第二十二話
それからは、アパートを引き払うための荷造りを始めた。
皆には住み込みか通いのどちらか希望を聞いたのだが、驚いたことに全員住み込みを希望だった。
「先輩も住み込むんでしょう? だったら私も同じです。その方がサニアちゃんが何かあった時にすぐ対応できますし、しばらくは医院の方も手が離せませんから、どうせマンションに帰ってる時間はそれほどなさそうです。なら、最初から移った方が色々手間が省けます」
そんなわけで、翔子は旅行鞄を三つくらい持って寝泊りしながら施設内の一区画を使い、医院を開く準備をしている。
医者という職業の宿命か、勤務医ではなくなっても翔子は忙しそうだった。
まあ翔子の場合は、通常の診療の他にエルナミラホームで嘱託医としての仕事もあるから仕方ない面もある。
翔子だけでなくいつの間にか恋子先輩もボストンバッグを持ち込んでいたので、いっそのこといっそのこと職員の部屋も割り当ててしまおうということになった。
何せ、施設は広いので部屋数だけはあるのだ。
「元々一人暮らしだったから、私は別にどっちでも構わないんだけどね。どうせ普通の児童養護施設じゃないんだし、夜も手は多い方がいいでしょ?」
確かに、恋子先輩は保育士と家庭支援専門相談員を兼務してもらう予定だから、できるだけ施設にいてもらった方が助かる。
まあもっとも、サニアだけなら本来の家庭支援専門相談員としての仕事はほとんどなさそうだけどな。何しろ、サニアにはそもそも間を繋ぐべき両親がいない。
新しく雇った人たちも、皆サニアとエルナミラホームのことを気に入ってくれて、嬉しい限りだ。
ただ、人によって持ち込む私物に大きな違いがあるのはどうなんだろう。
菖蒲ちゃんなんかは、服とかは最低限で半分以上が調理器具を占めているし。
「私も大学に入学した時に一人暮らしを始めていましたから、問題ありません。それに、こっちにいた方がエルナミラの食料とか料理とかに触れる機会が多そうですし! それに、どう考えても調理器具の充実度が違います! ずっと触れていたい! すりすりすり!」
興奮するあまり買ったばかりの調理器具に頬擦りする菖蒲ちゃんは、最初の印象とは違ってかなり変人だった。
菖蒲ちゃんはもう卒業式を残すのみとなっていて、もはや二十四時間施設に入り浸っている状態だ。
栄養バランスのいいメニュー作りに余念がない。そして良い食材をできるだけ安く仕入れようと奮闘している。主婦か。
まあ、施設運営を行う身としては、安く済ませようって努力してくれるのは助かるんだけどな。
安いからといってサニアに不味いものを食わせるわけにもいかないので、どっちも考えて行動してくれるのは嬉しい。
もっとも、社会福祉法人なので別に利益を追求する必要はないんだが、とはいえ赤字前提で運営するつもりもないし、異世界貿易で金自体は稼げるからな。
他にも、サニアに知識を与えてくれる役割を負う面々が住み込みを決めてくれている。
「家内とは死に別れていますし、子も全員独り立ちしております。問題ありませんよ。それに、サニアさんのことも気になりますしね」
正治さんはやはりサニアのことを一番に考えていた。
元々子どもと接するのが好きな人なのだろう。
いつもニコニコ笑顔で、サニアに対しても年長者として礼儀などを教えてくれている。
ただ頭ごなしに押し付けるのではなく、工夫してサニアが楽しく学べるようにゲーム感覚にするなど、中々教え方が凝っていた。
日常生活の指導をし、心理的なケアを行うのが正治さんなら、純粋に勉強を教え、社会生活の基本を教えるのが悠太である。
「えっと……ぶっちゃけ、家賃払う必要がないので選びました」
元々小学校の教師だった悠太はストレートに金が理由だった。
毎月家賃で何万円も取られるのが嫌なようだ。
確かに、オレは住み込みする職員に家賃を取ったりその分給料を減らしたりする気はないからな。
それに、悠太がいつもいるならサニアの勉強も捗るだろう。
過去にバイトをしていた塾で中学生や高校生に複数科目を教えていた経験もあり、何気に悠太は教えることに関しては小学校レベルは全科目、中高レベルでも英数国が対応可能という滅茶苦茶優秀な人材だった。
何でも、塾じゃ講師が不足してて、最初は一科目だったのがどんどん増えていったそうだ。
そして、看護士として翔子と連携してサニアの健康を管理するのが、春日君だ。
「今住んでいるのは病院の寮なので、辞めるならどの道出なければならないんです。それに、なるべく看護士はいつもいた方がいいでしょうし、いつかは部屋を借りようかと思いますが、今の段階なら住み込んだ方が楽だと思いまして」
春日君は当座しのぎとして住み込みを選んだらしい。
確かに、看護士はいつもいてくれた方がもしもの時に都合が良い。
……良く考えたら、看護士に限らず一人しかいないのは病気になった時とかが怖いな。
とはいえ、そう都合よくエルナミラの話を信じて、しかも口が堅いという人物は中々見つからない。
児童養護施設開設前にこれだけ確保できただけでも御の字だ。
正式な届出はまだだが、エルナミラホームは既に稼動している。
サニアとの新たな生活が、今スタートしたのだった。
■ □ ■
一日目のエルナミラホームでの朝は、腹への衝撃で始まった。
「リュージ! おっはよー!」
「ぐふっ」
何が起きたのかと目を開ければ、オレの掛け布団の上で大の字になっているサニアがいた。
時計を見て時刻を確認すれば、午前六時。
今までは大抵俺の方が早く、会社に行く前にサニアを起こすのがいつものことだったので、先に起こされるのは新鮮だ。
どうやら、早く目が覚めて俺を起こそうとルパンダイブを決行したようである。
新しい環境で、サニアは興奮しているらしい。
オレも引越ししたばかりのような不思議な高揚感を常に感じている自覚はある。
ようなというか、まさに引越ししたばかりなんだけどな。
「おはよう、サニア。朝から元気だなぁ」
「私はいつでも元気だよ!」
「そりゃ良かった。今起きるから退いてくれな」
サニアに退いてもらって、起床して身支度を整える。
顔洗って髭剃って、軽く髪も寝癖がついてないかチェックして、着替える。
一応今は部屋が余ってるし全員が個室を使ってるけど、基本的に使用しているドアは開けっ放しにしてある。もちろん更衣室とか風呂場、トイレとかは別だけどな。
ドアを開ける理由はやはりいつでも誰かがサニアのことを見てやれるようにすることと、サニア自身が自由に出入りできるようにするためだ。
当然入って欲しくない時は鍵を掛けるが、基本的にはいつも開けっ放しである。特にオレの部屋は。
「お前も着替えてこいよ。待っててやるから」
起きてすぐにオレのところに来たのか、サニアはパジャマ姿のままで、髪も盛大に寝癖がついていた。
このまま正治さん辺りに会わせでもしたら、きっとオレは正治さんに「どうして指摘してあげないのですか?」と笑顔で凄まれるに違いないので、サニアに身支度を整えるよう促す。
「はーい!」
大きな声で元気良く返事をしたサニアが、オレの手を引いて跳ねるような足取りで部屋を出る。
廊下を歩いて自分の部屋についたサニアは、ナチュラルにオレを部屋へ連れ込もうとした。
「んん?」
そのまま服を脱ぎ出したので、慌てて止める。
「待て待て。着替えるならオレは出ていくから、その後で着替えろ」
「え? なんで? 別にいていいよ?」
半脱ぎのまま不思議そうな顔で振り返るサニアだが、こんな場面を正治さんにでも見られたらやっぱり笑顔で「ロリコンですか?」とか疑いを抱かれそうなので、早々に外に出て待つことにする。
待つこと数分、着替えたサニアが頬を膨らませて出てきた。
「別に出なくていいのにぃ」
いや、よくないからな。
女児が着替えている部屋にいて平然としてるおっさんとか犯罪臭がすごいからな。親ならまだしも。まあ、オレはサニアの親みたいなもんだが。
くそ、恋子先輩でも連れてくるべきだったかなぁ。保育士なら子どもの扱いも手馴れてるだろうし。
着替え終わったサニアを連れて食堂に行くと、隣接した厨房から味噌汁の良い匂いが漂ってきた。
「美味しそうな匂いがする!」
表情を輝かせたサニアが小走りで走って厨房を覗き込む。
基本的に使用されている部屋のドアは開け放たれているので、簡単に中を覗けるのだ。
「あ、サニアちゃんおはよう。工藤さんもおはようございます」
厨房にいたのは菖蒲ちゃんだった。
寸胴鍋にはたっぷりの味噌汁が作られ、厨房の台の上には下拵えの済んだ食材が並べられている。
どうやら菖蒲ちゃんは誰よりも早起きして朝食の準備を始めていたようだ。
「ああ、そうだ。今月の献立を決めたので、問題なければ許可をお願いします」
「おう、後で確認しとく。今日の分はそのまま作ってくれ」
受け取った献立の今日の分だけをざっと確認して答えた。
今日の献立は、ご飯に味噌汁に鮭の塩焼きにわかめとキュウリの酢の物に切り干し大根か。おお、生卵までついてるじゃないか。
「すげえなぁ。オレ一人暮らしの時大体食パンだけだったよ」
「それはさすがに少なすぎですね……」
オレの独白を聞いた菖蒲ちゃんが苦笑している。
「でも、朝からこんなに張り切らなくてもいいぞ? 準備大変だろ?」
「そうでもありませんよ。酢の物は簡単ですし、切り干し大根は常備菜ですから作り置きしておけば済む話ですし、鮭もグリルにセットしてしまえば後は全部自動ですから」
てきぱきと準備を進める菖蒲ちゃんは、本当に簡単そうに調理をこなしている。
包丁を扱う手つきもよどみなく無駄がない。
社会人になったばかりでも、動きはきちんと料理人なので、驚かされる。
「ああ、そうだ。もうすぐ出来ますから、まだ寝ている人がいたら起こしていただけますか? 朝食は六時半からなので」
「分かった。見て回ってくるよ」
「お願いします」
「私も行く!」
「じゃあサニアちゃんもね」
朝食を作りながらもオレたちを見送ってくれる菖蒲ちゃんに手を振り、オレとサニアはまだ寝ている奴らがいないか確認しにいった。