表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Dジェネシス ダンジョンができて3年(web版)  作者: 之 貫紀
第8章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

194/218

§193 3/13 (wed)

7/1 てへっ、計算間違えちゃった。修正済みです。

フランスが派遣した捜索隊は、13日の午前中に10層へと到達していた。

すでに対象人員が失われていることが、ランキングリストから分かっていたため、各国への支援は要請しなかった。


10層は、荒涼とした墓場が広がる中、アンデッドの群れがあちこちで、いつものようにあてもなく彷徨っていた。


「聞いてはいましたが、これは気持ち悪いですね」


捜索隊の一人が、辺りを見回しながら、額ににじむ汗をぬぐった。


「おちつけ。連中は襲ってこない。少なくとも数時間はな」

「は、はあ……」


まるで落ち着けないセリフを聞かされながら、男はあいまいな返事をした。


「JDAから指示された地点はこのあたりのはずだが――」

「隊長! 大きな金属反応! あ、あれです!」


叫んだ男が指さした先には、何かの塊のようなものが落ちていた。

それが、何かに潰されたように破壊されたアッシュの残骸だと判明するのは、ほんの数メートルの位置まで近づいてからだった。


「こいつは酷いな」

「一体何に襲われたんでしょう? こんなこと、ピレネーのヒグマにだってできませんよ」


潰されたアッシュの脚部は完全にもげ、ボディも弾薬庫辺りはぺしゃんこになっていた。


「ブラックボックス部はどうだ?」

「あそこは、飛行機の墜落事故でも破壊されないように設計されていますから――」


大丈夫でしょうと言おうとした瞬間、アッシュの前にひざまずいてそれを調べていた技官が火花を散らして、何かを切り取り始めた。


「――無事だといいですね」

「そうだな。映像も記録されているんだろう?」

「おそらくは」


ブラックボックスが手に入れば、一体最後に何が起こったのかが分かるだろう。

ただ、ろくでもない出来事だったことだけは、それを見なくても想像できた。


「隊長!」


別の隊員の呼びかけにそちらを振り返ると、彼が何かを両手に持って駆け足で近づいてきた。


「これが、すぐそこに」


男が差し出してきたのは、きれいな本のページのように見える石碑――いわゆる碑文と呼ばれるものだった。

もちろんそれを読むことはできなかったが、彼にはそれが、まるでヴィクトールたちの遺書のように思えた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇


「あれから、1ケ月か……」


陸連では、JADA委員でもあった吉田が、深刻そうな顔で手を合わせていた。

ここ一か月での大きなニュースと言えば、東洋大学の三輪が、非公認ながら9秒86(-0.2)を叩きだしたことだ。

日本記録の9秒98(*1)をコンマ1秒以上更新する、90年代初頭であれば世界記録に匹敵するタイムだ。しかもわずかとはいえ向かい風の状態でだ。


それまでの三輪は、自己記録が10秒65の、言ってみれば普通の選手だった。

昭和の時代なら日本陸上競技選手権大会で優勝できるかもしれないタイムだが、最近の100メートルは少なくとも10秒3程度の記録がなければ優勝は難しい。そして100メートル競技は、コンマ1秒違えば1m程度の差ができるのだ、

そんな男が突然の9秒台。関係者は一様に驚いた。その前の週、彼はダンジョンブートキャンプを受講していたのだ。


それに比べて、鳴り物入りで選手を送り込んだ代々木ブートキャンプの成果は、実に芳しくなかった。


「それで、効果は?」

「訓練を受けさせた連中を中心に、記録会を随時行っていますが――」

「が?」


報告している女性は、諦めたかのように目をつぶると、首を左右に振って、彼に記録の並んだ用紙を手渡した。

それを受け取った吉田は、その用紙をめくると、思わず目を閉じた。そこに書かれた記録群は、惨憺たるありさまだったからだ。


先の三輪を除けば、現在の陸上界で気を吐いているのは、菅谷のところだけだった。

しかもそこの選手は、探索者の現状を知るために依頼して記録会を行った探索者チームのメンバーだ。

先の記録会では、借りたシューズで技術のかけらもないスタートを見せ、それでも記録は9秒46(-1.2)だった連中だ。もう笑うしかない記録で、東京オリンピックの金メダル筆頭候補なのは間違いない。このままだと確定だと言ってもいい記録だった。


現役時代からアウトロー扱いされていた菅谷は、縦社会のスポーツ界ではまともに指導者としてみなされていなかった。

そのため、子飼いの教え子もおらず、なんの(しがらみ)にも縛られることなく、彼らをスカウトしていたのだ。


そのせいもあって、探索者からの転向組は、みな最初に菅谷のところの門を叩くようになった。正確には渋チーの門を叩いていたのだが。


「浦辺さん。これはどういうことです? 記録が急激に伸びるどころか、かなり落ち込んでいるようですが」

「そう言われても、私は知らんよ。こっちだって困ってるんだ」

「それは無責任と言うものでしょう! 代々木ブートキャンプを推薦したのは浦辺さんじゃありませんか!」

「葉山先生から直接誘われたんだぞ? 断れるわけがないだろう。仕方がなかったんだ」

「仕方ないと言われましても……安くない金額を支払って、何の効果も得られていない以上、責任問題は避けられませんよ」


なにしろ受講料は1回100万円だ。

ダンジョンブートキャンプの三分の一と銘打たれていたが、個人で受講した場合の33倍だとも言える。

それでも、個人受講分を超える部分は協会から補助金が出るということで、彼らはこぞって自分の教え子をそこへ送り込んだが、選に漏れた選手の中には自腹を切ったものもいるらしい。協会の補助を受けられた選手と、一気に差がつくのを嫌ったのだ。

そうまでして、このありさまでは、不満が出るのも時間の問題だろう。


代々木ブートキャンプは、1日2回転で14人。現在までの受講者数は、複数回受講者を含め、のべで370人を超えている。

全てが陸連ではないにしろ、全体で支払われた金は、3億7千万円にも上るのだ。


陸連の第8期(2018年4月1日~2019年3月31日)の経常収益は23億弱だ。突然現れた支出に、どこから予算をひねり出すのか、頭が痛いことこの上なかった。


「練習と言うものはそうすぐに効果が出るものではない。まだ先かもしれんだろう?」

「不破も高田も、ほぼ即日で世界記録を叩きだしていますし、三輪もすぐに結果がでているようですが」


そう責められて青筋を立てた浦辺は、いきなりテーブルに掌を叩きつけると、激高して言った。


「そんなことは分かっているよ! じゃあ、君はどうしろというのかね?!」


まずは激高して見せて、意味もなく早口でマウントを取るのは、浦辺の現役時代からのテクニックだ。

知らない人は思考が停止してしまうだろうが、吉田は何度もその姿を見ていたために、平気でスルーした。


「それを考えるのが、あなたの仕事では?」

「くっ……そ、それは君の仕事でもあるだろう?」


それは確かにそうだった。

しかも彼らは、今更引くに引けない状況に陥ってた。ここで効果なしなどと認めてしまえば、他の競技団体などにも紹介した手前、どんな問題が持ち上がるか分からない。

すくなくとも詐欺の片棒を担いだとして訴えられかねないのだ。


「それに、あの運営会社は大丈夫なんですか? 役員には、外国人の名前が並んでいるようですが……」

「それがなんだ? 差別かね? 今どき」

「そういうわけではありませんが、まさか詐欺なんてことは――」


吉田は不安そうにそう言いかけたが、浦辺が無理やりな笑顔を浮かべて遮った。どこに耳があるのかわからないのだ。


「おいおい、持ち込んできたのは葉山先生だぞ? そんなわけがあるか」


吉田は、だから怪しいんだよ、と思ったが、さすがに口にすることは憚られた。

確かに外国のスポーツ施設へ武者修行に行くことはある。だが、並んでいた名前は、スポーツ界では聞いたことのない名前ばかりだったのだ。


それまで黙って聞いていた三塚が、足を組み替えながら口を挟んだ。


「そういえば、Dパワーズが、地上施設の拡張を行ったそうです」

「それが?」


浦辺の中では、すでに『あの忌々しい連中』としての地位を確立しているDパワーズの話に、彼はぶっきらぼうに答えた。


「すでに新しい施設も稼働しているらしいのですが、募集されている人員の数が増えていないんです」

「なに?」


浦辺は、スポーツ界を差し置いて、一体誰が受講しているんだと憤慨した。


本来、ダンジョンブートキャンプは、ダンジョン探索のために開設されたのだということを、彼らはすでに頭の片隅にすらおいていなかった。

もしも選手全員が受講できたとして、その後の1年間をどうするつもりなのかも、まったく考えていなかったのだ。

あの高田や不破ですら、休みの日には危険だと言うコーチの警告に従わず、代々木ダンジョンに潜っているというのにだ。


三塚と浦辺のやり取りを横目に見ながら、吉田は腕を組んで考えていた。


不破も高田も三輪も若い。今年の箱根駅伝の2区で伝説的な怪走を見せた青学の成宮も同じくらいの年だ。

スポーツ界からダンジョンブートキャンプに選考される選手は、大体20~22だ。たった4人とは言え100%の確率だ。


宣伝だったとしても、もっと脂の乗った世代が選考されないのは不思議だったし、ランダムだったとしたら、なおさらそこに偏るのはおかしかった。

そもそもランダムだとしたら、これほど申請しているにもかかわらず、いまだに4人と言うこと自体がおかしいのだが。


(あいつらの共通点はなんだろう?)


吉田は、気炎を揚げている浦辺の言葉を雑音のように聞き流しながら、真剣にそのことを考え始めていた。

その日の会合で、陸連としては、月末に駒沢で開かれる関東学連の春季オープン競技会までは様子を見るということに落ち着いた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇


建築制限のために広いローマの空の一角を遮るように、その建物は立っていた。

ムッソリーニの時代にはアフリカ大陸を支配するという夢のための機関があった8階建ての建物は、現在では、世界から飢餓を撲滅するなどという、さらに途方もない夢のための機関が使用していた。


FAO(国際連合食糧農業機関)本部では、眼下にローマ帝国第22代皇帝カラカラが建設した浴場跡を見下ろしながら、AG(農業消費者保護局)高官のアンブローズ=メイガスは、一向に進んでいるように思えないとあるプロジェクトについての報告を、秘書のマリ=ナカヤマから聞いていた。


「件の『ダンジョン内作物のリポップと、現行作物のダンジョン内作物への変換』がWDAに提出されてから、すでに1か月以上が立ってるんだぞ? 知的財産権は確立したんだろ?」

「そりゃもう超特急だったそうです。それでも追試に1か月かかりましたから」


マリは手元の資料にちらりと目を落とした。


「今は世界中の研究所が、あらゆるものでD進化と呼ばれる現象の再現実験に挑んでいるそうです」


下の遺跡で、三大テノールのコンサートが行われているかのような真剣さで窓の外をねめつけた後、振り返って言った。


「『Veni, Redemptor gentium』だ!」


カルーソーを熱唱するパバロッティもかくやと言わんばかりに、右手を掲げて彼はそう言った。

それを聞いてマリは内心苦笑した。いくら自分の名前に引っ掛けたとしても、それは言い過ぎだと感じたのだ。


アンブローズは、キリスト教の聖人の一人で、4世紀半ばのミラノの司教アンブロジウスに由来した名前だ。

Veni, Redemptor gentium(いざ来ませ、異邦人の救い主よ)は、彼に帰する聖歌のタイトルなのだ。


日本のワイズマンと呼ばれる女性が、WDAに提出したレポートは、ダンジョンのそばにある貧困地域の人たちから見れば、まさにその聖歌のタイトル通りの出来事だろう。


しかし、FAOの立場からすればどうだろう。

FAOの目的は、「世界の食糧生産と分配の改善と生活向上を通して飢餓撲滅を達成する」ことだ。

世界では、現在でも、カロリーベースで世界の人口を養うだけの量が生産されている。問題は分配なのだ。そこに腐心している時、消費地で無限に作物が生産されたとしたら、全体のバランスはどうなるのだろう?

それに依存した食料の分配構造が定着したとき、世界に分配構造の多重化を進めるだけの推進力が残されているだろうか。


例えば、このシステムが「全ての人々が十分な食料にアクセスできる権利の漸進的な実現」とみなされれば、2013年にCFS(世界食料安全保障委員会)のハイレベル専門家パネルが行った提言に基づいて、偏在している食料が、バイオ燃料の開発に回されるかもしれない。

一旦そうなった場合、このシステムが突然なくなったとしても、簡単に元の状態に戻すことはできないだろう。ダンジョンなどと言う不思議な存在に、人類の最も基礎的な基盤である食料を依存していいものだろうか。


水道の蛇口をひねれば水が出るし、コンセントにプラグを差し込めば電気が利用できる。普通の利用者にとって、それがなぜかを知る必要はないが、世界のどこかにはそれを理解して実現している人たちがいるのだ。

しかしダンジョンはどうだろう?


マリはよくわからないものに基盤を依存することが、どうしても良いことだとは思えなかった。

しかしながら、それが特効薬に近い効果を及ぼすことも理解していた。


生産においても分配においても、「現時点で」あらゆる無力を痛感してきたメイガスのような男にとって、今生きている人間の痛みをなくすための特効薬のようなこの研究は、飛びつくに値するものだったのだ。


「とにかく日本へ――」

「行ってどうするんです?」


最近はこの件に関する報告があるたびに、同じようなやりとりをしている。

さすがに、マリも慣れたものだった。


「最新の知見があるのは、代々木だろう?」

「いえ、彼女たちは発見はしても、その応用や深い研究に対する興味は希薄だそうです」

「なんだと? これだけで、世界中の生物学と物理学の賞を総なめにできそうなのにか?」

「そういう権威にはまるで興味がなさそうだそうです」

「なんだそれは。いったい誰の――」

「DFAのネイサン=アーガイル博士の報告です」


それを聞いたアンブローズは、悔しそうに眉根を寄せた。

ネイサンとアンブローズは、一応友人のようなものだった。ニューヨークとローマでは、それほど頻繁に顔を合わせるということはなかったが。


「ネイサンか……くそっ、面白そうなところだけ持って行きやがって」

「一応、インフィニティファームシステムというのを、日本の農機メーカーと共同で開発しているらしいですよ」

「インフィニティファームとはまた……」


俗な名前とは言え、分かりやすいことは確かだった。


「代々木で育てたダンジョン小麦が、そのまま他のダンジョンのものとして認識されるかどうかを確かめた後、各地へ納品される予定だそうです」


認識されればそのまま利用できるが、認識されなければそのダンジョンで何らかの穀物をD進化させる必要がある。

いずれにしても、成功すれば――


「世界の貧困が、少しは改善するはずだ」


fiat panis。この機関のモットーは、「人々に食べ物あれ」という意味を持っていた。


*1) 現在の日本記録は、サニブラウン・アブデル・ハキームの持つ、9秒97だが、これが記録されたのは2019年6月7日のオースティンなので、この時点ではまだ記録されていない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
書籍情報
KADOKAWA様から2巻まで発売されています。
2020/08/26 コンプエースでコミックの連載始まりました。
作者のtwitterは、こちら
― 新着の感想 ―
[気になる点] ダンジョン内での通信が整備されて、誰でも手軽(命の危険は付き纏うが、1層などでは比較的安全)に情報発信ができる環境が整ったこの段階で、スポーツなんてお遊びは廃れる一方なのでは? スポー…
[一言] FAOでの知的財産権の確立、D進化の追試、インフィニティファームシステムのテスト、もう情報は関連業界に流れているはず。 そろそろ穀物メジャーや先物相場が反応してもおかしくない時期に為っており…
[良い点] 話がサクサク進みだした。次が楽しみ。 [気になる点] §193のサブタイトル無いのが気になる点。 [一言] 2巻、電子書籍で予約します。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ