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Dジェネシス ダンジョンができて3年(web版)  作者: 之 貫紀
第7章 変わる世界

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143/218

§142 濫觴(中編) 2/4 (mon)

「こんにちは」


代々木のロビーで、今からダンジョンに潜ろうとしていた渋チーの一行に、後ろから場違いなスーツを着た中年の男が声をかけた。

若いころは、それなりに鍛えていたことを感じさせるスマートな男だった。


「おいおい、俺たちのファンにしちゃ、年が行きすぎてるな。おっさんには興味ねーよ」


突然知らない男に声をかけられた喜屋武は、失礼にもほどがある態度でそう言った。

それを見て東が慌てて彼を遮った。若い男ならともかく、年を取った男には、社会的なステータスがある場合が少なくない。それは時折とても厄介な存在になることを、彼はよく知っていた。


「おい、喜屋武。やめろよ」


そうして、男に振り替えると、「失礼しました。何か御用ですか?」と無難に聞き返した。


「これは失礼。私はこういうものですが」


男は東に名刺を渡した。


菅谷(すがたに)……恭也(きょうや)さん?」


肩書は、JADA専門委員となっている。


「ああ、昨日の記録会の。何かありましたか? これからダンジョンアタックであまり時間は取れないのですが」

「それなら、率直に言おう。君たちをスカウトに来たんだ」

「スカウト?」


「おいおい、おっさん。スカウトって、いったい何の? 映画にでも出してくれるってか?」

「映画ではないが、極上のストーリーに酔える舞台さ」

「は?」


おっさん頭大丈夫かといった様子で、喜屋武が顔をしかめた。

それあで黙って話を聞いていた林田が、一歩前に出て口を開いた。


「JADAでスカウトってことは、スポーツ選手としてってことか?」

「さすがリーダー。話が早くて助かるよ」

「おお!」


ヒーロー好きな喜屋武が声を上げたが、林田はそれを片手で制して、冷静に言った。


「だがな、あー、菅谷さんだっけ? 俺たちは探索者だ」

「それで?」

「稼げない仕事を引き受けるつもりはないってことさ」

「世界記録を出せば――」

「待った。俺たちを説得できる材料があるんだったら、そこのカフェにでも行こうぜ。ここは目立ちすぎる」

「分かった」


菅谷は頷くと、YDカフェに向かって歩き出した。

渋チーは、説得できる材料があるのかよと、お互いに顔を見合わせたが、林田を先頭に彼の後へと付き従った。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇


YDカフェの目立たない席に陣取った6人が注文を済ませると、菅谷がさっそく話を切り出した。


「確かにオリンピックのメダルにかかわるJOC報奨金はそれほどでもなかったが、リオから少し増額された」

「少し?」

「金が500万、銀が200万、銅が100万だ」

「はぁ? ヒーローになるのはいいが、リターンがそれじゃ、さすがにやる意味ねーだろ」


一番乗り気だった喜屋武がそう言い放った。

仮にも渋チーは、民間パーティとしては代々木ダンジョンのトップの一角だ。稼ぎもそれなりにある。

大会に出るだけだというのならともかく、練習や選考会まで拘束されるとなると、割に合わない可能性が高い。


「まあ、まてよ。JOCの報奨金はそれだけだが、実際は各競技団体や、スポンサー企業からの報奨金が支払われるし、それがデカいんだ」

「所属企業なんて、俺たちには関係ないだろ」

「それでも陸連なら、金が2000万、銀が1000万、銅が800万だぞ。マラソンで日本記録を更新すれば1億だ」

「へえ。金10個で2億なら、まあまあか」


こいつら10個も金をとるつもりなのかよと、菅谷は内心苦笑した。オリンピックの陸上競技、男子は混合リレーを入れても25種目しかないし、長距離を掛け持ちするなんて普通は不可能だからだ。

だが、今なら可能かもしれない。ほとんどのアスリートがダンジョンになじんでいない今なら。


「競技って10個も出られるのか?」

「選考会を通過して、競技時間さえかぶってなければ可能だ」

「へぇ」


喜屋武が少し前向きになって身を乗り出したところで、背をゆったりと椅子に預けたまま、目を閉じてカフェオレを口にしていたデニスが突っ込みを入れた。


「喜屋武、だまされんなよー。この世界には税金ってやつがあるんだからな」

「え? オリンピックの報奨金に課税されるのか? それってなんだか詐欺みてぇだな」


喜屋武の歯に衣着せぬ言い草に、菅谷は苦笑しながら訂正した。


「詐欺はひどいな。今は一応JOCの報奨金は非課税ってことになってるよ」

「微妙な言い回しですよね」


菅谷は、東の冷静な返しに頭を掻いた。


「競技団体の分は非課税枠が決まってて、それ以上の部分には課税される。噂じゃ枠を広げるみたいだが、今のところは、金が300万円、銀が200万円、銅が100万円を超える額には雑所得として課税されるよ」

「なんだよそれ、ほとんど半分くらい持ってかれるってことか?」


ダンジョン税に慣れた彼らにとっては、ぼったくられているような気分になる割合だ。

住民税まで合わせれば、最高税率は5割を超えかねない。馬鹿げてると彼らが感じても仕方がないだろう。


「なんか微妙だなー」

「しかし、君たちなら出られる競技はすべて優勝できる可能性があるだろう? そんな選手は前代未聞だ。スポンサーだって引く手数多だろう」

「ゴルフやF1を見てみろよ。今や一人のスーパースターが、何十億円も稼ぐ時代だぜ? そんな特別なヒーローになれるなら、もっとすごいことになるかもな」

「ふーん。スーパースターか。芸能人と付き合っちゃったりできるかな?」


こいつは何を言ってるんだ、と菅谷は内心思ったが、そこはいい感じの笑みを浮かべて頷いておいた。


「もちろんさ。より取り見取りだろうぜ」


スポーツ選手の奥さんの芸能人率は低くないからな。

ともあれ、俺の実績のためにやる気になってくれよ。


菅谷は内心ニヤリと笑みを浮かべながら、選考会に向けての説明に移って行った。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇


榎木義武は、開発部の部長に連れられて会議室へと早足で歩きながら、面会の相手について考えを巡らしていた。

真超(まごえ)ダンジョン株式会社の三浦典義と言えば、()の会社の開発部長のはずだ。


化学業界最大手は三菱ケミカルだが、利益率と現預金ではそれを大きく引き離しているのが真超化学だ。

その真超化学がダンジョン関連素材セクターを独立させた子会社が、真超ダンジョン株式会社で、日本のダンジョン素材研究ではトップメーカーと言える。

知名度では、『パウダー』を開発した日本触媒が1歩抜きんでているが、幅広い研究と素材の応用では真超ダンジョンに軍配が上がるだろう。


それが突然、ダンジョン関連では特に大きな業績も上げていないうちの会社との提携話を持ち込んでくるなんて、一体何が目的なのだろう?

ここへ来るまでに、守秘義務契約書にサインさせられたからには、なにかとんでもない話が飛び出してくることは間違いない。


訝しげに頭を捻りながら、榎木たちは会議室のドアを開けた。


「早速ですが、実は、弊社の素材研究所にとある素材が持ち込まれまして、その研究を北谷(ほっこく)マテリアルさんと共同で行いたいと考えているのです」


三浦は名刺交換を行うと、挨拶もそこそこに、早速共同開発の内容について話し始めた。

部長は、この降ってわいたような幸運に、相好を崩しながら、提携は決定事項のように相手と話をしている。

だが、榎木には、何故業界最先端の企業が、大手の一角とはいえ、このジャンルでは後発のうちにそんな話を持ちかけてくるのか、まったくわからなかった。


「詳しいことは、開発の現場にいるこちらの榎木にお願いします」


物思いに沈んでいた榎木は、突然部長に振られて我に返った。


「それで、最初の共同プロジェクトですが、とある物質の同定と合成を行いたいと思っています」

「とある物質、ですか?」

「はい。それが、これです」


そう言って、三浦は、透明な小さな瓶を取り出して机の上に置いた。


「液体?」

「はい。最終的には合成できればそれに越したことはないのですが、まずは同定ですね。どうやったらダンジョンから、これが得られるのかを調べたいのです」


榎木は液体で満たされている、透明な小さな瓶を手に取るとそれを透かしてみた。


「ただの水に見えますが」


そういうと、三浦は笑いながら、自分のペンを榎木が透かしている瓶の反対側に立てた。


「え?」


榎木はそのペンの位置のずれかたに驚いた。あまりに異常な位置だったのだ。

三浦は肯定するように頷くと、言った。


「屈折率が7.9あります」

「7.9?! しかも無色透明の液体ですか?!」


榎木は思わずそう声を上げた。


屈折率の高い透明な液体。その用途ははっきりとしていた。光学顕微鏡と半導体だ。

特に半導体においては、非常に重要になる可能性があった。


半導体は、レチクルと呼ばれる半導体の原版をレンズで縮小してウェハの上に再現する、言ってみれば写真のようなものだ。

微細化の限界は、この仕組み上、レイリーの式――分解能δ(デルタ)を求める式――に支配されている。


δ=K×λ/(n×sinθ)


Kはプロセスに依存した定数、λ(ラムダ)は使用する光の波長、nは対物レンズと対象の間にある物質の屈折率で、θ(シータ)は光がレンズに入る最大の角度だ。

n×sinθ部分は、一般に開口数と呼ばれている。


従来の半導体の微細化では、λ部分を小さくする、つまり光を短波長化することに注力されていた。以前は露光波長248nmのKrFエキシマレーザーだったものが2000年頃にはArFエキシマレーザーが開発され193nmになる。

しかし、その先は開発が難しかった。CO2レーザーを利用する次世代のEUVの開発が遅々として進んでいないことは、やや畑違いの榎木でもよく知っていた。


そのため、以前は1.0を越えられないと考えられていた開口数を大きくすることに力が注がれ、レンズとウェハの間を純水で埋める技術が開発された。nを増やすわけだ。それがArF液浸露光装置だ。

そうして、開口数は順調に増えていき、現在の最高の機器では1.35に達している。


また定数のKを小さくする努力も行われた。通常は0.61だが、近年では変形照明、位相シフト、超解像技術等のあらゆる技術を導入することで、0.3以下にまで小さくなっている。理論限界値は0.25だ。

そうしてArF液浸露光装置の解像度は38nmに到達したのだ。


「もしもArF液浸露光装置の純水をその物質に置き換えることが出来たとしたら――」


三浦は、その通りだと言わんばかりに頷くと、エア轆轤(ろくろ)を回して言った。


「もしもこの物質をArF液浸露光装置で利用できれば、7nmまでなら現在広く普及している機械で、マルチパターニングなしで可能になります」


現在EUV開発を牽引しているのは、オランダのASMLだ。

光源の高出力化はコマツの子会社であるギガフォトンが解決したが、高出力になったせいで、フォトマスクを保護するための膜――ペリクルに、光透過率が高く熱耐性の高いものが必要になったのだ。

ASMLは今必死でペリクルの素材を探しているが、2020年までに完全なものが登場するのは無理だろう。


後はキヤノンとニコンだが、両者ともEUV開発からは手を引いていて、前者は東芝と共にナノインプリントを、後者はArF液浸露光装置に注力している。

つまりこの液体は――


「半導体の微細化要求に技術が追いついていない世界の救世主になるかもしれないってことですか」


実用化されれば、まさにF2レーザー開発時の液浸ショック再びと言ったところだ。なにしろ純水をこの物質で置き換えるだけで7nmが実現するのだ。マルチパターニングのコストも、機器の導入負担もなくなり、コストは大きく下がるだろう。例えこの液体の価格が上乗せされても、だ。

もちろん将来はEUVに置き換わっていくだろうが、少なくとも7nmまでは現在の機器がそのまま使える。その恩恵は計り知れなかった。


「先日弊社のダンジョン素材買い取りに持ち込まれたアイテムを入れた袋に溜まっていた液体なのですが、どこで付着したのか、対象がなんなのかがまったく分からないありさまでして」


ダンジョン産アイテムは触れればその名称がわかる。

だが、そこから漏れたり欠けたりした場合、その液体やカケラに対してその現象は起きなかった。


「はあ」

「御社のダンジョン素材の基礎研究論文を拝見しました。あのような地道な研究をされている会社なら、そういった点をフォローして貰えるのではないかと期待しています。どうにもうちには応用に走る研究員ばかりが在籍していまして」


そう言って三浦が苦笑いしたが、榎木は内心冷や汗をかいていた。そのレポートを作成したのは芳村のチームだったからだ。

芳村のチームは、ダンジョン素材研究が始まって以来、ずっとアイテムの物性を調査していた。対象の性質が分からないと応用のアイデアも産まれないからだが、それはアイテム購入代金や人件費が嵩むだけで、直接的にはなんの利益も上げない研究だった。課としての成績を考えたとき、大きなお荷物だったのだ。


それを中断させて、利益の上がりそうな応用研究を押しつけたのは榎木だった。

榎木はその一連の課内改革で成績を上げたのだ。


「そして、あの論文にあった研究者の一覧に、三好梓さんという方がいらっしゃった。これはもしや、というわけです」


三浦は、それが提携の目的だったとばかりに、少しテレながらそう言った。


それを聞いた部長は、顔色を変えて榎木を振り返った。

その目は、三好の退社について話すなと言っていた。


真超が芳村チームと三好梓に期待して提携を提案してきたのだとしたら、仮調印の段階で彼女たちがすでにいないと知られるのは非常に拙いのだ。

それは、せめてもろもろの契約が正式に終わってからでなければならない。それにワイズマンと呼ばれる世界一有名な探索者が、その三好であるかどうかの確信はないはずだ。単なる同姓同名であってもおかしくないのだから。


その様子を見て三浦は勘違いをした。


「ああ、失礼しました。御社の基礎研究チームに期待しているのは本当ですから」


彼はそう言って、頭を下げた。


その基礎研究チームの中心になった人員はすでにいないのだ。

それに榎木は一度三好に協力を要請して断られていた。きりきりと胃が軋むような気分になりながら、彼は小さな瓶に入った液体を見つめていた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇


昼休みが間近に迫った農研機構の果樹茶業研究部門では、眼鏡を掛けた細面の酷い顔色をした男――佐山繁――が、以前同定した柑橘の追試結果を、主任の水木明憲に対して報告していた。

大至急という枕詞が付いていたおかげで、追試をお願いした研究者は、週末にそれを行ってくれていたのだ。


「北島先生のところは、二人で検査したところ、どちらもせとかだったそうです」

「そうか」

「北島先生は、この検査に何の意味があるのかと逆に興味津々で質問してこられていますが、どうします?」

「それは後だ。それで、神沼先生の方は?」

「それが、最初に検査を行った2名は、どちらも清見だったそうです」

「じゃあ、ばらばらの結果が出たのはうちだけか?」


この結果では、誰が聞いても、検査機器が汚染されていたという以外の結論にならないだろう。

いや、まてよ……


「……最初に?」

「それが、その後すぐ、研究室に来ていた学生の指導で、同定作業をやらせたそうなんですが、そうしたら……せとかという結果がでたそうです」


彼の報告によると、驚いた最初の研究者が、もう一度実験を行うと、やはり清見になったそうだ。

いったいどこからせとかを持ち込んだのかといぶかしんだ研究者は、自分の監督下で、もう一度学生に実験を行わせた。すると――


「せとかだという結果になったんだな」


水木は確信をもってそう言った。

佐山は、ご明察とばかりに肩をすくめて報告を続けた。


「混乱した研究者は、学生のいたずらを疑いましたが、当の学生は、なぜ問い詰められているのかまるで分らない様子だったそうです」


研究者は、もう一度、機器を完璧にクリーニングすると、何も知らない同僚を連れてきて同じ検査を行わせた。

すると結果は――


「……天草になったそうです」


佐山は報告書を、静かに机の上に置いた。


「どう思う?」

「ハードウェアの故障ですね。ああ、困ったなぁ……じゃなきゃ」


棒読みで困っていた佐山は、渋柿をかじったような顔をすると、「神のいたずらってやつですかね」と吐き捨てるように言った。


確かにこんなに奇妙な作物が登場したら、我々は検査機器を疑うべきか、検査の手順を疑うべきか、そうでなければ、自分自身の正気を疑うべきなのかわからずに混乱するだけだろう。

しかしルールは必ずある。それが自然科学というものだ。


「佐山君」

「はい?」

「ちょっと代々木へ行ってくれないか?」

「え?」

「なに、興津に比べれば近いものだろう? 通うことだって不可能な距離じゃない」


静岡県の興津には、農研機構が2006年に再編成される前から、由緒正しい、カンキツ研究興津拠点があるのだ。


「いえ、興津だっていいところですよ。変なお店も多いですし。そうそう。先輩の奥さんの退院の手伝いに産婦人科の病院へ行ったときなんか、昼にちょっと外へ出たら、某子供向けTV番組の名前そのまんまのお店が、すぐその先にあったりしてですね」

「佐山君」

「なんとなく入って、カツカレーを頼んだら、店名ロゴの隣に夢の国のネズミが描いてある皿が出てきたりして、いや、ほんとに混とんとしてますよね。いいのかよこれって驚いたものですよ。ガチャピンやムックならともかく――」

「佐山君!」


怒涛の興津押しで話題を無理やり変えて、昼休みになったらダッシュで逃げようとした佐山の計画は、あっさりとついえた。


「はぁ……分かりました。それってやっぱり……」

「そうだ、JDAに問い合わせた。その柑橘は、代々木ダンジョンの21層に生えてるそうだ」

「ダンジョンの中に柑橘があるなんて話、聞いたことがありませんよ」

「向こうでも最近発見されたものらしい」

「それで、私は何を?」

「今は2月の中旬だ。接ぎ木用の枝を採取するにはちょうどいい季節だろう?」


接ぎ木用の穂木の採取は、大体1か月弱~2か月前までに採取する。柑橘類は4月ごろが接ぎ木の適期だから、ちょうど今頃からが採取時期なのだ。


「ダンジョン内の木に休眠期間とかあるんですか?」

「わからん。わからんからやってみるしかないだろう」


いや、それ、死亡フラグじゃないですか? と、佐山は思ったが、口に出したら現実になりそうだったので、ぐっとその言葉を飲み込んだ。


「それに、ダンジョン内の植物を外で接木なんかして大丈夫なんですか?」

「違法じゃないだろ? 一応JDAにも話は通しておくし、拡散しないよう、密閉した場所を用意するさ」


何しろうちは研究機関だからな、と水木がにやりと笑っていった。

そんな場所から持ち出した枝に、もしも花が咲いて、花粉が何か――たとえば蜂だ――によって世界に拡散したりしたら大問題になる可能性がある。佐山が心配したのはそこだった。


「しかし、どうやって21層まで行くんです?」

「そこは、最初にそれを持って帰ったチームを紹介してもらった。まったくの素人だった宝石鑑定家を21層より下まで連れて行った実績があるそうだから、大丈夫のはずだ」

「はずだって……」


佐山は、大昔、原種を探しにヒマラヤやアマゾンを飛び回った植物学者たちに思いをはせた。まさかこの時代にそんなことが、しかも自分の身に降りかかってくることなど予想もしていなかったのだ。


「実にうらやましいね。できるなら私が行きたいくらいだよ」


いつでも変わって差し上げますよと、心の中で毒づいた佐山は、「はぁ」とあいまいな返事をしただけだった。


「せめて、傷病手当金はお願いしますよ」

「怪我を前提にするなよ。だが、もしもそうなったときは、ちゃんと書類は用意するから心配するな。それにこんな機会はめったにないぞ。ついでにダンジョン内の植物についても採取してきてくれ」

「できるだけご期待に沿えるよう頑張ります」


そりゃ、リアルで冒険家になるチャンスはめったにないだろうが、死体になるチャンスも同時にやってくるんだと思うと素直に喜ぶ気にはなれなかった。

それでもどこかに、ワクワクと弾むような気持ちがあるような気がしたのは、男の子の(さが)というものだろうか。


「ところで、君、WDAカードは持ってるのか?」

「持ってるわけありませんよ」

「それなしじゃ、ダンジョンへの進入は認められないそうだ。時間の都合はつけるから、直近の講習会を調べて、取得しておくように」

「わかりました」


どうやら、それで話は終わりのようだった。

水木は、よろしく頼むよと、佐山の肩をたたきながら、「出発は向こうの予定を聞いて決めるから、準備だけはしておいてくれ」と彼に伝えて去って行った。

去り際に、「そうだ、次世代研の連中が、話を聞きたいそうだから、午後はそっちに回ってくれ」と聞こえてきたのは気のせいだろう。


一人残された佐山は、窓から外の寒空をちらりと見あげると、「代々木ね、どうするかな」と呟いた。


農研機構は、駅から遠い。

つくばからも、万博記念公園からも、みどりのからも、荒川沖からも、ひたち野うしくからも、すこし幅を取るなら、研究学園や牛久からも、だいたい同じくらいの距離にある。

最寄り駅が5~7駅あるといえば、まるで都心のど真ん中のようだが、この辺りは、空の広さをごまかすために街路樹を植えたのではないだろうかと邪推したくなるような道が延々と続いているだけだ。

だからほとんど車で出勤しているわけだが、まさか通勤時間帯の都心部で市ヶ谷まで車を運転するのは、さすがに躊躇(ためら)われた。


「つくばエクスプレスを使えば、『みどりの』からなら1時間ちょっとってところか」


市ヶ谷なら秋葉原から総武線で1本だ。秋葉原の乗り換えでダッシュをすれば、1時間を切るかもしれなかった。


「さすがに交通費くらいは出るよな?」


そう呟いたとき、昼休みの時間が訪れた。


「さて、飯はどうするかなぁ」


果樹茶業研究部門のある藤本は、旧果樹研究所の跡地だが、農研機構の本部からは飛び地で少し離れていて、ほかには野菜花き研究部門の一部がある以外、なにもない場所だった。

住民基本台帳によると、この地区に住んでいる人の数は、まさかの0だ。仮にもつくば市の一部なのに、だ。


つまり近場に飯屋など、ほとんどあるはずがなかった。道路を挟んだ向かい側に鬼が作ってるラーメンがあるくらいだ。

その隣にあるラブホでも、ご飯が食べられるらしいが、下手な部屋を選ぶと部屋の壁にインパクトがありすぎて落ち着かない(*1)と、同僚のやつが言っていた。リア充は死ね。


「午後から次世代研なら、マルベルでいいか」


マルベル食堂は、農林水産技術会議筑波産官学連携センターの食堂だ。

社食のようなものなのだが、昼は一般にも開放されていて、結構安く、まさに気分は学食と言ったところだ。

農研機構の管理センターと同じ敷地にあるその施設は、次世代作物研究センターの隣でもあった。


佐山は方針を決定すると、駐車場の自分の車に向かって歩き始めた。

ダンジョン初体験で21層へ向かわされるとは、命短し恋せよ乙男。向かいのホテルのご飯を一緒に食べてくれるパートナーを早く見つけないとなぁ、などと考えながら。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇


茅場町から少し西、平成通りから見上げるそのビルは、ドラクエに登場するちょっとだけ強いゴーレム――ストーンマンを彷彿とさせるデザインだった。

そこは日本の証券取引の中心地、にもかかわらず今では証券マンよりも見学者で溢れている奇妙な場所、東京証券取引所だ。


そのビルから、二人の男がランチを取るために出てきて傘を開いた。


「どうする?」

「そうだな。たまには、めいたいけんに行こうぜ」


背の高い痩せた男がそういうと、小太りの男が笑いながら答えた。


「なんだよ、平日の昼間っから観光か?」

「まあな。たまーに、あそこのハヤシライスが食べたくなるんだよ」

「ブルジョアかよ」

「なんのなんの。2階に上がらないうちは、まだまだよ」


痩せた男も笑ってそう答えた。

めいたいけんの2階は、1階とはメニューが違うのだ。大体1階の倍くらいのお値段の料理が並んでいる。

それは、その辺のイタリアンやフレンチで、立派なランチコースがいただけるお値段だ。


「それにしてもあのハヤシ、なんでカレーの2倍以上するんだろう?」


江戸橋ジャンクションのガードの下で、日ノ屋カレーの入り口を見ながら、思い出したように小太りの男がそう呟いた。


「そりゃ、使われてるドミグラスがスペシャルなんだろ」


それを耳にした背の高い男は、カレー屋の入り口をちらりと見ながら、そう答えた。そして、「キッチンNがなくなったのは痛かったな」と漏らした。

日ノ屋カレーのある場所には、つい1年少し前まで、キッチンNという定食屋があったのだ。


「めいたいけんの半額で食べられる店だったしな」

「いや、定食屋としては普通の値段だから」


そう苦笑した後は、しばらくの間無言で昭和通りへと向かって行った。

そうしてその通りにある大きな陸橋を上がったところで、小太りの男が、息を切らせながら切り出した。


「そういやさ、御殿(ごてん)通工(つうこう)、おかしくないか?」

「御殿通工?」


御殿山(ごてんやま)通信工業、通称御殿通工は老舗の大手電機会社で、株式発行数も非常に多いのだが、最近では売り上げも一時に比べればぱっとせず株価も低迷していた。

その銘柄に、数日前から大量の取引が発生していると言うのだ。


「なにか材料があったか?」

「いや、プレスリリースを見る限りじゃ、別に何も変わったことはないんだが……」


小太りの男はひーひー言いながら陸橋をわたり、その階段を下りた。

背の高い男は、もうちょっと運動しろよと苦笑いしながら、続きを促した。


「なんだよ?」

「2月に入ってから、なんだか取引の量がおかしいんだ」

「おかしい? 株価は?」

「それがほとんど変わってない」


その先にある、野村アセットマネジメントの次の細い角を曲がると、すぐに「麺」と書かれたシンプルで小さいにも関わらず、場所柄大変目立つ看板が見える。めいたいけんのラーメンコーナーだ。

ラーメンと言えば、めいたいけんの向かいにも、たにますラーメンがある。なんで京都銀閣寺なのかはまるでわからないが、ラーメンは鶏ガラ系さっぱり醤油味だ。

今も、そこには数人が並んでいた。それを横目で見ながら、小太りの男が、めいたいけんの扉を開けた。


「御殿通工は、長期保有者も多い銘柄だけど、ここのところの株価低迷に続く配当金の削減で、放出している株主も多いんじゃなかったか?」

「まあな。ただ、720~740円くらいで、出てきた売りが全て消化されてるんだよ」

「消化されてる?」

「そう、株価はその範囲から微動だにしない。だからほとんど話題にならないんだけど、取引量だけが連日増えてきてるんだ」


成り行きの売りまで、すべてそこで消化されていた。

注文を取りに来た給仕に小太りの男が「タンポポオムライス」と告げる。伊丹十三が撮った映画で、細長い乞食とターボーが夜の厨房に忍び込んで作るあれだ。


「なんだなんだ? お前だってブルジョアじゃないか」

「観光ならこれ1択。それに残念、30円ほどお前の方が高額だ」


小太りの男が笑ってそう答えると、背の高い男は「変わらないだろ」と言って、コップの水を一口飲んでから、話を元に戻した。


「しかし、御殿通工ね……売られるわけも、買われるわけもないのか?」

「買いの方はまったく。アナリストのレポートでも、700円を超えるどころか600円を切るような下り基調の予想しかないから、板を見たやつらが、今のうちとばかりに、売りを増やしているって感じだ」

「それが全部消化される? 買い方は?」

「いろんな会社から、指し値もバラバラ、厚みもバラバラで注文されてる。もしも同じ奴ならそうとう用心深いな」

「なんのために、御殿通工を?」


そう、それが問題だ。

いまのところ、御殿通工の株を集める理由はないのだ。


「買収とか」

「バカいえ、シャープじゃあるまいし。パナソニックとまでは行かないが、それに次いで発行株式数が多いんだぞ? 市場でちまちま買い占めたくらいで買収なんかできるわけないだろ」


パナソニックは仮に1億株を買ったとしても、大量保有報告書を提出しなくてよいくらい株式を発行している。

御殿通工の発行株式数は、それに次ぐ規模だ、市場に出まわる株を全て買ったとしても、買収などは夢の又夢だろう。TOBも宣言しないでそんなことは絶対に不可能だ。してもおそらくは不可能だろうが。


「だが売買は行われてる」

「そうだ」

「しかし株価は上がらないのか……」

「そうだ」

「しかも配当は期待できない」

「奇妙だろ?」


何のためにその株を買いあさっているのか、確かに意図が分からない。


「まあな。しかし、俺たちが気付くくらいなんだから、気付いてるやつもいるだろう? なら、745円とか750円とか、少し高い金額で指し値売りをするやつが出るんじゃないか?」

「もちろんいた。だが売買がまともに成立しないんだ」

「成立しない?」


大量の買い板を見た瞬間、成り行きの買いはゼロになった。下がり基調が明らかな株を高値で買わされてはたまらないからだろう。


「もしもこの株を買っているやつがいるとしたら、そいつの目的は御殿通工の株を集める事じゃなくて、ある価格帯で買うことなんだろうよ」

「なんのために?」

「さあな」


「レポートを見た会社が、株価維持のついでに自社株買いって線は?」

「たとえ市場からの調達でも、公開はされるだろ。それに内部留保がそんなにあったかな……そもそも、今さら少しくらい株数を減らしたところで、PERもPBRも大して改善しないよ」

「じゃあ、あれだな。近い将来爆上げするネタを掴んでるヤツが買い占めてる」

「おいおい、へたすりゃインサイダーじゃないか。それにそれなら、なおさら成り行きで買わない理由がわからないだろ」


そこで料理がやってきた。

小太りの男は、早速スプーンでオムライスを切り取ると、「ま、本当に集めているやつがいるんなら、大量保有報告書や変更報告書ですぐにわかるさ(*2)」と言ってそれを頬張った。


「そうだな」


背の高い男は、上の空でそれに答えながら、出てきたハヤシライスを口に運んで、そうそうこの味とばかりに口角をあげて満足げにそれを飲み込んだ。



*1) 2019/7 に、以前に比べればコンフォートを重視した普通の内装にリニューアルしました。平日ならランチやディナーが無料で提供されるサービスまであるようです。最近のラブホってすごいですね。

*2) 大量保有報告書

ある会社の株を5%以上保有したとき5営業日以内に提出しなければならない書類。それ以降は持ち株が1%以上変動したときに変更報告書を提出する必要ができる。


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書籍情報
KADOKAWA様から2巻まで発売されています。
2020/08/26 コンプエースでコミックの連載始まりました。
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知らない会社名だな、と思ったら序盤で出てきた芳村達の元会社だったか。 榎木って名前で気が付いたけど、、、ざまぁ展開来るの期待w
負の屈折率でないだけ、まだ常識の範囲内かな
液体の共同研究頼んだほうは本人だと信じてるのか?? それとも名前にあやかるぐらいの気持ち? せとかは主人公たちも興味のあることだから優先受け入れしてくれるかな
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