第一章:獣に好かれる程度の魅力④
都会のように車が絶え間なく行き来する事もなければ、人の手も施されていない自然道。
澄んだ空気に包まれ、心地良い微風が優しく肌を撫で、その微風によって草木が互いに擦れ合い心地よい自然の音色を奏でる。
緑溢れる山道を龍彦はのんびりとした足取りで歩く。
その後ろには巫女服の上に朱色の胸当を纏い薙刀や刀と言った武器で武装した人狐族の女性が数名後に続いて歩いている。絶えず熱を帯びた視線が彼の背中へと突き刺さっているのは言うまでもない。
九羅嘛衆……基本体力や筋力では他種族に劣る人狐族。その中で優れた身体能力を持ち武術を得意とする選ばれた者達で構成された戦闘集団。
その役割は当然里長であるカエデの身の回りの世話に始まり護衛を務めている。
そんな九羅嘛衆の数名が主君の元を離れて龍彦と行動を共にしているのには、理由があった。
昨晩雷轟の滝にて繰り広げられた大喧嘩により、カエデとカルナーザは生きてはいるものの大なり小なり負傷した。現在はクズノハ一族に伝わる秘薬で治療が施されたものの、二人共肉体に残ったダメージと疲労に満足に動けず仲良く床に伏している状態にある。
そして治療に使用した秘薬を製造する薬草も底を突いてしまう事態に陥る。
そこで介抱されてから良くしてくれているカエデにせめてもの恩返しとして、昨日の喧嘩を止める事も出来なかった自分に唯一出来そうな事として、薬草を取りに行く仕事に龍彦は志願した。
最初こそ渋っていたが九羅嘛衆が護衛すると申し出た事でカエデも承諾した。
そして現在、必要な薬草の情報が書かれた巻物とそれを入れる籠を背負い、誰が護衛をするかで口論し最終的にジャンケンと言う平和的方法で勝った数名を率いて龍彦は薬草が採れる裏山へと赴いた。
同行者は礼儀正しいユキ、お転婆なハルノ、口数の少ないミカゼの三名だ。
とは言え、この山自体にも魔物除けの結界の中にある。魔物が現れないのならただの山でしかない。仮に猪や熊言った猛獣が出たとしても、その程度の相手ならば対処出来る。
薬草を取りに行くが為に護衛をつかせるカエデの大袈裟で優しい心遣いに、龍彦は改めて感謝の念を抱いた。
「えっと……この辺りの筈だな。それじゃあ始めますか」
「わ、私達もお手伝いしますよ!」
「あ、有難うございます皆さん。よろしくお願いします」
その言葉と同時にユキ達は早速行動に移した。
手分けをして薬草を採取する彼女達の動きは実に滑らかで無駄がない。一方で薬草に対する知識を持ち合わせていない龍彦は巻物に書かれた絵と見合わせ確認してから採取する為、その動きに遅れが生じするのは無理もなかった。
結局殆どユキ達の面々が薬草を集め、作業開始から凡そ二時間程度で籠の中は多種の薬草で一杯となった。
「お疲れ様ですタツヒコさん。これだけあれば当分は大丈夫でしょう」
「いえいえ、本当に皆さんが協力してくれたからこんなにも早くスムーズに終わらせる事が出来ました。……俺一人じゃ、多分日が暮れても終わらなかったかもしれません」
これでは何の為に志願したのかがわからなくなる。結局足手纏いにしかならなかった事を痛感しながらも籠を背負い下山しようと踵を返し――不意に袖を誰かに引っ張られた。視線を向ければ同行者の中で比較的幼いミカゼが袖を掴み顔を見上げている。
「えっと、どうかしましたか?」
「私、頑張った」
「え? あ、あぁ、そうですね。本当に助かりましたよ」
「……ご褒美欲しい」
「ご、ご褒美?」
「……ん」
頭をそっと差し出してくるミカゼ。
その様子に暫く沈思し、頭を撫でろと要求していると龍彦は理解する。
九羅嘛衆と言う大役を担っているが中身はやはり外観相応の子供だ。その姿に微笑ましくも、セクハラで訴えられないか不安を抱きつつ龍彦はミカゼの頭を撫でた。
「……本当に有難う、ミカゼ」
「ん……」
気持ち良さそうに目を細め頬をほんのりと赤らめるエカゼ。尻尾を嬉しそうに揺らしている姿に改めて亜人には動物としての習性が生きている事を理解させられる。
感情表現が乏しいのかユキやハルノに対して彼女は無表情を浮かべている。何を考えているのか全く読めない子ではあると思ってはいたが、別の形で感情表現を表してくれる姿に安心感が芽生えた。
それを後ろで唖然としながら見つめ、程なくして我へと返ったユキとハルノが慌てた様子でミカゼに抗議の声を上げた。
「ちょ、ちょっとミカゼ何やってるのさ!」
「ずるいわよ私だってタツヒコさんに頭を撫でて……じゃなくて、でも、やっぱり撫でてもらいたいのに!」
「早い者、勝ち……」
口元を小さく緩めるミカゼ。その顔は勝ち誇ったようにも見える。
(これは……全員撫でた方がいいのかな?)
ユキもハルノも外観年齢で言えば自分と差ほど変わらない。そんな相手を撫でる事こそ、充分にセクハラとして訴えられる。彼女達の場合は動物としてその一部を受け継いでいるが故の本能によるものかもしれないが……喧嘩の原因が撫でた事にあるのなら、この場は全員撫でた方がいいのかもしれない。
口論する三人を前に龍彦はミカゼの頭から手を離すと、ユキとハルノの頭を同時に優しく撫でた。
ぴたりと口論を止めて、油の切れたブリキ人形のようにぎこちない動きで顔を見上げてくるユキとハルノ。
「喧嘩しないで下さい三人共――今日は本当に有難うございました」
「そ、そんな私は別に! ただ貴方のお力になりたいと思ったまででして……!」
「そそそ、そうよ! べべべ、別にタツヒコの為にやった訳じゃないんだからね!」
「典型的なツンデレ乙――でも実際助けられた訳だし、感謝の言葉を言うのは当然でしょう? それじゃあ早く薬草を持って帰りましょう、カエデさんも待っているでしょうし」
頭から手を離す。
名残惜しそうに尻尾と耳が項垂れるユキとハルノに龍彦は苦笑いを浮かべながら踵を返す。
刹那――何者かの殺気が急速に近付いてくる。背筋に冷たいものが走り抜けた。
振り向き様、龍彦は大きく後ろへと跳躍した。僅かに遅れて先程まで立っていた場所に数本のナイフが突き刺さる。
「ナイフ!? 一体誰が……」
戦闘態勢に入るユキ達の前に、急襲者がその姿を現した。
「あ、あいつは……!」
「ケケケ、ケケケケケケケ……!!」
現れたのは一人の亜人。それは龍彦にとってよく知る人物である。
人蜥族のレティヘロ・ゴーマ――その性格は残虐非道で種族特有の幻術を駆使して相手を甚振る事を愉悦と感じる真性のサディスト。武術大会参加の目的は参加者全員の悲痛な叫び声を聞きたいが為と言う、実に歪んだ思考の持ち主。
大会で出会う筈の男がどうしてこのクズノハの里に現れているのか。
強襲者の正体に思考が僅かに遅れた龍彦に、レティヘロの投擲したナイフが襲い掛かる。その距離は既に眼前にまで迫り、回避する猶予を与えない。
ナイフが表皮に振れる――瞬間、金属音が鳴り響く。ユキの薙刀が横からナイフを弾き飛ばしたのだ。
「タツヒコさんは私達の後ろに!」
「私達が、護る……」
「アンタ何者なの? 名乗りなさい!!」
「ケケ……ケケケケケケケケ……!」
懐から取り出した新たなナイフを逆手に構え、レティヘロが地を蹴り上げる。
先陣を切ったのはユキ。薙刀を上段に構えながら地を蹴り上げ迎撃に出る。
「やぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
鋭く打ち落とされた一撃がレティヘロを唐竹に切り裂いた。
頭部から一直線に駆け抜ける刃。誰がどう見ても今の一撃は即死。綺麗に両断されてもはっはっは、と豪快に笑って生きていられたら最早怪物だ。
しかし唐竹を見舞ったユキの顔には困惑の色が浮かび上がっている。その理由をハルノとミカゼは知り得ず、しかし龍彦だけはその意味を理解する。
困惑の色を浮かべた理由、それは唐竹斬りを繰り出したユキの手に対象を斬ったと言う感触が伝わっていないからだ。
「ユキさん後ろです!」
「なっ……!?」
彼女の背中から血が噴き出る。レティヘロの凶刃をその身に浴びたのだ。
纏っている巫女服を自分の血で赤く染め上げながら倒れるユキ。
三日月の如く口を歪め刃に付いたユキの血を舐め取りレティヘロはハルノとミカゼを見据えている。実力に余裕があるのか、その邪悪な笑みはどちらの獲物を先に、どの様にして甚振るか品定めしているかのように龍彦の眼に映し出されていた。
「ユキ……!」
「よ、よくもユキをッ!!」
仲間がやられた姿を目にしたハルノが怒号にも似た叫び声を上げると同時に刀を鞘から抜き放ちレティヘロへと向かっていく。その背後、ミカゼは呪符を手にレティヘロへと攻撃を仕掛けた。
間合いを詰めるハルノを援護するようにミカゼが呪術を発動。真っ直ぐと投擲された呪符は燃え盛る炎の球となってレティヘロに襲い掛かる。
カエデにも搭載されている必殺技の一つ、四門開浄・灼焉洸咒だ。
レティヘロが四門開浄・灼焉洸咒を避ける、と同時にハルノが刀で斬り掛かった。
ミカゼの攻撃は囮、本命はハルノの攻撃にある。四門開浄・灼焉洸咒をわざと避けさせ、その方向を瞬時に見切ったハルノが瞬時に斬り掛かる隙のない二段攻撃。
炎を避けた瞬間を狙って袈裟斬りにハルノの刀が襲い掛かる。回避行動がまだ終わっていないレティヘロにその斬撃を避ける猶予はない。
なかった、筈だ。
「何!?」
驚愕の声を上げるハルノに、レティヘロは口を三日月の如く歪め不気味な笑みを浮かべる。
ハルノの斬撃は先のユキと同様レティヘロを捉えている。しかしその刃は本体を捉えず素通りしていた。彼女が斬ったのは実態ではなく残像、そしてそれこそがレティヘロ・ゴーマの能力。
レティヘロは一見すると蜥蜴人だが、そのモチーフとなっている動物はカメレオン。
人蜥族の中でレティヘロは暗殺家業を営む一族の末裔であり、本人は暗殺を生業とする傍らで自身の愉悦の為に無関係な亜人をも傷付けていると言った設定を持つ。
エンディングでも更なる標的を求めて一人彷徨うと言う、最後の最後まで残忍なキャラを貫いている。
暗殺家業と言うだけあり、その技の特徴はまるで忍者。
虚を交えた分身との連携攻撃で相手を翻弄しキャラクター設定の通り対戦相手をじわじわと嬲り殺していくスタイルで立ち回っていく。
そんなレティヘロが今使った技は必殺技の一つドッペルゲンガー。
実体を持たない分身を生み出す事で相手の注意を逸らしその隙に攻撃をすると言う性質の技。従ってユキとハルノが攻撃したのは囮役である分身。攻撃を与えても斬った感触が伝わらないのは当然の事だった。
仲間が倒れた姿を見せつけられたミカゼに驚愕と困惑、そして僅かに遅れて恐怖の感情が瞳に宿る。
九羅嘛衆と言うカエデを守護する選ばれた者達。出会ってまだ日が浅い龍彦よりも、彼女達は仲間としてお互いの実力を認め合っている。その仲間がこうもあっさりと倒された。その現実は幼い彼女にとってあまりにも非情すぎた。
レティヘロがゆっくりとミカゼへと向かって歩き出す。やろうと思えば一瞬にして間合いを詰める事も可能であると言うのに、相手の恐怖心を煽るように、自身が強者であると思い知らせる為に、あえてゆっくりと間合いを詰めていく。
「ミ、ミカゼ!」
「……ッ! タ、タツヒコは逃げて……!」
ミカゼが一歩後退し、再び前へと踏み出した。
目頭に大粒の涙を浮かべているがその顔にははっきりと逃げないと言う強い意思が宿っている。九羅嘛衆として恥じぬように、彼女は葉桐龍彦を護ると言う使命を己の命を賭して果たそうとしている。
「タツヒコは、絶対に私が護る……!」
「ミカゼ……!」
一人残されたミカゼに遂に、レティヘロの凶刃が迫った。
「ま、待て!」
龍彦が地を蹴り上げる。
腰に差した刀を鋭く抜き放ち、ミカゼに向けて薙ぎ払われたナイフを弾き返した。
「タ、タツヒコ……!」
「ミカゼ、ここは俺が何とかする!」
不気味な笑みを浮かべ続けるレティヘロに龍彦は刀を中段に構え対峙する。
乱入する事によってレティヘロを三人から遠ざける事に成功した。
ユキ、ハルノと言う前衛が倒され戦闘不能となった今、残されたのは後衛のミカゼのみ。見た限り近接武器を携帯していない彼女はカエデと同じく呪術を得意とするタイプ。そんなミカゼが近接戦闘を得意とし、分身と言う厄介な能力を持ったレティヘロと戦うのは不利だ。
ユキとハルノはまだ生きている。獲物を甚振り抜いてから殺す残忍な性格の持ち主だ。だから暗殺者として一撃目で命を奪わなかったのは、龍彦にとっても幸いであった。
「ミカゼは二人を連れて里に逃げて早く治療を!」
「で、でも……!」
「俺なら大丈夫だ! だから早く行ってくれ!」
数秒の戸惑いの後、ミカゼは倒れている二人に呪符を貼り付けると軽々と持ち上げると急いで下山する。重力を制御する効果の呪符だろう。
里へと撤退したミカゼ達を視界の端で見送り、改めて龍彦はレティヘロを見据える。
いつの時代も女の護るのは男の役目、幼少期より言い聞かせられてきた父の言葉が強く心に甦る。
例え人間には到底扱えない力を持っていたとしてもミカゼは幼い女子供と変わらない。
ならば自分はその女子供を護る義務がある。
(落ち着け俺……落ち着くんだ……)
自分に何度も言い聞かせ、龍彦は呼吸の乱れを徐々に落ち着かせていく。
これはルールによって守られた試合ではない。危険と判断しストップを掛けてくれるレフェリーもいない。実家では真剣を用いて父とも戦った。しかし血の繋がった親子、命が奪われる事も致命傷になる傷が与えられる事もなかった。
だが今は違う。
誰一人止めにも入らない。斬らなければ斬られる。殺さなければ殺される。自分は今、その立場に立たされている。
「ケケケケケケケッ!」
レティヘロが攻撃を仕掛けてくる。
それに対して龍彦は、背後へと振り返りながら横薙ぎに刀を払った。
逃げる事は時に必要である。誇りを優先し命を落としてしまっては意味がない。しかし対峙している相手に背を向けると言う事は自らを危険に晒す事にもなる。背を向けたが故に相手を視界から外してしまえば、次のどの様な攻撃が来るかわからない。それこそ飛び道具を持っていてでもされれば狙い撃ちにされるだけだ。
従って戦闘中相手から逃走する時は充分に距離を取るまで背を向けてはならない。その心理を龍彦は逆手に取った――実際には、目の前の分身を見ていても仕方がないからである。
レティヘロのドッペルゲンガーには幾つかのパターンがある。
技の発動時、レティヘロは必ず突撃をする姿勢へと入る。その形から上段、中段、背後からの奇襲を見切る事が出来る。従って今相手が取った構えは背後から奇襲を仕掛ける際の構え。正面より向かってくるのは囮の分身。
振り返った視線の先には今にもナイフを振り下ろさんとするレティヘロ。その刃を薙ぎ払った刀が弾き飛ばした。
宙を何度も回転し一本の木へと突き刺さったナイフ。手中より得物を失ったレティヘロは直様飛び退き体制を立て直す。
「……次は本当に斬るぞ」
情けない。龍彦は己の甘さを責めた。
相手は三下の盗賊とも並みの暗殺者とも違う。
暗殺を生業としている者は相手に気付かれる事なく、不意を突いてその命を奪う。金でどこの誰であろうと暗殺する事を引き受け、卑劣な手段を用いる事も厭わない。そして相手を殺す事にも、逆に殺される事にも恐れや躊躇いを持たない。それが創作物で描かれ、龍彦の頭の中にある暗殺者としてのイメージだ。
そのイメージはレティヘロ・ゴーマと言う本物の暗殺者を目の当たりにした事で固定化された。
レティヘロは自分の死すらも恐れていない。だからこそ、技を見切られ得物を弾き飛ばされた今でも、邪悪な笑みを崩す事もなければ戦意も喪失していない。
そんな相手に脅迫したところで意味は成さない。仮に峰打ちを使うとしても、結局凶器が鈍器へと変わっただけ。それこそ頭部に本気で打ち込めば撲殺してしまい不殺の意味はなくなる。だからと言って腕や足の骨を砕いたところでレティヘロが大人しく退くとも考えにくい。
この場を完全に生き残る為には、目の前の敵を斬るしかない。
「カカ……カカカカカカカカカ」
レティヘロが愉快そうに笑う。
次の瞬間、その身体が足元から煙のように消えていく。
龍彦は刀を構えたまま、その場から動かない。
辺りにレティヘロの気配は感じられない。けれども殺すのを諦め逃げ出した訳でもない。
レティヘロはまだ、この場にいる。
突然姿が消えたのは超必殺技であるインビシブルを使ったからだ。
インビジブルを発動すると一定時間姿を画面上から完全に消す事が出来る。他の格闘ゲームでもこのインビシブルと似た様な技を使う凄い忍者がいるが、影が残る為に位置が完全に見破られてしまう。
だがレティヘロのインビシブルは影が残ると言う欠点はない。
それではプレイヤー自身もキャラを見失ってしまうのでは、と思うだろう。それこそがレティヘロの弱点でもある。
それは攻撃する瞬間。その時だけ僅かにだがレティヘロの姿が映し出される。
ゲームでは設定だが現実的に考えれば恐らく、静から動へ……攻撃へと移る瞬間に漏れる殺気が技の効果を鈍らせているに違いない。
先程まで剥き出していた強烈な殺気も、今では微塵にも感じ取れない。
狙うはその時。攻撃を仕掛けてくる刹那、相手よりも早く此方の攻撃を叩き込まなければこの場に骸となって転がっているのは自分の方だ。
甘さを捨てろ。斬らなければ斬られる。龍彦は何度も、己に言い聞かせる。
言い聞かせるが。
「……クソッ」
これから人を殺めると言う恐怖が、人としての道を踏み外す……死ぬまで逃れられない業を背負うと言う重さが徐々に込み上がってくる。柄を握る手は汗ばみ緊張から震えが止まらない。呼吸の乱れを必死に整えようとすればする程余計に乱れていく。
「……タツヒコ!」
不意に少女の声がタツヒコの耳に届いた。
声の方に視線を向ければユキとハルノを連れて逃げたミカゼが駆けて来る姿が視界に映る。
二人を里に連れて帰り急いで戻ってきたのだろう。その衣装は仲間の血を浴びて所々朱色に染まり、道中転んだのか泥や小枝で汚れている。
そんなミカゼの前に、暗殺者は姿を現した。
「あ……」
驚愕の表情を浮かべるミカゼ。
そんな彼女にナイフを今にも振り下ろさんとしているレティヘロ。初見である相手に技の性質を見切られている……そう判断したレティヘロは敗北の危険を避ける為に標的をミカゼへと変更したのだ。
最悪の未来が、脳裏をよぎる。
「やめろぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
怒号にも似た叫び声を上げて、龍彦は地を蹴り上げた。
――縮地と呼ばれる技がある。
相手との間合いを素早く詰める技術。縮地は武術を会得している者が到達する事を目指す歩法の極み。純粋な身体能力による移動ではなく、心技体が揃って初めてそれは完成される。
力強く踏み込んだ事で大きく陥没した地面させた強靭な脚力。今に至るまで欠かす事なく修練を積み重ね培ってきた技術。そして応援へと駆け付けてくれた勇敢な小さな少女の命をなんとしてでも護ると言う使命感。
心技体……それらが複合された事で龍彦の縮地は、仙術の類かと見紛うが如き迅さを生み出す。
人の持つ視認速度を超えるそれは正に神速。その神速にて数メートルも離れていたレティヘロとの間合いを瞬時に詰めその背中に太刀を浴びせた。
斬、と言う音が山道に静かに反響する。
続けて、どうとレティヘロが地面へと倒れた。
背中から逆袈裟に掛けて一直線に走る赤い筋。やがて全身を朱色に染めていき大きな赤い水溜まりへとなっていく。
「ハァ……ハァ……」
「タツ、ヒコ……?」
恐る恐る、身を案じる少女の声に龍彦は我へと返った。
一点の曇りもなくいつも鏡のように美しく輝いていた刃に付着する赤い液体。
手に残る肉を切り裂き骨を断った感触。
視線を下ろせば直ぐそこには血溜まりの中に沈み動かなくなった暗殺者。
それらが一斉に、龍彦に一つの現実を突きつける。
殺人――生まれて初めて今日、この手で人を斬った。