第四章 序章②
貴様はこの国の兵士となる者だ。
志願してこの戦争に貢献するつもりなのだろう? だったらそれ相応の意欲を示せ。
さあ訓練兵、貴様は兎の糞だ。だが泥と血にまみれながらも敵を殺すための存在に昇華する。
銃を取れ、構えろ、狙え、撃て、それで敵の命は失われる。
走って、隠れて、撃って、援護して、殺して、殺して、殺す。簡単な仕事だ。
殺し方は自由だ。銃弾で仕留めようが、銃剣で刺突しようが、スコップで撲殺しようが。
実戦では想定外のことは必ずと言っていいほど起こりうる。だから変動する戦況に柔軟に対処しろ。
うむ、貴様も兎の糞からコヨーテの糞に成長したな。だが、まだまだ先は長い。貴様が誉れ高き帝国兵となるにはまだまだだ。
貴様もいい目をするようになったな。眼力だけなら百点満点だ。
本日をもって貴様らは馬糞を卒業だ!!
貴様らが纏う軍服は帝国の象徴だ!! それを着ている以上、貴様らのやることは真っ赤な流血を噴出させ、汚物にまみれた臓物を引きずりだして苦痛を与えることだ!
軍隊は貴様らの我が家同然、戦友は家族だ! 家や家族に危害を与える敵国兵士に神聖なるラインハルト帝国の領地を踏ませるな!
最強であり最狂の兵器である貴様らには戦地に向かってもらう。
さて番犬諸君。戦争だ。
何だろう。
夢を見ているのか?
知らない場所で、知らない人で、知らない声だ。
でもそれは心と体に深く刻み込まれたような感覚を匂わせる。
東京で生まれて、そこで育ち、たまたま受かった国立大学で学生をやっていた。
あれは現実だ、さっきまではそこでとある女子学生とずっと会話をしていた。
わざわざ俺に言伝を伝えに来てくれて、色々とかわいい子だったな。
でも、それが遠い昔みたいに思えてくるな。
あの子は確か――吉野美帆だっけ? 同じ講座を履修してる。
そして俺は、奥村真広って名前のはず――だよな?
よお。俺はアーベル・ハインツだ。お前は、フリードリヒ・ヴァルトハイムって名前か? よろしくな。
これから地獄みてえな戦場に行くんだな。国のために志願して前線に来たんだが、緊張と不安で胸が張り裂けそうだ。
訓練の時は軽い引き金が、実戦になると急に重くなる。まだ人を撃つ覚悟ができてないのかもな。お前はどうなんだ?
まさか一発食らっちまうとはな。こうやって貰える戦傷章って、なんかあまり嬉しくないな。
お前、何だよその体は!?
お前、実は共和国人なんじゃないだろうな?
なんで帝国人がそんな力を持っているんだ?
知ってるだろうが、共和国の糞共が俺たちに何をしてきたのかを。
何で共和国人が帝国側について戦争なんかやってんだ?
どうして何も言わないんだ?
触るなよ。
このいけ好かない異邦人が。
「はっ!?」
長い夢を見ていた気分だった。
現実ではない現実が、夢の中でフラッシュバックしたのだ。
未だに覚醒しきらない思考の中、奥村は辺りを見渡した。
思わず息を呑む。
異郷。
視界に映る景色は全て知らないものであった。深く掘られた塹壕に、何人もの兵士たちがものすごい剣幕で銃を撃っている。死んでいる人間もいれば、血を流して苦痛に顔を歪めている者も数多くいた。
そして耳をつんざく激しい轟音。とめどなく地面に叩きつけられる砲弾の嵐。爆発で吹き飛ばされる粉塵の雨。
視角と聴覚で捉えた情報を頼りに、今自分が存在しているこの場所を割り出す――答えは一つだ。
戦場。
その戦場における塹壕の中に、今自分は存在しているのである。
ミンシク 東部戦線 ボリシェビーク連邦領内
泥が付着して粉っぽくなった軍服とヘルメットに身を包み、両手に保持する小銃。自分が軍服に身を固め、今が戦闘中であることを理解するには十分すぎるくらいの情報量である。
ぼんやりとする思考を爆音がかき消し、若干だがようやく頭の中が明瞭となる。
だが明瞭となったところで、この現実を受け入れるにはまだ力不足だ。
固く握られたkar98kが文鎮のようにズッシリとその迫力を披露する。これは偽物ではない、本物だ。という不思議な感覚が、彼の緊張を物語っている。
「何だよ……ちくしょう……」
鼻孔を突き刺す刺激臭に吐き気を覚えながら、自分の運命を呪った。
しかし、なぜこんな場所にいて、なぜ戦闘に参加しているのかが分からない。何か大事なことを忘れているかのような――
「ヴァルトハイム伍長! 我々第四〇八小隊は東の第四〇一小隊の穴埋めに行くぞ! ここは四〇九小隊に任せておけ、死体から弾薬を回収しろ!」
気を張った小隊長の野太い声が塹壕内に反響する。頭の中では知らないヴァルトハイム伍長という単語をに、なぜか無意識に反応した奥村が咄嗟に戦友の遺体に駆け寄る。駆け寄るはいいが――
奥村が今漁ろうとしているのは人間の遺体である。
見ず知らずの人間の血にまみれた熱を宿す、しかし冷たい肢体を目の前に、奥村は絶句しながら座り込むしことしかできなかった。
彼の背後では痺れを切らした小隊長の怒声が響く。おそらく遺体を前に腰を抜かしている自分に対する罵りであろう。
小刻みに震える奥村の両手が今の心情を表していた。
遺体に触れるのが嫌だ、それは届くことのない声で心中を飛び回る。
そしてそれ以上に――
帰りたかった。
いつもの日常に帰りたいのだ。
遠い昔のように頭の中に居残る過去の、現実の記億の世界である。
「っ!?」
奥村は思い出した。
こんな地獄のような世界に迷い込んできた理由が。
「――吉野とりんりんはどこに行ったんだ?」
吉野の姿も、そして俺たちをここに連れてきたりんりんもいない。
「――くそっ!」
俺たちはこの世界に来る前に、世界大戦中の世界で、地獄の火蓋が開け放たれたような戦闘を終わらせ、平和な世の中を取り戻すことの手伝いをするということの説明を受けて、それに同意した。なぜ同意してしまったのかは自分でも良く分からない、だが同意してしまったのだ。
(いきなり銃持って戦闘行為なんて聞いてねえぞ……)
りんりんへの怒りと自分の不甲斐なさへの怒りがないまぜになった気持ちに任せ、奥村は保持していたkar98kを力任せにぶん投げた。
重い音を上げて地面に叩きつけられた銃身が力なく横たわる。泥だらけのその銃は持ち主を失い、まるで魂を無くした置物である。
「伍長!」
あらゆるものを放棄した奥村の左頬に、鋼のような鉄拳が突き刺さった。
台風に煽られるように地面に倒れこんだ奥村。痛みに耐えかね、幕を閉じかけた彼の瞳に反射したのは拳を振り切った小隊長の姿である。真っ赤に染まった顔でこちらを見下ろしている。
「ヴァルトハイム伍長! 貴様――」
頑強な両手で奥村の胸倉を思いきり掴み上げた小隊長は、鼻と鼻がぶつかりそうなほどの距離で怒号を張る。
「私が命令したのは弾薬を回収しろ。だ! 誰がオリンピックの槍投げ競技で金メダルを取れと言った!?」
脱力しきった奥村は動くことができなかった。
「貴様は志願兵だ! もとより死地に赴いて祖国に貢献を為す以上、これしきのことは予想の範囲内であろう!? 貴様は敵を殺すためにここにいる、敵を殺し、我が英国を勝利に導くのが貴様の宿命だ!」
小隊長の再度の鉄拳制裁でズタズタに引き裂かれた口内に血が充満する。口の端から垂れた血を拭う奥村の小さな姿を見かねた小隊長が、投げ捨てられたkar98kのもとへ駆け寄った。
砲弾の弾着で吹き飛ばされた泥や砂塵を頭から被ろうがお構いなしに、銃の負環を鷲塚む。
手短に損傷部がないかを確認し、使える弾薬を周囲の遺体から回収する。
「伍長、これを持って私と共に来い。四〇八小隊の生き残りをかき集めて支援に向かうぞ!!」
奥村への配慮として優しく銃と弾薬を投げる。銃身に取り付けられた銃剣に触れないように全身でキャッチした奥村が、いそいそと弾薬を弾薬ポーチに収納する。
「よし。伍長、私のケツを見失うなよ」
被弾面積を小さくするために低い姿勢で塹壕内を走り抜ける。
前へ進むごとに新しい戦友だったモノが次々と姿を現す。異臭と嘔吐感で息が詰まりそうになるのを必死で堪えて、目の前を走る大男についていった。
本当はついて行きたくなどない。
彼は吉野を見つけて早く元の世界に戻りたいのだ。
りんりんの力になるためにこの世界に来たのだが、その約束はもう果たせそうになかった。
顔も心も涙でいっぱいだ。
帰りたい、そして吉野にもう一度会いたい、そんな不安定な心持で戦場を駆け抜ける。
数百メートル離れた第四〇一小隊の管轄下では、敵機甲部隊の侵入を許していた。
奥村達第四〇八小隊が到着したときには時既に遅し。他の部隊が増援として既に到着していたようだが、それも悲惨な残骸に変わって横たわっている。
味方戦車の瓦礫から流れる燃料に気を付けながら周囲に目を向ける。ここは敵兵が侵入してきた可能性が高い。敵兵が残っている場合いつ塹壕内での遭遇戦が始まるのか分からないのだ。
「マズったな、少し遅かったようだ。総員、敵を見つけたら構わず銃撃しろ。投降した捕虜もだ、憲兵隊に引き渡す暇もない」
地面に転がる薬莢や銃痕の形跡から、この場所で戦闘が行われていたことが手に取るように分かる。
夢の中で教え込まれていた動きで警戒しながら歩を進める。戦闘訓練など実際には受けたことのない奥村が、自然と兵士の動きを実践していることに不思議な感覚を覚える中、戦闘を行く小隊長に続き、その背後を護る隊員たちの歩みが止まる。
「敵兵を発見。塹壕外に多数、随伴歩兵だ。近くに戦車もいるぞクッソたれめ」
奥村を含め、全員の表情が曇った。歩兵だけならばなんとかできたかもしれない。だが敵戦車に対する十分な装備が無い今、迂闊に接近すれば補足されて銃撃と砲撃が迫るのは明白だ。
「全員しゃがめ」
被発見を避けるために小声で指示を促す小隊長。塹壕の壁に張り付くように隠れ、各々が銃口で静かに敵兵へを指さす。
「いいか貴様ら? あの集団は第四〇一小隊のプライベートスペースを突き破って前進している。防衛ラインに穴が開けられ、後続の敵さんがわんさか後に続くなんてことになったら大騒ぎだ」
緊迫した顔色の小隊全員が息を呑む中、小隊長だけは動揺を抑えるように淡々として述べる。
「いいか、三つの分隊に分かれよう。まずは第一分隊がこの場所から見える敵歩兵を全て、同時に排除する。第一分隊の一斉射撃が行われる前に、第二分隊がこの塹壕を通って敵戦車の側面へと回り込む」
一旦一呼吸を入れるように話を区切った小隊長が、支給品のベルトに挟んでいた棒状の物体を取り出す。
M24型柄付手榴弾と呼ばれるそれを、全員が所持していることを確認した小隊長が再度口を開く。
「一斉射撃で敵の注意が第一分隊に向けられる。銃火の切っ先が別方向に向けられている間に第二分隊が別の敵兵に接近、相手の注意が第一分隊方向向けられている間に二射目を第二分隊が敢行する作戦だ」
一通りの作戦概要を説明した小隊長に疑義を宿した面の兵士が口を開く。
「失礼を承知で申し上げますが、それではまだ戦車の排除ができておりません。作戦計画をもう少し綿密に練られては――」
アーベル・ハインツという名前を伍長は当然ともいえる意見具申を小隊長にぶつける、視界に入っているはずの奥村をわざと無視するようにして――
そんなアーベルの不安をがっしりと受け止めた小隊長が、自分の考えた計画とその自信を、吊り上げた口元で語ってみせる。
「安心しろ、そう急くことはない――残る敵戦車は第三分隊に任せる、作戦内容は――」
「――帝国兵の姿はありませんね。ここいら敵は殲滅できたのではないでしょうか?」
先ほどまでの近接戦闘が嘘と思えるほどの静けさを放つ空気に包まれたボリシェビーク軍兵士が安堵を含めた声音で告げる。
「気を抜くなよ伍長。帝国兵は収穫前のジャガイモみてぇにどこかに隠れているかもしれねぇ」
「なるほど隊長、腐ったジャガイモは地面の中で食べられずに芽を出してるってわけですか?」
「そうだ。だから芽を食って腹下さねぇようにしっかりと警戒しろ。もしかしたらいきなり銃撃がいらっしゃるかもしれね――」
その時だった。
発言を締めくくる直前で一発の銃弾が小隊長の頭を貫いた。
それと同時に発射された数十発の弾丸が兵士たちを薙ぎ払った。
命を落とした隊員の亡骸が力を失い、重力に従って地面に倒れ込み始める瞬間、ボリシェビーク軍兵士は血相を変えて銃撃が行われた場所だと予想される地点に銃口で睨みを利かせる。
即座に発砲された短機関銃の砲火が火花を散らせる、だが敵の姿が見えない以上撃ち込まれた銃弾は砂塵を巻き上げて地面にめり込んでいくだけだった。
「――第一分隊、上出来だ。射撃目標以外の敵さんからはこちらの姿は目視できない。今のうちに敵の視界に入らないように前進だ。見つかってケツを掘られないように注意しろ」
その時数十メートル先で銃声が轟いた。おそらく第二分隊が残る敵兵の排除に成功したのだろう。
「分隊諸君、ここで敵の排除に成功し、防衛ラインの中に入っていった敵部隊を食い止めている味方部隊に合流するぞ! 後ろからケツを叩いて挟み撃ちだ、弾薬は温存しておけよ!」
分隊全体の戦意を鼓舞して全員の前に立つ小隊長、とても大きなその背中を見つめる隊員たちの士気が上昇を続けているのがひしひしと肌に伝わる。
ある程度の落ち着きを取り戻した奥村は考えを放棄していた。自分の身に何が起こり、そしてこれから先どうなってしまうのか、考えれば考えるほど不安が積み重なっていくことに飽きた彼の心は無に等しい。
今の状況を受け入れているふりをしていれば、少しは気が楽になると確信していた、よって奥村は現状に同化したのである。
身を低くして走り出した小隊長に連鎖するように後ろの部隊全員が走り出す。
残る敵戦車一両を片付ける第三部隊を信じている、だが不安がないわけではない。神妙な表情で戦場をかける小隊長の内心は薄い泥雲に覆われていた。
第一分隊、第二分隊の奇襲により歩兵を失ったT-34は万が一の対戦車攻撃を恐れたのか、全速で履帯を後退させる。
戦車から見て三時方向に隠れる第三分隊は、歩兵を片付けた第二分隊からの合図を待っていた。
徐々に遠ざかっていくT-34の砲身が右往左往と回転し、乗組員の動揺ぶりがうかがえる。
「まだだ、まだ堪えろ……」
今にも飛び出しそうにうずうずとしている第三分隊の隊員の落ち着かせるように嘯く軍曹は、今か今かとその瞬間を待ち続ける。
そして――
T-34を視界に収めた第二分隊の重機関銃の銃撃が左の履帯付近に着弾する。銃身が真っ赤に過熱されていることにも気を留めず、引き金を絞る指に力を籠める。
発射される幾多の弾頭から逃げるように旋回した戦車は、泥まみれの車輪に精いっぱいの馬力を使うようにして前進した――第三分隊がいる方向の斜め横へ。
「来たぞ合図だ! 分隊総員、戦車狩りだ!」
塹壕に二人を残し、軍曹に続いて複数人が飛び出した。
突撃要員が泥に足を取られ、転びそうになりながらも戦車へと取りついた。戦車に搭載される機関銃に注意しながら操縦席のハッチと車長展望塔を確保する。
残る数人が戦車の上から銃を構え、不意の敵戦車兵の攻撃に警戒する中、銃剣とスコップで無理やりハッチをこじ開ける。
「ポップコーンにするぞ、全員戦車から離れろ!」
軍曹の合図でハッチを開閉しようとした直後――
戦車を中心に辺り一面が爆発によって吹き飛ばされたのだ。
塹壕内で待機していた兵士も巻き込んだその大爆発は、天からの雷撃のごとく降り注いだものである。
大きく抉られた地面にはクレーターがが出現し、ばらばらになったあらゆるものが熱を発して陽炎を作り出していた。
「爆撃機だ……」
呆然と空を見上げた小隊長が発した最悪のセリフ。
最低で最悪のシナリオが奥村に到来した瞬間であった。




