前編
「ただいま。」
夜遅く、お父さんが仕事から帰ってきた。僕は玄関でお出迎えする。
「お父さん、お帰り。お仕事お疲れ様。カバン持つよ。」
「おお、いつもありがとうな。謙也。」
僕はお父さんの仕事カバンを持ってリビングへ向かった。お父さんがテーブルのイスに座ると、僕は自分が作った料理を持ってテーブルに並べる。
「じゃあ、お父さん。食べよう。」
「おお、うまそうだな。別に待たなくてもいいんだぞ。帰りが遅くなることだってあるんだからな。」
「いいんだよ。一人で食べたっておいしくないし、それにお父さんにおいしいかマズいか判断してほしいんだよ。」
「まったく…しょうがねぇなぁ。それじゃ、いただきます。」
お父さんは僕に呆れながらも料理を口にした。僕はお父さんに何を言われるか待ち構える。
「うん、うまい!」
「ヤッタァ!苦労して作ってきた甲斐があったぞぉ。」
「謙也、もうやめないか?もう言い飽きたし、俺はお前の料理をマズいって思ったことは一度もないんだぞ。」
「だって、疲れて帰るお父さんの為を思って作ってるんだから、口で言ってくれないと分かんないじゃないか。」
「おいおい、お前はいつから母さんの口癖を言うようになったんだよ。」
こうして、僕は毎日のように夕食を作ってはお父さんと一緒に食べている。そこにお母さんの姿はない。それには訳があった。
「由香里にも…母さんにも、お前の料理を食べさせてあげたかったな…。」
「うん…。」
僕とお父さんは壁に掛けてある一枚の写真に目を向けた。そこには在りし日のお母さんの姿が写っている。今から数年前に突然倒れ、意識が回復することなく、そのまま帰らぬ人になってしまった。前日まで元気でいたことから、僕もお父さんもこの事実をすぐには受け入れられなかった。
その後は時折お婆ちゃんが来てくれて家事を手伝ってくれたけど、僕が中学生になってからは僕とお父さんで家事を分担し、お父さんが仕事へ行く前に朝食を作って洗濯物を干し、僕が学校から帰ってから洗濯物を畳み、部屋を掃除して、夕食を作っている。今まではお母さんが家事をしていたので、最初は何かと手こずることが多かったけど、今となっては手慣れたものになった。
「ごちそうさまでした!」
僕は皿を持って台所へ向かい、流しで洗って乾燥機へ入れてスイッチを入れる。リビングに向かおうと振り返った、その時だった。
「んっ?お父さん、どうしたの?」
「いやぁ、まるでそこに由香里…母さんがいるみたいだなぁって思ったんだよな。」
「もう、やめてくれよ。」
お父さんは僕が皿洗いをする後ろ姿をずっと見ていた。そこにお母さんの姿を重ねたのだろう。僕はそんなお父さんに呆れた。でも、どことなく寂しそうな目をしている気がする。僕は皿洗いを終え、テレビの前のソファーに座った。
「謙也。明日なんだけど、会社の連中と飲むことになったから、帰りがかなり遅くなるからな。先に食って、寝ていいよ。いつも作ってばかりだから、コンビニかスーパーで買ってもいいし、出前取ってもいいからな。金は用意しておくぞ。」
お父さんは明日、遅くなることを告げた。お母さんが亡くなってからは仕事が終わればすぐ帰っていただけあって、これは珍しかった。
「あ、うん…分かった。楽しんでいってね。でも、飲み過ぎには注意してよ。」
「ハハハ…。言われちまったなぁ。分かってるよ。若い時は酒を飲みすぎていろいろ失敗したもんなぁ…。」
お父さんは頭を掻いて笑った。まぁ、酔っぱらってどうなったかは言わないことにしよう…。僕はパジャマを着て、部屋のベッドで眠りに就いた。だが、それからしばらく経った後のことだった。
「う、うぅ…。」
(な、何だ?)
その夜。僕はどこからか声が聞こえてくるのを感じ、目を覚ました。そのうめき声は一回では収まらず、家の中からしている。明らかにおかしいと思った僕は体を起こし、部屋を出て声がする方向へと足音を立てることなく歩いていった。すると、意外な場所から聞こえてきたのだ。
(えっ?)
辿り着いたのは、お母さんの仏壇がある部屋だった。ドアの隙間が少し開いているので、そこから覗き込むと、更に驚いた。
(お、お父さん。こんな遅くに何してんだよ。)
暗い部屋の中でロウソク形のライトを光らせた仏壇の前には、胡坐をかいて座るお父さんの姿が見えた。
「由香里…なんで俺よりも先に死んでしまったんだ。俺はお前がいなくなって寂しいんだよ。このままだと俺も死んでしまいそうだよ…。」
(お、お父さん…嘘だろ…。)
お父さんはお母さんが死んでしまったことを今も悲しんでいた。僕はそれよりもお父さんが未だにお母さんの死を受け入れられていないことがショックで、ゆっくり部屋へ戻ると、ベッドで毛布を頭に被り、再び眠りに就いた。
僕は翌朝、目が覚めてリビングに向かうと、いつものようにお父さんが台所で朝食を作っていた。
「おっ、謙也。おはよう。」
「お、おはよう…。」
「どうした?眠そうだけど、夜更かしした訳じゃないよな?あれだけ早く寝ろと言ったのによぉ…。」
いつもは僕からお父さんに挨拶する。でも、今日はそれを忘れ、お父さんから挨拶してきた。それからテーブルに座り、お父さんと向き合って朝食にするけれど、何故か今日はおいしいとは感じられなかった。いつもはお父さんと話で弾むが、それもない。それに、視線を合わすのも怖かった。
「どうした?元気ないぞ。何か悩みでもあるなら、いつでも聞くからな。」
お父さんは僕の様子が普段と違うことに気付いていた。このまま聞かずにいるのもモヤモヤしてしまうので、僕は気になっていることを聞いてみることにした。
「お父さん。お母さんが死んじゃって、まだ寂しいの?」
「な、なんでそんなこと聞くんだよ。」
「いや、だってさ…昨日、俺が皿洗いしてる時、後ろ姿がお母さんに見えるって言ってたからさ。お母さんが死んだのを受け入れられてないのかなぁって思ったんだ…。」
「何言ってんだよ。いつまでも引きずる訳にはいかんだろ?俺たちが寂しがったら、天国の母さんだって安心して生まれ変われないぞ。だから、父さんも謙也も、前を向いてしっかりと生きてかないとな。」
お父さんは笑いながら、僕の頭を撫でた。もちろん僕がそれだけで納得できるはずもないが、時間の関係もあり、ここはあえてスルーした。朝食を終え、食器を洗って片付けると、学校へ行く準備を進めた。
「じゃぁ、行ってきます。」
「おう、行ってらっしゃい。もう一度言うけど、今日は遅くなるから、先に飯食って寝てていいからな。」
「うん。お父さんも、飲みすぎに注意してよね。」
「まだ言うかよ…。」
僕はドアを開けて外に出た。お父さんはベランダに洗濯物を干し、掃除を済ませてから会社へ出勤する。次にお父さんと顔を合わせるのは夜遅くだ。ベロンベロンに酔っ払っていなければいいんだけど…。
(そういえば、お母さんにもよく叱られてたよな…。)
その夜、僕は夕食を終えて風呂に入り、パジャマを着て寝る体制ができていた。しかし、どうしてもお父さんのことが心配になり、なかなか眠ることができず、リビングでテレビを見ながら帰りを待っていた。どうせ明日は土曜日なので、寝るのが遅くなっても構わなかった。
(お父さん、どこかで寝てるってことないかなぁ。それとも、別の家に行っちゃったなんてことも…。)
僕は不安でいっぱいになり、警察に連絡しようかと思った、その時…。
「ただいまぁ…。」
玄関のドアが開き、お父さんが帰ってきた。僕は透かさず、玄関へと向かう。
「お帰り、お父さん。もう、フラフラじゃないか。」
「あ~、すまんな。やっぱり飲みすぎで酔っちまって、駅に降りそびれちまったよ。偶然にも反対の電車に乗れたから助かったけどな…。」
お父さんは僕の不安通り酒に酔っていた。家に入るなり、段差に仰向けになる。
「あ〜あ〜。ほら、そんなとこで寝てたら風邪引くよ。」
僕はお父さんの体を抱えた。この時、お父さんと目が合う。すると、お父さんは驚いた顔をした。
「ゆ、由香里…生き返ったのか…。」
「えっ?」
お父さんは僕の顔を見るなり、お母さんの名前を口にした。もちろん、酒に酔っているからかもしれないが、その後に思わぬ行動に出た。
“ギュウッ…。”
「由香里…俺が寂しそうにしてるのを分かってて甦ったのか。俺は嬉しいぞぉ!」
「お、お父さん、やめろ…。」
お父さんは僕をお母さんと勘違いし、体を強く抱き締めてきた。僕は何とか振り払い、お父さんの顔を数回叩く。一歩間違えればキスされてしまうところだった。
「お父さん、俺をお母さんと勘違いしてるな。」
「えっ?ああ…謙也か。もう寝たかと思ったよ。」
「お父さんが迷子になってないか心配だったんだよ。それに、どうせ明日は休みで起きるのも遅いから、別にいいでしょ?」
僕は呆れながらもお父さんをリビングへ連れて行き、ソファーへ座らせた。
「もう、あれだけ飲み過ぎには注意してよって言ったのにさ、若くないんだから程々にしてよね。」
「いやぁスマン。みんなスゲぇ飲むから、負けてらんねぇって飲んじまったよ…。」
お父さんは後輩が飲む姿に触発され、意地になって何杯もビールを飲んだと話した。それでこうなったのだから、自業自得だ。
「お父さん、もう大丈夫そう?」
「ああ、後は何とかするからもういいよ。遅くまでありがとうな。お休み…。」
僕はソファーにお父さんを残し、自分の部屋のベッドで眠った。お父さんが帰ってこれないのではないかとの緊張から解放された為か、あっという間に眠りに就いた。
翌朝。目を覚まして時計を見ると、かなり長い時間寝込んでいたのが分かった。どうせ今日は休みなので何の問題もない。リビングへ向かうと、台所ではいつものようにお父さんが朝食を作っていた。しかし、いつもより遅めだ。どうやらお父さんも長く寝すぎたのだろう。
「おっ、謙也。おはよう。ごめんな。父さん、起きるのが遅くなって、今ご飯作ってるからな。待っててくれよ。」
「…。」
僕は数日前の夜にお父さんがお母さんの墓前で泣いていたことを思い出してしまい、お父さんと顔を長い時間見ることはできなかった。お父さんも僕の様子がおかしいことに気付いた。
「どうしたんだ?元気ないな。」
「ああ…“あの後、お父さんがちゃんと寝てるか心配で、なかなか眠れなかった”んだよ。だから眠たくてさ…。」
「そうか…すまなかったな。酒はお前が飲める年まで我慢するよ。」
「いや、飲む量を抑えればいいんだって…。」
お父さんは意地になって酒を飲み過ぎたことを反省した。もしかしたら、夜にお母さんの仏前で泣いていることを僕が知らないと思っているに違いない。
休みの日はお父さんと一緒に買い物へ出掛ける。これもお母さんが亡くなって家事をするようになってからの習慣だ。店内では近所の人とよく遭遇し、話し掛けられる。
「あら、こんにちは。いつも仲が良くて羨ましいわね。うちの息子と大違いだわ。」
「まぁ、二人で生活してますからね…。」
近所の人は僕とお父さんが一緒にいることを珍しがった。僕ぐらいの年代になると反抗期に入り、親に反発することが多いと聞くが、僕はそんなことは一度もない。やはり、お母さんが死んだことで必然的にお父さんと向き合わなければならないことがそうさせているのだろう。
いつもは近所の人とお父さんが話すぐらいで済むが、この日は違った。いきなり僕の方を見て話し出したのだ。
「最近、謙也君を見てると、由香里さん…あなたのお母さんに似てきてるような気がするのよ。髪の毛を伸ばして化粧させたら、みんな由香里さんが甦ったんじゃないかって騙されそうだわ。」
「そうですか。この間ね、俺が酔っ払って帰ってきたら、由香里が天国から帰ってきたのかと思って思わず抱き着いたんです。そしたら、謙也だったんですよ。いやぁ参った参った…イテテ!」
お父さんは昨日の夜の話をしてきた。僕は頬を膨らませ、お父さんの尻をつねった。
「お父さん、まだ買い物の途中だよ…。」
「分かった分かった…。じゃぁ、この辺で。」
僕とお父さんは近所の人と別れて買い物を済ませ、自宅へ帰った。その後は夕食の時間になるまで自由に過ごす。僕は部屋へ向かい、ベッドに仰向けになって天井を見つめた。
(俺がお母さんに似てる…か…。親子だから当然だよな…。)
僕は近所のおばさんが言っていたことを思い出し、僕が持っているお母さんの遺品にあった写真アルバムを取り出した。その中から、中学校の制服を着たお母さんが写った写真を手にして、鏡に自分の姿を映して見比べてみた。この頃はショートヘアにしていたようで、今の僕と比較しやすい。
(すげぇ、そっくりだ…。)
鏡に映る僕は正に、写真に残るお母さんとそっくりどころかそのものだった。だから、酒に酔っ払ったお父さんが僕をお母さんと勘違いして抱き着いてきたのだろう。これならば、僕が“お母さんと似ている気がする”と言われるのも分かる…いや、それで納得してどうする。
(待てよ。もしかしたら…。)
僕は押入れからお母さんの遺品を入れた箱を取り出した。そこからお母さんが着ていた服を取り出す。僕はお母さんの服を恐る恐る袖を通し、鏡に映してみた。すると…。
(嘘だろ…。)
そこには、まるでそこにお母さんがいるみたいだった。つまり、確証はないものの、僕とお母さんの体つきはほぼ同じだったってことになるのだろう。
「お母…さん…うっ、うう…。うわぁぁぁぁぁ~!」
僕はお母さんが甦ったようで、自然と涙が溢れるのを感じた。ベッドでうつ伏せになり、枕に顔を埋めて泣き喚いた。僕もまだ、お母さんが亡くなってしまったことを受け入れられずにいるのだろう。お父さんがお母さんの墓前で悲しむ気持ちが分かる気がする。すると突然、お父さんが僕の部屋のドアをノックしてきた。
“コンコン…。”
「ヒッ!」
「おーい、謙也。大丈夫か?」
「お、お父さん。どうしたの?」
「いや、さっきから変な音がするからどこからしてるんだ?って思ったら、お前の部屋からしてたんだよ。何かしてるのか?」
「えっ?ああ、昼寝してたんだよ。変な夢でも見ちまったみたいだ…。」
「なんだ、寝言か。驚かせやがって…。まぁ、安心したよ。」
お父さんはドアを開けることなく引き返していった。ノックもせずにドアを開けられたらどうなっていただろうか。考えただけでもゾッとしてしまう。僕はお母さんの服を脱ぎ、元に戻した。
(はぁ、危なかった…。)
夜、僕とお父さんはテーブルで向き合い、僕が作った夕食を取った。やはり、お互いに会話がない。こんなことはお母さんが亡くなってからは初めてだった。
「どうした、元気ないな。悩んでることでもあるのか?何でも聞くって言ってるだろ?遠慮するなよ。」
お父さんは僕がおかしいことに気付いた。それはもちろん、お父さんがお母さんの仏前で泣いていたのを見てしまったことを引きずっているからだ。ここで思い切って聞くことにした。
「お父さん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかなぁ。」
「えっ?な、何だ?」
「やっぱりお母さんが死んだこと、今もまだ受け入れられてないんだよな?」
「な、何だ。まだその話か…。だからな、いつまでも引きずる訳にはいかんだろ?俺もお前も、前を向いて歩いていこうな。」
お父さんはここでも否定した。しかし、その眼は僕を見ずにあちこち動いている。明らかに嘘を付いているのが分かる。
「俺が何も知らないとでも思ってるんだ…。」
「謙也。お前、どうしたんだ?何か変なものでも食べたのか?」
「俺、見ちまったんだよ。お父さんが夜、寝る前にしてることをさ…。」
「な、何をだ…。」
「お母さんの仏壇の前で、泣いてたんだろ?そこで、“由香里、お前がいなくなって死にそうだ“って言ってたよな?」
「なっ!うう…見てたのかよ。」
お父さんは僕から視線を外し、床を見た。それはもちろん、僕に知られたくないことを知られたからであるのは間違いない。お父さんは動揺している。しかし、僕はこれで終わらず、更に問い詰めることにした。
(続く)