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第四十九章 世界のために

 決して明るいとは言えない非常灯が照らす下。

 施設全体の喧騒が響き渡るファルネスホルン最高評議会議事堂。

 建物全体を一斉に停電にまで追い込むだけの電力を消費する強制執行。

 それは対象を追い詰めるだけ追い詰め、そして沈黙した。


「――まったく……」


 それまでの驚嘆を乗り越え、気持ちを切り替えて目の前の不可思議に立ち向かうアイドレード議長。


「君はどこまで強情なんだ……」


 吸い出されかけた『ワルプルギス文書』は再び彼女の中に宿り直す。


「いや――強情なのは文書の方か……」


 砕かれた『ワルプルギス文書』は最高評議会の許に還ることを拒んだ。

 そして新たな持ち主を選び直した。


「例え壊すことのできる程度の強度だとしても、その意志の固さはオリハルコン級か……」


 美帆と文書の両者にかけられた言葉。

 

 対する美帆は全身を貫く苦痛が消え去ったことを確認し、未だ震える体に力をこめる。


「……まだ少し体がだるくて、目の前がモヤモヤします……」


 荒い息を吐き捨て、美帆はその場で上体を起こす。


「……でもこれが現実だと、はっきり認識できます……」


 美帆はズレ落ちそうな汗まみれの制帽を脱ぎ捨てる。


「私も文書とやらも……最後まで抗うことができたみたいですね……」


 強張る美帆の表情筋。

 だが無理に笑顔を作り、高らかな勝利の余韻を堪能する。


「……そうか」


 いつの間にか前のめりになっていたアイドレード議長は背もたれに体を預ける。


「そうまでして君を望んだのか……文書は……」


 額の汗を拭い、思案しながら虚空を見つめる。


「覚悟なんて甘いものではないな――運命や宿命といったものを自ら手繰り寄せた結果……とでも表現すべきかな……」


 勝利の微笑みを見せる美帆を前にし、アイドレード議長もつられるように表情を緩める。


「私の……我々の負けだ、人間め……」


 うなだれるように吐き出される降伏宣言。

 神による絶対攻勢を防ぎ切った美帆は、凝り固まった緊張感を吹き飛ばすように息を吐いた。


「――よく聞き給え吉野美帆。結論から話すと、君が望みを叶えることはすなわち今まで過ごしてきた人間としての器を破棄することになるのだよ?」


「――はい」


「――文書の神力を駆使すれば、神の力を取り込んで死滅寸前の奥村真広を救護し、彼の世界に還すことだって可能だろう」


「――はい」


「――だがしかし……」


 そこでアイドレード議長の言葉が詰まる。

 人間の美帆でさえ彼の思考を予見できるだけの根拠を、議長は顔に浮かべていた。


「――奥村真広と言葉を交わすことすら叶わず、君は人間界から足を洗う……」


「それも……承知しています……」


「――だがまあ、文書を使わなかったとしても奥村真広は生きられない」


「……」


 美帆が文書に愛されていなかったならば、誰もが不幸になる。

 美帆が文書を使わなかったら、誰もが不幸になる。

 美帆が文書を使えば、美帆以外のすべての人々から不幸は消えてなくなる。


「女神によって別の世界から転移してきた人間も元の世界へ強制送還される――生きていればの話だが」


 生きていればの話――

 美帆は力の入り切らない手をぎゅっと握りしめる。

 転移後の世界における美帆の理解者――リル・エタンダールはすでに死亡してしまった異世界転移者である。

 世界と人々を再生できても、一度死んでしまった異世界の人間は再び魂を得ることはできない。


「今回の『ジークライヒ作戦』でラインハルト帝国は戦争目的を達成した。総帥であるエレナは今後平和路線で外交を進めていくだろう」

 

 ラインハルト帝国が決行したポリテーヌ共和国決壊計画『ジークライヒ作戦』。


 旧時代に起きた関ヶ原の戦いにおいて、小早川秀秋が西軍から東軍に寝返るように策略を仕掛けたことを由来とした、第1段階『セキガハラ作戦』。

 各石油プラント、鉱山の割譲に加え、軍事技術、帝国枢軸国総戦力の開示によって、戦後における利益を提示することによってリバティー合衆国は枢軸側に就くに至った。

 

 第2段階では敵航空戦力及び対空兵器の完全排除を予定した『九九式流星作戦』。

 ラインハルト帝国軍の誇る、99両の地対空誘導弾を装備した車両を主としたものである。


 そして『ジークライヒ作戦』の後締めである第3段階『憤怒の夜明け作戦』。

 制空権を完全に掌握後、本国より出立した大型爆撃機、及び複数の護衛戦闘機からなる『箱舟船団』を、ポリテーヌ共和国首都へ向かわせる。

 『ジークライヒ作戦』に先立って、首都を取り囲むように戦線を押し上げたラインハルト帝国軍に対し、ポリテーヌ国民は一番安全とされる首都へ大規模疎開を余儀なくしていた。

 そこへあの光の粒子が舞い散ったのである。

 ポリテーヌ共和国人としてのDNAを持つ人間だけに作用する、脳を破壊する人工物質。


「だが世界がそれに協調するとは限らない。帝国による傷跡は決して浅くはない、世界大戦という記憶がある限り、それによって永年足を引っ張られることは確実だろう」


「――であれば、私が文書の力を使った暁には……」


「――女神エレナの引き起こした報復という名の大虐殺だけでなく、世界の争いの記憶が文書の力によって無に帰すこととなる」

 

「それは――」


「世界を創り返る。戦争によって喪われるはずだった命はなくなる」


 誰もが幸せに生きることが世界を創り出すこと、それこそが『ワルプルギス文書』の悲願であり、目的だよ――アイドレード議長はそう付け加えた。


「では……今の世界の人々は……」


「安心し給え。一度消失はするが、再構築された平和な世界で再びその命が与えられる」


 一通りの説明を終えた後、アイドレード議長は美帆の胸――正確には心臓付近に指を指す。


「後は文書に強く願うだけだ。さすれば文書は君という存在を女神として再生し、あの世界の管理者として生まれ変わらせる」


 ――エレナは元々君がいた世界の管理女神だ、彼女には彼女の世界に戻ってもらうことになる。


「討伐対象であるりんりんは管理者権限を剥奪。厳粛な断罪を加えるため、君に一つお願いがある」


 アイドレード議長は視線をスライドさせ、ちょうど美帆の腰に焦点を当てる。

 そこにあるのはベルトに挟まれた神秘の魂を宿した一挺の拳銃である。


「その拳銃はエレナが創った対神兵器、そして殺した神の力を吸い取るという付録付きの逸品だ。君はその銃に囚われた存在に気が付いているだろう?」


 美帆はそっと話題の拳銃へと目を向ける。

 あの世界で瀕死の状態でいた時、彼女は銃の中の存在と思考を交わしていた。

 随分と残念な姿に変わり果ててしまった、あらゆる元凶。


「――その銃を渡してもらいたい」

 

 それがアイドレード議長の、最高評議会の要望である。


「それは先ほどおっしゃっていた断罪……と関係があるのですか?」


「そうだ。我々の落ち度とはいえ、りんりんを悪魔にしてしまったことの決着はつけなくてはならない」


 アイドレード議長はばつが悪そうに舌を噛む。

 彼らとりんりんの間でどんな確執が起こっているのかは知る由もない。

 だがそれは美帆がりんりんの魂の宿る銃を渡さない理由にはならない。


「……これをお渡しします」


 美帆は重い腰を上げ、力の入り切らない筋肉に全力で火を入れる。

 デスクの上にルガ―を置き、所有権を放棄した。


「――確かに受け取った」


 アイドレード議長は拳銃を鷲掴み、何か思いを込めるように目を瞑った。


「――私にはいずれ責任を取らなくてはいけない時期が来る。それがどのような形で来ようとも、不思議ではないな」


 意味深に独り言を呟くアイドレード議長。

 しばらく瞼を閉じた後、ゆっくりと目を見開いて銃に視線を落とす。


「――頃合いだ吉野美帆、これ以上は君の想い人の生命に関わる。すぐにでも世界の創り直しをするべきだ」


「――はい」


「神々の力を結集した文書を信じ給え、君は文書の力によって即座に女神としての体と魂を手に入れることとなる。死にゆく人間としての自分に語り掛けたい言葉はあるかな?」


 その言葉はアイドレード議長なりの優しさなのであろうか。


「大丈夫です、人間を辞めてしまっても私は私です。人間としての器というものは、一生私の心の中に生き続けるでしょう」


 そうだ。

 人間であろうが女神であろうが、吉野美帆は吉野美帆である。

 今まで生きてきた記憶は心の中で生き続ける。

 後悔も心配もない。


 アイドレード議長は美帆の強い意志を再び感じ取る。

 決して濁ることを知らない瞳、人間という小さな存在にはふさわしくないほどの血気ある決起を読み取った。


 あらゆる準備が整った中、それまで無言を貫いていた警備兵たちが小銃を下げ、美帆に対して敬礼をする。

 それは新しい仲間を歓迎するための敬礼であった。


「――万事了解した。君を新たな女神としてファルネスホルン聖域に歓迎しよう、世界と民のために最善を尽くし給え」

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