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Dジェネシス ダンジョンができて3年(web版)  作者: 之 貫紀
第7章 変わる世界

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173/218

§172 intermissions

それは、御殿通工のストップ高が続いた9日目、東証が閉じた直後のことだった。


少量の売りに対してストップ配分が行われたその日、各証券会社のPTS(Proprietary Trading System:私設取引システム)上で大量の売りが、買いを少しだけ残す形で行われたのだ。

そして、その日市場外取引で5200万株の御殿通工株が約定した。


「用意されていた45憶ドルがほぼ約定しました。この後のご指示を」


買いは、用意された資金から逆算して発注されていた。しかし、まさかこの状況で、それほどの数の現物株を一度に放出できるホルダーがいるとは思わなかったのだ。(*1)

予定通りの予算だとは言え、タイミングが悪い。


指示を仰がれた男は躊躇したが、すでに9500円で約定したのだ。夜間PTSの値幅は翌日取引のものが適用されることが災いした。


「資金は都合しておくが、当面は様子見だ、大きく下がりそうなら買い支える方向で処理しろ」


なにしろ、D132は高価な部品だ。利益もより大きいだろう。それが何億個、場合によっては何十億個も出荷できる可能性があるのだ。

莫大な利益の可能性があるとはいえ、この10日で株価が上がりすぎた。そろそろ成り行きは手じまいしようかと思っていたところにこれだ。

予定では3倍から、せいぜい5倍で売り手が現れると思っていたが……どういうわけか端株はまるで集まらなかった。予め誰かが買い占めていたかのように。


ここで株価が大幅に値崩れしたりしたら、数日後にはサメの餌だ。

すでに日本の大学には行きわたったと連絡が来ている。連中もすぐに機器の公開をするはずだ。それまで買い支えることが出来さえすれば――


男は、覚悟を決めて受話器を上げた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇


探索者然とした男たちが、代々木公園のイベント広場付近に置かれているベンチで、簡単な昼食を食べていた。

パークスの肉まんを振りかざしながら、一番若そうな男が興奮して言った。


「いやー、探索者のイベントの事件、カッコ良かったよな!」

「ああ、NYの?」


イベントに自動小銃を持った男が乱入してきたのだ。

冷静に考えれば、かっこいいとかいうレベルの話じゃないことは明らかだったが、特に犠牲者もおらず、ヒット・ガールの活躍だけがクローズアップされていたため、まるでフィクションの中の出来事のように扱われていた。


「そうそう。渋チーといいさ、俺たちってダンジョンでレベルアップして、実はヒーローみたいになってるんじゃね?」

「USじゃ、悪いやつらを取り締まる自警団みたいな探索者組織が、出来てきてるみたいだぞ」

「さすがは、ガーディアン・エンジェルス発祥の都市」

「GAって、日本にもあるらしいじゃない」

「へー、でもあの赤いベレーを駅辺りで見かけたことなんかないぞ?」

「日本の鉄道は治安がいいからねぇ」


最初に発言した男が、食べかけの肉まんを飲み込むと、脱線した話を元に戻した。


「でさ。あれって、俺達にもできるんじゃね?」

「ええ? ヤーさんの事務所にでも殴り込むのか?」

「それはフツーに犯罪。それに、絶対その場で殺されるって」


「いや、渋谷辺りで女の子に絡んでるやつらとかさ、やっちゃえるんじゃね?」

「渋谷ぁ? 昔ならいざ知らず、今は、カラーギャングとか、ギャグでしかないだろ? 埼玉にしかいねーじゃん」

「まあなぁ」


渋谷にそういう雰囲気があったのはもう20年も昔の話だ。今は、円山町や道玄坂あたりでも、それほど頻繁に何かが起こるわけではない。

なにしろ、今や繁華街は監視カメラだらけだ。簡単に犯罪も犯せない。


「新宿や池袋も、悪質なキャッチは影を潜めたっていうし……」

「こうやってみると、東京って平和だよなぁ」


人に慣れた鳩が、彼らの少し先までちょんちょんと跳んで近づき、何かくれるのと首をかしげた。


「確かに平和だ」


男はそう呟くと、食べかけていたメロンパンのクッキー部分を小さく砕いて、鳩に向かってそれを撒いた。


NYに比べればずっと平和な東京に、にわかヒーローたちの活躍の場が、それほど多くあるはずがなかった。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇


『ターゲットはこいつらだ』


YDカフェの窓際の席で、細身の体にぴったりとしたスーツを着こなした、ライトブラウンの髪と瞳の男が、赤い髪と黒い瞳の美貌の女に、自分のスマホに表示されている写真を見せた。

男の名は、デヴィッド=ジャン・ピエ-ル=ガルシア。元はケチな詐欺師まがいだったが、今ではコンセイユ・デタへの届け出も完璧な宗教団体の代表だ。


女はそれをちらりと見ると、男好きのする派手な肉体を絶妙の角度でひねって足を組み替えながら、けだるそうに聞いた。


『デヴィッド。それで私は何をすればいいわけ?』


赤い髪と黒い瞳の肉感的な女は、サラ=イザベラ=マグダレーナ。

煽情的な美貌で男を手玉に取る女だったが、偶然付き合っていた男に押し付けられた特殊な能力を身に着けたことでノイローゼ気味になり、一時的に掛かった精神科医が、デヴィッドの組織の聖女様に傾倒したあげく、彼女のことをデヴィッドに漏らしたのが知り合ったきっかけだった。

カネになりそうなことには、人一倍鼻が利くデヴィッドは、その後彼女を一本釣りしたのだ。


 ◇


一般には、ほとんど知られていない、アルトゥム・フォラミニス・サクリ・エッセ(深穴教団)は、それを知る者からは、ヴォラーゴーでもハデスでもアビスでもタータラスでもない地の底――ダンジョンを信奉するキリスト教系のカルトだと認識されていた。

その名の由来は、教団の聖女、マリアンヌ=テレーズ=マルタンが、ダンジョンで癒しの力を得たことに基づくとされていたが、数多ある他のカルトとは、ある一点で一線を画していた。


つまり、マリアンヌは本物だったのだ。


デヴィッドは、二年前、アンドラ公国のエンカンプで、彼女に出会った。

そのとき彼女は、みすぼらしい服を着て、エンカンプの街の共同墓地にある、サンマルク&サンタマリア教会の小さなベンチで、ひざまずいた地元の老人たちに囲まれていた。


「あれは、何かの集会なのかね?」


奇妙な集団を不思議に思ったデヴィッドは、職員のような男に尋ねた。

男は、ちらりとそちらに顔を向けると、「あれは、マ・サンタを求める人々だ」と小さな声で答えた。


「マ・サンタ(聖なる手)?」


そう聞き返したデヴィッドに向かって、小さく頭を振った男は、触れてはいけないものから逃げるように、彼に背を向けて去って行った。


好奇心を大いに刺激されたデヴィッドは、別のベンチへと腰かけて、遠目にその集団の様子を窺っていた。


しばらくすると、門の方にあわただしい動きがあり、ぐったりとしている年老いた女を、夫だろうか、狼狽した男が担いで、ベンチ脇へと走り寄った。

料理の時、誤って油でも被ったのだろうか、女の顔は赤くただれていて、上半身に酷いやけどを負っていることを感じさせた。

さっさと病院に連れて行かなければ命に係わるはずだ。デヴィッドは、なぜこんなところに連れてくるのかと、蒙昧な老人たちに怒りを感じたが、次の瞬間には、彼の中から、驚き以外のすべての感情が消し飛んでいた。


ベンチに腰かけていた少女は、何かの(まじな)いのつもりなのか、静かにほほ笑んだまま、女の顔に手をかざしただけだった。そう、たったそれだけで、今まさに死にかけていた女のただれた顔は、まるで逆転再生される映像を見るかのように、正常な状態へと変化していったのだ。

女を連れてきた男は、彼女の足の甲にキスをするように頭を下げた。


思わず腰を浮かせたデヴィッドは、顎が外れるほど大きな口を開けたまま固まっていたが、しばらくすると、時間が戻って来たかのように、全身から力が抜け落ちて、そのままどさりとベンチに腰を落とした。


自分は今、人生の極めて重大な岐路に立っている。彼は強くそう感じた。

そう、彼は今、天啓にうたれたのだ。


治療の奇跡そのものは、ダンジョン産のポーションを使えば可能だろう。もっとも彼女が高価なポーションをわざわざ無償で使う理由はないし、実際そうしているとは思えなかった。

ともあれ、デヴィッドにとって、それが本物の奇跡だろうと手品だろうと、そんなことはどうでもよかった。重要なことは、それが本物に見える、その一点だったのだ。


神は、人が生み出した最高の商品の一つだ。なにしろ神の愛は無償なのだ。つまり、仕入れはつねにタダ。原価率が0%の商材を、皆が競って買い求める。定価はないも同然だ。

それを販売するためのシステムとして作り出された宗教も素晴らしい。教義や儀礼は、それを販売するための演出であり、施設や組織は、言ってみれば専用の商店のようなものだ。


そうして、信仰を抱いた人々は、大枚をはたいて、心の平安などと言う益体もないものをお買い上げになるのだ。

そんなものが欲しいのなら、好きな女の胸に抱かれて眠れと言いたいところだが、金がかかるという点では、どちらも同じようなものだろう。もっとも、後者には、肉体的な満足感というおまけがついていて、さらにお得なはずなのだが、現世の柵という厄介なお荷物が付いてくることもあるので注意が必要だ。


その日のうちに、デヴィッドは、マリアンヌの後をつけて自宅を突き止めると、彼女の父親に商談を持ちかけた。控えめに言ってもクズだった彼女の父親は、わずかの金で、自分の娘を喜んで詐欺師へと売り飛ばしたのだった。


奇跡を体現していた娘は、聞けば聞くほど完璧だった。

プレノン(*1)のマリアンヌは、フランス共和国の擬人化されたイメージだし、おまけに彼女のドゥジエム・プレノンは、テレーズで、苗字がマルタンだったのだ。フランスで最も多い苗字だとは言え、嫌でも、フランス第二の守護聖人であるリジューのテレーズを彷彿とさせた。しかも、彼女は病人や弱者の守護聖人だ。もはや満点以上の出来の良さで、まるで最初から創作したかのような出来栄えだ。


そうして、教団を立ち上げた彼は、彼女の奇跡を武器に、政治家や富豪を巧みに抱き込んでいった。

国家や大企業を運営するものは、人々が思うよりもずっと、神秘主義やオカルトに傾倒する傾向が強い。ラスプーチンやフリーメイソンを始めとする歴史がそれを証明していた。だからこそ、自分たちにも熟した果実をもぎ取るチャンスが与えられるのだと、彼は信じていた。


小さな奇跡を体現する娘は、ポーションなどを駆使して、それを過大に見せる彼の演出によって、偉大な聖女へと様変わりした。そうしてそれは、世界の富裕層を骨抜きにするのに、大いに役立っていた。

彼女の美しさと共に。


 ◇


YDカフェの、大きなガラス越しに見えるデヴィッドとイザベラの姿は、まるでヨーロッパ映画のワンシーンのようで、外を通る人が時折振り返っていた。

もしも声が聞こえたとしたら、彼らが話すフランス語が、それに輪をかけていたことだろう。


『いつも通りに、尋ねてほしいだけさ――』


デヴィッドは、優雅にエスプレッソカップを持ち上げてカフェに口をつけると、眉をひそめた。

カフェが口に合わなかったからか、ザ・ファントムが苦々しかったからか、はたまたその両方だったのかは分からなかった。


『――ザ・ファントムと呼ばれるふざけた探索者のことを』


彼らは、調査のプロに任せてみたり、DAに探りを入れたり、果ては財界を利用して自衛隊にまで働きかけてみたが、ファントムの行方は杳として知れなかった。

そいつはまるで、この世界に存在していないかのようだったが、イギリスから漏れてきた情報などを総合しても、必ず代々木にいるはずだった。


もはや手掛かりになりそうな人物は、Dパワーズとかいうふざけた名前のパーティくらいだったし、そのままではらちが明かなかったため、日本への布教を口実に、デヴィッドは聖女を連れて来日していた。


『こっちの女の子が、アズサ?』

『そうだ。おそらくその女の方が本命だが――』

『〈鑑定〉がどう影響するかわからないんでしょう?』


デヴィッドは、肩をすくめて答えた。


『まったく厄介なことだ』


もしも人間が鑑定出来て、そのスキルまで見透かされたりするとしたら、彼女には近づくだけでも危険だと言えた。


『悪いことばっかりしてるから、〈鑑定〉を恐れるような羽目になるんじゃない?』

『あんたに言われたかないね』


イザベラの過去をそれなりに知っている、デヴィッドがそう切り捨てた。


『あら、酷い』


眉をひそめながらナチュラルに(しな)を作る女のしぐさは、男なら、多かれ少なかれ欲望を刺激された。

だが、この女と寝るということは、ベッドにオーダー・モフテーレ(サソリ)(*3)を迎え入れるようなものだ。身を滅ぼした男たちは、彼が知っているだけでも、両の手の指に余る。

この女はただのハニトラ要因とは違うのだ。”ナイトメア”イザベラ。その二つ名は伊達ではなかった。


『それに、トリガーがトリガーだから、男性の方がいいわね』

『どちらもいけるんだろ?』


デヴィッドの揶揄するような問いかけに、彼女は涼やかな声を立てて笑った。


『その男は、頻繁に代々木に現れるらしい。見かけたら……あとは任せたぞ』

『私が張り込むわけ? ダンジョンの入り口で、立ちん坊?』


明らかに不満だという顔で体をテーブルの上に乗り出す彼女の前に、デヴィッドは携帯電話を置いた。


『そいつが代々木に現れたら電話が鳴る。そうしたら、ダンジョンの入り口付近へ向かえ』


そのくらいなら仕方ないかと、イザベラは矛を収めて言った。


『東洋人の顔を見分ける自信がないんだけれど、まあなんとかやってみるわ』

『よろしくな。で、それはいいんだが――まさか、その格好でダンジョンに入るのか?』


体にフィットした、オフショルダーのインナーが、前の空いたトールカラーのように襟の立ったアウターと一体化したトップスと、足首まである大きくスリットの入ったロングスカートから時折覗く形の良い足が人目を引きつけていた。


『あまり派手な格好で来るなっていうから、できるだけ露出の少ない格好にしてみたんだけど。これでも一応シャネルよ、どっかおかしかった?』


派手な格好で来るなと言ったのは、目立つなと言う意味だ。

そもそも、ダンジョンにその格好で来るやつは、それだけでどっかおかしいし、そんな恰好でダンジョンに入ったりしたら、異様に目立って仕方がないだろう。


こいつにとって、ダンジョンもリゾートも同じなのかもしれないが……


『いや、とてもよく似合ってはいるが、ダンジョンに入るには……な、わかるだろ?』

『ああ、そういうこと。もちろんこのまま入ったりはしないわよ』


彼女はそれくらいわかっているわよと言わんばかりに、鼻白んだ。


『ならいい』


デヴィッドは、それを聞いて、こいつにも常識はあったかと安堵したが、続くセリフを聞いてがっくりと肩を落とした。


『ルブタンはルコックに履き替える(*4)に決まってるでしょう?』


 ◇◇◇◇◇◇◇◇


その日、クールタイム明けの〈収納庫〉を求めて代々木へやってきた俺は、1層に下りたところで、あまりにも場違いな女と出会った。

その女を見た俺は、自分が下りて来たのが、サン・ドメニコ・パレス・ホテルのプールへ下りる階段で、目の前にはタオルミーナの海が広がっているような気がして、思わず二度見してしまった。


二度見したのがばれたのか、人の流れとは反対の方向にいる俺に向かって、彼女はつかつかと歩み寄ってきた。

ダンジョン内で、ドレスコードのあるパーティでもやっていそうな雰囲気に、いくらなんでもその格好はどうなのと、以前の自分のことは棚に上げて思ってしまった。

最初に普段着で入ダンしていた俺を、探索者諸氏が奇異のまなざしで見ていたその気持ちが、やっと理解できたような気がした。


「Comment allez-vous?」


うっ、フランス語だ。しかもフォーマルかよ。

ここは第3外国語の力を見せて……やれるわけないな。10年も前の話だもんなぁ。英語じゃだめ? フランス人は厳しいからなぁ(偏見)


「あー。パ マル メルスィ エ ヴ?(まあまあ。あなたは?)」


知らない日本人が近づいてきたら、適当にあしらって逃げるのに、外国人だとつい対応してしまうのはなぜだろう。これがおもてなしの遺伝子だろうかと下らないことを考えながら、思わずそう答えていた。

その女は、にっこりと笑っただけで、黙ってこちらに近づいてくる。


「ウー……ケス ク テュ ブー?(ええっと……何か用?)」


女は、武道の達人が、来るとわかっていながら防げないタイミングで、相手の間合いにするりと入り込むように、俺のパーソナルスペースへもぐりこんで、俺の肩に触れた。


足元から立ち上る優しく甘い香りに、まるで脳をマヒさせられたかのようで、ゆっくり近づいてくる彼女の顔に、俺は反応できなかった。

その香りが、サンスクリット語で『愛の神殿』を意味していることなど、その時はまったく知る由もなかった。


そうして柔らかな何かが、一瞬唇に触れた瞬間、呪縛が解けたように我に返った俺は、思わず1歩後ろへと下がった。


「え、あ……」


一瞬、何をされたのか分からなかったが、階段を下りたばかりの探索者たちの、『リア充死ね』という呪いのこもった視線によって、今起こったことを理解させられた。


(うそだろ……)


1層の探検なので、ステータスはいつもの数値のままだったとはいえ、人類の中では上位の一握りに近いはずだ。

おかげで、意表を突かれるとステータスが役に立たない場合があるってことがよくわかった。もっとも、もしかしたらLUC100のせいなのかもしれないが。


俺の影にいるはずのドゥルトウィンが何もしなかったのは、おそらく、彼女に俺を傷つける意図がまるでなかったからだろう。人が近づいただけで反撃するようでは、普段の生活もままならない。


その時彼女が何かを言った。


「Retrouvons-nous――」

「クヮ?(なんだって?)」


俺は我に返ると、最後に聞き取り損ねた部分を問い直したが、彼女は、妖艶な笑みを浮かべただけで、足早に遠ざかり、ダンジョンから出て行った。


ルトゥボンヌ ドーンザン……なんだって? レーブ?


くそっ、相変わらずフランス語のリエゾンとアンシェヌマンはわけがわからん。しかもリエゾンはしたりしなかったりするとか、ふざけるなよと言いたい。

だって一文を一単語として発音しているようなものなんだよ? ドイツ語の複合名詞よりも質が悪いよ!


お前らは単語と単語の間にある半角スペースの意味をよく考えやがれと、フランス語の教科書に向かって憤慨し、第3外国語を落としかけた記憶が生々しくよみがえってきた。

幸い試験にリスニングはなかったので、ぎりぎり『可』は拾えたのだが。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇


何、あの坊や、目茶苦茶ちょろいんだけど。


代々木の階段を昇りながら、イザベラは今しがた目の前にいた男のことを思い返して、警戒していたのが馬鹿みたいだと思った。

自分よりも年上だろうと、女慣れしておらず、嫌悪を抱かないものは、イザベラにとって、皆、坊やなのだ。


初心者丸出しの装備に、隙だらけの立ち姿。女の不意打ちに、躱すわけでもなく、腰を抱くわけでもなく、ただ、棒立ちでそれを受け止めるなんて、坊やとしか言いようがなかった。


『あんなのが本当にファントムとやらの消息を知ってるのかしらね……』


まあ、あてがはずれたところで、デヴィッドが困るだけだし、彼女には何も問題がなかった。

皆の賞賛の視線と、自由に使える金さえあれば、世界は幸せで輝いているのだ。


『そのためにもせいぜい坊やには踊ってもらいましょう』


階段を昇り切り、薄暗いダンジョンを出た彼女は、外の世界の光の中へと歩みを進めた。

そのまばゆい光が、彼女の人生のすべてを肯定するかのように、輝いていた。


*1) この時点では、PTSでは現物株取引(実際に所有している株の売り買いのこと)しかできなかった。

なお、PTSの信用取引は、2019年8月末から解禁になった。


*2) プレノン

フランス人は複数の名前を持てる。その一つ目でメインに使われるもののこと。

二つ目の名前は、ドゥジエム・プレノンと言う。


*3) オーダー・モフテーレ

rôdeur mortel. 直訳すれば「うろつく死」。

サソリの一種で、日本語だとオブトサソリだが、それよりも英語のデスストーカーの方が通りがいいかもしれない。厨二っぽくてかっこいいし。

サソリの中では最強に近い毒をもった種類で、死に至ることもある。

フランスでは、他にも、イスラエルの砂漠のサソリだとか、パレスチナの黄色いサソリなんて呼び方もあるそうだ。張り合ってるなぁ……

ところで、mortel。発音記号は mɔʁ.tɛl なのだが、フランス人の知り合い発音してもらったら、話者によって、モフテールだのモフテーレだのモフテッラだのと聞こえる。

なんでそんなに違うの?と聞いたら、日本語はもっと違うと言われた。いや、方言と発音記号の発声は違うんじゃないの……


*4) ルブタンとルコック

クリスチャン・ルブタンは、フランスのラグジュアリーブランドで、主にセクシーなシルエットの靴を作っている。レッドソール(靴の底が赤いことからこう呼ばれる)がトレードマークだ。

ルコック・スポルティフは、フランスのスポーツグッズブランドで、スポーツ用のシューズを作っているが、近年ではファッション性の高いスニーカーを売り出して成功している。

要するに、彼女は「パンプスはスニーカーに履き替えるよ」と言ったのだ。


なお、芳村くんのフランス語は、次の通り。

 Pas mal. Merci. Et vous?

 euh...qu'est-ce que tu veux?

 quoi?

実力は、école primaire(イーコール・プリメール:小学校)に入学したての生徒よりも酷い。


そういや、フランスって、去年から義務教育の開始が3歳になったんだっけ? 凄いね。


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書籍情報
KADOKAWA様から2巻まで発売されています。
2020/08/26 コンプエースでコミックの連載始まりました。
作者のtwitterは、こちら
― 新着の感想 ―
洗脳系?
[一言] 芳村ならフランス語英会話本を速読するだけでペラペラだろうけど、それを行動に移さないのが芳村なのよね
[一言] 実は、通じてないなんて、思いもしない(笑)
感想一覧
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