってるの?』
げ、鳴瀬さんやっぱりフランス語OKなのかよ。
それを見た三好が、俺の耳元でささやいた。
「さすがは才女ですね」
「まったくだよ。マズいぞ度が一気に10倍に跳ね上がった気がするぞ」
鳴瀬さんは、怒ったような顔をしてこちらを振り返ると、詰問するような口調で俺たちに尋ねた。
「それで、彼女は、なんでここに?」
「え、ええ? 何でですかね?」
夢の中でお告げがあったから、助けに行ったら、人違いで彼女をさらってきてしまった。
うーん、自分で言ってて頭が痛くなりそうだ。
「それよりどうして鳴瀬さんは彼女を?」
「何言ってるんですか、フランスのDAを介して、捜索依頼が来てますよ!」
「はぁ?」
ちょっとまて、彼女を誘拐……じゃなくて、救出したのは昨日の午後だぞ? なんですでにFrDA(フランスダンジョン協会)からJDAに捜索依頼が出されてるんだ? いくらなんでも早すぎるだろ。
「いや、ちょっと待ってください。その依頼って、いつの話ですか?」
「いつって……確か、一週間くらい前の話だったと思いますけど」
「一週間?!」
もはや意味が分からない。
じゃあ、あれは本当に誘拐されていて、俺たちが助け出したって事だろうか? そもそもイザベラって誰で、この話にどう関わってるんだ??
「じゃ、じゃあ、イザベラって女性も捜索依頼が?」
「イザベラ? いえ、依頼が来ていたのは、彼女だけですね」
「???」
「イザベラってどなたです?」
「いや、俺にも良く分からないのですが」
「はぁ?」
ダンジョンに空中問題を確かめに行こうとした俺たちは、それからしばらくの間、鳴瀬さんに絞られ続けて、一切合切を吐かされることになったのだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「ファシーラ、マリアンヌはまだ見つからないのか?!」
ただ、ラーテルという呼び名だけで知られているその傭兵部隊の隊長は、180センチに少し足りないくらいの傭兵としては小柄だが筋肉ががっしりと詰まった体形をしていた。
それは、イラク内戦で活躍し、第一次リビア内戦で反カダフィ派が確保した地域にちなんで、キュレナイカのバジリスクと恐れられた男だった。
その男の副官をずっと拝命し続けていた、ファシーラ(*1)と呼ばれている男は、その名の通り飄々としたラーテルよりも背の高い細マッチョだった。
「まだと言われても、監視カメラの映像を調べた限りじゃ、家の外になんかに出ていませんし、家の中で探すところなんかないですよ。第一どうやってあの拘束から逃れるって言うんです?」
「じゃあなにか? 部屋の中から煙にでもなって消えたってのか?」
「壁にも床にも天井にも細工はありませんでした。私としちゃ、それを推しますね」
「……あの女、人間なんだよな?」
「隊長、相手は聖女様ですよ? それが、人間かどうか、私ごときにゃ分かりませんね」
ファシーラが真面目だか不真面目だか分からない様子で、そうアピールした。
「デヴィッドに知られたら、面倒だぞ。あの男、最近どっかおかしいからな」
「契約の内容と実際の業務が随分と齟齬をきたすようになってきています。そろそろ手を引くころ合いですかね?」
ラーテルは、小さく舌打ちすると、どかりとソファに腰を下ろして、クラブサイズのシガリロを取り出して火をつけた。
「くそっ、宗教団体の代表なんかやりながら、宗教を鼻で笑ってるところが気に入ってたんだがな」
「払いも悪くないですしね。だけど、こないだは、超越者が本当に居るとは思わなかったなんて言ってましたぜ」
「超越者だ?」
あの野郎、血迷いやがって。
「この仕事はここでキャンセルする。理由は雇用者側の契約違反だ」
「了解。じゃあ最後にあの女の味見を――」
「やめとけ」
「どうしてです? 隊長のお手付き?」
「バカ言うな。あの女の二つ名を知らないのか?」
「詳しいことは」
「”ナイトメア”イザベラ。あいつとやって破滅した男は数知れず。一度寝たら最後、二度と平穏は訪れないとよ」
「隊長、それって煽り?」
「別に止めはしないぜ」
ファシーラは、腕を組むと少しの間天井を仰いでいたが、すぐにそれを解いて小さく肩をすくめた。
「やっぱ、やめときましょう。一発に人生懸けるほど若かない」
「賢明だ」
「それで、これからどうします? リビアに戻りますか? ハフタルがトリポリへ侵攻する(*2)って話が出てますぜ」
LNA(リビア国民軍)か。フランスも後押ししているって噂があるが……
UAE提供の中国製の兵器と、フランスがアメリカから購入したジャベリンが並んで使われ、空からはミグやスホーイが支援してくれる空間ってのは、なんとも混とんとしているじゃないか。
「それも悪くはないが、いまさらロートルが割り込むのも気まずいだろ」
「ロートルね。ハフタルは70を超えてますぜ?」
「超人と一緒にするなよ。それに、今の世界の紛争は、リビアもイラクもイエメンもシリアもアフガンも、イスラム・イスラム・またイスラムだ」
ラーテルは、苦虫を噛み潰したような顔でそう言い放った。
「同部族でやり合いたくないから、代理で俺たちを使うって言う昔のリビアはまだわかりやすかったが、内戦終結後のイスラム過激派が台頭してからは、しっちゃかめっちゃかだろう」
民族紛争に宗教紛争が混じり合い、時代のあだ花みたいなイスラム国が台頭して大暴れしたかと思うと、それを機会に石油を狙った先進諸国が東西関係なくガンガン懐に手を突っ込んでくる。
面白いっちゃ面白いかもしれないが、ある日突然味方だった連中に、後ろから撃たれて吊るされるのはごめんだ。
「なら、後はクルドですかね?」
「YPG(クルド人民防衛隊)に付くのか? ハンドラーはYPGから手を引くぞ。その瞬間トルコはシリア北部に手を出すに決まってる。そしたら連中、今度はシリア政府軍にすり寄るだろうぜ。俺たちゃあっさり売られるかもな」
「兵は引き上げるにしても支援は続けるんじゃないですか? ロシアの影響下になっちゃ困るでしょうし」
「アメリカの支援を受けているYPGが、ロシアやイランが後ろ盾のシリア政府軍と一緒に、南下してくるトルコを迎え撃つのか? 生きるための方便とは言え、もはや何が何やらってところだな」
「それを隊長が言いますか」
金のために、昨日の敵の支援をすることなど日常茶飯事だった傭兵部隊のたたき上げが、そんな話をするのが少し可笑しかった。
ラーテルもそう思ったのか、かすかに笑みを浮かべて、「違いない」と言った。
「それじゃ次はどこに行こうって言うんです? 引退でもするんですか?」
「ダンジョンの中ってのはどうだ?」
ラーテルのセリフを聞いたファシーラは、一瞬耳がおかしくなったのかと、思わす聞き返した。
「なんですって?」
「だからダンジョンの中ってのはどうだって言ったんだよ」
「つまり、探索者をやるんですか?」
「悪かないだろう?」
「いや、悪いとか悪かないとか……って、ええ?!」
現在では傭兵の世界も様変わりした。
インターネットカウボーイの連中が大挙して押し寄せてきて、まるで命をやり取りしているという感覚そのものが薄れてしまったようにも見える。
そうして、紛争地帯の複雑さは20世紀の比ではなく、3年前からは探索者に乗り換えた奴も確かに居た。
「人間を撃ちたい奴は?」
「人型で我慢できない奴は、この仕事についてきてないだろ?」
「チーム全員が探索者に?」
「やりたくない奴はやらなきゃいいさ。自分の命は自分で管理する、あたりまえの俺達だろ」
ラーテルのチームは、作戦に参加するかどうかは、比較的自由に決められた。
自分の能力で生き残れないような作戦には、自分の意思で参加しないことができるのだ。
「誰にやとわれるんです?」
「当面は俺だな」
「本気ですか?」
「当たり前だ。弾薬の輸送用にポーターを一台手に入れろ」
「マジですか? って、代々木でやるんですか? デヴィッドと鉢合わせしますよ?」
「そりゃするかもしれないが、契約がなければ赤の他人だ、別に逃げることはないだろう?」
これだからラーテルなんて呼ばれるんだよと、ファシーラは呆れたように手を広げた。
ラーテルはアフリカに生息するミツアナグマのことで、誰が相手でも隠れたりせずに、堂々と姿を現し練り歩く、恐れ知らずで有名な獣なのだ。
「それに、マリアンヌの行方くらいは気にかけてやらなきゃいかんだろう」
「隊長は、妙なところで律儀ですから」
「やかましい!」
「それで、参加しない連中は?」
「フランスの拠点を好きに使っていい。リビアでもシリアでも、好きなところで遊んで来い」
ファシーラは、そう言い放つ上司の顔をまじまじと見なおして、腰に手を当て深くため息を吐いた。
「はー、キュレナイカのバジリスクも丸くなったもんだ」
「死にたいならいつでも殺してやるぞ?」
ラーテルは、並の人間なら視線だけでもちびりそうな圧力をまき散らしながらそう言ったが、ファシーラはそれを気にもしないで簡単に受け流した。
「生きるのに飽きたらお願いしますよ」
そう言って、ラーテルに言われた仕事を手際よく開始した。
*1)ファシーラ
英語で言うならeasy。なんでも簡単そうにこなすところからついたあだ名らしい。
*2)ハフタルがトリポリへ侵攻する
リビア内紛の話。僅か2週間弱後の2019年4月4日、実際に進軍した。