第二章:双極の誓い②
広大に広がる草原の中に築き上げられた小さな村。争いもなく平穏な時間が流れる中で一際盛り上がっている居酒屋ロンモン。
時間帯は丁度夕刻前。青かった空は夕焼けによって茜色に染まりつつある。従って夕食時でもあり店内は多くの客で賑わっていた。
クズノハの里を後にしてから暫くして、特に魔物や盗賊に襲われる事もなく平原を歩いていた龍彦は道中に立ち寄った。その中に設けられていた居酒屋ロンモンで小休止を取っている最中である。
そこで変わった光景を目の当たりにした。
居酒屋であると言うにも関わらず、皆が口にしているのは白濁色の液体。それは誰でも知っている馴染みある物であり、成長期である小学校の給食には毎食欠かさず提供される飲料水――牛乳。
大人から子供まで、筋骨隆々の筋肉を持ち見るからに酒豪であろう男ですらもジョッキに満たされた牛乳を美味そうに、そして豪快に飲んでいる。
(この世界じゃ牛乳が主流の飲み物なのか? でもカエデの所じゃ普通にお茶だったし……)
その光景を不思議そうに見つめながら龍彦は小さなジョッキに満たされた牛乳を一口、口に含んだ。郷に入っては郷に従え、である。
「いやぁやっぱりロンモンの牛乳は美味いなぁ!」
「あぁ! 飲めばどれだけ疲れていても吹っ飛ぶぜ!」
隣の席に座っている男達の会話を耳にしながら龍彦は鼻で一笑に伏した。
確かに男達の言っている事は一理ある。スーパーで売っている物とは比べ物にならない程甘く濃厚な味が口腔内に広がるこの牛乳は美味な代物である。だがそれよりも、男達の目的は別にあった。
「は~い、特性クリームパスタと特性シチューですぅ」
龍彦が視線を向けた先で飲み物と料理が乗ったトレイを両手に持ち働いている一人の女性。
それだけならば何処にでもいる普通の女性従業員でしかない。
だが彼女が来客者……主に男性客の心を鷲掴みしているのにはある理由があった。
愛らしい小動物の様な可愛らしい仕草とそれに見合う顔立ち――そして女性としての象徴をこれでもかと主張している巨乳。
忙しそうに店内を彼女が動く度に男性ならば誰もが視線を向けてしまう程の巨房が揺れ動く。それを鼻を伸ばしながら見つめている男性客、たまに同行している女性客が嫉妬から般若の形相を浮かべ男性の胸ぐらを掴み顔を引っ掻いている。
貧乳の女性からすれば、彼女の巨乳は誰もが羨むと同時に嫉妬するに違いない。
「そう言えば、あのキャラってそんな設定してたな……」
牛乳を口に含みながら、龍彦は懐かしむ様に呟いた。
男性客の注目の的である彼女こそ『WILD BLOOD GIRLS』に登場するキャラクターの一人、ライラ・ホルスティオなのだ。
居酒屋ロンモンで働いている人牛族族の少女、のんびり屋で争いを好まない彼女だが運命の王子様を見つける為に武術大会に出場する――がゲーム内での彼女の設定である。
人牛族族は温厚な性格の持ち主で争い事を好まない種族だが、その怪力は亜人一とされている。ゲームでもその設定を生かした投げキャラとして作られている。可愛らしい顔をし、「ごめんなさ~い!」等と相手に対して謝罪の言葉を口にしながら片腕で豪快に持ち上げ投げ飛ばす姿は見ものだ。
更に彼女の間合いは広く、通常投げならば成立しない位置に相手がいたとしても超必殺技を使えば成立する。この現象をマニアの間ではおっぱい吸引と呼ばれている――その理由としては超必殺技を発動した瞬間、何故か巨乳を突き出す様に胸を張るからであった。
スピードが遅く投げが主体である為に他のキャラと違いコンボを稼げないとデメリットはあるが複雑なコマンド入力によって繰り出される投げ技の威力はどのキャラの技よりもダメージ数は高い。
そんなライラ・ホルスティオは現実でも巨乳を激しく揺らしている。男として生きている以上、強調する様に揺らされれば誰でも目を向けるのは当たり前と言えよう。
獣に好かれる程度の体質を持っているにも関わらず、誰ひとり龍彦に興味を抱く素振りを見せない事が、彼女がそれだけ魅力的な女性である事を証明していた。
「……いい胸だな」
巨乳は男性にとって理想の女性像の中に含まれているステータスでもある。
しかし本当の恋愛……将来を誓い合い、一生を共に過ごしていく伴侶とする女性である場合そこは重要ではない。その女性を真剣に愛するなら貧乳でも全く気にならないのが普通だ。
けれどもやはり、男として生まれた以上巨乳好きになるのは仕方がない事なのだ。
「……でもやっぱり俺はエルトルージェの美乳が一番だな」
一人呟いた後ジョッキの牛乳を飲み干し、支払いを済ませる為席を立とうとしたその時である。
「ん?」
荒々しくドアが開き翡翠色に輝く鎧と腰に携えた斧で武装した一人の大男が入ってくる。男の姿を見た瞬間、あれ程賑わっていた店内が一瞬にして沈黙に包まれた。
「おい見ろよ、バズーだぜ」
「あぁ、歴戦無敗の死神がどうしてここに来たんだよ……」
「今日は何処で人を殺して来やがったんだ……」
入店した男に恐怖心を抱いた小声で話し合う客の会話を耳にした龍彦は、バズーと呼ばれた男を見据える。
誰もが目を合わそうと顔を俯かせる中バズーは我が物顔で店内を歩き、ライラの前へと立った。
「よぉライラちゃん、俺にも一杯美味いミルク入れてくれねーかな」
「は、はい~少々お待ち下さいねぇ」
ライラは営業スマイルを必死に作りながら店の奥へと引っ込んでいく。その間バズーは厨房より近い席を見つけると、既に座っている客を乱暴に押し退けそこへ腰を下ろした。
普通ならば男の横暴な行動に抗議するだろう。実際席を横取りされた客の顔には怒りと不満の色が露になっている。
それだけバズーに対し怒りの感情を抱いているにも関わらず、その客は一切文句を言わぬままそそくさと店から出て行った。
他の客も我関せずと言った態度で飲食を黙々と済ませている。被害に巻き込まれなかったと安堵の息を漏らしている者までいた。
それだけ皆がバズーに対し恐怖を抱いている。
「……何処にでもいるんだな、ああ言った輩は」
今の行動でバズーと言う男がどう言った性格の持ち主か。それが手に取るようにわかった。ただ純粋に歴戦無敗と言うだけならばバズーに恐怖を抱く事はない。
気に入らなければ暴力と恐怖で従わせる、それがバズーの流儀だろう。死神と呼ばれていたぐらいだ。戦としてではなくただの喧嘩ですらも相手の命を奪ってきたに違いない。
視界の端に大ジョッキを乗せたトレイを手に厨房から戻ってくるライラの姿が映り、そちらに視線を向ける。彼女の顔は笑みこそ浮かべているが、来客者同様恐怖の色が滲み出ている。
「お、お待たせしました~、特性ミルクですぅ」
バズーはジョッキを手に取るとそれを豪快に飲み干すとライラを強引に抱き寄せる。
「あ~いつ飲んでもウメェなぁ!」
「あ、有難うございますぅ」
「そんなライラちゃんの旦那になるならどんな男がいいと思う? そりゃ俺しかいないってもんだろ!」
「えっ? いやでもぉ、私そんな結婚なんでまだ……」
「そう言うなよライラちゃん。俺程の最強の男がお前の旦那になってやるんだ。お前だって嬉しいだろ、ん?」
笑顔を浮かべているが明らかに嫌がっているライラにバズーはしつこく絡む。
流石にこれ以上黙って見ている事は出来ないと怒りが沸いたのか、数人の男が席を立ち上がりバズーを睨み付けた。全員立派な剣や槍、防具で武装している辺りただの一般客ではない事が伺える。
「どうした? 俺様とやるって言うのか? 俺様は全然構わねーぞ、んん?」
バズーの挑発的な言葉に、立ち上がった男達はただその場に佇み、抗議の目を向けるばかりで向かっていこうとしない。
「へっ! 虫けらばかりだぜ、所詮お前らが束になって掛かってきても俺に勝つ事は不可能なんだよ! オラオラどうした、文句があるならハッキリ言ったらどうだ!?」
「そうか。それじゃあ遠慮なく言わせてもらうぜ――ウザいから失せろよ」
席から立ち上がり、龍彦は水の入ったコップを手に取るとそれをバズーの顔に掛けた。
瞬間、店内に短い悲鳴が上がりどよめきが起きる。
歴戦無敗の死神と恐れられる相手に自殺行為とも言える無礼を働いたとなれば、龍彦の取った行動は傍から見れば正気を疑われて当然の行動だろう。
だからと言って一片の後悔もしていない。
「飲食店で店員相手に強気に出る奴っているけど、俺はそう言った類が一番嫌いなんだよ」
最強であるからと言って高慢な態度で他者に迷惑を掛けてもいい道理にはならない。加えて文句があっても恐れてハッキリと言えない男達の態度に苛立ちが限界に達し我慢出来なかった。
「て、てめぇいきなり何しやがる!」
「文句があるからハッキリ言ったんだ――彼女が嫌がっているんだからその辺にしたらどうだ? 歴戦無敗の死神かなんだか知らないけど、空気が読めない男はモテないもんだぜ?」
「……小僧、俺が誰だが知らねーのか?」
「あぁ、知らないし興味もない。俺からしたらアンタは質の悪い酔っ払いと変わらない、それとも自称最強の勘違い野郎が正解か?」
「どうやら死にたいらしいな小僧!」
斧を手に取り怒りの形相を浮かべるバズー。店内に再び悲鳴が上がる。
「やるなら外でやろう。店の中じゃ迷惑が掛かる。お前みたいなクズ野郎の血で店を汚すのは忍びない」
顎で出入り口を差した龍彦は一足先に外へと出る。その後を荒々しく踏み締める様に歩きながらバズーが店を出てきた。
ロンモンから多くの客が見守る中、龍彦は静かに刀を抜き放つ。
初めての人間同士の戦い。周囲の反応からしてバズーの実力は決して弱くない事はわかる。だからこそ、ここでその高慢な態度を二度と人前で出せない様に叩き潰しておく必要がある。高慢な人間には大衆の前でそのプライドを完膚なきまでに叩き潰す、これが一番効果的だからだ。
「小僧謝るなら今の内だぞ?」
「御託はもういい――アンタが強いかどうかは、戦えば嫌でもわかる。それとも強いのは見た目と口先だけなのか?」
「……だったらここで無様に死ね小僧!」
斧を振り上げバズーが仕掛ける。
龍彦は身構え、一瞬目を丸く見開いた後刀を鞘へと収めた。
「オォォォォォォォッ!!」
獣の咆哮の様に雄叫びを上げながら振り翳した斧を振り下ろすバズー。龍彦はそれよりも迅く間合いを詰め、側面へと回り込むと上段左正拳突きを顔面に叩き込んだ。
「がっ……!」
鈍い音が鳴り響く。
バズーの頬を酷く歪ませながら深々と食い込んだ龍彦の突き刺す様な上段左正拳突き。
ゆっくりとバズーが片膝を地面に付ける。その目には驚愕の色が浮かんでいるが、闘志はまだ消えていない。
龍彦はトドメとして右上げ突きを繰り出し、バズーの顎を打ち抜いた。
バズーの巨体が打ち上がる。そして受身を取る事もなく大の字になって地面へと倒れた。
「…………」
どよめきがロンモンから起こる中、龍彦は己の拳を見つめ沈思する。
カルナーザやレティヘロ、人狼族の老人と言う亜人との戦いを目の当たりにし、そして実際に戦った。それに比べて歴戦無敗の死神の異名を持つバズーは、あまりにもその動きは緩慢だった。
故に刀を抜く程の相手でもないと判断し、龍彦は徒手空拳に切り替えた。
最強と口にしてたのが狂言だったとしか思えないバズーの実力。だが周囲の反応を見る限りでは嘘でもない様子だ。人間だけでなく亜人の来客者もバズーに対し挑もうとしていなかったのがいい証拠である。
「って、ちょっとやりすぎたか?」
微塵も動かないバズーに龍彦は安否を確かめる。
呼吸はしているが、上段正拳突きを打ち込んだ際バズーの頬骨を粉砕した感触が伝わってきた。死ぬ事はないが重症である事に変わりはない。
「おい大丈夫か? 今傷薬飲ませてやるからな」
悪人であれ人は人、怪我人を放置しておく気は起きない。龍彦はカエデから貰った傷薬を取り出し、それを気絶しているバズーへと少し強引に飲ませた。
餅は餅屋。怪我や病気は医者に診てもらうのが一番だが日本の様に電話一本で救急車が来てくれる事はない、かと言って周囲を見渡す限りこの村に医者らしき人物も見当たらない。従って応急処置しか行えないが、カエデの薬の効果を知っている龍彦は大丈夫だと言う自信を持っていた。
「これで大丈夫だろ。後は自分で病院なり行ってくれ」
「し、信じられねぇ! あのバズーをたったのニ撃で倒しやがった!」
「人間の中じゃ五指に入る程の実力者だぞ。それを魔法も使わず、しかも素手で……」
ロンモンから上がる歓声。そこに混じって聞こえてきた客同士の会話に龍彦は心底納得がいかない顔を浮かべた。
この程度の実力で五指の中に入るのなら、この世界の人間のレベルは相当低い位置にあるようだ。尤も『WILD BLOOD GIRLS』と言う亜人を主体としたゲームが基盤となっているこの世界だ、人間がモブ扱いされていても不思議ではない。
「あ、あのぉ……!」
「ん?」
声がする方に龍彦は視線を向ける。
店内にてバズーとの決闘を見守っていた来客者達を掻き分けながらライラが駆け寄ってきた。
走る度に激しく揺れる巨乳に龍彦は見惚れた様子で見つめ、ふと店内から向けられている男性陣からの同情の眼差しに気付き我へと返り、咳払いを一つ零す。
「さ、先程は助けて頂き有難う御座いますぅ!」
「いや、別に気にしないで下さい。あぁ言った輩が嫌いなだけですよ」
「あ、あの……私ライラって言いますぅ。そ、その是非お礼を――」
「が、がぼぉ……おごごぉっ……!」
倒れていたバズーが立ち上がる。
応急処置しか施していない為完治までには至らず。粉砕された顎で発する言葉は全く発語出来ていない。だが血走らせている目を見れば、明確な殺意を抱いている事は手に取るようにわかる。
「もう起き上がったのか。でもこれでお前はもう歴戦無敗の死神じゃなくなったな。俺みたいな小僧一人を相手に、それも素手でやられたんだ。もうでかい顔出来ないぞ」
「ご、ごおじぃえうぅぅぅぅぅっ!!」
斧を振り上げるバズー。
どうやらもう一度痛い目に遭ってもらう必要があるらしい。ゆっくりと迫り来る斧を見据え龍彦は静かに拳を握り締める。
「ダ、ダメですぅ!」
突然、ライラが龍彦とバズーの間に割って入った。
「なっ……!?」
何をしているんだ。そう叫ぼうとしていた龍彦だった、が目の前で起きた光景にそれは驚愕の言葉へと変わる。
自身へと向けられて打ち落とされた斧。その凶刃の身代わりになるように立ちはだかったライラが、それを受け止めたのだ。篭手と言った身を守る防具を一切纏わず素手で。
真剣白刃取りと言う技は確かに存在する。実際には時代劇と言う創作の中で生まれた技術であり、実戦で行う場合受け止めた手腕を負傷する恐れもあり何より失敗すれば無防備なところに一撃を浴びるのだから危険が極めて高い技でもある。
それならば相手の太刀筋を見切り冷静に対処した方が得策と、かつて真剣白刃取りは可能かと尋ねられた友人に龍彦は鼻で一笑に伏し答えた。
その真剣白刃取りを、それも片手でライラは成功させていたのだ。
「そ、その人は私の恩人ですぅ! ら、乱暴な事はしないで下さい~!」
「がっ……!」
泣きながらバズーから斧を強引に取り上げるとそのまま腕を掴むと、流れる様な動きでライラは見事な一本背負い投げを極めた。
バズーは驚愕の表情を浮かべたまま受身を取る間もなく地面へと強く叩き付けられる。その衝撃で地面が大きく陥没し、普通の一本背負い投げではまず聞く事がない、全身の骨と言う骨が粉砕されていても可笑しくはない……そんな音が村全体に響き渡った。
更に彼女はその状態からもう一度力任せにバズーの巨体を持ち上げ二度目の一本背負い投げを見事に極めると、今度は両足を掴みジャイアントスイングを繰り出した。
テレビで見るプロレスラーが希に使用するジャイアントスイングとライラの行うジャイアントスイングは回転速度が明らかに違う。何故ならバズーの両足を掴み回転するライラの姿がはっきりと視認する事が出来ないからだ。
今の彼女は正に小規模の竜巻と言っても過言ではない。
「乱暴な人は村から出て行って下さい~!」
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
回転し続けたライラの手から解き放たれたバズーが、凄まじい勢いで山の向こうへと瞬く間に消えていった。
「…………」
龍彦は唖然とした顔を浮かべ、バズーが飛ばされていった方角を見つめる。
ライラが怪力である事はゲームを通して知っている。だがゲーム内ではバズーの様に画面から切れてしまうまで吹き飛ぶ事はない、せいぜい端から端へきりもみしながら弧を描く様に対戦相手は投げ飛ばされる。
そして今、ライラの怪力を目の当たりにした。それは凄いと……月並みの言葉しか出てこない。他にどう表現すればいいのか、実際に技の一つでも受ければまだコメントのしようもあるだろう。だからと言って自ら受けるつもりは毛頭ない。
バズーにとっても予想外だったに違いない。
ライラの実力を知らなかった事だけでなく、温厚で気弱な性格の持ち主がいきなり達人技を見せたのだから例えバズーでなくとも驚く。
普段温厚に出来た人間程怒りが頂点に達した時の恐ろしさは計り知れない。ライラは正にその典型と言えよう。
「はぁ……はぁ……こ、怖かったですぅ」
「…………」
人が漫画の様に吹き飛ぶとあの様になるらしい。その事を今のやり取りの中で思い知らされた何があっても彼女に掴まれる事だけは回避しようと深く魂に刻み、涙を拭い明るい笑顔を浮かべ駆け寄ってくるライラに龍彦は愛想笑いを返す。
「あ、あのぉ……えっと、お怪我はありませんかぁ?」
「……え、あ、まぁ、大丈夫」
「よかったですぅ。あ、あのぉ私ライラ・ホルスティオって言いますぅ。その、もしよかったら今日はウチに泊まっていってくれませんか。助けてもらったお礼がしたいんですぅ!」
「え、いや別に俺はお礼がしてもらいたかった訳じゃ……」
「ダメ、ですかぁ?」
「いや、あの……じゃあお言葉に甘えさせてもらいます」
本音を言えば断りたかった。彼女もまた厄介な体質に巻き込まんでしまう事を懸念していての考えである。しかし泣かせてしまえばバズーのように遥か彼方まで投げ飛ばされてしまうかもしれない。そんな不安と恐怖から頬に一筋の冷や汗が流れ落ちる中、龍彦はライラの申し出を受け入れるしかなかった。
ただ、まぁ。巨乳の女性から誘われる事に対し、悪い気がしないのもまた事実。
ふと見上げれば空は茜色から漆黒に染まりつつある。ならば野宿と言う手段を取るよりは、相手の好意を素直に受け入れ屋根の下で身体をゆっくりと休ませた方が断然いい。
「それじゃあ今日はご馳走しますので楽しみにしてて下さいねぇ」
嬉しそうに笑みを浮かべながら手を引っ張るライラに、龍彦は揺さぶられる巨乳に視線を固定しつつロンモンへと戻った。
◆◇◆◇◆◇◆
閉店時間となった居酒屋ロンモン。
多くの客で賑わっていた店内も今はしんと静まり返る中、居住部のリビングはロウソクに灯る炎の輝きによって照らされ明るい話し声に包まれていた。
「本当に今日はウチの娘を助けて頂き有難う御座いました」
「いえ。俺の方こそ夕食をご馳走してもらうだけでなく宿まで提供して下さり感謝しています」
バズーとのひと悶着の後、龍彦はそのままロンモンにて一泊無料で過ごす事になった。汚い話ではあるが、カエデが用意してくれた路銀も限りがある。エルデニアに到着するまでに無一文で路頭に迷う、そのような事があっては絶対にならない。
少しでも浮かせられるのなら浮かせる。龍彦は改めて無料で夕食と部屋を提供してくれるライラとその母親――オーリオに深く感謝した。
それよりも、だ。
親子揃って何を食べればあのような巨乳に育つのか。特に母親であるオーリオはライラと同様二十代前の女性にしか見えない程美しく若い肉体を保っている。彼女が一人街を歩いていれば誰も一児の母とは思わず声を掛けるに違いない。
事実、子持ちである相手に龍彦は見惚れていた。母親としての包容力と母性に満ち溢れた魅力を持つオーリオはある意味、理想の女性でもある。
「どうかしたの? 私の顔に何か付いてる?」
「えっ!? いや、な、なんでもないです!」
それを隣で見ていたライラは不機嫌そうに頬を膨らませていた。
「お母さんタツヒコさんは私のなんだから勝手に取らないでよぉ!」
(おいおい……迷惑してるからとかじゃなくて、既に自分の物扱いしちゃってるよこの子)
バズーとの一件以来急速に好意を向けてくるライラとその母親。その時間はカエデとカルナーザよりも早かった。不必要な記録更新を成し遂げたこの体質は最早体質と片付けられない、呪いの類かもしれないと心の中で一人愚痴る。
ただ、この世界に来た事で綺麗で可愛い亜人ばかりと言うのがせめてもの救いではあるが。
「ねぇタツヒコさん、貴方は旅をしているの?」
「え、えぇ。今年開かれる武術大会に参加する為にエルデニアへ――それで一つ尋ねたいんですが、スカアハと言う方は何処にいるんですか?」
村の広場に設けられていた掲示板。そこにスカアハと名乗る者が弟子を募集していると言う張り紙があった。
『WILD BLOOD FIGHTER』の中にスカアハと言うキャラクターは存在しない。即ち龍彦にとってはスカアハなる人物は本編には登場しない、オリジナルキャラクターであった。
大会まで残り少ない期間、自己流で修練に励むよりも誰かに指導を受けた方が効率的だと龍彦は判断し、村を出た後はスカアハのいる場所へ向かおうと決めていた。カエデやカルナーザに教えを請う事も出来たが、武術大会で闘う可能性がある以上手の内を見せる訳もにいかなかった。
ただ、肝心の場所がわからない。
すると楽しげな会話に笑みを浮かべ続けていた彼女達の顔は、恐怖と不安が入り混じった表情へと変わった。
「スカアハはこの村から遥か西……深闇の森の奥深くに住んでいる魔女の事よ。どんな人物かまでは誰も目にした事がないから知らないけど、噂によると人を攫っては怪しげな魔法の研究材料にしたり生きたまま食べているとも聞いているわ」
「この付近に住んでる人だけじゃなくて他の皆も深闇の森には絶対に近付いちゃダメって言っていますしぃ」
「ず、随分と物騒な話だな……。でも誰も見た事がないって可笑しくないですか?」
オーリオの言葉に龍彦は疑問を抱く。誰も見た事がないと言う証言をしているにも関わらず、では誰がこの村の掲示板に弟子募集の張り紙を張っていったと言うのか。それは本人でなければ矛盾する。この村の住人だけでなく他の輩も深闇の森に近付こうとしていないのだから、その弟子が張りに来たとも考えにくい。
「それが……気が付いたらあの掲示板に張っていたのよ」
「え?」
「私達も誰がこんな悪戯をしたんだって最初の内は思ってて……でも、外しで燃やしたのに次の日になったらまた何事もなかったように張り出されていて……」
「不気味だし下手に外してスカアハの怒りを買ったら怖いからって触らないようにしてるんですぅ……」
「……魔法か何かを使ったって考えるのが妥当でしょうね」
「タツヒコさん、深闇の森には絶対に近付いじゃ駄目よ」
「……えぇ、わかっています。俺としても少し気になっただけですので、自ら好んでそんな怪しい場所には行きませんよ」
不安げな表情を浮かべていたライラとオーリオの顔に再び笑顔が戻る中、龍彦は心の中で二人に謝罪していた。
行かないと言う約束は出来ない。日本の諺にもあるように、虎穴に入らずんば虎子を得ず……危険を冒さなければ得られる者は何一つ得られない。このスカアハが何者かはさておき、弟子を募集していると言うのならその弟子になろう。
今の龍彦に必要なのはこの世界で生きていく為の力。人間相手ではない、亜人や魔物と言った人外を相手にしてでも充分に通用する力が必要不可欠。それが手に入るのならば、今はなんでもする覚悟があった。
「とりあえず今日はもう遅いからゆっくり休んでいってね」
「有難う御座います、オーリオさん」
「それじゃあそろそろ寝ましょうか。明日もお店があるしね」
「私お部屋の用意してきますぅ!」
元気よくリビングを後にするライラ。
残された龍彦は衣食を無料で提供してもらったせめてもの礼として食器を片付けようとし、それを膝の上に置かれたオーリオの手に制止された。
「オーリオさん?」
「ねぇタツヒコさん、貴方から見て私の事はどう見える?」
「と、唐突ですね……――その、綺麗で魅力的な女性だと思いますよ。ライラ、さんと母娘って言われた時は本当に驚きました」
「ふふ、お世辞が上手いわね――あの子を産んでから直ぐに夫は不慮の事故で私達を置いていってしまったわ」
「…………」
旦那がいないと言う事に龍彦はオーリオが紹介された時点で抱いていた疑問。その理由を語った当事者は何処か寂しげな笑みを浮かべている。
「女手一つであの子をここまで育ててきた……確かに大変だったけど、その事については全く後悔していないわ。でもね、一人の女としてはずっと不満なの」
「それって……」
「ねぇタツヒコさん、子持ちのおばさんが相手じゃ……嫌?」
「ッ!? いやいやいや、駄目ですってオーリオさん! 出会ってまだ間もないのにそんなっ!」
オーリオの申し出に龍彦は激しく狼狽しながら断った。
オーリオが求めているものは即ち、男と女との関係なのだ。将来夫婦と言う関係になる事を望んでいるかはさておき、若くして夫に先立たれ一人残された彼女の肉体は女として男の愛を強く渇望している。
その欲求不満を解消する矛先が今、自分へと向けられている。
当然だろう、今オーリオの目の前にいる男は一人しかいないのだから。
数多く色んな男性客が訪れ、それでもそう言った関係に持ち込まなかったのは、亡き夫の事を想い抑制していたに違いない。
だがそこに獣に好かれる程度の体質に当てられ、長きに渡り抑制していた欲求が解放されてしまったのだろう。
「タツヒコさん……」
胸のボタンをわざとらしく一つずつ外し衣類をはだけさせていくオーリオ。その頬はほんのりと紅潮し、潤んだ瞳で物欲しそうに見つめてくる。理性を瞬く間に吹き飛ばしかねない魔性とも言うべき美しさに、龍彦もまた例外に漏れず見惚れていた。
生唾を飲み込む。
散々動物の邪魔が入り生まれて今日に至るまで交際すらした事のない龍彦からすれば、今正に求めていた女性と言う神秘が手の届く場所にある――それがもし、何の知識もなくこの世界に迷い込んでいたならば、きっと我慢出来ずに手を出していた。
着物の中に隠れている首飾りを強く龍彦は握り締める。
脳裏に浮かべるは想い人の姿。想いを伝えられない、その手に触れる事すら出来なかった相手と今は同じ世界にいる。エルトルージェに出会い想いを告げるまでは、例えどれだけの美女が現れ誘われたとしても堕ちる訳にはいかないのだ。
「すいませんがオーリオさん、やっぱり出会ってまだ間もないのにそう言った事は出来ません。それに俺には好きな人がいます、だから……貴女の想いには応えられません」
「……そう。残念ね」
「お気持ちだけ頂きます。でもオーリオさんは間違いなく美人で魅力的な女性だと、嘘偽りなく心から俺はそう思います」
「お部屋の準備出来ましたぁ! ご案内しますねぇタツヒコさん」
「有難う御座いますライラさん――それじゃあオーリオさん、今日は色々と有難う御座いました」
オーリオに小さく頭を下げ、ライラに腕を引かれるまま龍彦はリビングを後にする。




