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第三章 序章①


 西暦2018年 東京


 うだるように暑い夏が終わりを迎え、都会の街並みにも爽やかな風の吹く紅葉の季節。


 とある都市部の位置する国立大学、荘厳な門を構えたその大学のキャンパス内では、授業を終えた学生たちの下校や部活などの騒がしい声が響いている。


 

 五号館 三階 研究室前



 建物の外とは別次元の閑静を保つ校舎の研究室の扉が開かれた。


 中から出てきた吉野美帆という名を持つその女の子は、自主的に執筆し添削されたレポートを受理し、成績の高評価をいただいて満足らしい微笑みを湛える十九歳の大学一年生である。

 

 部活に所属していないという特権を利用して、放課後すぐにお気に入りのカフェでくつろごうと思い起こす彼女は、研究室でついでとして承った仕事をこなすために教室へ向かう。


 自然と速足になった吉野は、何故か教室の前で入室することなく立ち止まった。


 ポケットから取り出した手鏡で前髪を整えつつ、ひとしきり深呼吸した後で意を決する。


 気持ちを整える直前まで委縮して小さく見えたその白い手は、勇気を含んで大きく見える。

 

 力を込めて開けられた扉の向こうの空間は、先ほどまで彼女が授業を受けていた教室である。


 いつもと同じ教室。レースカーテンの向こうに透けるのは、太陽と青空の下で広がるキャンパスと街並みである。


 その時、窓側からの微かなそよぎ風が吉野の茶髪を揺らし、頬を撫でる。


 若干開かれた窓から入る微風がレースカーテンを揺らす中、その風上の席に座る一人の男子学生の姿を捉えた刹那、吉野の心が鷲掴みにされた。


 恍惚に支配されたその瞳の先に存在する男子学生――奥村真広は、一人机に向かって黙々と作業をしていた。補習課題であろうか、シャーペンを動かす手つきとは打って変わって、顔からは生気が薄れている。


 深呼吸もした、鏡で髪型もチェックした、そう心の中で言い聞かせた吉野は、密かに愛慕を寄せる男子のもとへ歩み寄る。




「ん?」




 こちらの存在に気が付いた奥村がくぎ付けになっていた課題から視線を移す。


 「奥村くん、ちょっといいかな?」


 緊張で小動物のように小さな態度と声でかけてしまった第一声に耳を傾けた奥村の視線の矢印が、吉野に固定される。


「あのね、課題を明日の午後六時までに研究室に持ってきなさいって、教授が――」


「……この量を一日でか?」


 小さく頷く吉野を視認した奥村の心が折れる。

 

 肘をついて嘆息する彼の姿にも高ぶりを覚える吉野は、今の彼の姿を心の中で永久保存する。


 そんな吉野の心中を知る由もない奥村は、忍耐の限界を迎えておもむろに立ち上がる。


「? ど、どうしたの?」


 深い色を宿した虹彩で奥村を見つめる吉野の呈した疑問にこう返答する。


「教授に直談判して課題の量を半分にしてもらう」


 素っ頓狂な声で驚嘆を表した吉野を尻目に、奥村はいそいそと部屋を出て行こうとする。


 度胸はあるが、忍耐がない奥村に空いた口が閉まらない吉野。


 扉のふちに手を預ける奥村は、自分が何事にも中途半端で楽な道を歩もうとすることを自覚している。だからこうした行動に走ってしまうのだ。基本的に成績はいいほうだが授業態度が悪い、それでいつ課題を課されてしまう。


 だが彼は、そんな自分を変えたいと、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。今の()()()()において、彼はそんな幻想を抱くことはないだろう、そう思っていた。


 決心したはいいが、どのような言い訳をしよう。悩みの種を持ち余した奥村の足取りがここまで来て重くなる。


(為せば成る、だな)


 五号館に位置するこの教室は、研究室の一階下である。残された時間は少ない、研究室にたどり着くまでに何とか納得される言い訳を考えなければ。いざ、重くなった扉を開閉する。



 ……。


 …………。


 何かがおかしい。

 

 筋肉の脈動が指先に力を入れているのは確かだ。だが扉が何かで固定されているかのように全く動かない。


 その様子を後ろで眺めていた吉野が疑問気に歩み寄る。


「どうしたの?」


 力んでぷるぷると震える奥村の手と顔を交互に見渡す吉野、奥村はそんな彼女に今の状況を投げ掛けたいがために吉野の瞳を覗き込む。


「いや――扉が開かなくて」


 更なる疑問符を増やした吉野が割り込むようにふちに触れる、確かにピクリともしない。


(何でだろう、この扉は鍵なんて付いていないのに……)


 二人で仲良く途方に暮れる、密室空間に二人っきり――といったプラスな思考も働かない吉野は見当も付かない様子でじっと扉を見つめる。


 それに対して奥村の視線の先は扉ではない、果てから果てまでに意識を飛ばしていた。


 見当違いな方角に吸い込まれている奥村を見て取った吉野が、彼と同じあらぬ方向へ視線を彷徨わせる。


 

 机、椅子、教壇、黒板、プロジェクター、普段いつも通りに存在する教室の姿が無かった。



 無、ひたすら無である。


 万物が消滅したその空間で、いつの間にか消え失せた開かずの扉のあった場所で二人の男女が立ち尽くす。


「な……なに……、どうなってるの?」


 湧き上がる浮遊感にも似た恐怖が吉野の全身を蝕んだ。

 

 今自分たちはどこにいるのだろう?


 無の世界。部活動で汗を流す学生たちの喧騒も風に流されたように消えていた。


 もはや不安を通り過ぎた二人は全身から汗が滝のように流れ落ちる。


 胃液が逆流するように重度の吐き気を催した吉野があまりの不気味さに歯をガチガチ鳴らす。


 その隣に立つ奥村も極度の恐怖で瞬きも忘れるほどの精神状態である。


「お……奥村くん……、これ……あの、これ……」


 指示代名詞ばかりの空言を繰り返しながら奥村の腕にしがみ付いた吉野が、失禁しそうな勢いで気を狂わす。




 芯を食い破るような恐怖に苛まれる男女二人。その瞬間、まるで救世主を思わせる光が二人を照らした。


 

 

 螺旋状に光るそれは、あっという間に辺り一面を覆いつくす。七色に彩られた光が不整に舞い、幾多の光のグラデーションを構成する。


 無の空間を視覚的に染めつくした煌めきが、恐怖に怯える二人の人間の心に手を差し伸べる。


 謎の光が二人の全身に浸透するかのように、精神から癌を洗い流していく。 


 先ほどまでの憂虞を嘘のように浄化された二人が目を見合わせる。吉野が奥村の腕に思いきり抱き着いている状態を認識したとき、耳まで紅潮させた彼女の顔が羞恥を帯びて熱を発した。


 蛇のような速度で奥村との密着を開放する吉野は、今までの自分の行動を振り返り、細胞が沸騰するような感覚に胸を焦がした。



「えっと……」



 いまいち状況が呑み込めない奥村の疑問の矛先は今の空間のことなのか、吉野が肌を寄せたことなのかは定かではない。


 二人の逢瀬が、肩がぶつからない程度の微妙な距離まで戦線後退した現状の中、ただただ謎を深めたまま時間だけが過ぎ去っていくかと思われたその時――










 こんにちわ。お二人さん。










 不意に降り注ぐ第三者の声音。


 身を返して振り向いた先には、一人の女の子が立っていた。


 端麗な顔立ちに妖艶な微笑みを浮かべる、奥村と吉野と同じくらいの年齢の女の子がそこに立っていたのだ。


「あなた……誰?」


 至極あたり前な吉野の質問を予見したかのようにその子は即答した。



 

 ≪私は別世界から来た名も無き大使、あなた方二人に会うために派遣されてここに来たの≫




 突然意味不明なことを言い出した大使に対し、吉野よりも早く奥村がこう切り返した。


「別世界から来た大使が何の用だ? とりあえず帰してくれ」




≪まあまあ、とりあえず話は聞いてくれない?≫




 これもまたマニュアル通りの質問で噛み付いた奥村を、満足そうな気色でこうあしらう。




≪そんなにせっかちしなくてもいいでしょ? まあ、こんな場所に無理やり連れてきた私にも非はあるんだけど――≫




 そこで眉をひそめる奥村を追い越して吉野が前に出る。


「――そんなことよりも、あなたは何のために私たちをここに連れてきたの?」


 受け止めた奥村の言葉を頭の中で咀嚼した彼女は、一瞬にして崩した表情で嘯く。



 

≪お願い、私たちの世界を助けて!!≫




 懇願。それは必至の懇願であった。


 涙を浮かべる女の子は、神に祈るかのように両手を合わせて二人を拝み倒す。先ほどまでの態度が嘘のようだ。




≪さっきまでの生意気な態度はごめんなさい!! 無理にでも平然としていないと自分が壊れてしまいそうで、怖くて怖くて!!≫




 呆気に取られた奥村と吉野。




 先だって正気を取り戻した吉野が、なだめるように大使の肩に触れる。


「大丈夫よ。とりあえず落ち着いて、ね?」




≪……はい、ありがとう。ごめんなさい急に……≫




 落ち着きを取り戻した大使は、目元の涙を拭い、二人を正視する。




≪私たちの世界を救ってほしいんです。私たちの力だけじゃどうしようもなくて――≫




 先ほどまでとは()()()()()()()()大使が説明を再開する。


「えっと、つまりどういうこと?」


 導入部分の話の筋道さえ理解できない吉野が困ったように聞き返す。




≪それは――≫




 数多の光が包み込む幻想世界で時間が過ぎていった。










「奥村くん、どう思う? 今の話」


 吉野と同じで今、目の前に突き付けられた現実を受け入れられないでいる奥村、だが二人の結論は一致するだろう。


「確かに信じられそうもない話だけどさ、俺も吉野も今この超空間の中にいて、それを認識している。そして目の前には言葉で通じ合える別世界の大使様が存在する。もう信じる信じないじゃなくて、無理やりにでも『これは現実です』と自分に言い聞かせるしかないんじゃないか?」


 大使から話された説明はこうだ。


 


 大使がやってきた異世界は今、死人が蔓延(はびこ)る世界大戦の真っ最中である。


 憎しみが憎しみを呼び、断ち切れない死の連鎖で人々の不幸が募る地獄の大地。


 お互い拮抗状態の両軍及び同盟軍の戦争は一向に終結する様子がなく、自分たちの力では平和な世界を取り戻すことは不可能である。


 だから悪いとは思いながらも別世界の人々に助けを求め、すぐにでも停戦ができるように協力をして欲しい、と。



 

「協力して欲しいって、ずいぶん抽象的な頼みだな。いったい何をすればいいんだ?」


 

 ()()()()



「それはあっちの世界に行ってからみんなで考えよう、ってことじゃないかな? どうやら現実世界から異世界(あっち)に行った人も何人もいるみたいだし」



 ()()()()()()()()()



 

 この時、奥村も吉野も()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()




≪あ、あの、お二方≫



 

 弱々しく上目遣いで二人の反応を待つ大使の双眸は滲んだ涙で潤んでいた。


 奥村に目配せをして自分の意思を伝える吉野。それに答える奥村。結論は決まったようだ。


「大使さん。私たちはとても非力で、もしかしたら役に立てないかもしれない――けど、あなたの世界の人々を救うためなら、危険に身を投じてもいいよって思っちゃったわ」



 

 ()()()()()()()





≪――! あ、ありがとうございます!≫




 ()()()()()()()()()()()()





 会ってから一番の笑顔を二人に見せた大使は、嬉しさのあまり今にもジャンプをしてしまいそうな雰囲気だ。


 それを微笑ましく見つめる吉野。




≪そうだ、まだあなたたちのお名前を聞いてませんでした。私は名前を持っていませんが、『りんりん』とお呼びください≫



「りんりんね、分かったわ。私は吉野美帆。美帆って呼んでいいわよ。それでこちらが奥村真広くん。よろしくね、りんりん」


 再び明るい笑顔を返すりんりん。


 ひとしきり嬉しさを全身で表したりんりんは、気持ちを改め真剣な表情に変わる。




≪――ではいいですか? これから私たちが行くのは戦火の絶えない世界、時代、国です。こっちの世界にはしばらく戻っては来れないかもしれません≫


 りんりんの脅しともとれる意思確認に対して、緊張した眼差しで答えて見せる。




≪――分かりました。ではご招待します。ようこそ、我が世界へ!!≫




 閃光の流れる空間に、一筋の真っ白な光が顔を出す。


 徐々に空間全体へと侵食していくその白光がついにりんりんを、吉野を、奥村を飲みこんだ。


 三人を飲み込んだ閃光が尾を引くように消滅していく。それにつられるように元の大学の教室の風景が顕現し始めた。


 全てが元通りになった教室。


 奥村と吉野の姿が無いこと以外は特に変化もない。


 この世界から転生した二人はもういない。


 そういえば、一つ疑問がある。






 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()






 



 

 二人がこの世界から消失した。


 何事も無かったかのようにいつもの景観を取り戻した教室。窓を通して夕焼け空に焼かれた教室が、オレンジ色に染め上げられている。


 いつの間にかそよぎ風はやんだのだろう、カーテンが静かに定位置で羽を休めている。


 そこへ一人の年寄りの男性が入室する。


 ワイシャツ姿のその男性は、奥村と吉野の受講する少人数教室の教授であり、奥村に課題を課した本人である。


 机の上に置かれた奥村のやりかけの課題を見つけ、穏やかにため息を漏らす。


(どこに行ったのだ奥村は、せっかく課題を半分に減らしてやろうと思ったのに)


 我ながら学生には甘いと自覚のある教授だが、奥村には思い入れがあった。


(お前はテストとレポートの成績はとても良い、だが目に余る授業態度はいただけない。色々と扱いの難しい学生だ)


 机の上の課題を手に取り、夕焼け空を眺望する。


(だがそれでも、お前を見ていると別世界であれば不思議とものすごい人間にでもなれるのではないか、という気がするのだ。根拠は無いがな)


 課題の削減の書き置きだけでも残そうとポケットからボールペンを取り出す、すると――



 

 隣の机の上に置き去りにされたある一枚のレポートに意識が移った。




 それには自分のサイン、添削文が書き添えられていた。


 とある事象のパズル同士がピッタリとくっつかないような、妙な違和感を覚えた教授がレポートに手を伸ばす。


 レポート上部の名前欄を閲覧した教授が、腹から言葉を吐き出した。





()()() ()()()()()()()?」





 吉野美帆。それは知らない名前であった。


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、女の子の名前だ。

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