§155 パートタイムピアニスト 2/10 (sun)
「はー」
「なに、景気の悪そうなため息をついてるのよ。いい? ため息を一つつくと、幸せがひとつ逃げていくんだからね」
「だって、私ピアノに触ったこともありませんよ?」
斎藤涼子は、マネージャーに連れられて、音大のピアノ課へやってきていた。
新しいドラマの役柄が、ピアニストの卵らしく、楽器の最低限の扱いや、演奏の雰囲気を学ぶためだ。
だが彼女とピアノの関係は、せいぜい学校の音楽室や講堂にあったピアノを遠目に見たことがあるくらいだった。
「触ったこともないから、学ぶんでしょう」
「そりゃそうですけど……どうせ演奏シーンは吹き替えですよね?」
「そうだけど、繋ぎまでの姿勢とか手の形とかあるでしょ」
「それはまあわかりますけど」
ドラマ中で弾く作品をピアニストが演奏する姿を知らなければ、その演技をすることは出来ない。いかに演奏シーンが吹き替えだとしても、それは手元のアップだけなのだ。
「出てくる音は目茶苦茶でも、映像だけ見ていれば大ピアニストを目指しなさい」
「へーい」
今度は、ピアニストですか……
アーチェリーはやらされるわ、ピアノは弾かされるわ、女優って大変なんだねぇ。と、彼女は、まるで他人事のようにうそぶきながら空を見上げた。雨は降らないだろうが、お日様は見えなかった。
「涼子は、アーチェリーの大会スケジュールもあるから、こういう時間のかかりそうなレクチャーは、隙を見つけて詰め込まないと」
「あんまり時間が空いたら忘れちゃいませんか?」
「そこはプロなんだから何とかしなさい」
「ええー」
マネージャーの無茶ぶりに、心の中で頭を抱えながら、彼女は建物の入り口をくぐった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「斎藤さんはピアニストになるわけじゃないから、一通りの基礎的な楽器の扱いと、あとはプレイの様子を見ることで、雰囲気やポーズを学ぶのが目的でしたよね」
「はい、そうです」
音大の准教授であり、演奏家でもある中路郁子は、音楽を教えるわけではないこの仕事にあまり乗り気ではなかった。しかし、お世話になっていたソニーミュージックからの依頼では、断ることも難しく、やむを得ず引き受けていたのだ。
レッスンのない日曜日だし、さっさと終わらせるつもりで、20分ほどかけて、ピアノの取り扱いに関する一般的な注意事項と、ピアノへの座り方や、腕の形、いくつかの奏法について説明した。
「なるほど。じゃあ、私も爪がちょっと長いかな」
涼子は、そう言ってきれいに手入れされている指先を見た。
グラビアの時と違って、さすがに伸ばしすぎということはなかったが、指の腹側から見て、爪の先が見えないということはなかったのだ。
「でも今の撮影が終わるまでは切るわけにはいかないから、しばらくはあまり短くしちゃだめよ」
映画やドラマの撮影には、体の状態を変化させないというルールがある。
だからマネージャーのセリフは当たり前のことだったが、それを聞いた中路は、爪を伸ばしたピアニストがどこにいるんだよと、内心呆れながら、もう少し詳しく説明した。
「多少なら爪が伸びていてもピアノは弾けますけど、爪が鍵盤にあたる音が意外とうるさいのと、鍵盤が滑ることのふたつが問題になります」
そう言いながら、黒鍵に爪を立てて当てて滑らせると、そのまま指を落として白鍵を叩いて音を出した。
そんな風に、ミスタッチが起こるのだそうだ。
「晩年のホロヴィッツのように、ほとんど指を曲げない奏法もあることはありますけど、あれはちょっとまねできないですから」
「わかりました。爪が伸びているとピアニストっぽくないですから、たぶん役作りの時に切ることになると思います」
それを聞いた中路はうなずいて、ピアノの前に腰を掛けなおした。
「ではまず私が弾きますからそれを見ていてください」
「あ、先生。あとで演技の勉強をするために録画してもよろしいですか?」
「結構ですよ」
マネージャーは、荷物の中から3台のビデオカメラを取り出すと、鍵盤が見えるような角度で横からと正面、後はペダル部分が見えるような角度でそれをセットした。
「ではお願いします」
「はい」
そうして中路が弾き始めたのは、ショパンのエチュード、作品10-4だ。
今回も必ず使われるであろう1曲で、総合的な技術が要求され、派手でスピード感もあるが、偏った運指がないため、ピアニストにとってとびぬけて難曲というわけでもない。弾けるようになるまでは大変だが。
基本的に運指と姿勢を見せるのが目的なので、それほどスピードも上げず2分ほどの演奏にしておいた。
涼子は鍵盤の上を動く指を最初からずっと真剣に見つめていた。
「どうでした?」
ピアノに触ったこともない素人が、1回演奏を見たからといって、何ができるはずもないが契約は契約だ。一応指導めいたこともしなければと、中路がそう訊いた。
運指に集中していた涼子は、質問されて我に返ると、ついアホっぽいことを言ってしまった。
「えーっと。指がいっぱい動いてました」
「そうですね」
先生は内心笑いをかみ殺しながら、涼子の話を聞いていたが、次の一言で顔色が変わる。
「あれなら、なんとか私にもできそうです」
「え?」
涼子は隣のピアノに座ると、今見た映像を思い出すように目を閉じた。しばらくそのままでいた後目を開けると、同じ曲を同じように再現し始めた。
最初のアタックの後、右手が細かいアルペジオを紡ぎだすのを見て、中路は目を見開いてマネージャーの方を振り返り、小さな声で訊いた。
「この子、ピアノを習っていたの?」
あまりのことに、思わず丁寧語も忘れて、彼女は訊いた。
「いえ、楽器に触ったのも初めてのはずですけど」
「そんなバカな……」
涼子の指は、さっき弾いた自分の演奏を完璧に再現していた。
10-4を初めて弾いて、さらっと流せる? そんなことは絶対にありえない。
なにしろミスタッチがあった場所まで再現されているのだ。初めは何年もピアノをやっている女優が、間違えたでしょと当てこすりで演奏しているのではないかと邪推したくらいだ。
「あれ? おかしいな。何か違いますね」
一通り再現した後、涼子が頭をひねっている。
中路には、それがペダルのせいだということが分かっていた。彼女は、演奏中、ペダルを全く使用していなかったのだ。
バッハならともかく、ショパンをペダルなしで弾くことなどできるはずがない。
もしかして、本当に初心者なのかも――
「あなた、私がした演奏の指の形や抑えた場所を、完全に記憶して、その通り再現できるの?」
「え? えーっと。なんとなく?」
その返事に内心苦笑しながら、中路は違う理由を説明した。
「何か違うのはペダルのせいよ」
「ペダル?」
涼子は足元を覗き込んだ。そこには三つのペダルが並んでいる。
「真ん中はどうせ使わないから、右と左だけ覚えておけばいいわ」
そうして中路は彼女に、右のダンパーペダルと、左のシフトペダルについて鍵盤を押しながら説明した。
誤解を恐れず大雑把にいえば、シフトペダルは踏んでいる間、音を小さくするペダルで、ダンパーペダルは踏んでいる間、鍵盤を離しても音が途切れないペダルだ。
「さっきの演奏のペダル部分の録画を見ますか?」
「見ます見ます。ちょっと失礼します」
マネージャーの問いかけに、涼子は、中路に向かってぺこりと頭を下げると、ノートPCに駆け寄って再生画像を真剣に見始めた。
オンオフじゃなくて、結構微妙な使い方なんだなぁ、などとぶつぶつ言っている。
「あれで足元まで再現されたら、ピアニストはやってられないわね」
そう話しかけられたマネージャーは、答えに窮して、あいまいな笑みを浮かべただけだった。
「パントマイムなんかは見たことがあるけれど、女優さんってすごいことができるのね」
「いや、こんなことができる女優はいません。たぶん彼女だけです」
「天才――にしては、成人しているように見えるけれど……」
大抵天才と呼ばれる才能は、小さい頃から目立っているものだ。
ピアノ界でいうなら、9歳で全日本学生音楽コンクールの小学生の部を制した小林愛実さんなんかがそうだろう。彼女以降4年生が毎コンのピアノ部門を制したことは一度もない。
「21ですね。あの子はつい最近まで、普通のグラビアモデルだったんですが――」
マネージャーは彼女にまつわる、最近の事情を説明した。
「ダンジョンに師匠? もう、何が何だか分からない世界ね」
そういいながらも、元の才能に関係なく、わずか数か月であれができるようになるのなら、ダンジョン探索どころか悪魔に魂を売ってもいいと考える学生はおそらくいるだろう。
もしかしたらホロヴィッツの鍵盤とペダルの映像を見せさえすれば、あっさりと同じ演奏をやってのけるかもしれないのだ。
音楽への深い理解など、かけらも必要もない。そんなピアニストが量産される世界を考えると、少しぞっとした。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「それじゃあ、指定された曲の鍵盤と足元映像は、ソニーさんと相談して、用意しておきます」
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
涼子は、マネージャーと一緒に頭を下げた。
結局あの後、彼女は完璧に10-4を弾きこなした。中路とほぼ同じように。もちろんミスタッチ部分は修正しておいた。
しかも、晩年のホロヴィッツの映像を見せると、指を伸ばした奏法もマスターして、鍵盤に爪が当たる音が激減していた。
中路は、指か手首を傷めるんじゃないかと心配したが、涼子は特になんの負担も感じていないようだった。
その後は、速度を上げるも下げるも自由自在だった。1分40秒を切るペースまで上げても、テンポ揺れがまるで起こらない。メトロノームに合わせて再生速度を変えるだけの機械のようにすら思えた。
これで感情表現まで変化させ始めたら、初心者からたった数時間でピアニストの出来上がりだ。促成栽培なんてレベルじゃない。考えただけで恐ろしい。
「それで、斎藤さん。本格的にピアノをやってみない?」
「勘弁してください。私、楽譜一つ読めないんですよ?」
「そう。残念ね」
確かに楽譜の読めないミュージッシャンはいる。
ジミー・ヘンドリックスも、エリック・クラプトンもリッチー・ブラックモアも譜面は読めなかった。あのビートルズですら、怪しかったらしい。
ピアニストで言うなら、エロール・ガーナーもピアノは弾けても譜面は読めなかった。
しかしジャズやロックの世界と違い、身体的にやむを得ない場合を除けば、クラシックのピアニストに楽譜が読めないものはいない。
作曲家の意図は、楽譜を通して読み取るものだからだ。
もしも彼女がピアニストになったとしたら、他人の完璧なコピーを元に自分の世界をアレンジする、いびつで印象的なプレイヤーになるだろう。
なにしろ、スタート地点が世界の一流プレイヤーで、しかも誰のスタイルでもコピーできるのだ。
もしかしたら、コピーだと揶揄されるかもしれないが、そのコピーが完璧で、彼女の容姿が加われば、~の再来だの、~2世だの言われて逆に持ち上げられるかもしれなかった。
そして、一度記憶してしまえばミスタッチはゼロ。きっと酷いコンクール荒らしになるだろう。21なら、まだあらゆる国際コンペティションに出られるはずだ。
なにしろ映像さえあれば、準備期間は1日で済むのだ。しかもグラビアモデルや、女優ができるほどの容姿。マスコミが放っておくはずがない。
「やっぱり、この世界から遠ざけておく方が無難かしらね」
中路は、駐車場へと戻っていく彼女たちを見送りながら、そう呟いた。
スポーツ界の話は、風のうわさに聞いていた。
芸術の世界には関係ないと思っていたが、涼子のような人間を見ると、プロの演奏家の世界も、いずれは彼女のような人間に席巻されるのかもしれないと危惧を抱いた。
今から積極的に、ダンジョンを利用するよう指導するべきなのか、それともそれをひた隠し、いずれ来るかもしれない未来を、出来るだけ先へと送り続けるべきなのか。
中路には決められなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「もう、師匠ったら、なんで電話に出ないわけ?!」
スマフォの向こうから聞こえてくる「おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、または電源が入っていないためかかりません」という機械的な声を聴きながら、涼子は悪態をついた。
さすがの彼女も、自分がやったことの異常さにビビっていたのだ。
「原因は絶対芳村さん関係だよね……てか、それ以外考えられないし」
ダンジョンから戻ってきたら覚えてなさいよ! と心に誓って、教えてもらっていたメッセージボックスに伝言を残した。




