§132 誰がために麦は生る 1/31 (thu)
その日は、朝からどんよりとした曇天で、今にも雨が降り出しそうだった。
それにもかかわらず、三好は朝からどこかに出かけているようで、いつもいるはずの事務所にいなかった。
俺は、仕方なく自分で朝食の用意をしようと、事務所のキッチンへと向かった。
「考えてみたら、自宅の台所、全然使ってないな」
まえのボロアパートも、まったく使ってないにもかかわらず、いまだに維持したままだ。
家って、人が住んでないとだめになるんだっけ。いい加減引き払わないとまずいよな。
大きな冷蔵庫を開けて、中を物色すると、パテがいい感じに仕上がっていた。
「あとは、ほほ肉かー。今日も寒いし、夜は赤ワイン煮込みにするかな」
赤ワインは、何にするか結構悩んだが、三好のセラーだけに、あんまり希少なのを引き当てると殺される。
しかし、俺には南アフリカや南米の知識はほとんどない。
「まあ、牛肉煮こむんだから、ブルゴーニュでいいよな」
三好のセラーのブルゴーニュは、概ね、北から順番に整理されている。つまり、一番上には、ジュヴレ・シャンベルタンがあるのだ。マルサネやフィクサンはさすがに少ないからだ。
今度、その上にディジョンのマスタードをつるしておいてやるか、とくだらないことを考えながら物色する。
「しかし、ジュヴレ・シャンベルタンはトラップが多いからな。下手なのを選んで、料理に使ったりしたら絶対に殺されるからな……」
なにしろ、三好的な順位は、価格じゃなくてその年にあったイベントだの希少性だのが優先されるから、まるで分らないことも多い。以前、俺のカードで買わされたバタール・モンラッシェみたいなやつだ。
グラン・クリュはNGとかなら、ラベルに書いてあるからわかるんだが、こういうのは知らないと回避できないのだ。
ドニ・モルテひとつとっても、2000年の前と後、2006年の前と後、そして、サンク・テロワールの前と後など、悲劇も含めて変化がありそうなイベントは数多い。
2004年のベルナール・デュガ・ピィや2006年のアラン・ビュルゲも作り手や作り方の変化がある年で、比較の楽しみを重要視する三好的には重要だ。
とりあえず村名のACを選んでおけば無難だろうと思ったら大間違いで、例えばルロワの2004年なんかは、不幸が重なった結果、所有するすべての畑をACブルゴーニュと村名ACとしてリリースした。
その年のルロワのジュヴレ・シャンベルタンには、グランクリュのシャンベルタンとラトリシエール・シャンベルタン、それにプルミエクリュのレ・コンベットのブドウが使われたのだ。もっともテントウムシさんも入っていると思われるが。(*1)
「まあ、そういうのがなさそうなドメーヌの村名で、ある程度バランスの取れた酸とタンニン、それに力強さがあるやつでいいか」
あとはなるべく安そうな――
「レシュノーかな」
そこそこ力強く、そこそこバランスよく、そこそこ安い、お買い得なジュヴレ・シャンベルタンだ。
俺は湯を沸かすと、オレンジを1個を取り出して、そのままお湯の中に入れた。
その間に、香味野菜と赤ワインでマリネ液を作り、ほほ肉とともにジップロックに突っ込んで冷蔵庫へ。せめて何時間かは寝かせないとな。
オレンジは、都合7回ほど煮こぼした。
パテに添えるソースを作っているのだが、皮も使うタイプにする場合、ここで煮こぼす回数で苦みをある程度調整できる。さらにここで、皮を使う量を調整してもいい。
その後、くし形にカットして、ヘタの部分と種、そして中心の綿は取り除く。あとは適当にカットして鍋で煮るだけだ。
甘さを追加するために、ここでシロップなどを投入するわけだが、オレンジの場合、最初から糖度が高い状態で煮込むと苦みが強調されるきらいがある。
そこで、糖度が低めの状態から煮詰めて糖度を上げていくのが、うまく仕上げるコツだ。
「こんなもんかな」
皮が柔らかくなったところで、グランマルニエを加えて、香りを追加する。うちではルゴルのオランジュも少しだけ加える。
酸味にレモンを加える場合もあるが、今日はフレッシュですぐ使うから、オレンジ果汁を加えてみた。
全体をミキサーにかけるてとろりとさせると出来上がり。
レトロドール(バゲット)を保管庫から取り出して、カットしたところで、玄関の扉がいきなり開いた。
「せ、先輩!」
「なんだ?」
あまりの三好の慌てぶりに、おれは急いでダイニングへと出た。
「これ、これ見てください!」
三好の手には、一条の小麦が握られていた。
「なんだ? デメテルごっこか?」
「え、そんなに乙女っぽいですか?」
「何言ってんだ。デメテルってば、乙女というより、かーちゃんだろ?」
「先輩こそ、何を言ってるんですか。乙女座ですよ、乙女座。ほらスピカも完備!」
三好は麦の穂をつきだして、上下に振っている。乙女座って、アストレイアじゃないの?
「あれって、大麦じゃないの?」
「時代を考えればその可能性もありますが、デメテルだとしたら小麦でしょう」
そうか、ギリシア神話では小麦の作り方を人類に教えたのはデメテルだもんな。
「なるほど。しかしこうしてみると――」
俺は、三好が動かしている小麦の先を見ながら続けた。
「――スピカと麦の穂って、エルフを連想させるよな」
「なんですか、その飛躍は」
「いや、だって、スピカってΣταχυςから来たラテン語だろ? 元は、尖ったものっていう意味なわけだ」
「それはそうですけど……なんでそれがエルフなんです?」
「だって、小麦の穂って、ear of wheat じゃん。尖ったもの=ear。ほらエルフだ」
「なんというこじつけ」
実際エルフが尖った耳を持つのは、神話の成立なんかに比べればずっと後の話だ。
全てのエッダに目を通しているはずもないが、エッダのアールヴに耳が尖っているという記述があるという話は聞いたことがないから、それが英語やドイツ語の文学に引用された時点で、悪戯好きの妖精や悪魔のイメージと交じって尖った耳が与えられたことは想像に難くないだろう。
「乙女座って、バビロニアですでに、女神シャラと穀物の穂を表す星座として知られてるんですよ。エルフの耳が尖るのに先んじること2500年以上です」
「そうか。予言って本当にあったんだな」
三好は呆れたように、天を仰いで腕を広げた。あ、そのポーズ、ちょっと乙女座っぽい。
「で、こんな話をするために、わざわざ南半球から取り寄せたのか、それ? 今2月だぞ」
「惜しい! 出所は、ダンジョンの2層でした!」
「全然惜しくないだろ! って、2層? ……まさか、例の一坪農園か?」
「はい」
俺は一瞬唖然としたが、すぐに気を取り直した。
「しかし、植えたのって、1月2日だよな? 柳久保(2層に植えた小麦の種類)って、1ヶ月で収獲できるのか?」
「代々木の2層では、そうみたいですね」
「そりゃ、JA東京みらいのお姉さんもびっくりだ」
なんと12期作が可能な麦! って、土地が一瞬で死にそうだな。
「芽が出るまでは普通だったんですけどね」
そうだ。確か地面に芽が出てきたのは、10日目くらいだったはずだ。
それで、1か月後の麦踏みまでは、あまりやることもないだろうと油断してたんだった。
「Dファクターがなじむにつれて、成長速度が上がったってことかな?」
「私たちが、『早く育たないかな』と考えながら世話をしていたからかもしれませんよ」
あり得る……実にダンジョンらしい方向だ。
俺は、ダイニングの椅子に座ると、落ち着いて先月からの流れを思い出していた。そうして、一番重要な事柄を確認した。
「それで、リポップは?」
三好はいままでのおちゃらけた態度を引っ込めると、急に真剣な顔つきになり、持っていた麦をテーブルの上に置いて、言った。
「しました」
「まじかよ……」
それは世界の食糧事情が、もしかしたら大きく変革されたのかもしれない瞬間だった。
「じゃちょっとまとめるか」
「了解です」
ダイニングで、そのインパクトから立ち直った俺たちは、あらためてテーブルの上に置かれた一条の小麦の穂を見た。
その穂は、未来を象徴するかのように、金色に輝いていた。
「ひとつめ。ダンジョンが管理しているオブジェクトは成長しない」
「たぶん」
「ふたつめ。ダンジョンが管理しているオブジェクトはリポップする」
「こっちは確実ですね」
「みっつめ。Dファクターによって進化するものは、どういうわけか選別されている。種は進化するようだ」
「カギは、幹細胞の有無ですかね?」
「成長した後の動物や植物も、ある程度は幹細胞を持ってるぞ。特に植物は。それだけだとは思えないな。そもそもダンジョン内の木本の維管束形成層ってどうなってんだ?」
維管束形成層は、木本(つまりは木だ)の樹皮の下にある層で、内側に木質部を作ることで木を太く成長させる組織だ。
成長しないということはここが機能していないことになる。そうした木に、果たして年輪はあるのだろうか? 年輪はこの層が活動してできる模様だからだ。
「ダンジョンが最初から作ったオブジェクトとしての木は、きっと年輪付きでそこに登場してるんだと思いますよ」
「まあ、いくらダンジョン内ば別空間だからと言って、実在する空間そのものを切り取ってきたとは考えにくいもんな」
切り取られた元の空間は、どうなってんだって問題があるし。
「形成層や、頂端分裂組織がどうなってるのかは……謎ですね」
育たないんだから、機能が停止しているか、その組織がないかのどちらかだろうが……あ、時間が止まってるというのも可能性としてはあるか。
「なんにしても進化するのは、先輩が進化して欲しいって思うものですよ」
三好があっけらかんとそう言い放った。
俺は言葉に詰まったが、言下に否定できないところがオソロシイ。
「よ、よっつめ。Dファクターによって進化したものは、ダンジョンへの通知が行われるとき、プロパティが修正され、以降成長しなくなる」
「これも小麦では確認されました」
先月最初にリポップさせた小麦(傷つけたやつだ)は、結局そのまま生長しなかったのだ。
「あとは……そうだな。当初の話だと、新しく作られてダンジョンに通知されていない種は、そのまま次の種として使えるんじゃないかという話だったが――」
「たぶん切られた瞬間に通知されちゃってる気がします。一応確認用に、いくつか埋めておきましたけど、芽は出ないんじゃないでしょうか」
「結局、最初の種をD進化させて植えた後、ダンジョンへの通知イベントが起きないようにうまく育てて、実っているときに刈り取ることができれば、あとは刈り取り放題の畑ができあがるってわけか」
この農法のすごいところは、リポップ時間にもよるが、広い面積が必要ないことにある。
なにしろ刈り取る端から復活するのだ。最後の刈り取りが終わったときに最初のものがリポップしていれば、もはやそれは永久機関だと言ってもいいだろう。
俺は机の上に置かれた、麦の穂を手に取ると、それを軽く振って言った。
「本当に無限に刈り取れるのかも気になるよな」
「じゃあ後は、刈り取った麦でネズミを育てる実験と、ひたすら刈り続けてリポップが行われなくなるか確かめる実験が必要ですね」
前者は、本当にエネルギーに変換されるのかという問題のチェックで、後者はどのくらい収穫できるのかを確認する実験だ。
細胞分裂のテロメアのように、リポップするたびに減っていく何かでリポップ回数が制限されていてもおかしくないからだ。
「よし、進化と作物については発表してもいいだろう」
「書類は前から揃ってますし、提出はネットでもできますからすぐに審査請求できますよ。すぐやっときます」
「了解。栄養に関しては……ネズミの実験をやったら出荷もしてみるか?」
「一応小麦の種は、横浜の踊り場に積み上げておきましたから、各研究機関からの要請に応えるくらいなら大丈夫ですけど」
あそこは、ちょっとDファクターの濃度が薄いのか、いろいろと時間がかかるから、実際に進化しているかどうかを調べる手段が欲しいよな。
「そういや、進化した種とそうでない種って見分けられるようになってるのか?」
「ある程度まとまっていれば、あのリファレンス機で計測可能でした。Dカード所有者検出との類似性もあるみたいでしたよ」
なら、間違って進化前の種を出荷することもないか。
「あとは農園をどうするかだな。いつまでもリポップする小麦を、2層に放置したままだと拙いかもしれないし」
「とはいっても、引っこ抜いたりしたら、2層中にばらまかれちゃうと思いますよ」
切り取れば、切り取った部分がリポップで再生するが、引っこ抜いてしまえば、どこにリポップするか分からない。モンスターのリポップ位置が分からないのと同じ理由だ。
実際のところ、知的所有権さえ確保してしまえば、別にばらまかれてもいいような気はするが、なにしろことがことだ。管理組織の意向をうかがっておくことは重要だろう。
俺は組んでいた腕をほどくと、おもむろに言った。
「いっそのこと、管理をJDAに丸投げするか」
「ええ?」
「ほら、あそこって、今のところ世界にひとつしかないダンジョン内麦畑だろ?」
「おそらく」
「だから、今なら喜んで引き取ってくれると思うんだよ」
「それは、そうかもしれませんけど」
「もしも人間の食料としてこいつを活用するなんて話になれば、どうしたって安全性の確認とかが必要になるだろ?」
「せとかは平気で食べちゃいましたけどね」
「川の水を個人が飲むのは勝手だけれど、それを広く社会に提供しようとしたら水質検査は行われるさ」
何しろ対象は主食の穀物なのだ。
オーク肉なんかでも、最低限の確認は行われたのだろうが、それとは比較にならない範囲に影響を及ぼすに違いない。
「まあ先輩が、文化的な英雄を目指すわけないし、そういうのはパスするとは思いましたけど。トリプトレモス役は、各国の政府や団体に押し付けたいってことでしょう?」
トリプトレモスは、デメテルに麦の栽培を人類に教える役目を押しつけられた男だ。
デメテルに、エレウシスの秘儀を開示され、有翼の蛇の戦車を押しつけられた後は、空を飛んで世界中の人々に麦の栽培を教えることを命じられたとアポロドーロスが言っている。
「さすがは三好、よくわかってる」
そんな役どころは絶対に御免だ。いいことなど、ひとつも想像できない。
「多少の利益は頂きたいですけどね」
「D進化の特許は、ものすごく基礎的で範囲が広いから、そこだけ押さえておけば、ほとんどの類似行為は引っかかるだろ。その先の、何を進化させるのかという個々の問題は、世界に任せちゃえばいいさ」
「どうせ手に負えませんし」
「その通り。しかし、これって……やっぱり、ダンジョン管理部扱いか?」
なにしろ管理対象がはっきりしないうちに立ち上がったあの部署は、業務範囲が広すぎる。
すぐやる課としての価値はとても高いと思うけれど、今後はちょっと無理があるんじゃないかと思わないでもなかった。
「鳴瀬さんの悲鳴が聞こえてきそうですけど」
「営業部との兼ね合いがどうとかって?」
「JDAのことは、JDAに解決してもらいましょう」
俺たちは明後日の方向を見ながら耳をふさぐ決断をした。
組織内部のことは、組織内部に解決してもらわなけらばならないのだ。本音を言えば、そんなことまで知らんがな、だ。
「それはともかく、動物を進化させてみるやつは出るよな、絶対」
「先輩も家畜の話をしてましたもんね」
「どこにリポップするかわからないから管理が難しいうえに、屠殺した瞬間、モンスターよろしく黒い光に還元されそうな気もするし……第一、受精からスタートさせるとか専門家じゃないと無理だから断念したけどな」
俺には絶対無理な自信がある。たっぷりと。
「倫理観のない国は、すぐに人間で試しそうですけど」
「そういうのって抑制できないものかな」
俺は結構真面目にそう言ったが、三好の返事は、さっきと同様、あっけらかんとしたものだった。
「先輩が、人間はD進化をさせないって決めれば、きっと抑制できるんじゃないですか?」
「……俺は、神様かよ?」
「冥王は、立派な神様だと思いますけど」
そういわれてみて、なるほどと納得したが、生き神様になるってのはちょっとどころではないくらい抵抗がある。
「それで、神様にお願いがあるんですが」
三好が真剣な顔で、俺の顔を覗き込みながらそう言った。
「な、なんだよ」
「すごくいい感じのオレンジの香りがするので、きっと何か手の込んだ料理が出てくるんだろうと期待してます」
三好は、芝居がかった様子で、おなかを抑えてペコペコだよポーズをとった。
その瞬間、居間からグラスが飛んできて、三好の周りをくるくるとまわり始めた。
「はいはい。パン食だから、飲み物でも入れてろ」
「了解です」
突然戻ってきた日常に、俺は苦笑しながら椅子から立ち上がると、パテをカットしにキッチンへと向かった。
D進化にかかわるダンジョン特許と、それと間をおかずに提出された『ダンジョン内作物のリポップと、現行作物のダンジョン内作物への変換』というレポートが、世界をまたまた震撼させてしまうのは、すぐ先のことだった。
*1)テントウムシさん
2004年のブルゴーニュはテントウムシが大発生した。そのため、ビオディナミの生産者、特に全房発酵を行う生産者は散々な目にあった。除梗しないので、ブドウの房の内側に潜り込んだテントウムシを除去できないためだ。
虫の体液も、そのままワインの一部になったことは間違いない。




