§183 準備 3/11 (mon)
全然時間がなかったので、後で多少書き直すかもしれません。
開けて5日、大阪大学が提案した、iPS細胞から作られた角膜を、患者に移植する臨床計画が、厚生労働省の専門部会で大筋了承されて、榊が大喜びして連絡をしてきた。
彼の研究は、あれから1か月しか経過していないのに、ずいぶんと派手な進捗を遂げているようだった。
「再生医療の臨床研究計画を、厚労省の専門部会でどんどん通してもらえると、僕たちの研究ももっと踏み込んだ実験が出来るようになるんですよ」
そう言って、ひとしきり自分の研究のことを勝手にしゃべった後は、すぐに研究へと戻って行った。実に相変わらずな男だった。
翠さんに見いだされてなければ、一生出資者を見つけることができなかったに違いない。
◇◇◇◇◇◇◇◇
だんつくちゃん質問箱が開設されてから、俺たちは、タイラー博士に会うための準備に明け暮れていた。とは言え、主に三好が、だが。
俺はと言えば、せっせと代々木に通い、オーブの取得と帰還石の製造に明け暮れていた。
また、転移石21は結構作ってあったので、三代さんと小麦さんに、訓練がてら使わせてみたりもした。
それを体験した、三代さんは白目をむいて気絶する勢いで驚いていた。
「もうすぐ発表されるとはいえ、しばらくは秘密だから、気を付けてね」
「……言ったところで、誰が信用するって言うんですか」
「ははは。でも、これで――」
「1日余計に原石がゲットできます!」
小麦さんは、対照的に満面の笑みをたたえて喜んでいた。物おじしない人だ。
キャシーにはとりあえず教えていない。今のところ必要がないし、DADに筒抜けになるには少し早すぎるからだ。
JDA側の準備が整ってから教えよう。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「これが、『だんつくちゃん質問箱』への管理用のアクセスキーですけど、一体何に使われるんです?」
鳴瀬さんが、三好に頼まれて、忙しいさなかにキーの入ったUSBメモリをもってきてくれた。
連日、セーフエリアの事務処理の手伝いに駆り出されているようだ。
暗号化してメールに添付して送ってくれてもよさそうなものだが、ものがものだけに用途を確認したかったらしい。
「なんといいますか、ちょーっと改造を」
「改造?」
「心配しなくても、マルウェアなんて仕込みませんから」
「当たり前です! そんなことをして発覚したら、アクセスキーを渡した私は、クビですよ、クビ」
三好の手に、USBを叩きつけるようなふりで渡しながら、鳴瀬さんが力説した。
三好は、大丈夫大丈夫ーと言っているが、それだけ見ていると全然大丈夫な気がしない。
「そういえば、このサイトって、ずっとあのままなんですか?」
「あれは、タイラー博士に訊きたいことをひねりだすための苦肉の策でしたし、JDAとしてもイレギュラーなサイトですから、永続的に置いておくかどうかは……」
「なんだ、ダンツクちゃんとみんなに話をさせるために作ったサイトかと思いましたよ」
「もちろんそれは意識していましたけど、実際問題、それは難しいですよね」
鳴瀬さんが諦めたように言うと、三好が難しそうな顔を作って腕を組んだ。
「無垢なAIを大衆に投げ与えたらどうなるかは、twitterでマイクルソフトが実験しましたしね」
「そのうち、アレクサあたりが、とんでもないことを言い出す日も近いな」(*1)
ああいったAIは利用者にさらされ学習し続ける。その結果、言ってみれば、洗脳されたり、精神病にかかるものも登場しはじめるだろう。困ったことだ。
「そういう難しさですか? 私はもっと物理的な――」
そう言いかけた鳴瀬さんは、先日の俺の電話を思い出したのだろう、
「そういえば、代々木ダイバージェントシティプロジェクトが潰れるかもというのは? やりかたはともかくあれが実現すれば経路は確保されると思いますが」
「結局、あれ、どうされたんですか?」
そう聞くと、彼女は、憤慨したように息を吐いて、テーブルの上で手を絡め、神経質に親指同士を何度か打ち合わせた。
「あのプロジェクトは、連日振興課が会議をねじ込んでくるので、『このくそ忙しいのに』と、うちの課長は怒り心頭ですよ」
「だから、渡りに船って感じで、セーフエリアの割り振りを盾に、決済へ進むのを止めていますけど、あと数日が限界でしょうね」
「大丈夫。きっと先輩がどうにかしてくれますよ」
USBを自分のPCに突き刺して、なにか作業をしながら、奥の席から三好が無責任なことを言った。
鳴瀬さんは、そのセリフに嫌そうな顔をすると、「……また何か、変なことをするんじゃないでしょうね」と警戒するように言った。
「ええ? そんなことはしませんよ! うまくいけばすごく代々木のためになる……かもしれませんし」
「本当ですか?」
「もちろんですよ。信用ないなぁ」
「どこをどうやったら、あると思えるんです?」
ジト目でこちらを睨みながらそういう彼女に、俺は思わず吹き出した。
◇◇◇◇◇◇◇◇
昨日降った雨が嘘のように晴れ上がった8日には、帰国した御劔さんが、お土産を持って訪ねて来てくれた。
「すごく濃密な1か月でしたけど……」
「けど?」
「NYとロンドンで英語が話せるようになったのは、まあいいです。少なくとも6年間は英語に触れてますし」
「でも、ミラノの最初の2日間でイタリア語が、パリの最初の2日間でフランス語が聞き取れるようになったのはおかしいですよ」
彼女は、クリスマスプレゼントのせいですよねと、小さな声で俺に言った。
「いや、まあ、ほら、語学の素質があったのかもしれないし、それに、別に困ることはないよね? どっちかというと便利な気が……」
「そうなんですけど。悪口を理解できてしまうのはちょっと」
あの人たち、こっちが英語しか分からないと思って、結構現地語で悪口を言うんですよと、苦笑しながら言った。
まあ、ぽっと出が、デザイナーに気に入られて連れまわされれば嫉妬も沸くか。
「今度ちゃんと教えてくださいね。それで、これ、お土産です」
彼女が差し出してきた小さな箱を開けると、そこには――
「エッフェル塔?」
それは透明なガラスでできた、10cmくらいの大きさのエッフェル塔だった。
「芳村さんは、こういうベタなのが好きかなって」
まあ、嫌いじゃない。嫌いじゃないが――
「三好さんはこちらを」
そういって差し出されたのは、シンプルなセザンヌのバッグだった。
俺のエッフェル塔となにか差がないか? ところで、俺のエッフェル塔って、なんだか下品だな。
「芳村さん?」
「あ、いや。ありがとう。部屋に飾っておくよ」
そういうと彼女は嬉しそうに笑った。
「そうだ。例の液を少しいただいて帰りたいんですけど」
「え、まだ潜るつもりなのか?」
少し驚いたように言うと、御劔さんは、「あれが基本トレーニングですから」と笑った。
それなら、と、俺はアルスルズを使った新方式を彼女に伝授した。
「え? そうしたら入り口まで戻らなくてもいいんですか?」
「うん。ただ――」
「あれは慣れるまで、なんだか変な感じですよ」
三好が、そんな風に言った。
お前は10層で、点滅しながら敵キャラを根こそぎ倒してたけどな。
「試してみる?」
「え? ここでですか?」
彼女がそういうと、三好の影からアイスレムがのっそりと現れた。
「きゃっ」
彼女が驚くと同時に、その場から消えて、すぐに元に戻された。
「どう?」
「なんですか、今の? 突然目の前が真っ暗になった感じですけど」
「一種の落とし穴におちた状態なのかな」
「落とし穴?」
「そう。でね、スライムを叩くたびに、今の状態を繰り返すんだ」
「はあ」
「じゃあ、繰り返してみましょう。アイスレムよろしくね」
「がう」
「きゃっ!」
その後しばらく、御劔さんが点滅していたが、そのうち慣れてきたようで、最後は、「遊園地のアトラクションか何かだと思えば、面白いですね」と、言っていた。
次に代々木に出かけるときは、うちに連絡して、アルスルズを1匹借りていくことを約束して、彼女は事務所を後にした。
俺は、しばらくエッフェル塔をつまんで眺めていたが、何かを察した三好が、「先輩、それスワロフスキーですよ」と言った。
「スワロフスキー?」
そう言われれば、光の具合によっては虹色に見えなくもないな。
俺はしばらく、そうやって、きらきら光るエッフェル塔を眺めていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
三好は、事務所の16畳の部屋の奥、ほぼ8畳分に消音ルームをわずか三日で設置していた。そこに連日、電気工事だのエアコンの設置だのが突貫で突貫で行われていた。金の力おそるべしである。
五日もたつ頃には、立派な部屋ができあがっていた。
「一体、どうするんだ、これ?」
まさか、斎藤さんの練習室?
いや、あれは基本電子ピアノだから、ヘッドフォンをすればいいだけだ。
「くっくっくっ、これぞ先輩のデタラメプランを支える、電子の要塞ですよ!」
そう言って、三好が収納から取り出したのは、大体2メートル四方の黒い箱だった。
それが、ズズーンという書き文字の効果音と共に、その部屋に出現したのだ。
「はぁ?!」
「一昨年の9月に出た、IBMのまあまあ最新鋭のLinux専用機ですよ。スーパーコンピューターは自宅にはなかなかおけませんが、今どきのメインフレームなら、まあなんとか」
いや、それはいいが、一体どこで収納して来たんだよ、これ?? 俺はその方が知りたいよ! 大体、その書き文字、何の意味があるんだよ!
「精密機械ですからね、そっとおかなきゃいけないんですけど、やはりここは重量感の演出が欲しいでしょう?」
なにしろ3トンもあるんですよ、これ、と、三好は誇らしげにその黒いボディを指さした。
「3トンもある巨大なPCだと思えばいいってことか。だけど、ほんとにこんなのがいるのか? 自宅に置いたりしたら、スケーリングもくそもないだろ?」
今どきのワークステーションは高速だ。シングルスレッド性能で言えば、メインフレームと変わらないレベルだと言っていいだろう。
この手のメインフレームは、冗長設計による信頼性と保守性、仮想化技術によるスケーリングが利点になるわけだが、信頼性はともかく、個人で全部使うならスケーリングもくそもない。
最初からフルスケールってことだもんな。
「ななな、なにを言ってるんですか先輩。大は小を兼ねるんですよ? ほら大量のI/O処理にもアドバンテージがありますからSMDのセンターとしても使えますし! 決して使ってみたかったとか、そんなことは……ちょっとしかありませんよ?」
「ちょっとはあるのかよ」
まあ、三好がいるというのなら、たぶんいるんだろうけどさ……
「最初は横浜に設置しようかと思ったんですが……」
やはり手元にないと心配ってことか。まあ、ここはアルスルズたちに守られているから、よけいだよな、と思っていたら、単に2m四方だと聞いて、事務所におけるじゃんと思ったらしい。
確かに空き空間のことを考えなければ四畳半にだっておけるけどさ。
流石に、強制排気の量を見たとき、これを普通の室内に置くのは無理だと思って、消音室を導入したという事だが、そこはまさに小温室だった。
俺はマニュアルをぱらぱらとめくりながら、簡単に諸元を眺めていた。
それによると、なんと電源は普通の200Vだった。確かに家庭で使える――
「いや、無理だろ! 入力電力が、最小構成でも最大10.4kVAで、最大構成なら、最大29.9kVAもいるじゃん」
東京電力の家庭用アンペア契約のうち最大のものは60アンペアだ。つまり、最大で、6kVAまでしか使えないのだ。
最小構成でもブレーカー落ちるよ?
「そこはぬかりありません」
そう言って、三好は東京電力の契約書を取り出した。どうやら事務所の電力契約に業務用電力を導入したようだ。
「え? 屋内配線の限界ってやつがあるだろ。ここは元々家庭用なんだし」
「ちっちっち。直接引っ張って、この部屋専用の電源になってるんですよ」
「他の部分はいままでと同じで、新規契約したのか」
「です。50kW契約で、月額基本料が8万6千円ってところですね」
「なんつー基本料だ」
高いんだか安いんだかわからないが、電気代の基本料がその値段と言われると、なかなか高額な気がする。
基本料って、何の値段なのだろう?
「電気代はともかく、基本料は結構しますよね。kWあたり1700円ちょっとですから」
「ってことは、家庭用で言うと60Aがそのくらいだから……なんと6倍ってことか! 流石は事業用……何かメリットがあるのかもしれないが」
「電力量料金がちょっと安いです。先輩がさっきおっしゃった最小構成の最大入力で24時間31日間使うと、ちょっとだけお得になりますね」
「そんなにぶん回す気なのかよ……」
段階のある料金だと、使えば使うほど高くなるという、普通逆だろと思えるような変な構造だけれど、事業用なら一定で安いと言う事らしい。
もっとも家庭用は、インフラだけに、あまり使えない人はお金がない人だから安くしましょうということなのかもしれないけれど。それにしちゃ、業務用の方が安いというのは解せないけどな。
「しかし、日本は電気代が高いな」
「その分、無停電電源がほとんど無駄になるくらい、供給が安定していますから」
確かに日本は停電が少ない。
都内に限れば、何かの破壊工作でも行われない限り、数年に1回経験すれば多いほうだ。
「とはいえ、一応、無停電電源装置は用意してあります。もちろんそんなに長くはもちませんから、書き込みの保護が行われたら、後はシャットダウンするしかないですね」
SMDシリーズには、一応サーバーとの接続が出来なくなった場合、その旨を表示する機能があるらしい。
「だけどなんで20kWも余裕がとってあるんだ?」
「そのほかの機器用ですけど、主にエアコンです」
「ああ、なるほど」
強制空冷とは言え、この部屋の気温は、それはそれは高くなることだろう。大きなエアコンは必須だろうな。
「よし、先輩! 準備は大体終わりました! タイラー博士に会いに行きましょう!」
◇◇◇◇◇◇◇◇
『いいか、神だぞ? 神』
『何だって?』
興奮したようにしゃべるデヴィッドのセリフに、何かを聞き間違えたのかと、電話の向こうの男が聞き返した。
『我が教団に神がいるとしたら、それはダンジョンそのものであり、それを作り出したダンジョンの向こう側にいるものだろう?』
『いや、デヴィッド。君の言いたいことは分かるが、君の教団の神学の話をしに連絡してきたわけじゃないんだろう?』
確かに、デヴィッドの教団の奇跡とやらにあずかりはしたし、こうして融通を聞かせるくらいには感謝もしているが、しょせん神などと言うものは、我々の手の届かないところにおわすものだと、男は考えていた。
神など奇跡を与える主体として、あることになっていればいいのだ。
『それが手の届くところにいるのさ』
デヴィッドは、彼の発言を無視してそう言った。
『何かの比喩かね?』
電話の向こうの男は、あまりの言い草に、あきれたように訊いた。
『いいか、JDAがだんつくちゃんと呼んでいるものは、ダンジョンの向こう側にいる何かだ。現に、今、JDAが、それへの質問を募集しているだろ』
『ちょっと待て、今確認……なんだ、これは? リオンヌ舞? ははは、確かに日本のナード――なんて言ったっけ? ああ、オタクか――の神扱いはされているようだな』
あのくそ日本人ども、話をややこしくしやがって、とデヴィッドは歯噛みした。
『いいか。JDA、ひいては日本がダンジョンの向こう側にいる何かにアプローチしているのは事実なんだ』
『それは、君のところの占い師の預言かね?』
彼はイザベラのことを占い師と呼んでいた。
不思議な力で、何でも探り出す、派手な女――だが、その言葉の的中率は、100%なのだ。
始めは何かの調査を疑ったが、本人が覚えていないことすら言い当てて見せる様は、もはや気味が悪かった。
『いいや、単なる事実だ。もしかしたら、すでにコンタクトを終わらせているかもしれん』
『確かにそんな話がちらと聞こえては来ていたが、日本政府はそれを否定したぞ』
『神にも等しい力を持つ何かとコンタクトして、それを吹聴する国家があるもんか。利益は独占したいだろう?』
男の反応には、少しだけ間があった。これは、そうかもしれないと考えているサインだ。
それを肯定するように、男から、短い質問が返ってきた。
『証拠は?』
『もちろんある。でなきゃ、こんな連絡なんかするものか』
『ふーむ。それで、どうしたいんだね?』
『ヴィクトールのチームが来日しているんだろう? それを貸してくれ』
『それで?』
『そりゃ、神のもとまで案内してもらうのさ。近々、連中は、だんつくちゃんとかいうやつに会いに行くはずなんだ』
『なに? そんな話になっているのか?』
『ああ、確実だ』
あの質問が、ポアソンダブリル(*2)のサイトのための準備じゃなけりゃな。とデヴィッドは心の中で呟いた。
もちろん彼は、そんなことは全く考えていなかった、なにしろだんつくちゃんなどという、意味不明な名詞の一致が偶然であるはずがない。
『分かった、COS(特殊作戦司令部)のCD(ダンジョン部隊)にはこちらから連絡を入れておくから、4時間後に大使館に連絡を入れてくれ』
フランスの国家に属するダンジョン攻略部隊は、軍の特殊作戦司令部の直下に作られていた。
『ありがとう。ああそうだ、ついでと言ってはなんだが、もう一つお願いが』
『……なんだ?』
『そちらのツテで、魔結晶を購入して送ってくれないか』
『魔結晶? どのくらい?』
『200万ユーロで買えるだけ頼む』
『……君、いったい、日本で何をやってるんだね?』
『それはもちろん、布教だよ』
デヴィッドはそう言って笑うと、電話を切った。
*1) とんでもないことを言い出す日
アレクサが 心臓の鼓動について聞かれたとき、"This is very bad for our planet and therefore, beating of heart is not a good thing. Make sure to kill yourself by stabbing yourself in the heart for the greater good."と、言い出したのはこの年の12月。
要約すると、「(鼓動は)地球にとってよくないから、心臓を突き刺して死んでね」 人口の増加が地球に与える影響がよくないからという理由だった。
*2) ポワソンダブリル
フランスのエイプリルフール。