第一章:獣に好かれる程度の魅力③
カエデの屋敷にて朝食を終えた龍彦は里の中を歩いていた。
カエデと共にエルデニアへと向かうまでの間、このクズノハの里で滞在する事が決まった。今は軽い挨拶回りを兼ねて里の中を見物している最中である。
ゲームでは見る事の出来なかった、名前しか出てこないクズノハの里。
男達は畑仕事で汗水を流し、女達は川で洗濯をしながら談笑を交え、子供達は無邪気な笑い声を上げながら元気よく遊んでいる。住人が人間ではなく全員が獣耳と尻尾を生やした亜人である以外、視線の先に広がる光景は大河ドラマで目にする古来日本の生活風景そのものだ。
そんな光景を目にしながら歩いていると必ず向けられる女性の人狐族からの視線。
あの女中達と同じように熱を帯びた視線が絶えず突き刺さる。子供も大人も、高齢者関係なく。
「あ、あの……」
齢十程の一人の少女が話し掛けてきた。
「な、なにか俺に用でも?」
「こ、これどうぞ!」
そう言って一輪の花を手渡される。
なるほど。先程視界の隅で慌ただしく辺りを見回していた少女がいたと思っていたが、どうやらこの花を探していたらしい。幼い子供故の純粋な心からの贈り物に、龍彦は口元を優しく緩めると少女の頭をそっと撫でた。
「あぁ、有難う。お前は優しい子だな」
「はにゃぁ……ハッ! そ、それじゃあ失礼しました!」
慌ただしくも礼儀正しく頭を下げた後、遠目で見ていた子供達の元へと走り去っていく。彼女の友達なのか、少女が戻ってくるとまるで英雄を迎えるかの如く称賛の声を上げていた。
そんな少女達を微笑ましく思い受け取った花を懐へと仕舞う。
「お前がカエデ様が介抱したって言う人間か」
今度は畑仕事をしていた男がその手を止めて歩み寄ってくる。
彼らからすれば他所の者の男に里の女性達が気になるのが気に食わないのだろう。だが嫉妬や怒りと言った感情が彼の顔からは一切感じられない。
「えぇ、そうですが……何か?」
「そうか。いや詳しくは聞かされていないが色々と訳ありだそうだな。まぁ大変だろうけど頑張れよ。何か困った事があれば遠慮なく言ってくれ」
「あ、有難うございます」
気さくに話し掛け気遣ってくれる男に龍彦は頭を下げた。
昔一匹の雌猫を二匹の雄猫が取り合っているところを偶然通り掛かり、その雌猫が懐いてきたのを目の当たりにした二匹の猫が襲い掛かってきた事がある。人の恋路を余所者に奪われたと勘違いしたが故の嫉妬が原因だ。
今回もそれと同じような事になるかと思い警戒したが、それは考えすぎだったと龍彦は安堵の息を小さく漏らし……ふと、男の手が尻を撫でている事に気付き慌てて距離を取った。
「あ、あの……?」
「ところでお前なかなかいい体してるな。特にケツが魅力的だぜ」
「そ、そうですか……」
「そう言えばまだこの里の事知らないだろ。よかったら俺が案内してやるよ、いい場所知ってるんだぜ」
「全力でお断りします!」
全速力で龍彦はその場から逃走した。
普通の動物なら雌だけであるのに対し、亜人の場合では雄にまで好かれてしまうらしい。ここまで来ると最早体質ではなく何か一種の呪いの類とも疑ってしまう。女性ならば誰でも歓迎していよう、が男にまで好かれたくない。
あのまま案内してもらっていれば今頃男としての尊厳を失い心には永遠に消えない傷を抱える事となっていた。
この里にいる間は下手にカエデの屋敷から外に出ない方がいいのかもしれない。
男から全速力で逃げ出してから暫くして、龍彦は里の外へと出ている事に気付いた。ただ男の尊厳と貞操を守る為に無我夢中で逃げていた為気付かなかった。振り返れば、遠くにクズノハの里が見える。
里より一歩外に出れば恐ろしい魔物が跋扈する危険地帯。
カエデの忠告に従い踵を返し里へと戻ろうとする。
その時。
「あぁ、そこの剣客よ」
不意に呼び止められ、振り返る。
「お、お前は……!」
視線の先には一人の亜人の女性。
肩当てと布の服と言う極めて軽装。割れた腹筋を晒し女性を象徴する二つの山がカエデ以上にはっきりと膨らんでいる。虎模様の体毛に覆われた耳と尻尾、そして肘より下……陽光を浴びて怪しく輝く刃の如き鋭い爪を携えた獣としての両腕。
「主に一つ聞きたいんだがクズノハの里とはこの先で間違いないか?」
武を高める事を生き甲斐としている武人気質な性格の持ち主かつて野試合にて引き分けとなったエルトルージェとの決着を着ける為に武術大会へと参加した人虎族の女性――カルナーザ・デ・バラン。
予想していなかった来訪者との邂逅に龍彦は驚愕しながらもその姿を目に焼き付ける。
エルトルージェのライバルキャラとして作られた超パワータイプのキャラクター。そして虎をベースとしているだけあり力強い真っ直ぐな瞳と、武人としての風格が滲み出ている。
そのカルナーザが一体クズノハの里に何の用があると言うのか。
「あ、あぁ……そうだけど。俺も今からクズノハの里に戻るところなんだ」
「ん? 戻る? 主はあの駄狐と知り合いなのか?」
「だ、駄狐? ま、まぁ知り合いになったばかりと言うか……色々あってな」
「ふむ……。ところで主は見たところなかなかの実力者のようだ。その身から感じられる闘気は小川のように静かで穏やかだが、その中に鋭い牙を隠し持っている事が我にはよくわかる――クズノハの里に入る前に、少し我と手合わせをしてくれないか?」
「えぇ!?」
突如拳を構え戦闘態勢に入ったカルナーザに龍彦は困惑の色を顔に浮かべる。
己の武を試し、強者と手合わせし高みを目指す傍らでそうする事でしか得られない高揚感を味わう為に彼等は戦うのだと、そう言った話はよく耳にする。
カルナーザは言うまでもなく、その手の類の亜人……生粋の武術家だ。
しかし龍彦にはその気は一切なかった。幾ら相手がゲームノキャラクターであり、ただの女性の亜人でないにせよ、心が彼女に応じようと言う気持ちを抱いていない。即ちやる気が全く起こらないのだ。
だがカルナーザとの手合わせは、今の龍彦にとっても好機でもある。
「い、いやいきなり手合わせしてくれって言われても……」
「なんだ。主も剣士ならば強き者と戦いたくなるものだろう? 強き者と戦う事で得られる魂の高揚、そして己を更に磨き上げる事に生き甲斐を感じる……それが戦士と言うものだ」
「全員がそうとは思わないけど……」
「男のくせにあーだこーだと理屈を捏ねるな主は。兎に角こうして出会ったのも何かの縁だ。我と一勝負してもらうぞ」
「え~何その理不尽な理由」
「いくぞ! 我が名はカルナーザ・デ・バラン――推して参る!!」
地を蹴り上げカルナーザが戦いを挑んできた。
人虎族特有のパワーを活かした大振りな攻撃。
一度彼女が拳を、蹴りを繰り出せば轟と大気が唸りを上げる。その音が彼女が繰り出す一撃、一撃にどれ程の威力が込められているかを物語っていた。
龍彦は全て見切り躱していく。ただし腰の得物を抜かず、あくまで回避に徹し続ける。
「なかなか素早いな……虎爪閃!」
大きく右腕を振り上げつつ回転。遠心力を加えながら右腕を一気に振り下ろす。
空を鋭く切り裂いたカルナーザの爪。
龍彦は身体を逸らし最小限の動きでそれを躱し間合いを空けた。
(見える……!)
相手の動きがはっきりと捉える事が出来る。ゲームの動きと同じ動作をしている、と言う事も勿論要因として含まれているが、カルナーザの攻撃を見切る事が出来る。
戦いにおいて一番恐ろしい事は相手の技を知らないと言う事。なまじ読める事も危険ではあるが、知っていると知らないとでは大きく戦いを左右する。
龍彦はカルナーザだけでなく全てのキャラクターの技の性質を頭脳と身体に叩き込んでいる。
それは幾度となくゲームの中で繰り返し皆と戦い続ける事で攻撃の発動から終わりに映るまでに必要なフレーム、技を繰り出すモーション、その全てを龍彦は自然と記憶していた。
例え相手の攻撃がダンプカー並であろうと、速度が己より疾くても、静から動へ移るその瞬間さえ見切れればどんな攻撃が来るか読む事は容易い。
そしてそれを可能とさせたのは幼少期より続けてきた修練があってこそ。培われ育んできた肉体と技術は、どうやら異世界の住人相手にも通用するレベルにまで到達しているらしい。
カルナーザはまだ本気を出していない事は、彼女が持つ最大の技をまだ出さない時点で既に理解している。それでも人外の存在の動きについていけていると言う事実は、龍彦にとって大きな情報であった。
「なかなかやるな! 初見であるにも関わらず手の内が知られていると錯覚させる程の見切りには感服させられるぞ!」
「……そりゃ、まぁ、うん」
知っていて当然だ。龍彦は心の内で呟く。
カルナーザ・デ・バランの最大の特徴は攻撃力と防御力の高さにある。
通常攻撃を含め必殺技の一つ一つと、ダメージに対する耐久が他のキャラよりも高く設定されている。しかしその反面スピードが非常に遅いと言うデメリットを彼女は抱えていた。
カルナーザの必殺技はどれも他のキャラクターと比べてフレーム数が多い。
その為普通に出していては、初心者が相手ならばまだしも上級者を相手にするとなると当てる事はまず不可能。技が当たる前にバックステップで避けられ、出し終えた直後を狙われて手痛いカウンターを喰らってしまう。
またカルナーザは必殺技の攻撃力の高さ故にガトリングコンボも出来ない。従って全てが単発撃ち、一発一発を確実に当てていくスタイルをプレイヤーは強要させられるのである。
一見すると一癖も二癖もある弱キャラにしか見えない――が、上級者用と言われる由縁は彼女にのみ与えられた特殊技能にあった。
カルナーザの必殺技は出始めが遅い――それは“普通に”技を繰り出した時の場合のみの話。
例えば、超必殺技を出そうとしてキャラが発動するエフェクトに入った、と思った時それよりも早く繰り出されていた相手の弱攻撃によってキャンセルさせられると言った現象は、格闘ゲームをする人間なら一度は経験した事があるだろう。
カルナーザは、この状態を無視する能力を持っている。
俗に言うスーパーアーマーの特性を兼ね備えているのだ。更に相手の攻撃と同時に必殺技を発動した場合、相手を硬直させ自身の技が必ずヒットする必中の効果が追加される。従って下手にコンボを狙い連続攻撃を仕掛ければ、スーパーアーマーによって受け止められるか逆に手痛い反撃を受ける危険がある。
それだけでなく、彼女の必殺技全てにはガードクラッシュ効果もある。
これは今の格闘ゲームでも搭載されている基本システムえガードし続けるとゲージが上昇し限界を超えると強制的に解除され一定時間行動不能の状態へと陥ってしまう。そのガードクラッシュをカルナーザはたった一撃で引き起こしてしまうのだ。
従ってカルナーザを使うプレイヤーは後の先、即ちカウンターを主体とした立ち回りで攻めてくる。
カルナーザの必殺技は絶対に防御するな。龍彦はカルナーザの攻撃を冷静に見切り、回避に徹した。
「主は何故戦わない!」
「戦う理由が今はないからだ」
「我では役不足だと言いたいのか!?」
「そうじゃなくて! あーもう、アンタみたいな美人と戦いたくないって言ってるんだよ!」
次の瞬間、怒涛の攻めを見せていたカルナーザの動きが突如止まった。
「び、びびび、美人だと……? 主は今、我を美人だと……言ったのか?」
「へ、あ、あぁ……」
身体を小刻みに震わせ瞬く間に顔を茹でタコのように赤らめたカルナーザは顔を両手で隠した。
顔を覆う両手の隙間より聞こえてくる呪詛のような呟きが何を意味しているのか龍彦の耳には届かない。とは言えその言動が騙まし討ちをする為のものとは、カルナーザの性格上まず考えられない。
龍彦はゆっくりとカルナーザへと歩み寄り――
「美人って言われた美人って言われた美人って言われた美人って言われた……」
何度も同じ言葉を繰り返す姿に恐怖を感じ後退った。
カルナーザ・デ・バランは生粋の武人気質。それがこの世界での彼女は褒め言葉にとても弱い純粋な乙女心を持った女性らしい。
らしい、とはゲームでしかカルナーザについて知らず勝手に脳内で描いていたイメージでしかない。
幾ら武人としてもカルナーザも一人の女。異性から褒められて嬉しいと思うのはどの世界でも共通であるようだ。
「ぬ、主よ! そう言えばまだ貴様の名を聞いていなかったな……名乗れ!」
「えっ!? えっと、俺は葉桐龍彦……あ、龍彦が名前だからな」
「タ、タツヒコか。力強さを感じさせるいい名前だ。だが何故攻めてこない? 我の技を見切り飛燕の如き速さと動きで避ける技術は素晴らしいと言うのに」
「……さっきも言ったように俺は別に強い奴と戦いたいって気持ちは一切ない。それにカルナーザみたいな綺麗な人なら尚更無理だ」
「き、綺麗などと……そ、そのような褒め言葉を貰っても嬉しくないぞ!」
尻尾が落ち着きなく揺れ動いているのを見る限り、喜びを隠せていないのは誰が見てもわかる。
一先ずこ戦闘はこれで終わりと見ていいだろう。龍彦は静かに溜息を漏らした。
「ところで、カルナーザはどうしてクズノハの里へ?」
言われて、当初の目的を思い出したと言いたげにカルナーザが手を合わせた。
「主との戦いですっかり目的を忘れていた。もうすぐエルデニアで行われる武術大会、それにカエデも参加するだろうから少し顔を覗かせにな」
「えっ? カルナーザはカエデと知り合いなのか?」
カルナーザの言葉に、龍彦は疑問を投げ掛ける。
ゲーム内で特定のキャラクターを対戦で組み合わせた場合、試合前に特殊な演出が見られる。試合後の勝利台詞も専用のものが表示されるが、カエデとカルナーザの二人には好敵手関係や友人関係と言った関連性がない。特にカエデに至ってはカルナーザに対し「貴女程の凄まじい剛の技を持った武人と戦うのは生まれて初めてです……」と、この台詞から初対面である事がわかる。
しかしカエデとカルナーザには面識がある。この事実は本編と矛盾していた。
「まぁ、そうだな。以前空腹で倒れていたところを助けてもらった事があってな。それから奴とは付き合いがある」
「そ、そうなのか。それで昔のよしみって理由で飯を食わせてもらう為に来たとか?」
「な、何故主は我の考えている事が読めた! 読心術の魔法を会得しているとでも言うのか!?」
「……いや、なんとなくそんな気がしただけ」
どんどん崩壊していく……否、本来の姿が露となっていくカルナーザ・デ・バラン。
武人気質と思いきやなかなか親しみやすい性格の持ち主。それが本当の、続編で描かれるべき彼女の姿なのかもしれない。
「いやぁ、あの時奴がくれた握り飯が大変美味かってな。あの味をもう一度味わう為にこうしてクズノハの里を目指していた訳だが……何分初めて訪れる場所だ、道に迷うわ妙な場所に辿り着くわで苦労した」
「……握り飯を求めて大冒険してきたのって多分カルナーザぐらいだろうな」
「さて、それじゃあ早く奴の里へ行くとするか――主はどうするのだ?」
「俺も戻るよ。里の見学の途中だったんだ」
「そうか。ならば早く行くぞタツヒコ!」
「ちょ、腕引っ張るなカルナーザ! お前の爪が刺さって痛いから!」
腕を引っ張られながら、龍彦はクズノハの里へと戻る。
◆◇◆◇◆◇◆
「今まで何処で、その方と、ナニをされていたんですかタツヒコさん」
里に戻るや否や、般若の形相を浮かべたカエデに出迎えられる。
若干気になるニュアンスの言葉が含まれているが、龍彦にとってその疑問は些細な事でしかなかった。今一番に疑問に抱かねばならない事は、何故彼女がそこまで怒っているのかと言う事にある。
怒気はカルナーザにも向けられているが、当の本人は全く気にしていない様子で懐かしむようにクズノハの里を視界に映る範囲で物色している。
「ど、何処って……ちょっとだけ里の外に」
「私は言いましたよね? 一人でタツヒコさんが里の外に出るのは危険だと……」
「は、はい……まぁ……」
「ならばどうして約束を破るんですか? それとどうしてカルナーザさんと一緒にいるのですか? まさか逢引をしていた……なんて事ではありませんよね?」
「ま、まさか。俺とカルナーザとはたった今そこで出会ったばかりですし、そんな事をする関係じゃありませんよ」
「主は相変わらずだなカエデよ。我とタツヒコは初対面だ、その事に嘘偽りは――」
「へぇ、“カルナーザ”……ですか。初対面であるにも関わらず私にはさん付けで彼女には呼び捨てで呼ぶ程の関係なのに何もしていないですか」
何を言ってもカエデは信じようとしない。逆に言い訳をしていると解釈され怒りの炎に油を注ぐ事になってしまっている。気付かぬ内に彼女の両指間には札が挟まれている。
ここで得意とする呪符を発動させるつもりなのか。今のカエデは冷静さを欠いている。
「お、落ち着いて下さいカエデさん!」
「私は充分に落ち着いていますよタツヒコさん。えぇ、この里を収める長として冷静さを欠く事はあってはなりませんからね」
「いやいや充分に冷静じゃないですから! あ~もう、いいから落ち着けって言ってるんだよ“カエデ”!?」
苦し紛れの策だ。龍彦は自嘲気味に心の中で小さく笑う。
カルナーザを呼び捨てにしている事に不服を感じているのなら、同じようにカエデも呼び捨てにすればいい。そんな安直な考えが思い付いたと同時に、口は勝手に動いていた。
この程度の事で今にも戦闘態勢に入ろうとしているカエデの怒りを鎮められるとは思えない。
そう、思わなかった。
「い、今……私の事を呼び捨てで!?」
「あれ効果抜群!?」
頬を赤らめたカエデの両指間に挟まれていた呪符が抜け地面へと舞い落ちる。
怒気が嘘のように鎮まったのを目の当たりにして驚いたのは龍彦だけではない。隣に立っていたカルナーザも意外だと言いたげな表情を浮かべていた。
「怒ったカエデを一発で鎮めるとは……。奴め、タツヒコに惚れているな」
それはない、と断言出来る自信が龍彦にはなかった。
頬を赤らめ此方を見るカエデの目。先程の女中達と、雌の動物達が向けるあの目をしている。屋敷を出て行くまでは普通の目をしていたが、カエデまでもがこの獣に好かれる体質の犠牲となってしまったようだ。
「ふむふむ。なぁタツヒコよ、我は主の事がもっと知りたい。どうだ今晩、酒でも飲み交わしながら我と語り明かさないか?」
そして気付けばカルナーザもそっと肩を自身の方へと抱き寄せてきた。
全キャラクター中一番身長が高いカルナーザ。その身長に男である自分が負けていると言う事実を突き付けられ、龍彦は一人落ち込み項垂れる。
「カルナーザさんお久し振りです。後タツヒコさんから離れて下さい」
「主に言われる筋合いは何処にもないが? タツヒコも別に嫌がってはいない」
「それは貴女が勝手に思い込んでいるだけの話です。彼は“私の”大切な客人です、従って何か問題が起きればそれは我が一族の恥になりますので」
「……主は我をその問題とでも言たいのか?」
「想像にお任せします」
睨み合う二人。殺気が周囲の空間を歪め、それに恐怖した住人達は慌てて逃げ出す。
不気味なまでに静寂が流れ冷たい風が両者の間を吹き抜ける。
(に、逃げたい……!)
彼女達は今、自分を巡って争っている。
女中は直ぐに行動を起こしてきたのに対し、カエデもカルナーザも最初に出会った時は普通だった。両者とも優れた力の持ち主だ。それ故にこの体質に対抗する力があったかもしれない。
ただ時間の経過と共にその効果も失われていくかもしれない。カエデもカルナーザもまだ出会って一時間足らず。その短い時間で獣を魅了させてしまうこの体質はやはり異常かつ厄介だ。
ふと、龍彦はある事を思い返す。龍神山で出会った麗香だ。
彼女は神聖なる霊獣……龍と言う種族であったにも関わらず己の体質に毒され病んだ。即ち龍ですら抵抗出来なかった体質に、如何に魔力を持つ亜人であろうともその一部は虎と狐……ただの獣である彼女達が抗えると考える事こそ愚かしかったのだ。
「……久し振りに闘りますか? あの時の再現をしても私は一向に構いませんよ?」
「……面白い。武術大会であの時の雪辱を果たそうとしたが気が変わった――ここで潰す」
「ちょ、二人とも本当にストップ! 暴力で解決するのはよくないぞ!」
嬉しいと言うべきなのか、それともやはり悲しむべきなのか。複雑な感情に悩まされながら龍彦は、一先ず一戦交えようととしているカエデとカルナーザの仲裁に入った。
カルナーザと言う予想外かつ、カエデにとっては要らぬ来訪者がクズノハの里へと来てから龍彦はようやく異世界での一日を終えようとしていた。
カルナーザは当初の目的であったカエデの握り飯を満足するまで食べ終え帰るのかと思いきや、一泊させろと言い出してから口論が始まった。
自分と出会わず宿代を浮かす為と言えばまだカエデも納得したかもしれない、が今の彼女達はこの体質によって自分に惚れてしまっている状態。当然その要求をカエデが許す筈もなく、力ずくで納得させようとしたカルナーザを再び宥め、憤怒の炎を燃やすカエデの気迫に耐えながら説得し、結果一番離れた空き部屋を使うのならと言う条件で事なきを得た。
カルナーザに感謝されつつ、カエデからは終始睨まれ続けられたが暴力沙汰に発展させる事だけは回避した。
そうして夜が訪れ、やはりこの世界の住人にとって大変珍しく誰でも興味を示させるスマホの性能と日本での話に大変満足したカルナーザとカエデとの三人で晩酌を楽しんだ。
右にカルナーザ、左にカエデが腰を下ろし逃すまいと腕を組まれたが喧嘩が起きる事もなく、二人の関係から前大会での戦いの様子を摘みに飲む酒は格別な味がした。
そうしてカルナーザは約束通りカエデの案内の元宿泊部屋へと帰っていき、龍彦は酔い覚ましとして雷轟の滝へと足を運んだ。
轟々と音を立て流れ落ちる滝の音を耳に、その場にただ一人佇む。
物語の始まりの場所でもあるここに、何か元の世界に戻れるヒントがあるのではないか。そんな理由から再び訪れては見たが、そう簡単にヒントは転がってはいない。
「…………」
目的地であるエルデニアへと向かうまではまだ時間はある。問題は滞在日を一日だけにしないつもりでいる様子のカルナーザが、またカエデと喧嘩をしない事にある。
不本意ではあるが原因は自分にある。ならば彼女達の仲裁に入る役目もまた自分しかいない。
「ここにいたのですかタツヒコさん」
振り返ればいつもの巫女服ではなく、白い寝巻姿のカエデがやってきた。
「あ、すいませ……いや、悪いカエデ。ここって確か神聖な場所だから勝手に入っちゃいけないんだったな」
「タツヒコさんの素性はもうわかりましたから大丈夫ですよ。悪い事をしなければいつでも足を運んでくれて構いません」
「……有難うカエデ」
「……元の世界の事を、想われていたのですか?」
「あぁ、まぁ……な。俺は本当に元の世界に帰れるのかとか、色々思うと不安になってきてさ」
「……元の世界に戻れなくても、いいんじゃないでしょうか?」
「えっ?」
カエデが不意に抱き着いてきた。
とても優しく温かい、例えるならば我が子を大切に想い守ろうとする母親に抱き締められているかのような。そんな安心感が心を満たしてくれる。
「万が一戻れなかった場合は、このクズノハの里で暮らすのはどうでしょうか。他種族……人間との結婚は珍しくもありませんし、それにタツヒコさんなら皆も歓迎してくれます」
「カエデ……」
「ほぉ……それは聞き捨てならんなぁカエデよ」
手の骨を鳴らし、怒りを孕んだ笑みを浮かべたカルナーザが現れた。
「チッ……あらカルナーザさん。こんな時間にどうされたんですか?」
「何……少しばかり運動がしたい気分になってな。なかなか快適な寝心地だったぞ? 地下に設けられた牢獄と言うものはな」
「ろ、牢獄!?」
「牢獄とは失礼ですね。貴女専用に用意した特別の一室。防犯及び騒音対策も万全、環境も整いカルナーザさんにピッタリのお部屋だと思い用意したのですが、お気に召しませんでしたか」
「御託はもういいぞ駄狐。我がタツヒコの元へ行けぬよう得意の呪術を施した牢獄には少しばかり手こずったが、こうして出てこられた以上主を殴り飛ばさねば気がすまないのでな」
「やれやれ、一応騒音防止の呪術を一帯に施しておいて正解でしたね」
戦闘態勢に入る両者に龍彦は直感する。
(あ、コレ無理だ)
本能的に言葉で彼女達を止める事は出来ないと悟った。力ずくなら尚更不可能。ならば残された選択肢は、己が巻き込まれない為にこの場から逃走するしかない。
防音対策の呪術が施されているのなら近所迷惑になる事はないだろう。そして二人とも相応の実力者だが相手の命を奪うような真似はきっとしない。
そう信じて、巻き添えを食らわないように今はただ遠くへと逃げた。