第七章 その決断が悪魔的な獣道を作り出す
彼女が目覚めた世界、風景、室内、全てが見知らぬもので溢れかえっていた。
目が覚めると、絢爛豪華な純白の天蓋を垂らし、それにマッチする真っ白なベッドに横たわっていた。
何も知らないはずなのに、この世界で過ごしてきたあらゆる記憶が脳と体に刻み込まれていた。
起床してからしばらくすると、メイド服姿の使用人が私を起こしに来た。
着替えを済まし、朝食を取り、学校へ行く準備をする。
彼女がくぐった玄関から振り向いて家を見る。まるで映画に出てくる上流階級だけが住むことができる豪邸であった。
知らないはずなのに記憶があり、そして体が覚えている通学路を歩き大学へ到着する、今日も一日がスタートした。
ストラスマルセイユ国立大学。ラスコー・ポリテーヌ共和国首都に位置する主に上流階級の学生が通う大学である。制服が指定され、家にいるとき以外の外出時も制服の着用が義務付けられている学校である。
戦時中という環境であるからだろうか、銃の使用法から戦い方まで簡単に教える講義も存在している。
私、吉野美帆は異世界のとある国で学問に従事していた。
レンガ造りの豪邸を彷彿させる建物は、その配色や内装にも気品を感じさせる。廊下を行きかう学生たちは比較的落ち着いていて、廊下を走る足音も聞こえず、慎ましやかさな空気が漂っている。
りんりんの助けを聞き入れ、この世界にやって来てから数日が経っていた。
啖呵を切ってここに来たのはいいが、正直自分の世界、自分の家に帰りたくて帰りたくてしょうがなかった。東京から実家へ帰省するのとはわけが違う、物理的干渉が不可能な別次元にある以上、自分の力で何とかすることはできない。
(奥村くん……)
いつも家のことと彼のことばかりが脳裏をよぎる。彼は今どこにいるのだろう、何をしているのだろう、それ以前に――今生きてこの世界に存在しているのだろうか?
超空間の中での私、今考えれば普通ではなかった。この世界は世界大戦の真っただ中である。ただの大学生である私が戦争を終わらせる手助けなどできるはずがない、そんなことは考えずとも分かること、だが、何故かあの時私と奥村くんは彼女の要望を承諾した。
だから決めた。りんりんとの約束は破ることになるが、何とか奥村くんを見つけてこの世界から脱出する方法を探そう、と。
とりあえず脱出できるまではこの世界で過ごすこととなる、自分の周りの人間たちとはコミュニティを作っておこう、心の拠り所がないと押し潰されそうになるから。
≪心ここにあらずって顔をしていますね?≫
今自分が直面している現実の元凶が声をかけた。
「――聞かせてくれない? どうして奥村くんが一緒にいなくて、私はここにいるのかを」
吉野の不機嫌なトーンをぶつけられたりんりんは表情を一切変えない。張り付けたような笑顔が少し不気味であった。
≪申し訳ありませんアレクシアさん。本来であればご一緒できる予定でしたが、私の手違いで……あと、こっちの世界に順応できるよう、存在する意味と言いますか、ええと……≫
「私が大学に通う学生、そして上流階級の娘という存在意義を得れば、放浪者にならず生活する術を確立できる……ということ?」
りんりんは頷いた。その配慮は素直に嬉しい、だがりんりんとの約束を勝手に放棄した吉野には罪悪感が潜んでいる。
≪――じゃあ私はもう行きますね。どうやらお友達が来たみたいですよ?≫
そう言い残したりんりんは風のように四散する。そして、自分の背後から小走りで近づいてくる人影が一つ。
「アレクシア姫様、おはようございます」
肩に掛かるほどの長さの金髪がはらりと舞う。少し堅い雰囲気を醸し出す彼女は、先日知り合った吉野の友達である。リル・エタンダールという名前を持つ彼女が口を開く。
「姫様、またご勝手にお屋敷を出られたのですね? 部屋に呼びに行こうとしたところ既にもぬけの殻、お一人での登校は少々危険です」
リルは吉野、この世界においてアレクシア・アニョルトという名前を持つこととなった吉野を護衛するために派遣された軍人である。ポリテーヌ共和国にとって要人であるアレクシアを守るためこうして学生としてアレクシアの傍につく。
共和国代表の娘という立場でこの世界にやって来た彼女には気苦労というものはたくさんあった。
「――姫様はいきなりそのような立場の人間として新しい人生を始めることになって大変でしょう?」
「それはリルも同じでしょう? いきなり兵士ですものね」
リル・エタンダール、彼女は数年前に現実世界からやって来た人間である。二五歳である彼女がこの場に溶け込めるのが大学の特権であろう。聞いた話によると、この世界にやって来た多くの人たちは大多数が軍人としての立場を与えられているらしい。リルはその一人だ。
「――ねえリル、今この国はラインハルト帝国との戦争中、戦況も押され気味なんでしょ? 国民皆兵とかになっちゃったりとかしないのかな?」
「そうならないために軍隊が頑張っているのです。姫様は心配なさらずとも、きっと……」
リルの声には覇気がない。彼女の『きっと』という言葉にはまるで自信が感じられない。それとなく確信を濁していることはアレクシアにも手に取るように分かる。
開戦当初、多大なる軍事国家であるポリテーヌ共和国はロレーヌ戦線においてラインハルト帝国軍と衝突した。単なる奴隷国家、ましてや警察程度の火器しか保有していなかったラインハルト帝国の攻勢など取るに足りないものだということは自明であった。
だがその自明は虚偽であった。ポリテーヌ共和国を簡単に追い越す軍事力で開戦の火蓋を切ったラインハルト帝国の電撃戦によって、従来の塹壕戦という概念が撃ち破られた。軍上層部、現場の兵士たちの弛緩は一気に引き締められることとなった。
独立を目指して立ち上がったラインハルト帝国が始めた復讐戦争、暴力というツールで表面上の平和を現実のものとしてきたこの世界で起こった大戦争、一夜にして虎に変貌した暴力機がこの国を潰すために起動したのだ。
尚且つ、現在ポリテーヌ共和国は数多の政変に見舞われ、政府の内部分裂を引き起こしている。現役の代表は幾度なく暗殺未遂を繰り返され、その家族にも影響が及んでいる。そして、次期代表候補として最も有力なる人物がアレクシア・アニョルトである。
次期代表候補として、恥じぬ教養を身に着けるため多少の危険はあるかもしれないがこうして大学に通っていることになっている。
(今のところ何にも無いけど、これからどうやっていけばいいのか……)
奥村の捜索、現実への帰還と現在アレクシアが直面する様々な問題、自由に動きたくても動けないジレンマに陥った彼女には打つ手なしのように思われる。
「――何と言いますか、とりあえず今の生活に慣れましょう。まだ共和国が敗戦するとは限りませんし、諦めなさるのは時期尚早かと思いますよ」
アレクシアの曇った表情を見たリルが的確な配慮をする。内心を察せられていたと感じたアレクシアは平然を装い歩くスピードを速めた。
(――そうだよね、まだ諦めるのは早いよ……)
気持ちを切り替え、講義室の扉を開く。
最終授業が終わり、教室から次々と学生たちが退出していく。
筆記用具を片付け、席を立とうとした瞬間――
「――ねえちょっと」
微かに辛辣な雰囲気を含めたトーンで声をかけられた。
アレクシアを見下ろす一人の女学生が立っていた。
「……ええと、何でしょう?」
名も知らぬ女学生の顔に軽蔑の色が浮かび上がっていることに気が付いたアレクシアが、恐る恐る問い返す。
「何って、どうしてあなたがここにいるの?」
意味が分からなかった。
なぜここにいる? 気が付いたらここの学生ということになっていた、などと答えることはできずに返答に困っていると、女学生が畳みかけるように言葉を繋げる。
「あなたは何度も暗殺未遂をされた代表の娘なんでしょ? 戦争が始まって政府もめちゃくちゃ、この国だっていつラインハルト帝国に蹂躙されるかも分からない。みんな怖がってるの……」
「一体何が言いたいんですか?」
アレクシアの疑問に女学生が一層嫌悪を刻んだ顔で反応する。
「――政府もまとめられない、まともな判断もできていない代表だから暗殺されそうになるんでしょ!? 上がダメだから私たち国民も常に戦争に怯えて過ごさなきゃいけないんじゃないの!!」
彼女の叫びが教室を支配した。
教室内の視線を奪う剣幕にアレクシアの心臓が大きく跳ね上がる。公開処刑のように人前で怒鳴られたアレクシアが負けじと反撃する。
「それをなぜ私にぶつけるんですか? 私はただ現代表の娘であるだけで政治にも関わっていない」
アレクシアの主張を聞いた女学生が彼女が座る机を思いきり叩く。
「そんなこと関係ない! ただ評判も悪い代表の娘がいる時点で雰囲気が悪くなるの! 最近はずっと貧しくて困ってる人がいっぱいいるのに関わらず、あなたは優雅な生活を送っているのでしょう!?」
彼女の言うことは決して間違っているわけではなかった。この学校にいて彼女と同じ意見を持っている人間も少なくない、そして一般国民に比べ、父親の影響で多くのお金があることは事実だ。消耗に次ぐ消耗の温床たる戦争が行われている中で、このような考え方が出てきてしまうのは必然であった。
だが彼女の言うことは単なる感情論に過ぎない。怒りに任せて無茶苦茶なことを言っているに過ぎないのだ。しかし彼女の気持ちもよく分かる、アレクシアは自分自身の立場を良いものとは思っていない。
ここで正論を言っても余計に空気が悪くなる、言い返したら彼女を傷つけるかもしれない、だからアレクシアは黙った。すると、閉口を維持するアレクシアの肩が不意に叩かれる。
「姫様、そろそろ帰宅いたしましょう」
ぎゅっと力強くアレクシアの手首を握ったリルが、アレクシアを部屋の外へ連れ出そうと引っ張っていく。
牽引されるアレクシアが背後を振り向くと、涙を溜めた瞳でこちらを睨む女学生がスカートの裾を握る両手をプルプルと震わせていた、戦争の犠牲者を強いられた女の子が、その地獄の根源たる親玉の親族を呪っていた。
力強く革靴で床を踏む音が廊下に響く。講義室を退室してからしばらく歩いたところでようやくリルはアレクシアを解放した。
アレクシアの手首は赤く色付いている。決して悪意からなる握力でアレクシアの手首を圧迫したわけではない。込められた力には何かの想いが隠されていたのだろう。
「リル、どうして無理やり連れだしたりなんてしたの?」
非難するように強い口調でリルに迫る。そんなアレクシアを跳ね返すようにリルは声を張った。
「――姫様は強い方です。ここに来てまだ数日、私なんてまだ立ち直れずにいた時期で、辛い境遇を背負っているのに前向きでいらっしゃいます。だからといってそれを真っ向から受け止める必要なんてないんですよ!」
更に言葉を繋げる。
「姫様の現実、その記憶は全て作られたもの、本当のあなたのものではないんです。いくら人から非難されようが、それはあなた自身が真剣に頭を悩ませることではありません!」
アレクシアは初めて見るリルの剣幕に慄いた。
「お願いですから、そうやって人のことばかりを気にして自分自身を後回しにはしないでください。先ほども、あの学生を傷つけないようにと正論を言わなかったのでしょう?」
見透かされていた。リルの予想は的中している、不安定な情勢で、不安定な心持である以上はあのような感情に任せためちゃくちゃな理論をぶつけられるのはしょうがなく、そこでアレクシアはできるだけ刺激しないよう、あまりストレスを与えないように無言を貫いた。
「姫様がそういった性格なのは薄々気が付いております。ですがこの世界の現状はアニョルト家ではなく、別なものに問題があるのです。あなたがそこまで抱え込む必要はありません」
救われるようなリルの言葉。そうか、自分は周囲に分かるほどの思いを抱え込んでいたのか。
リルの配慮はもちろん嬉しい。だが直接は関係ないとしても、今のアレクシアにはこれが現実だ。作り物の現実だとしても、それは偽物の本物である。
「ありがとうリル――でもね、無視し続けても何も変わらない、だから受け止めさせて? 無理だけはしないから……」
これは反抗だ。リルは自分のためを思って言い聞かせてくれる、だがそれに抗するようにアレクシアは自らの主張を貫いた、それが茨の道になろうとも。
「――そう、ですか。あなたがそうおっしゃるなら……」
リルはアレクシアの主張を真っ向から受け、打ちのめされる。
そう、これがアレクシア・アニョルトの出した答えだ。
アレクシアは代表の娘という立場上、国内に名前は知れ渡っている。アレクシアは既に不安に押し潰されている。だが小さくならずに堂々と、大きく胸を張ってこの世を渡り歩いていればきっと奥村が見つけてくれるのではないか、そう思っていた。
「ねえリル、私だって不安だよ? 奥村くんと一緒に現実世界に帰れるのか、この国はこの先どうなってしまうのか、今の私に何ができるのか、私はどうなってしまうのか、でもね――」
決意を表情で表したアレクシアが、胸の高鳴りを抑え込むように手のひらを胸元に置く。
「りんりんとの約束は果たせそうにないけど、今私の目の前にいる人たちだけでも何とか救ってあげたいって思ったんだ。行動や結果で示せばみんなきっと認めてくれる」
その時、決意に満ちたアレクシアの表情は慕情に変わり、熱を宿した頬が朱に色づいていた。
「奥村くんに会うときまでには、今の私には何でもできるって自信をつけておきたい、そうすれば自分で自分を好きになれそうだから――」
吉野美帆は自分のことが嫌いだった。
どうやったら自分のことを好きになれるのだろう、どうして自分は自分のことが嫌いなのだろう。
色々と考え抜いて、手を尽くした。誰かに認められるために大学では努力し、いい成績をキープするように努めた。だがそれでも自分のことを好きにはなれなかった。
だからアレクシアとして、この異世界で目の前の人を救っていこう、やり方は分からないけど。
認められれば何かが変わるかもしれない、そう思った。
アレクシアの現実世界での記憶、『後悔の可能性』を常に頭の中で描きながらこの世界を生きていく。
「――私はね、リル。この世界では後悔はしたくないし、するつもりもない。現実世界で散々後悔をしてきたからね。だけど、過去の後悔は決して無駄じゃないの、そこに可能性が秘められているから――」
だから諦めずに進んでいこう。
その可能性は単なる幻想でしかないかもしれない、でもやってみよう。
そこに秘めたる難しさ、難しいのならどうやれば乗り越えられるかを探求する。
それがアレクシアの原動力の一つである。
そして――
「だから、全部解決させて、奥村くんを見つけて帰還する――もちろんリルも一緒にね」
決意は固まっている。
あとは実行するだけ――