第一章:獣に好かれる程度の魅力①
龍神山――標高約千五百メートルのこの山の頂にある湖には龍が住んでいると言う伝説がある。
その昔、武者修行に明け暮れていた一人の男が就寝していると、ふと気配を感じ目を覚ました。そこには立派な鎧兜に身を包んだ一人の武者が立っており、男に勝負を仕掛けてきた。男は腕試しには丁度いいと武者と戦った。双方の実力は互角、決定打を与えられる事が出来ぬまま翌朝を迎え――男の太刀が武者を捉えた。
男が勝利し、敗北した武者は人から龍へと姿を変えた。龍はこの山頂の湖に住んでおり戦う事が何より好きだと言うと、男の強さを称えて一振りの刀を渡した。
それ以来、この山は武者修行する場所として現代まで言い伝えられている。
その龍神山に龍彦は訪れ稽古に励んでいた。
両手に握る刃長二尺四寸の刀。大空に浮かぶ太陽の日差しを浴びて一点の曇もない、鋭く研ぎ澄まされた刃が美しく輝いている。
五行の構えの一つ、正眼……中段の構えから静かに上段へと移行し、大きく踏み込むと同時に灰に溜めた空気を鋭く排出し、刀を振り下ろす。
至って普通の素振り。鈍った身体を温める謂わば準備運動。それを龍彦は黙々と行っていた。
龍神山は葉桐家の所有地でもある。
何代も前、即ち先祖がこの龍神山で龍との決闘に勝利し、その強さを称え合いお互いを良き好敵手として認め合った両者はある約束を交わした。葉桐一族からは生まれてくる子供が跡を継ぐ為の試験場として龍神山を一族の管理下に置く事を提示し、龍からはその子供と戦わせる事を提示した。
故に葉桐家の長男は成人するとこの山に登り、山頂にて龍との一騎打ちを行うと言う仕来りがある。龍彦も今年で二十歳を迎え、晴れて大人の仲間入りとなった。従って葉桐家の当主として試験を行う為に龍神山の頂にて龍と一騎打ちを行う。
実に馬鹿馬鹿しい。龍彦は刀を振るうのを辞め、大きく溜息をその場で吐き捨てる。
この平成の時代。一体何処に龍と言う架空の生物が存在していようか。
先代、つまり父親である葉桐晃も当主としての試練を行う為に龍神山へと登ったが、しかしその口から聞かされた内容はただ一晩山頂で過ごせばいいと言う実に簡単な内容だった。
龍との一騎打ちも全て先祖が見栄を張る為に作り上げた出鱈目。伝説とは大抵がそういうものだ。幼少期こそ伝説と言う神秘的な響きに胸を躍らせていたものの、成長し様々な事を学んでいく内に現実を知り非科学的な存在を信じないようになった。
「……本当にいい天気だな」
空を見上げる。所々に浮かぶ雲が肌を優しく撫でる風によって流されている。
天気もよく夜も比較的温かい気候が続いている今期。これでは試験を受けに来たと言うよりもちょっとしたキャンプをしに来た気分だ。
尤も、キャンプに着物を纏う輩はいない。己の姿に龍彦は自嘲気味に小さく笑う。
試練を受ける者の装束として着せられた紺色の着物に桜の模様が入った白の羽織。山登りをするには不釣り合いな格好だが、歴代の当主達は皆この羽織を纏い龍神山の頂に立ち試練を受けた。その風習は現代でも取り入れられている以上、龍彦とて例外ではなかった。
「ん?」
ふと気配を感じ振り返る。動物と言う動物が龍彦目掛け一直線に駆け寄り飛び付いた。
「また来たのか……ここはいつも入っちゃ駄目だって言ってるだろ?」
互いを牽制しながら甘えてくる動物達の頭を撫でながら龍彦は軽く注意した。
龍神山を所有している為家の周囲には自然が多い。その為犬や猫を始めとし烏、鹿、猪、狼、狐、蛇と言った……兎に角動物と言う動物の姿を目にする事は珍しくはない。龍彦にとっても幼少期から触れ合っている為一種の家族のような付き合いをしていた。
ただ不可思議な現象がいつも起きる。野生の動物が家の近くに現れる事はあっても決して餌付けはしていない。にも関わらず一体何処から見ているのか、家にいる時は必ず姿を目の前に表しては猫のように甘え他に動物がいれば激しく威嚇し合い時に喧嘩にまで発展する。
今のところ流血したりする様な酷い争いは起きていない、が十分以上我が家は獣達の激しい鳴き声に包まれる。
全く種族が違う者同士での会話が成り立っているのか否かは当の本人達でないと理解する事は出来ない。それでもまるで会話が成立しているかの様に鳴くので、きっと成立しているのだろう。
この現象は近隣住民には勿論、誰が連絡したのかテレビでも取り上げられ、第二のムツロー動物帝国として有名になってしまった。龍彦は勿論葉桐家一同テレビで報道される事を望んではいなかったが、好きな芸能人やリポーターが取材にやってきてくれた事に関しては皆素直に喜び快く応じていた。
それ以降より動物見たさにやってくる輩も多く、最近では地元の幼稚園からも園児達の為に是非訪問させて欲しいと言う連絡まで来る始末。動物園でない事をハッキリと伝え丁重にお断りしたものの、今でも時折その手の連絡が来る事が葉桐家の悩みでもあった。
何故動物達が甘え喧嘩をしてくるのか。その原因がわかったのは龍彦が高校二年生へと進級した頃。
学校で一番人気のある女子生徒から告白され、その想いに答えようとしたのを突如強襲した野生の烏達。その日を境に女子生徒から告白されると何処からともなく動物達が現れて妨害してくる。
その理由は女子生徒への嫉妬からであった。
何度も恋路を邪魔される度観察を続けていく内に、女子生徒に襲撃する動物達は皆雌である事がわかった。鳥類は素人では一見しただけでは見分けが付かないが、犬や猫ならば直ぐにわかる。
今思い返しても幼少期より何故か動物達から自然と懐かれる事が多かった。
学校の課外学習として牧場や動物園に言った時も初対面の動物……雌限定に頬を摺り寄せられたり、ゲージの中で鳴き声を投げ掛け続けられ立ち去ろうとすると大声で泣いて激しく暴れゲージからの脱走。それを捉えようとした飼育員達が病院送りとなり、その動物園から出禁を言い渡されると言う非常に納得のいかない仕打ちを受けた。
龍彦にとって動物に好かれる事は嫌いではない。だがこの異様なまでに好かれる所為で未だに彼女と交際した事がない。作りたくても動物達がそれを妨害し、襲撃にあった被害者とその交友関係にも伝わり今では関わると危険な目に合わされると避けられてしまう。だからと言って動物達を責める事も出来ない。
せめて懐いてくれる動物達が人間であったならば……、そう叶いもしない願いを何度も心の中で願い続け、気が付けば大人へと成長していた。
時の流れとは実に早いものである。
「……俺、彼女はそうだけど結婚出来るかなぁ」
龍彦の呟きに動物達が一斉に短くも大きな鳴き声を上げる。まるで私がいるじゃない、そう言っているようだ。
不意に背後から突き刺さる強烈な殺気に背筋がぞくりと粟立った。
今までに経験した事のない殺気。そしてそれには此方に対し明確な敵意を抱いている事がひしひしと伝わってくる。
殺気に当てられて威嚇し合っていた動物達は我先へと逃げ出した。
振り返るとそこには、切先を前に得物を構え此方の間合いへと飛び込んでくる一つの影。
相手が何者なのか、それを確認する猶予はなかった。繰り出された刺突を手にした刀で辛うじて弾き飛ばすのが精一杯であった。
甲高い金属音を龍神山に反響させ、龍彦は大きく飛びのき間合いを空ける。そこで改めて強襲者の姿を視認した。
青を主体としアオザイを思わせる衣装と手には一条の槍。強襲者の正体は一人の少女だった。
これだけならば男ならば誰もが心奪われ見惚れてしまう程の美少女でしかない。だが両方の側頭部から鹿の様な角が生えている事が彼女が普通の人間ではない事を物語っている。
「龍……なのか?」
確認する。普通の人間ではない人間。そして場所から考察して導き出された一つの仮説。
龍……水の性質を持ち数多の動物の特徴を持つ事からあらゆる生物の頂点に立つと言われ、神聖なる霊獣として崇められている幻獣。葉桐一族がかつて戦い、当主の座を継ぐ為の試練を与える者。
信じられない。だが、そうとしか考えられない。
鎧武者と聞かされていた相手がまさか自分と同じ年頃の少女の姿をしているとは、実際に龍と対峙するまで龍彦は考えてもいなかった。
「はじめまして……ね龍彦。私の名前は麗香、見ての通り龍よ」
「じゃ、じゃあお前が……」
「そうよ。私が龍彦が葉桐家の当主として相応しいかテストをしてあげるの、仕方なくだけどね」
「そ、そうなのか。でも驚いたな、話じゃ確か鎧武者だって聞いてたんだけど……」
「それは私のお父さんよ。ちょっと家の事情で腰痛になっちゃったから、代わりに私がって事よ」
「よ、腰痛……龍でも腰痛になったりするんだな」
驚くべき事実を聞かされ困惑を隠せないまま、しかし龍彦は刀を構える。
相手が少女の姿をしていようと人間を相手にするのではない。
今まで実在しないと、その存在を完全に否定していた龍が相手なのだ。己が勝つと言う姿が全く想像出来ないが、だからと言って敗北する訳にはいかない。
「全く面倒な事を押し付けられちゃったわ。でもまぁ、その代わりなんでも言う事一つだけ聞いてもらえるからいんだけど」
現金な女だ。だが一理あると龍彦は納得する。
戦う事を好むと言う龍の性格とその強さを汲んで交わした契約だが、それは双方の親同士が決めた内容にすぎない。自分は兎も角として、麗香は親の勝手な約束に巻き込まれている事を不服に思っているようだ。
「そ、それよりもちょっと聞きたい事があるんだけど」
「なんだ?」
「た、龍彦ってさ……今誰か付き合ってる人とかいるの?」
予想外の言葉に一瞬目を丸くした後、龍彦は深い溜息を吐きながら彼女の問いに答えた。
「……いないよ。生まれて今に至るまで交際した事のない非リア充だ文句あるかよちくしょう」
「そ、そうよね。いるわけないわよねだってずっと見てたんだもん」
「……は?」
「私ね、龍彦が子供の頃からずっと見てたの。この山で一人修行に励んでた姿を見た時今までにないぐらい胸が苦しくなったの。あれが初恋だって気付いたのにそう時間は掛からなかったわ。それからずっと見続けていたの……でも貴方の周りには何を勘違いしたのかいっつもいっつも牝猫共がいて本当に鬱陶しかったわ」
「お、お前……何を言ってるんだ?」
「龍彦は誰にでも優しいから、だから変に相手を勘違いさせちゃうのよ。おまけに野生の牝も貴方に発情してまとわりつくしそれを見てて殺したくなる気持ちを抑えるのが本当に大変だったのよ? でも人間の牝を追い払ってくれていたから見逃してあげたの――今日でそれもおしまいだけどね」
麗香が笑う。光を失い濁った瞳を向け恍惚とした笑みを浮かべながら、ゆっくりとやってくる。その姿に神聖な霊獣としての風格は何処にも見当たらない。例えるなら今の彼女は禍々しい妖気を放つ魔獣だ。
初撃目の刺突に込められた殺気以上に危険な何かを感じ取った身体が今すぐ逃走しろと激しく警鐘を鳴らしている。龍だからではなく、麗香だからこそこの試練を乗り越えられそうにないと魂が既に敗北を認めてしまっていた。
「本当は成人したらさっさと捕まえて私の物にしようとしたんだけど、それだと龍彦が納得してくれないでしょ? そこでお父さんを腰痛に……じゃなくてお父さん“が”腰痛になって私にその役目が回ってきた時チャンスだって思ったわ」
さらりと本人の口より語られた本来戦う筈だった龍の腰痛の原因。
人為的に腰痛になるように仕向けた麗香。自分の目的の為に血の繋がった親をも平然と利用するその狂気は龍として相応しくない。
龍彦は視界に麗香を捉えたまま、ゆっくりと後退る。空腹の肉食獣に追い詰められた草食動物もこのような気分を味わっているのかもしれないと思える分まだ身体は言う事を聞いてくれているのが幸いだった。
何が彼女をそうさせたのか。考えて、自分の体質が関係しているかもしれないと答えが導き出される。
(マジかよ……!)
全ての動物の頂点に立つ神聖なる霊獣すらも惚れさせてしまう程、生まれ持ってしまったこの体質は相当厄介な代物であるらしい。普通の動物にでさえ手を焼いていると言うのに、霊獣である龍ともなれば更に手が付けられない。
「お父さんも龍彦がいいなら構わないって言ってくれたから問題ないわよ。だから龍彦、この試練でもし私に負けたら貴方は私の物になってね。勝ったら私って言うお嫁さんが付いてくるから龍彦からすればどっちに転んでも嬉しいでしょ?」
「お、落ち着け麗香……! お前は今正常な判断を下せていない!」
「充分すぎる程落ち着いているわよ。でも貴方を誰よりも愛しているから、ちょっと可笑しくなっちゃってるのかな、なんて……――それじゃあそろそろ始めましょう龍彦。早く結婚したいからちゃっちゃと終わらせるからね二人の人生計画についてこれからいっぱい話し合わないといけないから」
麗香が槍を天へと掲げる。
その動作に呼応して、彼女の後ろに広がっている湖が騒ぎ出す。
やがて何本もの水柱が空へと駆け昇り龍へと姿を変えて龍彦へと一斉に襲い掛かった。
「水陣・龍威の舞」
(あ、俺死んだわ)
目の前に迫ってくる死。逃げ道を殺すように陣形を作り上げている水龍に死角はない。
大小の刀と培ってきた肉体と技量だけでは逃れられる確率は皆無。
終わった。龍彦は身構えながら強く瞳を閉じ来るべき衝動に備えた。
◆◇◆◇◆◇◆
漆黒の空が日の出によって紅黄色に染まっていく明朝。クズノハの里で長を務めているカエデはいつものように雷轟の滝へと足を運んだ。
雷轟の滝には古くから言い伝えがあり、かつて井戸の水が枯れて死活問題に発展したある日、当時の村長の前に一人の大男が現れかつて命を救ってもらった獣でその恩返しにきたと告げ、地面を強く殴り付けると雷鳴のような轟音が鳴り響くと共に滝が出来たと言う。
以降雷鳴が轟くとして雷轟の滝と名付けられた。その滝の水で眠気を覚醒させると共に身を清める、それがいつもの日課である。だが今日はそのいつも見慣れている筈の光景にちょっとした変化が起きていた。
「あれは……!」
一人の青年が滝の前で倒れている。白い羽織と紺色の着物を纏い、手には大刀腰に小刀を差している姿を見る限り武芸者だろう。この滝は代々クズノハ一族が管理している場所でもある為、無許可で訪れる事は住民は勿論外部の人間からも固く禁じている。
倒れている青年が許可を得に来た記憶はカエデの中にはない。即ち彼は無許可でこの雷轟の滝へと足を踏み入れた不法侵入者、と言う事になる。
何故倒れているのか、その理由を聞く為には彼の口から直接問わねばならない。青年へと駆け寄り、カエデは己の鼓動が大きく跳ね上がったのを感じた。
今まで老若男女問わず、数多くの人間を目にしてきた。己の武を高める為に試合を申し込んできた武芸者、雷轟の滝水を分けて欲しいと言う老夫婦、結婚して欲しいと突然過ぎる告白をして近衛兵達に追い返されていった騎士と。数えればキリがなく、されどカエデにとって誰も印象的な輩は一人としていなかった。
その人間達の中で彼は別格である。
見ているだけで胸が高鳴り顔に熱が帯び始めていく。
一目惚れと言うやつだろうか。そう結論を下しそうになり、カエデは否定するように顔を横に何度も振るう。
「と、兎に角まずは屋敷につれていかないと……!」
気を失っている青年を担ぎカエデは屋敷へと急いで戻った。




