§173 プロローグ
第8章 「その先の未来へ」の前にさしはさもうと思っていた話が、思ったよりも長くなってしまったので、小さな章として挿入することにしました。そのため少し毛色の変わった話になります。章立ては後程検討します。
目を開くと、その部屋は蒼かった。
左手の大きな窓から見える星のない空に、チェシャ猫の目のような細い月が懸かり、何もかもを蒼く染めあげていた。
顔が溶けるように熱い。それはまるで皮膚の下から無数の小さな炎であぶられているかのようだった。
男は、窓に映る自分の疲れた横顔を横目に見ながら、その身に起こったことを、いまさらのように思い返していた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
男たちは、月のない朔の日を選んで、人狼族の住む夜の森を攻め立てたのだ。
手引きをしたのは、夜の森に詳しく、人狼族に恨みがあるという、フセスラフという足を引きずった老人だった。
望の日ならば、一人で、只人の千人をも相手にできる人狼族も、朔の日ならば見違えるほどに脆弱だ。
数に劣る彼らは、森の助けを借りてなお、一人、また一人と首を落とされ数を減らし、終には、女王だと思われる女の前に、攻め手の男が立っていた。
「いったい何をしにここまで来た?」
その女は、みじんも恐れた様子を見せず、威厳のある声で男に向かってそう問うた。
男は黙って巨大な剣を構えなおすと、じりじりと彼女に向かって間を詰めた。
女の発する圧力で、時間は、熱した水飴の如くに伸び、空間は、その密度を急激に増して、粘つくように体にまとわりついた。
「聞いたところで詮無いことか。もはや我らはここで果てるのみ」
永遠かと思われる一瞬が過ぎ去った後、周囲からは音が消え、激しかった争いの音は、今では遠く潮騒のようにさざめいているだけだった。
「言い残すことはそれだけか?」
そう訊いた男に向かって、女や妖艶な笑みを浮かべると、力そのものであるような声で、淫猥なる唇から呪いの言葉を紡いだ。
『そをなしたものは、報いを受けねばならぬ』
発せられた言葉は、強大な力を持って、男の体を貫き、数多の加護を与えられた装備を破壊しつくした。
男は、壊れ行く装備と自分を意に介しもせず、振り上げた大刀を力の限り振り下ろして、女が二つになるのを見届けると――そのまま気を失った。
◇◇◇◇◇◇◇◇
月の様子からすると、あれからそう時間が経っているわけではなさそうだった。
酷く喉の渇きを覚えた男は、誰かを呼ぼうとしたが、まともに声が出せなかった。
仕方なく、ふらつく足をベッドの縁で支えながら立ち上がり、まるで鉛でも呑み込んでいるかのように重い肉の塊を引きずるようにして、ドアを開けた。
ドアの左は行き止まりだ。どうやらここは、この棟のどん詰まりにある部屋のようだった。右には、はるか先まで続いている廊下が広がっていて、少し先にある大きな窓の外には、ただ蒼いだけの砂漠のような世界が広がっていた。
男は、人影を探して、廊下を這いずるような速度で歩き始めた。
――いったい今はいつで、ここはどこだ?
最後の呪いの影響か、歯茎の下を、女王の淫猥な唇が這いずっていて、歯肉を食い散らかしながら大きく育っているような気がした。
唇の裏には、ナメクジがぶら下がり、次第に白くなりながら血と膿をまき散らしているのだ。
――報いか。
唇は大きくはれ上がり、徐々に下唇と合わなくなり、目は次第に肉に埋まって、視野が狭窄していくような気がした。
頬骨が小さな炎の群れにあぶられながら、少しずつ焼かれ、溶けていく。
いつの間にか繊月が窓の外に懸かり、まるで自分が一つの腐肉になったような気分になったころ、どれほど歩いたのかわからなくなった果てに、一つの扉が右側に見えた。
そこには何かの営みが感じられるような気がして、おれは足を速めた。あとわずかでそのドアのノブに手を掛けられる、そう考えたとき、ドアのノブが音を立てて回転した。
俺はまだ、触れてもいないのに!
そうして、ドアの中から出て来たのは、女だった。
その女が、俺の方を目を向けた瞬間、その目は大きく見開かれ、恐怖で表情を凍り付かせた後、ガラスをひっかくような悲鳴を上げた。
俺の後ろ? そこに何かが? くそ、武器を持ってきていない!
俺は、覚悟を決めて、素早く振り返り、そうして窓に、向かって右半分の顔が、人でない何かになっている化け物を見た!
それに跳びかかろうと、腰を下げた瞬間、まったく同じように動いた相手を見て――
――俺は悲鳴を上げた。
「うわっ!」
驚いた声を上げて跳ね起きた俺は、思わず自分の顔を両手で確かめた。そこにはいつもの、なんてことはない自分の顔が感じられた。
世界はいつも通り、そこに存在していて、違いはと言えば、Tシャツの背中が、汗でびっしょりと濡れていたことくらいだった。
「……なんつー夢だ」
俺は、意識の上から急速に薄れていく夢の印象を反芻するように、もう一度ベッドに倒れ込むと、深く息を吐いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
――なんて夢。
ベッドの上で汗にまみれて目を覚ましたイザベラの目の隅に、椅子に座ってこちらを見ているデヴィッドが見えた。
『どうした?』
『あの男、そうとう歪んでるわね』
夢は、基本的に当人の置かれている状況や願望や、深層意識の発現だ。
蒼の世界も、人狼退治も、受けた呪いで半分だけ変異した自らの姿も。いったい何をすればああなるのだろう。向かいの建物の地下室に、行方不明の女性たちの死体が冷凍されていたとしても彼女は納得しただろう。
”ナイトメア”イザベラ。
彼女はその名の通り、一般には知られていない〈ナイトメア〉というスキルの所有者だ。
それは、最後にキスした相手の夢の中に入り込み、複雑なルールのもとにその夢を操作できるという、一種の共感魔術のようなものだった。
何しろ夢の中のことだ、適切なシチュエーションさえ用意してやれば、どんな秘密も容易に暴露されていく。
彼女はこの力を使いこなせるようになってから、数多の男たちを手玉に取って破滅させてきたのだ。
彼女はこのスキルを、以前付き合った探索者の男に使わされて手に入れた。
何しろスキルの中には致命的なものも多い。〈ナイトメア〉なんて名称のスキルが、そうでないことなんてあるだろうか。男にとって、それは復讐だったのだ。
そうしてそれは、結果として、少し妖艶なだけのプレイガールを、本物のファム・ファタールに仕立て上げることになった。
それは、まぎれもなく最強のヒューミントと言えたが、彼女はその能力を自分のためにしか使わなかった。というよりもそれ以外の使い方がわからなかったのだ。
そのためこのことは誰にも知られることはなかった――はずだったのだ。そこに座っている男に出会うまでは。
『反社会的な欲求や、変態行為は誰もが心の中に沈めているものだろう?』
デヴィッドはそんなものが一切ないなどと言うやつがいるとしたら、そいつは稀代のうそつきだと断じる程度には、人間を知っていた。
『あのクソ精神科医の受け売り?』
ふふんと鼻を鳴らして彼女が、憎々し気に吐き出した。
この男に情報を漏らした精神科医のことを考えると、いまでもむかつきを抑えられない、とは言え、この面倒な男の言うことを聞いてさえいれば贅沢ができる今の環境に大きな不満があるわけではなかった。
美貌は衰える。彼女はそのことをよく理解して恐れていた。
その前にどうにかしなければならないと焦ってはいたが、どうしていいのかわからない不安が、彼女の言うクソ精神科医にかかる一つのきっかけになっていた。
『散々セレブと呼ばれる方々で経験した……まあ、何と言うか、そういうのとはかなり違ってたわよ』
デヴィッドは、ほうと眉を上げたが、それがどんなものだったのかは尋ねなかった。そんなところに興味はないのだ。
『それで手掛かりは?』
『なにも。話しかけてすらいないし、回想以外で登場したのは彼と女が一人だけ。彼は誰もいない死んだような街で夢を見て、後はただ歩いていただけ』
デヴィッドには、状況が今一つ理解できなかったが、そこは今のところどうでもよかった。
『ファントムの影は?』
『まったく』
あの夢でファントムが登場する余地があるとするなら、蒼の砂漠の中で文字通り幽霊のように佇んでいるくらいだろう。
『ともかく、あの男の波長みたいなものは大体わかったから、本番はファントムが必要になるような状況作り上げて、彼に呼び出してもらえばいいわ』
『どのくらいかかる?』
『まずはファントムが必要になるシチュエーションの設定と、その世界のディテールの調査……場所をダンジョンに設定するとしたら、ダンジョンの詳細な情報が必要ね』
相手のよく知る世界の再構築は、世界の説明が必要ない分楽だが、そのディテールは相当に作りこまなければ疑念を抱かせることになるから、手が抜けない。
逆に、よく知らない世界なら、嘘にまみれていたところで大して気にもされないが、今度はその世界の説明が必要になる。
『本来なら1か月はかかる仕事だと思うけど?』
『それは無理だな』
主に物理的な距離の制限で、丁度ターゲットの住居の裏手にあるマンションの二階を、DGSE(フランスの対外治安総局)のお友達から一時的に借してもらったのだが、このマンションは、なにやら怪しげな外国人が多数出入りしている奇妙な場所だった。
どうしてDGSEが、タイムリーにこんなマンションを所有していたのか謎だったが、どうやらターゲットの連中は、世界中の諜報機関の監視対象になっているようで、実際仕事がやりにくくて仕方がなかった。
いずれにしても、DGSEのチームと一緒に活動するわけには行かないし、近日中には彼らに返還する必要があるのだ。
『大きな違和感なしで利用できる、ディテールの不要な世界があるなら、すぐにでも取り掛かれるわよ』
そんなものはないでしょうとばかりに、イザベラが言い放ったのを聞いて、デヴィッドは腕を組んだ。
ファントムが必要になるシチュエーションで、環境のディテールが不要な世界。
そんな都合のいい世界が――
『あるな』
『なにが?』
『ファントムが必要になりそうで、かつ環境のディテールがない世界だ』
『へぇ』
『不要な』ではなく、『ない』世界? イザベラは警戒しながら相槌を打った。
この男が、こんな顔をするときは、ろくでもないことを思いついたときだ。まだ1年ほどしか付き合っていないが、彼女はそのことをよく知っていた。
この男は金銭欲も権力欲も人並み以上に旺盛だが、支配欲はそれをはるかに凌駕していた。自分の掌の上で踊る人間を見るのが、なによりも好きなのだ。
女を道具のように扱い、自分勝手なセックスをしそうにも見えるが、実際は、念入りに奉仕して女を快楽で屈服させたいタイプだ。その際、手段を選んだりはしない。薬でも道具でもなんでもござれだ。奉仕系サドと言えばいいのだろうか。
結局、デヴィッドとイザベラは、内心お互いを恐れあっていた。おかげで、絶妙なバランスが保たれていたのだ。なによりも金をかすがいにして。
そうして、デヴィッドは自分が思いついた内容を、彼女に説明し始めた。




