第五章 序章③
天空を翔ける数機の爆撃機が爆弾を投下した。暴力的であるということでは締めくくれないほどの圧力が戦場を支配した。
敵戦車を破壊することには成功したが、それによって第三分隊の全員が肉塊に変貌してしまったことにかわりはない。部下思いの小隊長にとっては最悪の事態である。
「し……小隊長、第三分隊は壊滅。第一、第二は発見されておりませんが、爆撃機相手では対処のしようがありません。ここは撤退を……」
第一分隊全員の意見を代弁したアーベルが、揺らいだ心で弱音を吐いた。いや、弱音という表現は不適切であろう。彼の発言はごく当たり前のことなのだ。空中を飛ぶ航空機相手に、対空砲も無い今この場で戦闘を開始するのは単なる蛮勇だ。
目の前にいる隊員たちに共感するように表情を崩した小隊長、だが部下たちの背後に迫るとある重圧に気が付いた今、迂闊に撤退指示など出すことができなかった。
「――爆撃機はこの先、味方陣地の中枢にまで進行するだろう。そこの対空兵装に期待するしかない。だが我々のやることは撤退ではない――」
この場の全員が気が付いていた。陸軍兵学校で叩き込まれた台詞がフラッシュバックする。『戦場では訓練通りにはいかないのがほとんどだ。目の前の敵を倒して終わりではないのが鉄則だ』と。
案の定その言葉が顕現していた。
第一分隊の前方数百メートル、地面を蹴る数多の軍靴と履帯が内部から突き上げられるような重い音を発していた。
「――分隊長、敵増援が六時方向より接近中です――」
血の気の失せた隊員の一人が絶望で染まった声音で告げる。先ほど爆撃機が何かを空爆したことを知っているはずの敵兵集団は、残存兵の捜索や、死亡確認でこの辺りを重点的に注視する可能性が高い。
だからといってここで敵前逃亡を犯した場合、ラインハルト帝国では処刑した後に人目の付く場所に吊るされてしまうのが常である。彼らが無事に生き残るためにはここで戦って勝利を得ることだけだった。
ここで完全勝利を収めれば叙勲は間違いないだろう、それほどまでの戦力差での奮闘が幕を開けようとしていた。
「こちら第四〇八小隊だ。現在我が部隊は大隊規模の歩兵部隊との交戦に入る。援軍を要請する、繰り返す援軍を要請する」
『――こちら東部戦線司令部。現在敵爆撃機の対処に追われている。空からの攻撃に備え、不用意にそちらに派遣させることはできない』
「し、しかし――」
『遺憾ながら貴官の要望には応えることができない。我々は人命を数として消費することはしない。目の前のリスクに果敢に体当たりすることはできない』
「無駄死には許さんということか、姫様の御意向通りだな――了解。ヴァルハラへの訪問だけは避けてみせましょう」
『幸運を。貴官の忠誠に感謝する』
切れた通信機を忌々しく握り潰した小隊長の表情の意味を理解した第一分隊諸君は、これから全うする任務へ貢献と逃亡願望の葛藤を全身で感じる。軍に志願した当時の覚悟を思い出すことができるこの場の者は、憶するとしても祖国への忠誠を示すことができる、ただ一人を除いては――
腹の中の内臓が捻じ曲げられるような心境の奥村、彼一人だけがまだ生死の可能性から目を反らし、決断を下すことができないでいた。つい数時間前には平和な世界の住人であった奥村にとって、この決断はすぐにでも出せるものではなかった。
誰一人奥村の心を理解する者いない中、この場の責任者ただ一人がそんな彼の気持ちを察していた。
「小隊長、命令を――」
不安と戦意を融合させた感情を抱くアーベルが責任者の命令を請う。
それに対する小隊長の判断は明快であった。
「第二分隊と合流した後、貴様らは敵部隊の両翼、敵から見て斜め前に展開。火力任せに挟撃しろ。ヴァルトハイム伍長と俺は別行動だ」
明快であると同時に不可解である小隊長の言葉を受け止め、アーベルの鋭い眼光が奥村を貫く。不満と疑念を内紛したその反抗的な視線は、奥村に対する唾棄を意味していた。
自分に対するアーベルの嫌悪感に対して何の思いも無いわけではなかった。『何だその体は?』と、直接アーベルから問われたその質問の意味はまだ分からない。なぜ共和国人だと判断される? なぜ敵対心を向けられる? もう夢なのか現実なのかの区別も付けられない記憶の波が押し寄せる。
各々の信念と祖国への貢献を銃に託し、薬室に弾が装填されているかを確認する。けただましいいくつもの金属音が旋律を奏でる。
最後まで厭悪を乗せた視線を走らせる元友達が自分の役割を果たしに行った。その場に残されたのは奥村と小隊長の二人だけである。
目の前にいる、今にも倒れそうな奥村の肩にそっと手のひらを置いた小隊長はこう告げる。
「――今のままでは戦えないだろう伍長? この期に及んで戦いから逃げようとしている貴様には、再教育が必要だと俺は判断した」
僅かに奥村の体が震えた。小隊長の言う再教育、それはもう一度陸軍兵学校に戻り、練兵過程を経験することを意味していた。つまりそれは前線を離れるということだ。
「……小隊長……」
生気の搾り取られた奥村の声音を心で受け止める小隊長は、もう一度強く奥村に言い表す。
「貴様は俺の権限で、本日をもって除隊する。本来の第四〇八小隊の持ち場に戻り、駐屯地へ帰還しろ。いいか? 何か言われても全て俺の指示だと言え」
一通り説明しきった小隊長は、肩に添えた手を離す。内ポケットから取り出した紙切れに一筆書き添える。
文章が書かれた紙切れを奥村に押し付け、邪魔になったのであろうか、所持する撃突銃を背中に回す。
「ヴァルトハイム伍長、駐屯地へ戻ってこの紙切れを見せてやれ。信じて貰えればきっと逃亡兵扱いにはならないだろう。そして中央本部の人事部には俺の同期がいる。そいつに話をつければなんとか陸軍学校へ戻れるかもしれない。俺はお前が心配だ。他の同期は果敢に戦いに臨んでいる。今だってそうだ、こんな全滅する可能性が高い命令に、積極的に従ってくれた」
まっすぐな瞳で奥村の顔を覗き込む。少尉の目はまっすぐで、優しかった。まるで父が子を思いやるかのように。
「お前は優しいんだ。誰よりも優しい。そして優しさと臆病さが混ざりあって今のお前を作り出している。人間が臆病なのはいいことだ、怖ければ逃げればいい」
「……」
「だがな、怖いことから逃げたらそれを糧にしてぶつかっていけ。再教育期間が終わり、胸を張ってその軍衣を纏えるほどの兵士になったら帰ってこい。そうしたらお前は一人前だ」
「隊長……」
喉が潰れてしまったのかもしれない。腹の中から出した声だが、弱々しいそれは霧のように宙へ散っていった。
「お前は部隊から解かれたんだ。もう俺はお前の隊長じゃない――俺はただのグスタフ・アデナウアー少尉だ」
アデナウアー少尉が本気であることが分かった。こんな俺のことなどほっといて迎え撃ちに急行すればいいものを。だが見捨てたりなどしなかった、アデナウアー少尉の言葉の一つ一つが重く突き刺さる。
「俺はもう老人だ、だからこれからの時代を作るのはお前たちの世代だ――今後世界は武力ではなく、対話という力で回っていくかもしれない、そのためには、お前のように血を流させない優しさ、戦争を起こさせない臆病さが必要になっていくだろう」
アデナウアー少尉は立ち上がった。両手で握りしめた突撃銃が彼の役目を物語っている。眼に力を取り戻した奥村は、今にも遠くへ行ってしまいそうな少尉を見上げる。
「お前は俺の誇りだ、無くすなよ」
そう言って少尉は駆け出した。今も必死に戦っている部下たちのもとへ。
奥村はその背中を見送った、小さくなっていく背中が見えなくなるまで。
もうどれくらい走ったのかも分からない。
激戦地から駐屯地までは数十キロも離れている。出撃の際に使った列車は今は通っていない。前線兵士への兵站物資運搬用の貨物列車も、今の段階ではまだ必要がないということだろうか。
もしかしたら救援に向かった第四〇一小隊の管轄陣地辺りが例外的に撃ち破られたのかもしれない。東部戦線全体の戦局を俯瞰してみると、ラインハルト帝国軍がボリシェビーク連邦の内地まで進出し、敵はその侵攻を押し返せない状態でいる。現段階ではラインハルト帝国に分がある。
ガクガクになった膝は疲労と痛みを伴い、胸を突き破らんとする鼓動を全身で感じる奥村は倒れ込むように膝まづく。全身から汗が吹き出し、寒い気候が熱帯に変わったかのように熱を伴う地肌にピッタリと下着が張り付く。
まだコートに頼る季節と気温ではないが、冬用の厚い軍服の重さと保温にいら立ちのような感慨を覚える奥村は、まだ先の長い駐屯地の方角を見据える。
重い足取り、ふらつく足取り、弱々しい足取り、それは決して疲労だけが原因なのではなかった。
頭がいっぱいだ。
単なる記憶の中の偶像でしかない志願時代、兵学校時代、少ない実戦への参加経験、そこでできた仲間、そので失った仲間、それらが記憶という事実となって奥村にのしかかる。
元小隊長は自分を安全地帯まで逃がしてくれた、もう一度後方の陸軍学校へ再入学しろとの指示。
足を進めるごとに遠くなっていく戦場、元小隊長が気がかりで引き返したい気持ちは多少ある。
だがそれ以上に元の世界に帰りたい気持ちでいっぱいだった。
「くそっ!」
もうどうしていいのか分からない。吉野美帆という女の子にも会えていない。本当ならば彼女に再開してすぐにでもこの世界から脱出するのが賢明であろう。
≪どうしたらいいか分からないって顔してますね?≫
探し求めていた声がした。
隣に線路が通っている他には何もない更地。雲一つない夕焼け空が一層侘しさを強調する。
そんな貧相な場所で、ひときわ目立つ姿があった。
「――りんりん……」
彼の目の前に佇む少女、りんりんの意味ありげな微笑みが夕日に照らされていた。
「今までどこに行っていたんだ? 急に戦場に飛ばされて、急に戦闘だ、こんなの聞いてないぞ!?」
感情に任せて思いのたけを叫ぶ奥村。こんなに人に怒りをぶつけるのは久しぶりだった。奥村の心を受け止めたりんりんは中身のない感情の片鱗を見せるように視線を反らした。一文字に結ばれた口元が悲哀を語る。
≪すいません、私のミスです。本来予定していた時代と場所ではないです≫
「時代と場所って……もともと俺が来る予定だったのって、何世紀も何万キロも離れたところなのか?」
奥村の問いに、りんりんは首を横に振る。
≪いえ、ただ数年と数百キロ離れてしまっただけです≫
「――そうか、だからいきなり戦場に召喚されたのか……だったら――」
俯きがちのりんりんの表情を覗き込むように近づき、いかにも疑義があるといった顔色でこう告げる。
「この記憶は何だ? 知りもしない教官に元仲間、受けたこともない訓練。更には軍服姿で銃まで持って、お前の言う協力しろってのは戦争に加担して勝利しろってか?」
言った。
彼女の近くで、声は抑えながらも思いの全てを解き放った。
この世界の記憶なんて欺瞞でしかない、だがそれが妙なリアリティを持って現出しているのが怖かったのだ。
さて、どう切り返す?
大きな不安を抱えた質問をぶつけられた彼女はどう応答する?
俯きと長い前髪で表情ははっきりとは確認できない。奥村をこんな目に合わせたことに罪悪感を覚えているのだろうか、それとも――
≪――奥村さん、実は――≫
風に乗って靡く黒髪、彼女の困った瞳が示す色香とは裏腹に――
彼女の口元はくっきりと引き裂かれていた――
砲声と弾着の轟音が衝撃波となって地面を這いずり回る。
近づくにつれてきつくなってくる戦争のに匂いが鼻にこびり付いて離れない。
りんりんと出会った後、奥村は元来た道を引き返していた。
赤くなった彼の右拳は霜焼けなどの自然なものではない、殴打という物理的な事象によって顕現したものだ。
頬に正拳を入れられたりんりんは汚い地面に倒れ込んだ。
俺は女の子であるりんりんを殴ってしまったのだ。
だがそこに罪悪感などない。あるのは達成感と彼女への恨みだけだった。
夕焼けに照らされる二人の男女。
はたから見れば仲睦まじい距離で彼女の顔色を伺う彼氏にも見えなくないが、実際はそのような空気ではなかった。
「――何で俺たちがこんな目に……」
りんりんから全て聞いた。
この世界に連れてきた本当の理由を。
その瞬間、りんりんの体が地面に倒された。
それに気が付いたのは、俺が拳をロケットのように突き出していた後だ。
そして俺と吉野が彼女の要望にまんまと乗せられていた理由、普通であれば平和な時代に生まれた男女がそう簡単に大戦時代の世界に行くことを決断することなどあるのか?
自分の命を賭するやもしれないリスクを背負ってまで関係のない世界のための奉仕活動に参加するだろうか?
同情はしても、自ら首を突っ込んでいくなど普通の大学生にはありえないことだ。
だがそれもりんりんが絡んでいるのは明白である。
それを知った今、俺の拳は意思よりも早く、石よりも硬かった。
そして自分たちの世界に戻ることも今はできない――そう知った俺は落胆した。
何もかも投げ出したくなった俺は、まだ心残りがいくつかあるようだ。
吉野美帆と俺を逃がしてくれた元小隊長だ。
第四〇八小隊の管轄地帯を抜け、第四〇一小隊の陣地に到着する。
「やっと、到着した……」
人生の中でここまで必死に走ったことはなかった。だがフラフラであった足に鞭を打つことができたのはある想いがあったからだろう。
もちろん自分にできることはないと思っている。今更前線に返り咲いたところで他の連中の邪魔になるだけだと、だが一目元小隊長の姿だけでも確認したいと思ってここまで戻ってきた。
しかし、少しの希望を宿した奥村の思考がボロボロにされるまでは刹那である。
砲撃や爆撃で原型を留めないほどに崩された塹壕、おそらく第四〇八小隊のメンバーであるだろう死体が石ころのように転がっている。
その中に一人、決してこんな形で見つけたくはなかった人がいた。
「――小隊長」
奥村の唯一の理解者、グスタフ。アデナウアー隊長が倒れていた。魂が抜けた人形のように横たわっているその遺体の手には、一つの拳銃が握られていた。
小隊長の結末は容易に理解できる。だがそれを今の奥村に突き付けるにはあまりに残酷なリアルである。
奥村の微かに開いた口から洩れるのは、半自動的に出される息だけだ、言葉という概念が消失してしまったかのように、聞こえるか聞こえないか程度の呼吸音が四散する。
「!?」
そんな奥村の頬を何かが撫でた。
優しくぬくもりもあるが、妙な禍々しさのある手のひらが彼の頬を撫でたのだ。
にこやかな笑顔を張り付けたりんりんが立っていた。
腹の底から抑えがたい殺意が湧き上がる、だが奥村の気持ちに鍵をかけるように言葉を放った。
≪小隊長さんが死んで悔しいんですね?≫
「……」
≪こんな状況を打破できるほどの力が自分にあればよかった≫
吊り上げた口元が更に深い溝を作る。拍車をかけた笑顔でりんりんは奥村に歩み寄る。
≪あなたが望めば、誰かを救えるだけの力を与えてあげますよ?≫
奥村の顔をりんりんの吐息がくすぐる。今にも唇が触れそうな距離で語ったりんりんの言葉は巧みに奥村を突き動かした。
「だったら――その力を寄越せ!!」
その瞬間、りんりんの瞼が大きく開かれた。黒よりも黒く、悪よりも極悪な微笑みで一世一代の宣言をする。
≪――いいでしょう!! 保証期間は〇分です、四割の生身の体とはおさらばですよ人間!!≫
奥村の胸元に手のひらを押し当てるりんりん。かつて経験したことのない衝撃と衝動に全身をかき回される。正気が狂気という獣に食い尽くされる。あらゆる細胞が書き換えられ、もはや長年連れ添った自分の体が分解を始める。再構築された部品が体の一部として集約し構成される。
目覚めた狂気が奥村の精神を覆いつくし、不完全なフリードリヒ・ヴァルトハイム、もとい奥村真広が完全に粉砕され――誕生したのは完全なる最狂なフリードリヒ・ヴァルトハイムである。
全てはりんりんの計画通り――と言わんばかりの恍惚をその顔に宿したりんりんが台詞を投げる。
≪こんにちわフリードリヒ、あなたは最高で最低な機械化人間に早変わり。ハリウッドを超える史上最大のエンターテイメントの開幕です!!≫
世界を壊し、世界を創ろうとした演出者はこうして顕現した。
偽物の自分の意志に従い、今まで積み上げた全てを捨てた今、彼の目的は完全にすり替えられた。
もはや吉野美帆に再会することなど、ただの夢の世界であるだろう。