§160 金枝篇 拡散 2/13 (wed)
拡散の大部分が、2/14にあるため短くなってしまいました。ごめんね。
その木は大きく、一目見ただけでは、とてもオレンジには見えない立派な枝ぶりをしていた。
放っておけば、八方に伸びて複雑に絡み合うはずの枝が、剪定もされていないのに、見事に伸びて理想的な形状を保っていた。
温室のガラスは、天井部分もテラス側の仕切り部分も枝の形に切り取られ、まるで最初からそういったデザインであるかのように、建物と一体化していた。
そうして、降り注ぐ陽射しの中、茂った葉が、柔らかな影を室内に落としていた。
「え……なんだこれ?」
昨日までは、確かそこには、ゼゼのスイートオレンジ(*1)のような小さな木があったはずだ。
佐山は、自分が入った部屋を間違えたのかと、慌てて実験室を出てドアプレートを確認した。
しかし、そこは、間違いなく、昨日彼が接ぎ木をした部屋だった。
「なんで、昨日接いだ木が、こんなことに?!」
信じられない気持ちで扉を閉めて、ふらふらとその木に近寄ると、室内が静かなことに気が付いた。
もしもガラスに穴が開いているなら、実験室は陰圧を維持しようと、フル回転で空気を吸いだしているはずだ。だがコンプレッサーはそれほど大きく動いていない。
つまりガラスの穴は――
「幹に密着しているのか?」
その部分を見上げると、たしかにぴったりと、まるでガラスが枝や幹の形に溶けたように張り付いていた。
しかしこれでは、陰圧の温室を利用した意味がゼロだ。
彼はガラスを素通りしているかのように見える、その枝を見上げた。
花が咲く前になんとかしないと……とは言え、原因不明の現象だ。原因が分からなければ、何度でも同じことになる可能性は高い。
しかし原因とは言っても、これは科学の範疇なのだろうか。
すくなくとも植物学の範囲から逸脱していることは確実だ。自分たち専門家の及ぶところではないだろうと直感していた。
とりあえずは、ダンジョンの専門家がいる組織への連絡だ。
佐山は、幹の周りを注意深く観察しながら回り込んで、内線の受話器を上げると、上司の水木を呼び出した。
「佐山君……昨日の今日で疲れてるんじゃないのか?」
話を聞いた水木は、開口一番そう言った。
疲れているだけで、こんな幻は見ませんよと、心の中で反論しながら、彼は現状を説明した。
「いえ、本当なんです。すでに温室のガラスを突き破っていて――」
「ガラスが割れたりしたら、室内の圧力が大きく変動したままになるから警報が鳴るはずだろう? これは何かのいたずらかね? そうでないなら、君、頭大丈夫か?」
「……ダメかもしれません」
「おいおい」
「と、とにかく! すぐに来ていただけませんか! 見ればわかりますから!」
「……わかった」
不承不承そう言って、水木は内線を切った。
「ふう……」
佐山は、目を閉じて数を数えた。まるでそうすれば、その木が幻のように消えてなくなるかのように。
そうして意を決したように目を開いて、おそるおそる振り返ると――
「やっぱ、そんな都合のいい話はないよなぁ……」
一夜にして巨木が出来上がるなんて、どんなおとぎ話なんだよと、佐山は深くため息をついた。
それに、一夜でこれほど成長することができるのなら、実だって、すぐに生るんじゃ――
佐山がそう考えたとき、突然微かに木が揺らいだように見えた。
「え?」
そう口にした瞬間、一斉に、枝の先端付近が光に包まれて、白く輝く何かがそこに現れた。
「ええ!?」
何が起こったのか分からず、茫然とそれを見ている佐山の鼻を、爽やかな甘い香りがくすぐった。
彼の目の前で、数万という花が一斉に開花していた。
「う、嘘……」
その時、表のドアが開く音が聞こえ、水木があわただしく、2枚目のドアを開けた。
「佐山君、一体なんだと……」
そこまで言った水木は、目の前の現実に、言葉を呑み込んで固まった。
二人で棒立ちになっていると、一枚の花がぽとりと落ちた。
その瞬間、我に返った水木はすぐに指示を飛ばして、内線に走り寄った。
「佐山! シートをかけて飛散を防ぐ! 枝は切り落とせ!」
「え、どうやって?」
「倉庫に高枝用の小型チェンソーがある! 表に出てる部分は全部切り落としてシートで被うぞ! 出来るだけ飛散を防ぐんだ!」
指示を受けた佐山は、慌てて部屋を駆け出した。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「とにかく、外へ突き出している枝は全部落とせ!」
ガラス越しにそう言われて、佐山はとりあえず目の前に突き出している、比較的太い枝にチェンソーをあてた。
ギュイーンと音を響かせながら、木の粉が飛ぶ。わずかの時間の後、メキメキと音を立てて折れた枝は、ドスンという重い音とともに地面へと落ちた。
落ちた大きな枝は、水木がビニールシートを持ってこさせた同僚が引きずっていき、その上に乗せた。
佐山が、次に上から突き出している枝を落とそうと、高枝用のポールを伸ばしている最中に、それは起こった。
「なんだ?!」
今しがた切り落とした枝の切り口から、光が溢れ、枝の形に伸びていく。
慌てて、それをよけた佐山の目の前で、光が消えると、後には、切ったはずの枝が復活していた。
「はぁ?!」
よけたときに、光の中に残されていたタオルが、枝の形に切り取られているのを見て、彼は絶句した。
もしも光の枝に体を貫かれていたらどうなったのだろう……佐山は冷や汗を掻きながら、チェンソーを置いた。適当なカットは危険かもしれない。
しかし、枝の復活?
混乱した佐山は、今しがた同僚が持って行った枝を見た。
そこには確かに、先ほど落としたはずの枝が鎮座していた。新しいものと全く同じ枝ぶりではないようだが。
「ば、ばかな……」
ガラスの向こうで水木が茫然とそう呟いた。
「これって、もしかして……」
リポップしたのだろうかと、佐山は漠然とそう考えた。
ここはダンジョンではない……はずだ。リポップなんて現象が、ダンジョン外でも起きるなんて話は聞いたことがない。
もちろん彼は自分がその専門家でないことは十分わかってた。ここは、専門家の助言が必要だ。
幸い、彼は、世界でたった一人しかいない〈鑑定〉持ちと知り合ったばかりだった。
彼がそう考えたとき、唖然としている周りに人達を尻目に、今まで咲いていた花が再び光に包まれたかと思うと、次の瞬間には――
「結実……した?」
――多くの黄金の輝きを持った実が、重そうに枝からぶら下がっていた。
もはや何が何だかわからない。
佐山はふらりと近寄ると、手近の枝に生った実をひとつ、もぎ取ってみた。
「せとか……っぽいな」
彼がもぎ取った実は、枝のようにリポップしたりはしなかった。少なくとも今は。
同日同時刻、つくばの他の研究所で、阿鼻叫喚が風のめぐるごとくに響いていたとは、神ならぬ身には知る由もなかった。
*1) ゼゼのスイートオレンジ
ぼくのオレンジの木 / ジョゼ・マウロ・デ・ヴァスコンセーロス
ゼゼは、ブラジルの国民的作家ヴァスコンセーロスの書いた、半自伝的な作品「ぼくのオレンジの木」の主人公。
裏庭の小さなスイートオレンジの木が彼の親友なのです。児童文学の範疇ですが、多数の国で翻訳されている傑作ですので、機会があったら是非。




