§129 その後の自衛隊 1/30 (wed)
陸上自衛隊習志野駐屯地では、検査を終えた君津伊織2尉が、朝食前に軽く流しながら走っていた。
習志野の空は広い。山は見渡す限り見えないし、さほど高い建物も多くはない。時折雲の切れ間から顔をのぞかせる太陽が、そんな世界に光の帯を作り出していた。
早朝のそんな奇跡のような時間を感じながら、彼女は、仮面の男のことを考えていた。
「まったく。ちゃんとしたお礼も言ってないってのに」
気が付いたとき、彼はすでにいなかった。
うちの隊員は、私をおいて、煙のように消えてしまったと口をそろえて言っていたが、いったいどういうことだろう。
隊員は、デスマンティスはおろか、キメイエスすらも、まるでいないかの如く振る舞って、歩いて私のところまで移動した様子を見て、彼がダンジョンの管理者だといわれても納得しそうになると言っていた。
「不思議な人……」
その後、助けに来てくれた探索者たちを含めて、手当たり次第に尋ねてみたが、彼が誰で、どこに行ったのか、誰も知らないようだった。
鑑定をしてもらった三好さんだけは、32層への入り口の件でごたごたしているうちにどこかに行ってしまったようで、気が付いたら周りにはいなかった。少なくともセーフエリアに降りてきていないことは間違いない。
あと、彼についての話を聞いていないのは、彼女くらいだ。今度出会ったら聞いてみよう。
唯一、サイモンの態度には、何か違和感を感じたが、突っ込んで聞いても肩をすくめられただけだった。
「もしかしてDADの秘密兵器かなにかなのかな?」
それにしては格好が、ヨーロッパより、というより日本のコスプレだ。
第一、DADなら、もっと実用的な装備を使うだろう。
残されていたマントは、普通に買える布で作られていて、特に先端素材なども使用されていなかった。
鋼さんが、「これをまとって戦闘するとか、どこの傾奇者だ?」とあきれていたくらい、防御力という観点で見れば、マイナス点しかないしろものだったらしい。
角を曲がって、目の前に開けた長い直線で、一気に速度を引き上げる。
冷たい空気を切りさいて進む体の切れは、以前よりもいいくらいだ。足はまるで疲れを知らないかのように、以前にもまして力強く地面をとらえていた。
「やっぱり、あの、置き土産のせいなのかな」
こうして走っていると、忘れそうになるけれど、あの時私、足がなかったんだっけ。
彼女のDカードには、磁界操作と並んで、グレーアウトしているような状態で、[超回復]の文字が刻まれていた。
以前、例のオークションで一度だけ販売されたことのあるオーブだ。その時の落札価格は、50億円を超えていたはずだ。
調べてみたら、WDAデータベースにも、ちゃんと記載されていた。
もっともそこには、失われた手足を復活させるような劇的な効果は記載されておらず、疲れにくくなり、小さなけがが非常に早く治る程度のことが書かれていた。
「非常に早くどころか、一瞬だったし、しかもその効果は……」
伊織は自分の体に起こったことを思い返しながらそうつぶやいた。
彼女は、オーブを使った時の、あの熱いんだか気持ちがいいんだかよくわからない世界の中で、まるで体中から集められた細胞が目に見えない手足を作り上げていくような感覚をぼんやりと思い出して、ほのかにほほを染めた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
セーフゾーンで1泊した日、彼女は、鋼とボス戦のことをプライベートで話していた。
「やっぱりそうだったのか」
「はい」
彼女は自分の右の手足が、切断された後、復元したことを、鋼に訊かれて肯定した。
「服の右袖部分はきれいに切り落とされていたし、血の跡もあった。右足首も同様だ」
鋼は、その時のことを思い出しながら言った。
「それだけならまだしも、右手首にあったバイタルチェックデバイスがなかったからな。常識を無視すれば、切断した後生えてきたとしか思えなかったんだ」
「自分で体験していながら、自分でも信じられません」
鋼は、むつかしい顔をして腕を組んだ。
「しかし、ランク7を常備している組織なんて、世界中を見渡しても存在しないだろう。もっとも、公開されている範囲では、という意味だが」
「仮に持っていても、そんな希少なものを私に使うことに意義を見出せるのは、日本国くらいですよ」
そうは言ってみたが、伊織は自分の言葉を信じていなかった。もし日本がそれを持っていたとしても、それは、もっと偉い人たちが自分のためにとっておくはずだ。
いかにダブルの最上位陣とはいえ、自分は、取り換えの利く2尉にすぎないのだ。ほかの組織至っては、言うまでもなかった。
「それに――」
伊織は、その時のことを思い出しながら、かすかに頬を染めた。
「――あの人が私に使ったのは、ランク7ポーションじゃありませんでした」
「ポーションじゃなかった?」
鋼は、ポカンとした顔を向けて、「じゃあ、どうやって?」と訊いた。
伊織は鋼に、使われたのが超回復のスキルオーブであったことを、Dカードを見せて告げた。
「超回復って……失った部分が復元するのか?!」
もしもそれに時間制限がなかったとしたら……
「まてよ……」
鋼は、以前、超回復がオークションにかけられた後、寺沢に聞いた、印欧の社交界で噂になった、おとぎ話めいた、魔法使いの物語を思い出した。
「まさか、あれは全部本当のことだったんじゃ……」
「鋼さん?」
「ん?」
鋼が我に返ると、伊織が不思議な顔をして、その顔を覗き込んでいた。
「あ、ああ、すまん。以前聞いた話を思い出していたんだ」
そうして、鋼は伊織にその噂を語って聞かせた。
「それって、ランク7のポーションどころの話じゃないんじゃ……」
伊織は驚いてそう口にした。
ランク7のポーションは、確かに失われた手足を元に戻す。しかしそれには時間制限があるのだ。
古傷で試して効果がなかった例と、48時間ほどで試して助かった例をもって、今のところ48時間だとされている。細かくテストするほどランク7の数は多くないため、その効果時間は、偶然でしか分からなかった。
ところが、その噂の中で回復した女性は、何年も前の怪我だという。
失われた部分はおろか、体にあったすべての損傷は修復され、なかったことになっているそうだ。
「でも、本当にそんな効果があるんなら、WDAのスキルデータベースで、すでに大騒ぎになってるんじゃありませんか?」
「効果があることは確実だろう。何しろ実例が目の前にあるんだからな」
鋼は、伊織を見ながらそう笑った。
「だが、騒ぎになっているという話は聞いたことがない。つまりWDAのデータベースにはこのことが書かれていないんだろう」
「そんなことが?」
「報告者が情報として伏せた可能性が高いだろうな。なにしろ、この話が明らかになったら、マイニングどころの騒ぎじゃなくなるぞ」
「え?」
「考えてもみろ。マイニングはしょせん鉱物資源の産出だ。ミスリルやオリハルコンが出るというのならともかく、普通の鉱物は自然界にもあるし、世の中の主流はいまのところそちらからの産出だ」
「それはまあ」
「だから、代々木に来ているのは、主に国家的な組織ばかりだろ?」
「そうですね」
「だが、こいつは違う」
鋼は、Dカードを伊織に返しながらそう言った。
「もしもこれが明らかになったら、こいつを欲する世界中の大金持ちが、探索者を雇って代々木に押しかけてくるぞ。下手をしたら、血で血を洗う奪い合いになるかもな」
Dパワーズは、マイニングを除いて、スキルオーブをドロップしたモンスターを届け出ていない。だから、それほど深刻にはならないかもしれないが、代々木でドロップしたことだけは疑いようがない。
鋼が言ったことは、実際に起こる可能性が高かった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「鋼さんが言ってたことも、大げさってわけじゃないのかも」
そう考えたとき、後ろから足音が迫ってくるのに気が付いた。走りながら、後ろをちらりと振り返ってみると、当の鋼が走っていた。
「君津2尉、おはようございます」
「何言ってんですか、鋼さん」
わざとらしく挨拶をする鋼に向かって、伊織は苦笑を浮かべながら返事をした。
「ははは。それで、こんなところを走ってるところを見ると、体はもういいのか?」
「おかげさまで。前よりもいいくらいですよ」
「例の、スキルのおかげかな?」
「そうかもしれませんが……下から上がってきたばかりなのに、早朝から鋼さんがこんなところを走っているところみると、なにかお話があるんでしょう?」
「お前はだんだんやりにくくなるなぁ……」
「先輩の薫陶のたまものですよ」
鋼は苦笑して頭をかくと、急に真面目な顔をしていった。
「実はな……お前に査問の話がでてるらしい」
「査問?!」
そう聞いて伊織は思わず足を止めた。
「お前、例のスキルを報告したんだってな」
「あたりまえじゃないですか。隠せるわけないでしょう」
「それはそうだが、まともに貰ったと報告したらしいじゃないか……それが、査問の対象だ」
つまりは、誰かから50億円の価値のある物品を貰ったことが問題視されたようなのだ。
「なんですそれ? 別に職務に密接に関連する行為を、あの人に対して行ってなどいないでしょう?」
第一、どこの誰かもわからないのだ。そんなことができるはずがなかった。
「そういう意味では、収賄というより、国家公務員倫理規程違反のほうだろう」
「ええ?」
「50億だからな。額面だけを見るなら、社会通念上相当と認められる程度を超えた接待や財産上の利益の供与とみなそうと思えば、みなせるわけだ」
「第5条1項ですか? そんな無茶な。第一、オーブがなければ、今頃私、公務災害で、賞じゅつ金貰って退官してますよ。自衛隊って得しかしてないじゃないですか」
大けがをして死んだり、障害が残った自衛官には、賞じゅつ金という補償システムがある。最大で3000万だ。
「それ以前にあいつが現れなければ、部隊自体が危なかったかもな」
「言ってみれば、恩人ですよ? それに、現在の法解釈では、スキルオーブは支配可能性が不完全であるため動産にあたらず、その無償使用は贈与や譲渡とはみなされないという見方が支配的じゃないですか」
「調べたのか?」
「報告書を書くときに。私だって、多少は気にしますよ」
それで安心して報告書に真実を記したのだ。
「その主張はしてみるべきかもしれないが……同じオーブがごく最近、50億以上で落札されていたのは不幸だったな」
「そんなぁ……」
「こうなってくると、相手が誰なのかが問題になるかもな」
「利益供与対象かどうかの調査ってことですか?」
「まあそうだ」
「誰だかわかりませんというしかないんですけど、信じてもらえるでしょうか……誰が調査するんです?」
「市ヶ谷の、自衛隊員倫理審査会事務局あたりかな? 裁判になったら一般人と同じだ。なにしろ日本には、軍法も軍法会議もないし、軍法務官すらいないからな……」
「76条ですか? 憲法は絶対視されてますから」
「それ以上はちょっと誤解を招く発言になるから、現役のうちは、やめとけ」
「あれ? 鋼さんでも気にするんですか?」
「当たり前だろ。自衛隊には、とことんデリケートな領域があるからなぁ」
長く現場で活動していると、そのあたりに言いたいこともでてくるが、反面その危険性についてもはっきりと認識できるようになる。
「ともかく、倫理審査会に呼ばれる前に、一度寺沢2佐に相談しろ。アポは取っておいてやる」
「わかりました。お心遣い感謝します」
伊織は、自衛隊に入ってから、スキルオーブやアイテムの支給を受けていない。
彼女が女性であることも、その一因だと、まことしやかに囁かれていたが、実際は磁界操作があまりに強力だったため、ほかのスキルを必要としなかったというのが真相だ。
しかし、そのせいで、組織に対して負い目がない。かかったコストにかこつけて慰留を促すことすらむつかしい。しかも自衛隊員には失業手当がない。つまり、自己都合でいつ退官しても関係ないのだ。
なにしろ世界ランク18位、知られている限りでは日本のトップエクスプローラーだ。そのうえ、TV映えのする美人で人気もある。退官したほうが稼げることは確実だ。
つまらないことで、彼女に退官を決断させるなんてことがあったら、それは自衛隊の大損失だといえるだろう。
「今、2尉にいなくなられたら困りますからな」
鋼は、自分でスカウトしたということもあって、本心からそういうと、宿舎に向かって走り始めた。




