§157 ミヨシさん、ピムチですよ。 2/11 (mon)
その日の朝、東京では気温が0度近くまで下がり、空から落ちてくる小さな氷の結晶が、世界に薄っすらと白いヴェールをまとわせていた。
東証の前場が始まってしばらくした頃、カーテンを閉めた薄暗い部屋で、神経質そうな男が、6枚のモニターに囲まれた机の前で、思わず声を上げた。
「なんだこれ……?」
週明けの月曜日、取引アプリが、いきなりの注目フラグを立てたその銘柄は、高寄りしたかと思えば、以降は売りを食い尽くして、一直線に上がり続けていた。
確かに御殿通工は、先々週の中頃から奇妙な動きをしていた。
600円を割り込むかもなんてレポートが出ていた株は、先々週の中頃、突然730円前後に張り付いた。指標からみれば結構な高止まりだ。理由は分からなかったが、今後の展望も薄く手放すチャンスを狙っていたホルダーたちは、それに一斉に食いついた。
皆が売り時を探っていたが、ふと700円を割りそうなところまで戻したところで、一斉に指値売りが出て、分厚い売り板が作られた。そうして誰もが上値が重いと思われた瞬間、溶けるようにその板がなくなったのだ。
皆がそれに注目した。もちろん男も例外ではない。とはいえ、誰にも買われている理由が理解できないのだ。その後も探るような取引が続いたが、高額な指値売りは約定せず、買い手が決めた価格帯だけが約定していった。
それでも売り頃は売り頃だ。どう考えても下がる以外の未来はないのだ。そのため取引きだけは活発に行われていたが、株価は不思議なことに730円前後で張り付いたように動かなかった。
男のようなデイトレーダーにとって、動きのない株はゴミと同じだ。この謎に後ろ髪は引かれたが、おいしく齧れるところはないと判断して、探りを入れるために少数の株を残したまま興味を他へ移したのだ。
「御殿通工? いまだに材料なんか何もなかったはずだが……」
男は、すぐにネットで御殿通工の情報を検索したが、TDB(帝国データバンク)にもTSR(東京商工リサーチ)にもワンソースにも、特に目新しい情報は存在していなかった。
「あや戻しったって限度があるし、人気買いといっても、御殿通工のどこに将来への期待があるっていうんだ?」
時価総額は十分大きいし、バリュー株とはとても言えない。カレンダー効果にしては動きが大きすぎるし、第一今日は月曜日だ。下がることはあっても上がりはしない。情報が何もない以上、行動バイアスというのも考えにくい。
10年と少し前、50万の元手で株の取引を始めて以来、アノマリー(理論で説明できない株価の動きの事)は何度も見てきたが、これはかなりおかしな部類だ。
結果、考えられることがあるとすれば――
「何かの罠か、そうでなきゃ不正?」
意味はまるで分からないが、どこかの誰かが普通では知りえない情報を手に入れたのだろうか。730円の板は今もそこにあるから、これを買っているやつは別の誰かだ。
730円板の連中も、相当頭がおかしい部類に見えたくらいだから、その理由を探りだした別のグループが、一気に勝負をかけたと言えるのかもしれない。
試しに、少しだけ持っていた手持ちの御殿通工の株を、ストップ高ギリギリの価格で指値売りしてみたら――
「……約定しやがった。こいつまさか売り板が出るたびに、それを食って歩いてるのか?」
さすがに成り行きで買っているなんてことはないと思うが……
これだけ派手にやるからには、インサイダーという線も薄いだろう。もしもインサイダーでこれをやっていたとしたら、そいつはただの馬鹿だ。
「ともあれこれは、『乗るしかない、このビッグウェーブに』ってやつかな?」
ここしばらくの高止まりで、手放しても構わないと考えているホルダーたちは、すでに放出した後だったこともあって、売りがまったく足りていない。
上がり方に驚いた一部のホルダーが、なけなしの売り注文を出した後、売り板は消えて、チャートはぐんぐんと上昇している。
男は罠だった時のために、逃げ切れる程度に買いを入れると、細かく利食いを繰り返すコードを書いて実行した。
そうして、右肩上がりに伸びていくチャートを眺めながら、掲示板へと書き込みを始めた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「思ったよりも早かったな」
「そりゃ、俺は優秀だから、仕方がないさ」
「ははは。それで?」
篠崎は、「スルーかよ」とぶつぶつ言いながら、カバンから角2の封筒を取り出すと、それを寺沢に渡した。
「だが、本当にここで大丈夫なのか? 自衛官の巣窟だろ」
二人がいるのは、ホテルグランドヒル市ヶ谷一階のカフェ、カトレアだ。このホテル、一部では自衛官の帝国ホテルなどと呼ばれていて、ここで結婚式を挙げる自衛官も少なくなかった。
「自衛官が、元自衛官に会うにはふさわしい場所だろ? 仮に誰かに見とがめられとしても、ただ友人と会っていただけさ。小さな暗い店の一角の方がよっぽど怪しい」
それでも彼らが座っているのは、目立たない位置にある席だった。
寺沢が、報告書を取り出すのを待って、篠崎が説明を始めた。
「鉄球の方は思ったよりも簡単に見つかった。ネットで検索したら、上位10件どころか、通販系3社を除いてトップにあったよ」
「どうやって聞き出したんだ?」
「そこは俺のウデで、と言いたいところだが、『先日8cmの鉄球をたくさん注文したものですが』と電話したら、『ああ、ミヨシさん』と返された」
篠崎は「素人はちょろいね」と、笑っていたが、寺沢はそれどころではなかった。
「ミヨシ?」
「ああ。さすがに漢字は分からないが……心当たりが?」
この世界でミヨシと聞いて、誰しもが真っ先に思い浮かべるであろう人物は一人しかいない。
ザ・ワイズマンの異名を持つ、日本人形のような風貌の小柄な女性だ。チームIの報告書によると、32層へと下りる階段を見つけるカギになったアイテムの鑑定も彼女がやったらしい。
そんな女性が、ファントムの使っていた鉄球を――いや、待て。
「それは本当に、お前に渡した鉄球なのか?」
「厳密には成分比較でもしてみなきゃ分からんさ」
篠崎は運ばれてきたダブルのエスプレッソに、どかどかと砂糖を入れながら言った。
「だが、それを1万個も発注するのは異常だろ」
「1万個!?」
「ああ、そのミヨシさんは、そのくらいの数をオーダーしていたようだぞ。お前が言っていた武器に使うんでもなけりゃ、何に使うっていうんだ?」
直径8cmの鉄球を1万個? 重さだって数トンでは済まない。体積だって……一体どこにしまってあると言うんだ?
とはいえ、三好梓がファントムだと言うのは、どうにも無理があった。鋼から聞いていたのとは身長が違いすぎるし、君津二尉からは確かに男だったと聞いている。
彼女の近くにいる男と言えば、あのパーティメンバの男だが、あの男がファントムなんてことがあるだろうか? 記録上は確か探索者になりたての初心者だったが……
「後は2.5センチの鉄球も、結構な数をオーダーしているみたいだったな」
「2.5センチ?」
「そうだ。投げるにしちゃ、小さすぎて扱いが難しいし、スリングショットの弾にしちゃ大きすぎる。一体何に使うんだろうな」
「ふーむ」
2.5センチの鉄球の使い道は謎だが、いずれにしても、このミヨシがワイズマンだとしたら――そう考えない方がどうかしているわけだが――彼女は、ファントムの正体を知っている可能性がある。
もちろん、正体を隠して、必要なものだけをワイズマンの商業ライセンスを通して都合してもらっているという可能性もあるが……
「まてよ」
「なんだ?」
もしもそうだとしたら、オークションのオーブを調達しているのは、ファントムって線もあるな。
なんでも好きなオーブを作り出せるメイキングというスキルがあるという仮説よりも、むしろその方が自然だ。
もっとも、それでは異界言語理解の取得タイミングの都合がよすぎる気がしないでもなかったが……
「…………」
物思いに沈む寺沢を見て、こいつは考え事を始めると、時々どこかへ行っちまうんだよな、と篠崎は昔のことを思い出しながら内心苦笑した。
「人事教育局長の件は2枚目だ」
それを聞いて我に返った寺沢が、すこし厚めの紙束を取り出した。
そこには、時系列に従って、接触した人物の名前とその写真が、かなりの枚数添えられていた。
「そいつが、この一週間で彼があった人物のリストだ」
「凄いな」
「そりゃ、俺たちは優秀だからな」
「まったくだ。それで?」
篠崎は、「今度はパリィかよ」と呟いて続けた。
「細かくという依頼だったから、かなり細かくやったぞ。さすがに料亭で別々に入って会われたりしたら、接触の特定は難しいが、入店と出店の時差がそれぞれ30分以内だった客はフォローしておいた。そういう人物にはUCが付けてある」
「UC?]
「uncertainってね」
「『疑』って書いとけばいいだろ」
「画数が多すぎる」
まるで書くのが面倒くさいと言わんばかりに、篠崎はぶっきらぼうに言った。
「先日聞いたお前の目的に合致しそうな経歴を持ったやつには、エクスクラメーションマークをくっつけて、経歴の概要も添えてある。誰だか分からなかったやつは、クエスチョンマークだ」
「助かるよ」
篠崎はニヤリと笑うと、内ポケットから小さめの洋形の封筒を取り出した。
「こいつには人員が必要だったからな、カネがかかったぜぇ。機密費ってのは、大金が唸ってるんだろうな?」
寺沢に差し出されたその封筒の中身は、請求書だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
ブートキャンプが、ステータス別のルーチンに入ると、キャシーのやることはそれほど多くなかった。
やり方の説明を終わらせてしまえば、後の仕事は、ほぼ見守りだからだ。
忙しくダンジョンと地上を行き来している受講者を見ながら、以前から拡張が始まっていた隣の部屋と、さらにその向こうの角に急遽作り始められた部屋を眺めていた。
向こうの角部屋は、先週のキャンプ時には静かなものだったから、木曜日以降から工事が始まったんだろう。気になったのは、運び込まれるものが、うちととてもよく似ていたからだった。
『もうひとつ部屋を拡張するなんて話は聞いてないんだけど……』
それを見ていると、二人の作業員の会話が耳に入ってきた。
「昨日のオリパラ見たか?」
「ああ、見た見た。『すみません。セットって何ですか?』は良かったよな」
若い男は、トリプルアクションでずっこけ効果音までつけて放映されたデニスのボケを思い出して笑っていた。
どうやら、昨日放映された、探索者の記録会の話題の様だった。キャシーもそれを見ていたが、世界記録が出てもさほどの驚きはなかった。
なにしろサイモンたちと一緒にダンジョンに潜って、戦う様を見ているのだ。もはやあれは人間の身体能力じゃないと十分理解していた。
「しかし、あれってガチなの?」
「さあなあ……公式記録じゃないと言っても、9秒46だろう? 0.1秒以上縮めて世界記録ってのは、いくらなんでも出来すぎだろ」
「じゃあ、ヤラセ?」
「どうかな。一応陸連の記録会だし、いくらなんでもヤラセはない……と思うんだけどなぁ」
ヤラセをやるなら、わずかに世界記録に及ばないが凄い記録、くらいの方がそれっぽい。
第一、出来すぎとは言ってもスポーツの記録だ。お宝を鑑定して価値をくっつける番組じゃあるまいし、下駄をはかせることは難しい。
放映された映像から、記録は計算できるのだ。早回しで再生されていたとしても、結局はばれる。
「うちのトップの人たちなら、8秒台でも驚かないわね」
そう独りごちたところで、念話が届いた。
(ハイ、キャシー。お疲れ様)
(むっ、ミシロか。どうしたんだこんなところで)
(最近家内制手工業みたいな仕事ばっかりだし、下まで行くのは小麦さんが休みじゃないとだし、なまっちゃいそうだから、5層あたりで肩慣らし)
(暇ならこっちを手伝ってくれてもいいんだぞ?)
(やることないからパース)
まあ、確かにやることは大してない。訓練中に教官が駄弁っているのもイメージが悪いから、話相手にもならないだろう。
(ナカジマのところに手伝いに行くとか?)
(あんな辛気臭い仕事は、週の後半だけで十分だからパース)
(辛気臭いって、世界を救う仕事だってのに……)
絵里は、あんた、それ騙されてるよと思ったが、さすがにそれを念話には乗せなかった。だって、一応雇用主ですし、と心の中で言い訳しながら。
それが念話に乗らないところが、芳村との違いなのだろう。小麦と冒険を繰り返していて熟達したに違いない。
(じゃあ、頑張ってねー)
(ああ。ミシロも気をつけてな)
(はーい)
そう返事をすると、彼女は代々木の1層へと下りて行った。
キャシーは、部屋の拡張について彼女に尋ねるのを忘れていたことに気が付いたが、後でボスに聞いておこうと気を取り直した。
目の前で「あのクソゲーム!」と吐き捨てながら、顔をしかめた受講者が、モンスターを倒しにダンジョンへと向かって行った。
それを聞いたキャシーは、もっともだという顔で頷いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
習志野では、上官に次のミッションを伝えられた伊織が、チームブリーフィングの前に鋼とすり合わせを行っていた。
「33層への出口が見つからない?」
「らしいです」
「やれやれ、オーブの次は階段探しか。32層までしかないって可能性は?」
「ボスモンスターが見当たらないそうです。だから、まだ下があると言うのが支配的な見方ですね」
「31層にいたやつは――」
「いかにもボス然としてはいましたが、32層へのカギを落としましたし、ゲートキーパーでしょう。第一、代々木はまだ健在ですから」
「なら18層の山の上のやつかもしれないぞ?」
自衛隊のダンジョン黒歴史の中でもおそらくトップにランキングされる酷い事件の原因だったが、ボスキャラが最下層にいないというのもおかしな話だ。
伊織は首を振りながら、説明を続けた。
「32層は、暫定とは言え、ほぼ全域のマップが作られて、モンスターもリストされているそうですよ」
「ずいぶんと早いな。まだ半月も経ってないだろう?」
「ポーターで、セーフエリアにインバーター発電機を持ち込んで、現地でドローンを飛ばしまくってるそうです」
「ああ、地図作成システムってやつか」
NTT DATAが提供しているAW3Dの技術を利用した空からの地図作成システムは、ダンジョンマップを作成するシステムとして早いうちから注目されていた。
だが、開けた空間タイプのフロア以外で使うのが難しかったのと、ダンジョン内の制限により、長時間や広範囲の空撮自体が難しかったこともあって、ほとんど利用されていなかった。
「それもありますけど、下手な探索者がセーフエリアの外に出たら、犠牲者の数が跳ね上がるからでしょうから」
仮にも32層は、世界ランクが一桁で構成されたDADのチームサイモンのフロントマンの手が千切れかけた階層なのだ。
ダブルでも後半なら危ないかもしれない、そんな領域を探索できる探索者は少ない。だからこそのドローン探索のようだった。
通常、ダンジョンの中で発電機を使うと音につられてモンスターが集まってくる。だから、こんな方法は難しかったのだが、セーフエリアにその心配はいらない。それで多数の空撮用ドローンが導入されたようだった。
空を飛ぶモンスターがいなかったのも幸いしていた。
もっとも、そのせいで階段が見つからないのかもしれないが。
「ダンジョンのおかげで、凄い速度で技術が進歩していってますね」
「そうだな。連中、日本のポーターも持ち込んだんだろ?」
「発電機や、その燃料の運搬に、急遽提供されたようです」
「アメリカの連中が、22層ではっちゃけてるらしいからな。後れを取るわけには行かないってところだろ」
「ですが、K2HF(川崎重工業・KYB・ホンダ・ファナックが連合したグループ)のものは、今のところ火器管制システムが乗っかってないそうですから、本当にただのポーターですよ。ファルコンインダストリーのものとは直接比較できないと思いますけど」
「バランス制御は世界最高だと豪語してたやつか」
「ASIMOで培った技術らしいですね」
実際積載量は大きいのだから、そこに重機関銃でも搭載すればファルコンのシリーズといい勝負ができそうな気もするが――
「一部じゃ日本のダンジョン攻略攻撃機器の本命は、火器じゃないって言われてるからな」
20層を超えたところで小火器が通用しにくくなるとしたら、40層や60層、はたまたその先はいったいどうなるのか。レーザーやレールガンはエネルギーの確保に問題がありすぎる。
そう考えた、一部の日本の研究者は、いきなり意味不明な方向へ舵を切った。それは、ダンジョンから得た力を補助する方向だ。
最たるものが、サイエクスパンダー。それは一言で言うなら、魔法の強化装備だ。
なんとも漫画とアニメの国らしい、斜め上の切り口で、実現可能かどうかも怪しいとされていたが、近年魔法のオーブをホイホイ売りに出すオークションサイトが出現したおかげで、期待が再燃しているらしい。
「あれは……どうなんでしょうね」
伊織自身も、何度か測定や実験に立ち会わされたことがあったが、魔素研究と同様、手探り過ぎてどこに向かっているのかも怪しかった。
あの研究が本命でいいのだろうか。確かに夢はあるが……
「Ghost RoboticsのMinitaurみたいなデザインの、安くできそうな小型ロボットにC4でも積んでばらまいた方が効果的なんじゃないか?」
「それの母艦にポーターを?」
「まあそういうことだな。使い捨てだとしたら、ポーターに積める程度じゃ、ボス戦くらいにしか役に立たないだろうが」
「それならありもののジャベリンで良くありませんか?」
FGMー148ジャベリンは、携行式の多目的ミサイルだ。戦車でもぶっ壊せる。
「お前な。仮にも自衛隊なんだから、LMATか、せめてハチヨンって言っとけよ」
LMATは、01式軽対戦車誘導弾の愛称だ。日本はジャベリンではなくこれが導入されている。
ただしこいつは熱感知が行えない対象には役に立たない。そのため、カールグスタフM3を、ハチヨンBとして再び導入している。
「弾薬のポーターとしての運用はありかもしれんが、どっちにしても高価な弾をばらまけるほど予算がないからなぁ……」
ジャベリンの弾は1発4万ドルだ。いかに30層台とは言え、雑魚相手にホイホイ撃てる価格ではない。
「世知辛いですね」
「いずれにしても、32層相手にどんな装備で挑めばいいのか、キメイエス戦を踏まえて検討してみる必要があるな」
「了解です」
結局伊織の査問は未だに行われてはいない。当然と言えば当然なのだが、鋼は今でもそれが気になっていた。




