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第一話

 いつものようにへとへとになって仕事からアパートに帰って、鍵を開けようとしたら鍵穴が合わなかった。

 何故合わないのかというと、何のことは無い、ただ疲れからの注意力散漫で、そもそもの部屋を間違えただけだった。

 自分の部屋ではなく、一つ隣の扉の鍵を開けようとしている。

 何で合わないんだよ。オレの部屋なのに。

 普段ならばすぐ分かりそうなことでも、ぼうっとした意識では中々気付かず、ムキになって合わない鍵を押し込む。

 何度目かのトライで、不意に抵抗が消えてすっと鍵が入る。

 小さな満足感と共に鍵を回して開錠し、扉を開けて硬直した。

 路地が広がっていた。

 コンクリートの道路ではなく、不揃いの石畳が敷き詰められた埃っぽい道だった。

 両脇にはレンガ造りの家々が並び、日が差さない路地に妙な圧迫感を与えている。

 切り取られたような隙間から覗く空は雲に覆われていて、まだ明るいものの今にも雨が降り出しそうだ。

 って待て。ちょっと待て。明るい? んな馬鹿な。夜中の十二時過ぎてるんだぞ。実際振り返れば扉の外は真っ暗闇だ。

 慌てて左腕の腕時計を確認しても、デジタルの表示は予想通りの時刻を示している。

 そして極めつけは、路地の真ん中、扉を潜って数歩の距離に倒れている、まるで長年それだけを着回して一回も洗っていないような、ぼろぼろの衣服を着た子ども。

 全体的に汚れていて、服だけでなく身体も黒っぽく、裸足である足が特に汚い。

 髪の毛もぼさぼさで、長さはそれなりであるものの、やはり身体と同じく老廃物や埃でまだらになっている。

 毛の色は茶色だろうか? いや、やっぱり汚れでよく分からない。

 ていうか、何だこれ。どうしてオレの部屋がこんな路地に摩り替わってるんだ。オレどこで寝ればいいんだよ。

 疲労と戸惑いのせいかずれた思考をしつつ、かといって倒れている子どもを見て見ぬ振りをするわけにもいかず、救急車を呼ぼうとスマホに手を伸ばしかけて、手が止まった。

 この状況を、どう説明すればいいんだ?

 家の鍵を開けて中に入ろうとしたら、見知らぬ路地に繋がっていましたなんて、実際に目にしなければ冗談と思われるだけだ。


「う、うう……」


 迷っていたら子どもが呻き声を上げたので、反射的に一歩踏み出して路地に出て、子どもを抱え上げて廊下に戻った。


「軽いな。ちゃんと食ってるのか、お前」


 子どもといえどそれなりの重さを覚悟していたのに、手に掛かる重量は予想以上に軽く感じた。

 って、何やってんだオレ。これじゃ誘拐じゃねーか。保護者にばれたら捕まるぞ。元に戻しておこう。君子危うきに近寄らずだ。

 一日中働かされるブラックな職場といえども、退職してしまったらそれはそれで路頭に迷っちまう。

 金を使う暇が無くて貯金こそ貯まっているものの、いざ再就職先を探す気力が残っているかといえば、自分でも首を傾げる。

 というか、そんな余裕があるなら、とっくに就職活動をしている。実際に同期で同じような選択をして辞めていった人間を何人も見ている。

 踵を返そうとして、子どもが発した言葉に足が止まった。


「お腹、空いた……。何か、食べ物……」


 子どもが纏うボロ布から伸ばされた骨が浮いたガリガリの腕が、弱々しい力で俺の鞄を掴んでいる。

 振り解くのは簡単だ。

 手は辛うじて鞄の金具に引っかかっているだけで、全く力が篭っていない。脱力しているのか、それともそもそも力が入らないのか。間違いなく、後者に違いない。

 飢えているのを見捨てるのも、良心が引ける。

 見捨てるのが最善だと、分かってはいるのだが。


「……仕方ねぇ。飯食わせてやるから食ったら帰れよ。絶対だぞ。犯罪者になって会社クビになるとか本当シャレになんねーからな」


 ため息をつき、子どもを抱えて扉を閉めて、隣を確認して、唖然とした。

 ここ、オレの部屋じゃないじゃん。何で開いたんだよ。

 慌てて先ほど開いた扉に鍵を差し込もうとしたら、当たり前のように開いて子どもが倒れていた路地に繋がった。

 改めて表札を確かめてみれば、やはり隣の部屋だ。

 血の気が引いた。

 やべえ面倒事の臭いがぷんぷんする。全部見なかったことにして救急車呼んで警察に任せるか? ……真夜中に身元不明な子ども抱えてる時点でどっちにしろ会社クビになるな。

 繋がっている先がまったく分からないとはいえ、傍から見たら今の自分は隣の部屋から子どもを抱えて連れ出している不法侵入者に他ならない。

 真夜中で人気が無いのは幸いだ。とはいえ誰かに見られたら社会的にたぶん終わる。

 くそっ、やっぱ助けるんじゃなかったか……。


「喉、渇いた……」


 ああ畜生、食わせればいいんだろ! とんだ貧乏くじ引いちまった!

 舌打ちして、自分の部屋の扉に鍵を差し込んだ。

 軽い手応えを代償に鍵はあっさりと開いた。



■ □ ■



 中に入り、一組しかない布団を敷いてその上に子どもを寝かせる。


「げっ、汚れちまった。……まあ、いいか。万年床だし」


 寝かせた箇所には泥とも埃ともつかない何かがべったりついてしまったが、元々あまり綺麗だとはいえない布団だったので、諦めて子どものために食事の準備に取り掛かる。


「う、うう」


「寝てろ。何か作ってやるから」


 苦しそうに呻く子どもの額を撫で(もちろん手が汚れた)、台所に行って水道で手を洗ってから冷蔵庫の中を確認する。

 あまり食ってないみたいだし、いきなりドカンと食わせるのはまずいよな。粥にするか。確か梅干と今日の朝食い残した鮭の切り身がこの辺に……あったあった。

 冷蔵庫から梅干と鮭の切り身を取り出す。

 手鍋に水を張って塩を振り、ご飯を投入して火にかける。

 正しい粥の作り方なんて知らないから適当だ。

 ま、食えるものになれば十分だろ。……まあ、長めに煮て消化しやすいようにはしてやる。

 焦がさないように粒がどろどろになるまで煮込み、ほぐした鮭と梅肉を投入し、味見したら薄かったのでさらに少しだけ追い塩をする。

 スプーンで少し掬って味見。まだ薄いけど、子どもならこんなもんでいいか。

 完成した粥を汁物に使っている木の腕に盛り、少し考えて自分もこれで済ませようと思って茶碗にも盛って盆に置き、レンゲを一本ずつ添えて持っていく。

 生憎テーブルなんてものはない。せいぜい一人用のちゃちな座卓があるきりだ。

 布団の近くに座卓を移動させて、その上に盆を置き、子どもを揺り起こした。


「起きろ。飯だ」


「あうう、いい、匂いがする……」


 ふらりと立ち上がろうとして、子どもは布団の上で力尽きたようにまた倒れこんだ。


「……」


 じわり。


「分かったよ! 食わせてやるから泣くな!」


 木の椀とレンゲを手に取って粥を掬い、子どもの口元まで持っていって食べさせる。


「……温かい」


「そりゃ作ったばかりだからな。もっと食うか」


「……うん」


「自分で食えるか?」


 こくり。


「じゃあ、ほれ」


「ありがとう」


 ちょこんと布団の上に座ってはふはふと粥を食べる子どもを見ながら、自分も座卓の前に座って同じく粥を食う。

 明日も仕事だってのに子ども連れ込んで何やってんだろオレ……。

 情けなくなって、自然と背中が丸まってしまう。


「……もう無い」


「貸せ。お代わりあるからよそってやる」


 子どもからお椀を受け取って立ち上がり、ついでに自分の茶碗も持っていって、台所で手鍋に残っていた粥を二人分取り分ける。

 空になった手鍋を流しにつけておいた。


「ほらよ。まだ熱いから注意して食えよ」


 居間に戻ってお椀を子どもに渡してやり、またはふはふ食べ始めるのを横目に見ながら、自分も二杯目の粥を食う。

 正直食い足りないが、真夜中だってことを鑑みるとこんなものだろう。


「おいし、かった……」


 一心不乱に粥を平らげた子どもは、空のお椀を手に持ったまま満足げにため息をついた。


「で、お前、親御さんの連絡先知ってるのか。さすがに連絡もしないのはオレの世間体が激しくまずいんだが」


「親……いない」


「……じゃあ、親戚とか」


「知らない……」


「ほ、保護者は誰だ?」


「何、それ」


「……ああ、そうか。理解した」


 全く理解できていない。

 ただ、この目の前の汚らしい子どもが、自分の常識では測れないとんでもない境遇にいたことだけは分かった。


「仕方ねぇ。今日はもう遅いから、朝一で児童相談所に連絡するぞ。オレは仕事で明日も真夜中まで帰れないから、職員が来たらそいつについていけ。それでいいな」


「じどうそうだんじょって何?」


「……そこからかよ」


 多大な疲労感を感じながらも、子どもに児童相談所が何なのかを教える。


「やだ。此処が良い」


 ぷいっとそっぽを向く子ども。

 どうしてくれようか。


「……とりあえず、汚いから風呂入れ。これ以上部屋を汚されたら敵わん」


「ふろって何?」


「……もう何も言わん。ついて来い。案内してやるから」


 子どもが立ち上がって後ろを歩くのを確認してから、脱衣所に向かう。


「ここで服を脱いで、脱いだものはこの籠に入れてそっちの半透明の扉から中に入れ。湯は張ってないけど、シャワーなら使えるから。中のタオルとかシャンプーとか石鹸は好きに使え」


「しゃわーって何?」


「……そこに捻るところがあるだろ? 赤い方向に回すとお湯が出る。青い方向なら水だ。間違えんなよ」


「……凄いね。魔法?」


「その結論に至ったことの方がオレは凄いと思うぞ。何でそう思った」


「だって、こんなの見たことない」


「どんな未開の地から来たんだお前は。いいからさっさと入れ。その間に代えの服を用意しておいてやる。オレのだけどな」


「……ありがとう。こんなに親切にしてくれた人、初めて。後で売り飛ばしたりしないよね?」


「オレは奴隷商か何かか?」


「そうなの?」


「冗談で言ったのに真顔で問い返すんじゃねぇ。ほら行け」


 不思議そうに首を傾げる子どもを風呂場に追いやり、自室に行ってクローゼットから子どもでもパジャマ代わりに着れそうな服を探す。

 とはいってもろくな選択支なんてありゃしない。子ども用の服なんかオレが持ってるわけねえしな。

 私服なんてもう三年以上買ってねえし。余ってるのはワイシャツくらいしかねーぞ。

 自分のクローゼットのすかすか具合に我ながら泣きそうになる。

 急がしくて服を買いに行く余裕なんて無いし、そもそも休日は一日中寝てるのが殆どでパジャマがあればよかったから、深刻に服がスーツとパジャマしかない。

 仕方がないので、ワイシャツとトランクスを一枚ずつ持ち出す。

 一応、トランクスだけは新品だ。さすがに自分が普段使っているのを他人には穿かせられない。

 戻ったら汚らしい子どもが消えていて、代わりに褐色肌の美少女が居た。しかもどう見ても日本人じゃなかった。


「誰だお前」


「私だよ?」


「オレオレ詐欺か。っていうか女だったのか」


 男児でもやばいが女児はもっとやばい。

 明日の新聞に自分の名前が誘拐犯として掲載されないことを祈り、天井を仰いだ。


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