§178 ずれてる人々 2/27 (wed)
『それで?』
『日本語にダンツクという言葉は、親分や旦那を卑しめて呼ぶ言葉しかなかったよ』
『中国人の黒幕がいて、フロントに侮られているって事?』
『チャンが陳か張なら、その可能性が高いが、少なくとも我々の網にそう言った人間は引っかからなかった』
デヴィッドは、Dパワーズの裏にいるような人間なら、相当権力を持っているに違いないと考えていた。
だから、そう言った人間が彼らの網にかからないのだとしたら、闇の世界を牛耳る支配者級か、そうでなければ、そんな人間はいないのだ。
彼は後者だと考えていた。調べた限りでは、ターゲットの連中は善良過ぎた。
『他にもうちの調査部の分析だと――』
『なんで宗教団体に調査部があるのよ』
『――情報は力だぞ? 相手の情報を完全に調査しておくのは、占いの世界でも常識だ』
『嫌な常識』
『dantukuchan は何かのコードネームで、nahcu kutnad のことではないかって分析もあったな』
『なにそれ?』
『Kutnadは、1800年くらい前に南インドのケーララにあった場所で、おそらく現在のカタナードらしい。そこの nah cu つまり、スパイというか、当局の犬のようなものだそうだ』
『南インドにあった昔の組織の犬ってこと? それと日本に何の関係が?』
『ここへ来たそもそもの発端は、アーメッドの娘の話だろ』
『彼はムンバイでしょう? マハーラシュトラとケーララがどんだけ離れてると思ってるのよ』
『ほとんど隣だ。間にカルナータカがあるだけだ。海岸沿いを進むなら、ゴアも挟んではいるが、ほとんど誤差の範囲だろう』
確かに彼の言うとおりだが、それはインド的スケールにおける隣だ。
マハーラシュトラのムンバイからケーララのコチは、直線距離で1000キロ以上離れている。東京からなら、札幌や鹿児島よりも遠く、ウラジオストクまでとほぼ同じくらいだ。
『そもそも、アーメッドは、ゴアにもケーララにも拠点を持っている。どちらにも彼の関係したリゾートがあるからな』
『じゃあ、つながっているというのは、単に関係があるって意味?』
『コードネームで呼ぶからには、只の関係じゃないんだろうが……』
『その辺はどうでもいいわ。夢の中で私を傷つけられるかどうかだけが問題だから』
デヴィッドは、勝手な女だと眉を顰めそうになったが、もともとこいつはそういう役割の女だと割り切って、ポーカーフェイスを貫いた。
それでも非常に役には立つのだ。
『だけどあの男、今のシチュエーションじゃ、相当に手強いわよ』
なにしろピンチに陥らないのだ。腹立たしいことこの上なかった。
『それに、魔結晶がちょっと心もとないんだけど、大丈夫なの?』
それはデヴィッドにとっても頭の痛い問題だった。
現在の東京市場には、魔結晶の出物がほとんどなかった。それは、つくば事件が市場に与えた影響だった。
指名依頼を出してはみたが、二つあると聞いていたトップチームの片方は、スポーツをして遊んでいるらしく、しばらく代々木に現れていないようだし、もう片方のチームは、大きな仕事を引き受けた後らしく、装備の注文をして休暇に入ったらしかった。
2番手以降のチームでも、上位のチームは18層でゲノーモス狩りに勤しんでいるらしい。つまり引き受け手が少ないのだ。
『いざとなったら、フランスから空輸するさ』
そのセリフを聞いて、うまく手に入らないんだなと彼女は察した。
『あなたは、何とかいうスキルオーブが欲しいだけでしょう? 連中と取引すればいいじゃない』
『簡単にいうが、オークションの結果を見たか? 今後、それを手に入れるたびに、4400万ユーロ(*1)を払い続けるのは無理だな』
『探索者なんだから、指名依頼をするか、直接取引すればいいでしょう』
それを聞いたデヴィッドは首を振った。
『あのワイズマンって女は、お高くとまっていてな。そういった直接取引はすべて拒否。一度も引き受けてないのさ」
『え、相手が権力者でも?』
『相手が日本の天皇でも、USの大統領でもダメだという事だ』
仕入れてしまえば、それ以上の価値で売りさばく男だったが、さすがに毎回5000万ユーロ以上を請求できる相手は少なかった。
それに、そういう相手は、デヴィッドを通さなくても、直接代理人をオークションに参加させればいいだけだ。
だがそれは好ましくない。奇跡の分散は、デヴィッドの教団が為す、御業の価値に影響するのだ。
『だから、あいつらの実働部隊に、ファントムとかいうやつがいるのなら、そいつと直接取引がしたいんだ』
デヴィッドは、楽しそうな笑顔を浮かべて、アームレストの上に肘をついた手を顎の下で組んだ。
『何しろこいつは、自分とは無関係の自衛隊の一隊員に、惜しげもなくそれを使ったあげく、なんの見返りも要求しなかったらしいからな。きっと簡単に手に入れているに違いないんだ』
『おおかた、相手が女で美人だったんでしょ』
使われた相手は伊織だ。あながち間違ってもいない突っ込みに、デヴィッドは、両手を解いて、小さく手を投げながら肩をすくめ、唇を曲げて肯定した。
◇◇◇◇◇◇◇◇
北谷マテリアルの難波班では、難波を中心に、モノアイの水晶を対象に、phと塩分濃度、それに温度と溶媒の条件を細かく変えながら、液化テストが繰り返されていた。
何しろ組み合わせの数が多い上に、対象になるアイテムがひとつしかないのだ。それは、なかなか根気のいる作業だった。
「おい! 難波!」
突然呼ばれた声に、難波はゆっくりと顔を上げて、ゴキゴキと首を鳴らした。
「なんだよ保坂、血相を変えて」
「特許が出願されているんだ!」
「なんの?」
「高屈折率の液体だよ」
「なんだと?」
難波は保坂からタブレットを受け取って、その内容を確認した。
そこには、発明者が三好と芳村さんで、出願人が株式会社ディーパワーズと書かれた特許が出願されていた。
「本当だ……どうすんだよ、これ。異議申し立てか? いや、しかし理由が……」
まさか、うちの会社の上司が相談した内容をパクられたなんていう異議が通るとは思えなかった。
なにしろこっちは、まだどうやって液化させるのかも分かっていないのだ。
「落ち着けよ難波。ここを見ろよ」
保坂が指さした先には、特許の明細が書かれていた。
そこには――
「アイボール?」
対象モンスターの名前が書かれていたのだ。
特許明細書の範囲は、なるべく緩く大きな範囲になるように書くのが常道だ。今回の場合なら、ドロップアイテムとしてモンスターの水晶体を対象にしてもおかしくはなかった。
「こいつは芳村さんたちの仁義だな」
「仁義?」
「俺たちが同じ研究をしていることを知ってたから、特定のモンスターに限定したんだぜ、これ」
「もしも、上が三好に連絡をしなけりゃ、芳村さんたちは気にせずに、モンスターの水晶体あたりで登録したってことか」
「だな」
この話を無断で三好に持って行ったのは榎木だ。
単に、真超との関係解消を恐れただけの行動だったのだが。
「馬鹿もたまには結果を出すか」
「でなきゃ出世はしないだろ」
「持ってるねぇ」
実は、芳村達が、その連絡がきっかけで、この実験を行おうなどと考えたのだとはつゆしらず、彼らは勝手に誤解して、榎木の評価を少しだけ上げたのだった。
その後彼らは、自分たちの素材で追試を行い、似たような濃度で液化することを確認すると、モンスター名を限定して特許を申請することにした。
◇◇◇◇◇◇◇◇
公正取引委員会が、サマゾンジャパンなどのネット通販会社に対する調査を始めたことが大きく取り上げられたこの日、俺と三好は、昨日に引き続いてダンジョン内で悪戦苦闘をしていた。
そして、結論から言うと、転移石(真)は完成?したのだ。
しかしそこに至るまでには、驚くべき苦難の道のりが待っていた。それは、頭の中でずっと「地上の星」がリピートされているくらい困難だったのだ。
『その時芳村は思った』、なんてナレーションが聞こえてくるような気がしたくらいだ。
祈りの方は漠然とした願いみたいなものを、きちんと読み取って実現する癖に、メイキングを通した、いわゆるお願いと言うか命令と言うかは、まるで融通が利かなかった。
一種のプログラミング言語みたいなところがあって、やたらと細かい設定が必要だったのだ。
「先輩。こうしてみると、メイキングと他のスキルって、開発ツールとアプリみたいなものっぽいですよね」
「そうだな。存外ダンジョンの向こうの世界じゃ、スキルってのはDファクターを特定用途に利用するための、インプラントみたいなものかもな」
祈りのような技法は、個人によってうまく使えない人もいるだろう。実際、俺たちは、未だそれに成功していない。
社会が高度化しているとするなら、そういう人たちのための救済策があるはずだ。それがスキルの本質なのかもしれない。
俺たちが何でこんな話を、遠い目をしながら語り合っていると思う? ――そう、俺たちは少しだけ逃避していたのだ。
まず、「そこのDファクターくん。ちょっとその石を転移石にしてくれないかな」だと、夢の中の転移石が出来た。
ここまではいいだろう。俺のイメージの中の転移石が、思い出した夢の中の転移石に引っ張られたからだと推測できる。
だから、転移石(真)のために、まずやらなければならなかったことは、Dファクターくんに転移の何たるかを教えることだった。
「転移とは、使用者が指定した場所へと、時間の経過なしで移動することだ」
決して石自体が移動することじゃないんだ。
そして、今いる位置から数メートル先の位置へ移動する設定にした。
いくら代々木の1層とはいえ、いきなり入り口付近に移動したりしたら、探索者に目撃されることは間違いない。それは避けたかったのだ。
そう定義してできた転移石は、見事に俺を指定した場所へと移動させた。ただし、俺だけを。
三好でテストしていたらと思うと、ぞっとしたような惜しかったような……つまり、俺はすっぽんぽんだったのだ。
この時ほど、早着替えの練習をしておいてよかったと思ったことはなかった。
「――見たか?」
「ええっと……まあ、ほら先輩。毛がなくならなかっただけよかったじゃないですか」
「なんだよ、そのネタ! 最初から階段の真下に設定してたらと思うと、ぞっとしたぞ! バナン師(*2)だって、服は着てただろ!」
そこで、使用者とは何かという、ある程度厳密な定義が必要になった。
「身に着けている物全部、じゃ、荷物が置いてけぼりになりませんか?」
「しかし、どこまでが荷物なのかという汎用の定義は難しいぞ」
「使用者が触れているものとか?」
「足の裏が地面に触れていると認識されたら、ダンジョン毎転移することになるかもな」
「それはそれで見てみたいですけど……じゃあ、直接触れている物?」
「服の上からつけた皮の鎧が置いて行かれるのが目に見えるようだな」
「壁に手をついていたりしたら、足の裏とおんなじ目にあいそうですしねぇ……じゃあ、使用者以外に接していないもの、とかどうです? ただし履物は除く」
履物は地面に接触しているもんな。
「持ち上げることが可能な荷物ってことか。……だけどそんな定義にしたら、泥棒の天国になっちゃうぞ」
「泥棒?」
「転移する奴の荷物に手を触れとけば、そいつは荷物を残して転移しちゃうだろ?」
「なるほど。それだと所有権なんて概念も教える必要があるってことですか?」
「所有権の定義は難しいぞ。なにしろ法廷で争われることが未だに絶えていない」
「なんだか、考えるたびに教えることが級数的に増えていきませんか、これ?」
三好は呆れるようにそう言った。すでに放り出しそうな勢いだ。
「ここは、もっとシンプルに考えようぜ。致命的でない問題の回避は、あとで修飾すればいいだろ」
「じゃあ、移動したとき同時に移動するもの全体、とか?」
「いや、さっき三好が言ったバダン氏にならおうぜ」
「それってつまり、転移時に自分が転移させたいと考えているものを対象にするってことですか?」
「移動先の空間に収まらない物は除外する、で、いいんじゃないかと思うんだよな」
「それって、DPハウスみたいなものも一緒に転送できちゃうかもしれませんよ」
「便利だろ?」
「そうですけど……こんなちっこい転移石一個で、そんなことが可能なんですかね? Dファクターをエネルギーだと考えれば、そんなに多くの量が含まれているとは思えないんですけど」
「さっき、ダンジョンの向こうの世界じゃ、スキルってのはDファクターを特定用途に利用するための、インプラントみたいなものかもって言っただろ」
「はい」
「だから、こいつは、電化製品のスイッチみたいなもんなんじゃないかと思うんだ」
「スイッチを入れたら何ができるかは決まっているけれど、エネルギー自体は、コンセント――つまり外部から持ってくるってことですか?」
「そうだ」
「でも先輩、それって、ダンジョンの外でスキルが使えるってことは――」
「もうじき4年も経つんだぞ? 濃度にもよるが、地球がそれなりに覆われていてもおかしくないだろ」
とは言え、これをダンジョンの外で使うためには、それなりの数の魔結晶が必要になるはずだ。今のところは。
いずれそれなしで可能になったとしたら、旅客を対象とした航空会社は立ち行かなくなるかもしれないが。
「まあ、やってみればわかりますか……」
三好は、何かを考えるようにそう呟いた。
「ただ、自己責任とは言え、自分の頭を転移前の空間に置いてきちゃう可能性を考えるとぞっとしませんね」
「車の運転と大差ないさ」
自分で車を運転して事故を起こすかどうかは、所詮は自己責任だ。車メーカーはそれを補償したりしない。
「違いますよ」
「どこが?」
「他人の頭を除外して転移させることができそうなところ、ですかね」
そうか。今の定義だと、三好が俺の頭を残して他の部分を転移したいと考えればそうなるのか。
「怖いこと言うなよ、ビビるだろ」
俺は顔を引きつらせながらそう言った。
「まあ、そういう部分は後々修飾して禁止するとして、まずは使用者の一部は残せないって設定で事故だけは防ごう」
「了解です」
そうして数々の試行錯誤を経て作られた、転移石(真)ver.4.02 は、ほぼ期待通り動作したのだ。
「これ、転移先もその時に決められたら便利ですよね」
自分でも使ってみた三好が、そんなことを言い始めた。
「すでに帰還石じゃなくて、交通手段と化してるな」
俺は苦笑しながら、その内容を否定した。
「試しに作ってみることくらいはしてもいいが、ちょっと事故が怖いな。第一転移先をどうやって決めるんだ?」
「フィクションだと、風景とかのイメージですかね?」
「実際に行ったことがある場所で、その地球上の位置を本人がある程度認識していれば、あとはDファクターくんが勝手に忖度してくれるかもしれないが……」
「なんです?」
「ストリートビューで見た場所へ行こうとして、PC内に転移したりしたら嫌だろ?」
「物理的に?」
「物理的に」
確かにそれがある場所は、PCのメモリの上なのだ。
PCと融合した人間――グロすぎる。
「二つ以上のことを同時に細かく考えられる人間は、意外と少ないぞ」
聖徳太子はともかく、人間は基本的にシングルタスクだ。
二つ以上のことを同時にやろうとすると、効率が著しく落ちたり、脳に負担がかかることが知られている。
転送させる自分の領域を明確に意識しながら、跳び先のことまで同時に考えるのは危なすぎるだろう。
「ところで、テストはいいですけど、これ、どうするんです?」
三好は、机の上に積まれた ver.4.02 を指さして言った。
「いままでのバージョンは怖いから始末したいんだけど、始末する方法がなぁ……保管庫の肥やし?」
砕いたら、そのかけらの一つ一つに同じ力が宿っていたりしたら頭が痛い。単純なスイッチだとしたら、ありえるかもしれないのだ。
「そんなの、Dファクターくんに、『ありがとうもういいよ。元の石に戻って』っていえばいいんじゃないですか」
「おお?!」
俺は、目からうろこがぽろぽろ落ちた気がした。
もしもそれが本当に可能なら、Dファクターは、再利用が可能な何かって可能性がある。
「それで、今までのバージョンは石に戻すとして、4.02はどうするんです?」
「石に戻すよ。でもって一層の入り口にほど近い、人のいない広場を設定して、4.03を作る」
「それってまさか……実用化しちゃうんですか? これを?」
三好が信じられないと言った様子でそう言った。
気持ちはわかる。なにしろ安全対策は最低限のものしかついていないし、研究者とかならともかく、一般人相手に使わせられるような代物ではないのだ。
「実際に使ってみないと問題点も明確にならないし、三代さんと小麦さんに、テストを兼ねた緊急避難用に渡すくらいなら平気だろ?」
彼女たちは、今でもそこそこダンジョンに潜っていて、21層のDPハウスの補給に行くと、そこには宝石の原石がなんというか、積み上げられているのだ。
小麦さんは、自分がものすごく気に入ったものだけは、例外的に持ち帰っているらしいが、それ以外はここに整理して置いているようだった。何しろ数が多くて、自分たちで持って帰るのは無理そうだったかららしかった。
どうやら、小麦さんはDPハウスにこもったまま、アヌビスたちを放し飼いにして、目の前に現れる宝石の原石を喜んで整理しているというのが実情らしい。
もしもこれを使うようになれば、戻ってくる時間分で、さらに狩りを続けることができてよろこぶだろう。三代さんはどうだかわからないが。
「確かに、DPハウス前に転移石のポイントを作ったら、補給が楽ちんになりますね」
「それもある」
「だけど、一度立ち会いの元で、使ってもらった方がいいですよ。だって、言っても信じられませんもん、これ」
俺たちは、31層から1層への転送で、それが現実に存在している現象だと知っていたからマヒしていたが、冷静に考えれば、ここで行っている実験そのものが、フィクションに登場するマッドサイエンティストのやってることに匹敵するような、控えめに言っても頭がおかしいと言われそうな内容だ。
「うーん。確かにそうだな」
使用者の範囲の決定は、疑心暗鬼の状態で、適当に設定されたりしたら危険がありそうだ。
「後は、鳴瀬さんにも渡してみようと思うんだ」
「え?」
「驚くなよ。ホウレンソウは大切だろ?」
三好が、俺の嘘くさいセリフに目をすがめた。
「……そのこころは?」
「彼女に知っておいてもらうと、いざと言うとき話がスムースに進むんだよ」
「いざってなんです?」
「なんだろうな?」
でも、またまた、面白いリアクションを見られそうですよね、と三好が、シシシシとケンケン笑いをしていた。
それ、悪役に見えるからやめた方がいいぞ。
「祈りで作れるようになったら、もっとこう、融通が利きそうなものが出来そうなんだけどな」
結局、三好は、今回、祈りをどこへも届けられなかった。
「結構真摯に祈ったつもりだったんですけどねぇ……」
俺たちは、その場を簡単に片づけて、帰り支度を始めた。
「そうだなぁ。ビル・エヴァンスが祈ってるみたいに見えないか?」
「下向いてるだけに見えます」
「じゃあ、キース・ジャレットが――」
「首振りまくって、インイン唸ってるだけに見えます」
「な、なら、グレン・グールドが――」
「気持ちよさそうにふんふん歌ってるだけに見えます」
「さいで」
斎藤さんつながりでピアニストに例えるの失敗。
「いっそのこと佐山さんにコツを聞いてみるとか」
「コツですか?」
「だって、世界中で、これを体現したのは今のところ佐山さんだけだぜ。たぶん無意識でやってて、何にも覚えてないだろうけど」
「それで、どうやってコツを教わるんですか」
「だよなぁ……」
そこで三好は手を上に上げて、ぐっと背を伸ばした。
「まあ、そのうち出来るようになりますよ、きっと。ところで先輩」
「なんだ?」
「ファントム様の格好のままですけど、いいんですか?」
「おお!」
早着替えをした時に、対象がファントム衣装しかなかったので、そのままだった。さすがにマントと仮面は外したが。
俺は、保管庫にしまった初心者セットを対象に、もう一度早着替えを行った。
「さすがにうまくなりましたよね、それ」
「練習したからな」
「私も、祈りがうまくできるようになったら、『祈り読本』とか書いちゃいますよ!」
「そりゃ、ベストセラーは確実だな」
なにしろ出来ないと、一歩劣った立場にされかねないのだ。本当に普及したら、基礎教育並みに真剣になるだろう。
「でも、あれですよね……」
「なんだ?」
「これがもしも大流行りしたりしたら、探索者全員が怪しげな宗教にかぶれたみたいに見えて、既存の宗教が反発しませんか?」
探索者がダンジョンの中で、みな一心に何かを祈っている……確かに外側から見ればそんな感じに見えるな。
だが――
「ま、問題ないだろ」
「なんでです?」
「いや、宗教ってやつは、歴史的に見ても相当に厚顔だろ」
土着の宗教を取り込みながら、自分たちの教義に置き換えて行く布教手法は普通に行われていた。おかげで神話がややこしいことになっているのだ。
だから、今回の祈りも、『自分たちの神』に祈っていることにされるだろう。
自らの中の神のような存在と、自分たちの神の間には、深くて長い川が横たわっているのだが、きっとそこには、さりげなく橋がかけられるに違いない。
「きっと、自分たちの神に祈ってることになるはずさ」
「でも、もしも既存の宗教の神様に祈りを捧げたとしたら、効果が出ないんじゃないかと思うんですよね」
「なんで?」
「そういう祈りって、システム化されてません?」
「ああ、念仏みたいな感じで」
「そうです」
そういう神様を本気で信じている人なら別だろうが、そんな人間が現在の地球にどのくらいいるのだろうか。
「じゃ、三好がうまくいかないのも、その影響?」
「実に忸怩たる思いってやつですけど、その可能性は結構あると思います」
意識して行う祈りは、祈る対象がはっきりしないと難しい。しかしその対象を心の底から信じているかと言われると……
「祈りって、捧げる対象がいるからなぁ」
「自らの内なる神って言われても困るんですよ」
「信仰が、かけらもなさそうな俺達じゃダメかもな」
祈りってなんだ、だとか、信仰ってなんだ、だとか、神学の世界の話のようにも思えるが、これはもっとプリミティブな領域の話なのだ。
単に言葉が同じだと言うだけで。それが、この問題を面倒にしているのだが……
「祈りを捧げる対象って、ダンツクちゃんなんですかね?」
突然三好がそう言った。
自らの内なる神に祈った内容は、自らの心の底からの願いだろう。それをダンツクちゃんが拾い上げてDファクターを操作するというのは一つの考え方だが――
「Dファクターはもっと自律的に活動している感じに見えるけどな」
三好が静かに何かを考えながら、ふと言った。
「先輩、あの花園のこと、覚えてます?」
「31層のか? もちろんだ」
「あそこにあった、彼女が手入れしていた花って、アイリスとスノードロップでした」
「それが? 小説の中にも出てきてたような気がしたけど、だからじゃないの」
「どっちも花言葉は『希望』なんですよ。偶然かもしれませんけど」
「へぇ」
「そして、枯れてた木は、トゲの感じからサンザシでした」
「……まさか、それの花言葉も?」
「『希望』なんですよ」
希望を表す植物たちが枯れ果てた庭で、それを手入れしている少女、ね。
「ダンツクちゃんは孤独なんですかね」
俺は、通常、物事を擬人化しすぎるのは危険だと思っていたが、彼女の言うことは、なんとなく腑に落ちた。
「人類とお友達になる『希望』がダンジョンだっての?」
「わかりませんけど」
孤独なら、俺たちのところへ遊びに――
くればいいのにと言おうとして、俺はふと思い当たった。もしかして、夢の美幼女は彼女だったのでは? あれは、ただ遊びに来ただけなのでは?
迂遠なやり取りを繰り返してすれ違うって、どんなラブコメだよ。
*1) 当時のレートは、1ユーロ、126円くらい。
*2) ワン・ゼロ / 佐藤史生 第2巻 P50
三好が引用したのは、タイの高僧バナン師が、修行の果てにマスターしたテレポートを初めて使った時、髪の毛がなくなっていたというエピソード。
慣れていなくて髪の毛まで意が及ばなかったという話なのに、服は着ていたから、服を気にしすぎてたからじゃないのという笑い話。
しかしワン・ゼロみたいな作品をよくプチフラワーで連載したものだ。昭和って凄い。
#勘違いしまくりの人たち。




