§186 会談(3)了
§186 会談(3)了
「さて、3回目ともなれば慣れたものだな」
俺たちは目の前に現れた、いつもの鉄の門を押して、キィーといういつもの効果音を聞いていた。
「今度油さしといてやるか」
「余裕ですねー」
「ま、最初くらいはな」
「終わりの方は、過去2回とも、ほうほうの体で逃げ出してますからね」
「まったくだ」
外から見上げたその館は、言ってみればスタンダードなマナーハウスの構造をしている。
当時のマナーハウスは上に行くほど、下っ端の従業員の部屋になっているはずだから、書斎はせいぜい2階だろう。
もっとも2階建てに見える家なので、1階かもしれないが、前回覗いた限りでは、1階にそんな部屋はなさそうだった。
「実はあの本棚がびっしりあった正面玄関のロビーが書斎を兼ねてたりしません?」
「そんなマナーハウスがあるかよ。それじゃマニアハウスだろ」
碑文の代わりに、ウィーンとせりあがってくるタイラー博士。うーん、それはそれでアリかもしれない。
初回はムニンとガーゴイルとモノアイがお出迎えしてくれたが、2回目は、ふわふわと歩き回る使用人たちだった。モノアイは、なんと使用人の体の中にいた。
今回は――
「2回目と1回目の合わせ技か?」
修理が終わったと言わんばかりに、屋根の上のガーゴイルがこっちを見ているし、軒下のモノアイも健在のようだ。ムニンかどうかは分からないが、カラス然とした鳥も、かなり離れた位置にある葉のない木の上で群れていて、時折数羽が飛び立ったり戻ってきたりしていた。
そして館のあちこちでは、使用人と思しきゴーストたちが、ふらふらと歩いていた。
「満漢全席ですね」
「なんだ、その例え」
「で、正面玄関から?」
「いや、2回目と同じルートで勝手口からいこう。館の中に入ったら――ロザリオ、頼んだぞ」
そう言うと、バックパックの中から、ピルルルと小さな声が聞こえた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
『なんだ、ここは?』
墓場の中にポツンとたたずむ洋館を前に、ヴィクトールたち3人は、唖然としていた。
『以前、まるで映画のトレーラーのような動画で見たことがある』
情報担当のクァンタンが、呟くように言った。
『なんだと?』
『JDAが公開した情報に、「さまよえる館」ってのがあるんだ』
『さまよえる館?』
クァンタンは、JDAが公開した情報で覚えていることを二人に話した。
『じゃあなにか? 連中はゾンビを373体倒して――』
ヴィクトールが館に目をやった。
『――あれを出現させたってことか?』
実際はすでに館を出現させたモンスターを、373体倒しても再出現しないのだが、彼らはそのことを知らなかった。
『それが目的で、夜の10層にやってきたのか』
ティエリが納得したようにそう言った。
Dパワーズの連中が、この館を出現させたのかどうかはわからなかったが、少なくとも夜の10層にいる探索者は、自分たちと彼らしかいないだろうと、ティエリは考えていた。
『じゃあ、接触する相手ってのは……』
『あの中にいる誰かってことだろうな』
『この館は明日の零時に消滅するそうだ。……で、どうするんだ?』
JDAの動画を見ていたクァンタンがそう訊いた。
動画の中で襲い掛かってきていたモンスターたちを、今の装備で乗り切れるかどうか不安だったのだ。
ちらりと時計を見ると、リミットまであと30分と言ったところだ。
数秒の間、館を見ながら考えこんでいたヴィクトールが、二人の方を振り返って言った。
『行くぞ』
◇◇◇◇◇◇◇◇
屋敷の勝手口を開けて館内に侵入した俺たちは、ロザリオの案内で館内を歩いていた。
どう見ても直線の廊下なのだから、二階へ上がって、まっすぐ進めばいいようなものだが、ロザリオがとったルートは、あちこちの階段を上がったり下りたりする奇妙なものだった。
しかも――
「先輩。さっき、上がって上がって上がって、さらにもう一度上がりませんでした?」
「気にするな。気にしたら負けだ」
何と勝負をしているんだと言われそうだが、精神の安定のためにも、それは必要な事なのだ。
「ルートそのものが、何らかの呪術的な文様になってるってやつだろ」
「そのほかのルートじゃたどり着けないってことですか?」
「たぶんな」
2階は2階でも、同じ2階とは限らないってことだろう。量子ビットさながらに、いくつかの2階が重なって存在していて、どの2階が有効になるのかはルートに依存している。
マクロの世界でそんなことが起こったら、世界の秩序が崩壊しそうだが、ここは異界だ。うん、だから何でもありなのだ。
「だけど、それと、4回階段を上がるのは別の話のような……」
「気にするな。気にしたら負けだ」
俺たちは額に嫌な汗を浮かべながら、ロザリオの後ろを早足についていった。
そうしてついに、彼女は一枚のドアの前に舞い降りて、こつこつとくちばしで床を2回叩いた。
「あれも、なにかのお呪いですか?」
「いや、さすがにそれは……」
ともあれここが終点らしい。
ノックをするべきかどうか迷ったが、正面に立っただけで、扉は俺たちを迎え入れるように内側に向かって開いた。
「正面玄関と言い、ここと言い、サービス精神にあふれた館だよな」
俺は内心ビビりながら、肩をすくめて見せた。
室内に入ると、そこは確かに書斎のようだった。
左の壁には書棚が、そして右の壁には大きな絵が1枚かかっていて、その絵の左上には文字が描かれていた。フランス語だ。
D'où Venons Nous
Que Sommes Nous
Où Allons Nous
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか、か」
「我々って、探索者ですかね? それともダンツクちゃんたち?」
「それはなんとも難しい問題だな」
ゴーギャンが書いたのは、自分を含めた人類のことだろうが、この絵がここに掛けられた瞬間、その意味は曖昧になっていく。
「しかし、ダンジョンってのは、とことんフレーバーで攻めて――」
「ようこそ」
正面から懸けられた声に振り向くと、いつのまにか、使い込まれて飴色になった机の向こう側の重厚な椅子に腰かけて何かを読んでいたタイラー博士が、顔を上げてこちらを見ていた。
え、入って来た時、そこに居たか?
「と思ったら、またまた君たちとはね」
パタンと本を閉じて立ち上がった博士は、部屋のまんなかに据えられているソファセットに座るように、右の掌でそれを指し示した。
言われた通りに腰かけると、彼は、ワゴンに用意されていたティーセットから紅茶を注いで、それを俺たちの前に置いてから、自分も向かいの席に腰かけた。
カップから、フルーティで甘めの香りが立ち上る。
俺は、揺れ動きながら光を反射させている紅茶の表面をしばらく見つめた後、それを指さし、冗談めかして三好に言った。
「これを飲んだら、もとの世界に帰れなくなるなんてオチはないよな?」
それを聞いた博士は笑いながら、自分のカップに口をつけた。
いや、あんたはここの住人だろ。何の証明にもならないから。
「ここはカムイコタンじゃないし、ペルセポネもイザナミも残念ながら来たことはないよ。来ればきっと、ゴパルダラの茶葉が気に入ると思うんだがね」
「ゴパルダラ?」
「ダージリン地方でも高地にある農園です。色合いと時期からして、たぶんオータムナルですね」
ついでに三好が小声で教えてくれたところによると、その意味は「ゴパルの泉の水」で、ついでにゴパルってのは神様の子供らしい。
「詳しいね。入れたてはフルーティで甘い香りが立ち上がるが、しばらくすると、花の香りが現れるよ」
「タイラー博士って、紅茶通なんですか?」
三好の問いに、彼は笑って、「私は研究以外どうでもいいという、いかにもなタイプだと思うね」と答えた。
どうやら紅茶は、この館の持ち主だった彼の祖母の趣味らしかった。記憶と体験からの再現ってことか。
しかし、神様の子供の泉の水ね。
黄泉戸喫(*1)の危険性は穏便に避けておきたいし、それにいかにもなタイプならこれだろう。
俺は自分の保管庫から、3本の赤い缶を取り出してテーブルの上に置いた。
こいつとピザの誘惑に勝てるアメリカの研究者はいない(偏見)
「ほう」
博士はその缶を見て、一言だけそう言った。
俺はそれを彼の前へと差し出した。
「瓶であれば最高なのだが」
そう言いながらプルタブを引っ張った博士は、冷たく冷えたそれを喉に流し込んだ。
コカ・コーラ。それは彼らのソウルフードなのだ(偏見)
「それで、わざわざここまで来たからには、なにか聞きたいことがあるんだろう?」
ひとしきりそれを楽しんで、小さなげっぷを出した博士は、そう切り出してきた。
「いえ、聞きたいのはそちらじゃないかと思いまして」
「私が?」
「というよりも、ダンツクちゃんが」
「君たちに? 一体何を?」
俺は、質問に答えず、三好が用意していたクラムシェルスタイルのノートパソコンを保管庫からとりだした。
「これをどうぞ」
「これは?」
「たぶんダンツクちゃんが、一番欲しいもの、だと思いますよ」
「なかなか言うじゃないか」
そうして博士は、ノートの蓋を開いた。
そこには、『だんつくちゃん質問箱』のモデレート版が、オフラインで表示されていた。
「普通の人たちと、話をしてみたくありませんか?」
もちろんそこには探索者も数多く含まれていたが、いわゆるプロフェッショナルな探索者はほとんどいないだろう。
ほとんど一般人と言っていい人たちの言葉がそこにはあった。
博士は奇妙な表情を浮かべながら、キーボードを操作すると、俺たちの方を見て頭を振った。
え? 嘘? 興味ないの? もしもそうなら、俺たちの計画は――
「あー、残念だが、日本語は読めないんだ」
俺は思わず、ソファからずり落ちそうになった。
どうしてそんなところだけリアルなんだよ!
「だが――」
博士は俺の大袈裟なリアクションに苦笑しながら続けた。
「――どうやら、君たちは、彼女の興味を引くことには成功したようだよ」
博士の視線を追いかけると、飴色の机の上にぺたんと女の子座りで腰かけてノートPCを覗き込んでいる彼女がいた。
ノートPCだって?
あわてて博士の方を振り返ると、同じものに見えるノートが、確かにそこにあった。
「どうやら、無機物のコピーも簡単なようですね」
「そりゃまあ、人間を再構成するよりは簡単だろうけど……」
素粒子レベルで合成しているというのなら、体積が小さいほうが簡単だろう。
人間の記憶まで再現しているのだ、メモリーの上の情報の再現程度はどうということはないのかもしれなかった。
彼女は楽しそうにそれを読んでいた。
操作に迷いがないのは、やはり博士たちが混じっているからだろうか。
「普通に読んでますね」
「どこかのコンピューターよろしく、情報を一瞬で読み取るかと思ってたな」
そうして、何かを入力した後、首をかしげた。
ここだ。ここが勝負のしどころだ。
「それは、そのままじゃ返事が出来ないんだ」
俺はあらかじめ用意してあった、周波数の表をポケットから取り出して、彼女に見せた。
「ダンジョンの外と各階層間で、電波の中継をしてくれれば、繋がる――話せるようになるよ」
俺がそう言った瞬間、彼女のPCがうちのメインフレームに接続した効果音が鳴った。
「先輩!」
その声に振り替えると、三好が差し出してきたスマホのアンテナが、きれいにフルマークで立っていた。
そうしてあっけなく、ダンジョン内通信時代が幕を開けた。
なにしろ各層が別の空間なんて非常識な構造なのだ。それぞれの層に地上の電波を中継することくらい、ダンジョン製作者にとっては造作もないことだろう。ただ、その必要がなかったというだけで。
彼女は、黙々とPCに何かを打ち込んでいた。打合せ通りなら、鳴瀬さんが地上で内容をモデレートして掲示板と繋いでいるはずだ。
将来的にはAIに任せたいが、おそらく無理だろう。しばらくは人力でダンツクちゃんに付き合うしかない。
俺たちは少なくとも彼女が慣れるまではと考えているが、ダンジョン協会や国家がこれを知ったら、おそらく永遠にモデレートしたいはずだ。
それをどうするかを考えるのは、この先の問題だ。
「楽しそうですね」
「まったくだ。それに、どうやら君たちも目的を達成したようだしね」
博士は、からかうようにそう言うと、片目をつぶった。ばれてーら。
「そういえば、一つだけ聞きたいことがあるのですが」
「なんだね?」
俺は、鳴瀬さんに頼まれていた、33層へ下りる階段についての質問をした。
それを聞いた博士は、一言だけ、「ロザリオを連れて行くといいよ」とアドバイスをくれた。
やはりどこかに隠されているのだろうか。
と言うより、取得した経緯を考えると、ロザリオは秘密の花園や33層への道筋を示すためのギミックの一部なのかもしれない。
「おや?」
突然首をかしげた博士は、席を立って窓のそばまで歩いて行った。
「どうやら、新しいお客様がいらっしゃったようだね」
「え?」
慌てて俺も窓際へと移動する。
そこから前庭を見下ろすと、丁度正門から3人の探索者が、奇妙な機械を連れて侵入してくるところだった。ポーターって奴だろうが、以前18層で見たものとは形が違う。
彼らは、俺たちが最初に来た時のように、おそらくは正面玄関を目指しているに違いない。そしてそこには碑文があるのだ。
「もしかして、さっきの連中か? 三好、残り時間は?」
「まだ30分以上あります」
結構あるな。これ、逃げないと巻き込まれるパターンじゃ。
「館の連中って、碑文を手にした者たちだけを襲ってくると思うか?」
「私たちと彼らが仲間じゃないって、どうやって判断するんです?」
「あるだろ、パーティ単位とか」
「そこに親分がいるんですから、聞いてみたらどうです?」
「――で、どうなんです?」
博士は困ったような顔をすると、肩をすくめながら言った。
「十分に発達し、勝手に学習した後のAIの挙動が、開発者に分かると思うかね?」
うん、まあ、そうかもな。
日本語がまるで読めない開発者が、日本語の認識AIを作るなんてのはざらにある話だ。
真の意味での汎用AIの行動が、開発者に予想できるはずはない。
「仕方がない、今のうちに撤収するか。じゃあ、博士、俺たちはこれで」
「言っても詮無いことだが、気をつけてな」
「もう、しばらくは来られないと思いますが――」
俺は机の上のPCを指さして言った。
「あれで、連絡は出来ますから。バッテリーは――」
「それはこちらでなんとかしよう」
俺たちは二人に別れを告げると、その場を後にした。
ドアを出る前にちらりと机の上のダンツクちゃんを見ると、彼女は笑って手を振っているように見えた。
「さて、先輩。どこから?」
「そりゃ、キッチン側の階段を下りて勝手口から逃げるしかないだろう。頼んだぞ、ロザリオ」
俺の方の上で、ロザリオが小さく鳴いた。
帰りのルートも呪術的な文様になっていたりしたら、俺達じゃ正しい扉に辿りつくのに時間がかかりすぎる。
「正面玄関は?」
「ここまで来られた精鋭にお任せするしかないな」
助けに行けるものなら助けたいが、割り込むタイミングによっては、言うことを聞きそうにない3人を連れて、婢妖の群れと化したアイボールを突破するのはおそらく無理だ。
下手をすれば3人との戦闘になってもおかしくない。
彼らもプロなら、JDAがアップした映像は見ているはずだし、引き際を間違わないことを祈ろう。
途中ですれ違った使用人たちは、来る時と同様、俺たちを無視して活動していた。
おそらく、まだ碑文に手を出していないのだろう。初見で必要以上に慎重になるのは、プロでなくとも当然のことだ。
駆け足で、キッチンの前の階段を下りたところで、館の奥から銃声が響いてきた。
「どうやら、バロウワイト戦が始まったみたいだぞ」
「あの人たち、大丈夫でしょうか?」
「さあな、俺たちは、館を出られる位置で出来るだけアイボールを狩るぞ!」
それが少しでも彼らの一助になればいいのだが。
「了解です」
館が消えてなくなるまで、まだ1時間は残されている。
フランスだかドイツだかの連中が自力で脱出して来られるなら、門の前で、それを援護する程度のことならできるはずだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇
それからしばらく、俺たちは門柱付近に陣取って、軒下のアイボールや屋根の上のガーゴイルを攻撃していた。
攻撃された周りのモンスターが、それに反応してこちらを襲ってきたが、大した手数ではなかった。
「三好?」
「あと5分です」
正面玄関の銃声が途切れてから、1分ほどが経過しているが、彼らはまだ出てこない。
「どう思う?」
「バロウワイトにやられたか、そうでなければやっつけて室内を物色して――」
三好がそう言いかけたとき、軒下のアイボールが、ごっそりと地上へと垂れ下がり、再び銃声が聞こえてきた。
「――碑文を手に取ったみたいですね!」
「ゴーストにでも襲われたか! とにかく少しでもこっちへ引き付けるぞ!」
「了解です!」
俺は、大量のウォーターランスを作成して、撃って撃って撃ちまくった。
攻撃をうけた付近のアイボールは、矛先を変えてこちらに向かってきた。
「連中、何やってんだ?!」
さっさと正面玄関から撤退すればいいのに、いつまでたっても出てこない。
そうこうするうちに玄関より向こう側にいたアイボールたちが、正面玄関からなだれ込んだ。
「先輩!」
「いくらなんでも、あそこに突入するのは無理だ!」
半分とは言え、こちらに向かって来ているアイボールの数も相当だ。
こいつらを蹴散らして、正面玄関から助けに行くなんて――
無理だと考えたその瞬間、館の鐘楼が、高らかに鐘を鳴らし始め、その輪郭がゆがみ始めた。23時59分だ。
インフェルノが使えれば、一気に殲滅と言うことも可能だろうが、なにしろあの群れの向こうには、探索者がいるかもしれないのだ。ノヴァ系だって使えない。
全力でウォーターランスを撃ち込みながら、鉄球をばらまいたところで、こちらに向かって流れてくる群れを殲滅するだけで精一杯だ。
アイボールの群れの圧力が二分しているからこそ、以前と違って、ここに踏みとどまっていられるのだ。
足下の地面がふわふわしてきたことを契機に、俺たちは門の外まで後退した。
そこを1分弱の間死守したが、館の輪郭が溶け落ちて鐘楼の鐘の音が打ち切られても、彼らは戻ってこなかった。
もしかして、トップエクスプローラーの損失か? これ……
しばらくすれば、辺りの墓の中から、またアンデッドたちが這い出して来るだろう。
とにかく今は、辺りに散らばるアイテムを集めながら、彼らの痕跡を探してみるしかなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
アンデッドを蹴散らしながら、館があった場所の探索をざっと終えた俺たちは、丘の上にドリーを出してそこに避難した。
DPハウスでもよかったのだが、10層はドリーの方が実績がある。
精神的に疲れ果てた俺は、ダイネットのソファにどさりと体を預けると、少しの間目を閉じて、犠牲になったかもしれない彼らの冥福を祈った。
最近の代々木ではあまり聞かないが、今この瞬間にも、探索者の命は世界中ダンジョンで失われている。
知識としては知っていても、やはり目の前でそれが起こると動揺するのが日本人だ。たとえそれが知らない人たちで、遺体を目にしてすらいなくても。
「鳴瀬さんが、転移石にこだわったわけが実感できたよ」
三好が注いでくれた冷たい水を飲み干しながら、誰にともなくそう言った。
「ダンジョン管理課には、こういった情報が積み上がるでしょうからね」
三好が何かを検索しながら、こちらを振り返りもしないでそれに答えた。
日頃能天気な彼女も、さすがに何かを感じているようだった。
「館跡で見つかった、スクラップですけど。たぶんフランス産のポーターですね。フランスの軍産とルノーが共同開発したときのプレスリリースに同じような機体がありました。なんと愛称は、『方舟』ですよ」
「方舟? そりゃまた……って、どうやって――」
調べたんだと言おうとして、すでにネットが使える環境になっていたことを思い出した。
「館が消えても、電波はそのまま利用できるみたいです」
「そうか……不幸中の幸い、と、言っていいのかな」
俺は、その言葉の意味をぼんやりと考えながら、しばらく無言でドリーの屋根を見ていたが、ふと不安に襲われた。
「通信環境と引き換えに、ダンツクちゃんの手に新たなるコミュニケーションツールが渡ったわけだが、あのPC、本当に大丈夫なんだろうな?」
これを契機に、ダンツクちゃんが世界中のネットワークを掌握するなんて事態はなるべくなら避けたいが……
「有線じゃありませんから、絶対はありませんけど、なにをやってもうちのメインフレームを経由するはずです」
「設定を書き換えられたら? 相手は、集合的無意識たる存在だから、パスワードなんかなんの意味もないかもしれないぞ?」
三好の意識だってそこには含まれているはずだ。
だから、ルートのパスワードだって、探せばそこに存在しているはずなのだ。
「ルートのパスワードは、すべての設定が終わった後に、でたらめな入力で置き換えました」
「え? じゃあ、三好でも再設定は――」
「できませんね」
彼女は首を横に振りながらそう言った。
「シングルユーザーモードは?」
「ランレベル1の設定は壊しておきました」
ランレベルはUNIX系OSの動作モードを意味していて、1には大抵シングルユーザーモードが設定されている。
シングルユーザーモードは、パスワード無しでrootになれるモードだが、それに対応するランレベルの設定ファイルを壊しておけば使用できない。
それなら、まあ――いや。
「丸ごとOSを再インストールをされたら、どうしようもないだろ」
「OSのダウンロード自体、うちのメインフレームを経由しますから、差し替えられますよ」
それでも心配そうに頭をひねる俺を見て、三好が言った。
「先輩、あのノートのコピーを見たでしょう? ネットに接続して何かするつもりなら、とっくの昔にやってますよ。だって、コピー元なら、その辺にうじゃうじゃありますし」
「うじゃうじゃ?」
そういうと三好が、自分のスマホを振って見せた。
なるほど。確かに、ダンジョンにスマホを持ち込んでいるやつは大勢いるだろう。通信はできなくてもそれ以外の機能は使えるからだ。
ダンツクちゃんはその気になれば、そのハードだってソフトだってコピーし放題ってわけか。
「もしも――もしもですよ? 一般人が、SNS上で、ダンツクちゃんの書き込みを見たらどうすると思います? しかも内容がトンデモだったりしたら?」
「大抵は『乙』で終了だな。普通なら相手にしてもらえないかもな」
「でしょ?」
「まさか――」
彼女が求めているのはコミュニケーションで、人類のインフラを破壊することじゃない。
だからネットのどこへでも自由に潜り込める能力が、仮にあったとしても、そんなことに興味はなかったはずだ。少なくとも今までは。
「とっくの昔に試したことがありそうな気がしませんか?」
「そうだな――」
ハードやソフト以外にも通信経路と言う問題がある。
代々木や横浜じゃ電波は届いていなかったけれど、例えば、ザ・リングのような施設なら、通信設備はそのまま生きていたかもしれない。
タイラー博士たちを吸収した何かがそれを試した可能性は十分にあるか。
「――可能性はあるかもな」
実際にそういった書き込みがあったのかを、世界中のSNS、3年分のログから調べることができるかもしれないが、俺達には難しいだろう。
だから検証は不可能だ。
しかし、そういう経験があったからこそ、あのサイトを見て喜んだのかもしれない。
もちろんこれも検証は不可能だ。
「ま、こんな疑問を覚えたり、心配したりした時点で、彼女には筒抜けなのかもしれないけどな」
「サトリとの駆け引きは難しいですねー」
俺は自分のスマホを取り出してみた。
そこでは電波状態を示すアイコンが、すべてきれいに点灯していた。
人類はダンツクちゃんとコミュニケーションをとる危険を冒して、ダンジョン内で通信できる環境を手に入れた。
どちらが得をしたのかは――まだ、誰にも分らなかった。
*1) 黄泉戸喫(よもつへぐい)
簡単に言うと、あの世のものを食べるとこの世に戻れなくなるということ。




