表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

御大

「御大」弐 御大はつらいよ

作者: 夏ヨシユキ

………………………………………………

■【其の1】妄想劇場 ST郎・胸騒編

………………………………………………


 明るさと侠気おとこぎ、思慮分別と気働きの人。僕が生まれる前に亡くなっている、祖父・ST郎のアウトライン的人となりです(妄想が相当入っていますが)。そのST郎は、大きな壁=前世代の既得権益者たちを乗り越えて、岡山の土建業界の「御大」と呼ばれるまでに30年余を要しました。前にも書きましたが、気働きの限りをつくし、慎重に慎重を重ねて軋轢を避けながら、ようやくそこにたどり着いたのだと思います。


 岡山県土木建築業組合の初代組合長に選出され、業界のかじ取りを任されたのが53歳。名実ともに業界トップに立ったと思われるのが61歳。まぁ、そんなものなのかもしれません。


 政財界では永らく「50、60は洟たれ小僧……」などいうことが、まことしやかに語られていました。つい最近まで、そんなスピード感で世の中は動いていた。平時はそれでいいのかもしれませんが、混乱の時代は、そうはいきません。戦国とか幕末には、善くも悪くも若い人たちが突出した。


 大戦争を経て壊滅的な敗北を喫した「昭和」も混乱の時代だったはずですが、「50、60は……」なんて空気が色濃く残った。不思議な時代だったのかもしれませんね。「第2・第3の敗戦」など言われ、先がまったく見えないいまの日本は、どうなんでしょう。なんか〈若気〉という、どう転ぶかわからない拙速な流れに目を奪われているような気もします。練達か気鋭か? なんていう選択肢すらない現実も哀しいですが。


 とはいえ、歴史は繰り返します。果てしのない堂々巡りを続けながら、微かなチャンスに群がって、新たな登場人物たちが出現する。


 世代交代。生物としての宿命。螺旋=DNAっていうやつですね。幾何級数的な有象無象の進化の種が、後世に自分だけを残す僥倖を、ワラワラ、ウジャウジャと、ひたすらに狙っている。


 またまた訳の分からない話……。申し訳ありません。


 そんな大それた話ではありません。やっと自分の時代が来たと思ったら、ST郎は次世代勢力に激しく突き上げられることになった。それだけの話です。


「御大 壱」冒頭で触れた、XとZが、ST郎に迫りつつありました。


 僕の大好きな映画『ゴッドファーザー』(*1)に、思い入れのあるシーンがあります。またまた脇道に逸れてしまいますが、しばらくおつきあいください。


 大抗争の渦中に長男を惨殺され、自分を銃撃し瀕死の重傷を負わせたかたきを殺し、シチリアに逃れた三男の危機を察したドン・ヴィトー・コルレオーネが、全米のファミリー(マフィア)のドンたちを招集します。ドン・コルレオーネを演じたマーロン・ブランドの、抑制されたすごみある演技に肌が粟立つ場面です。またまたまたまた余談ですが、この会談でドンは真の敵(抗争の黒幕)を知ります。神の祝福と虐殺が交錯する強烈なクライマックスに向かう伏線。3時間を超える長尺のなかでも、特筆するべきシーンだと思っています。


 お断りしておきますが、ST郎は裏家業の人ではありません。正しく土木業を営んで死んだ人間です。ただ、どうも人間関係が似通ったところがあるような気がするので、この映画にシンクロするところがあったのだと思います。


 お互いに十分以上の犠牲を払った。これ以上の無益な戦いはやめよう。ドン・コルレオーネは、そう呼びかけます。組織を疲弊させるだけの抗争に倦んでいた他のドンたちに異存はありません。しかし、その中のひとりがこう言います。


「ドン・コルレオーネが独り占めしている「判事」「知事」「(上下両院)議員」たちを、ファミリーに等しく分け与えるべきだ」


 ドン・コルレオーネのレーゾン・デートルの一端はそこにありました。


「まぁ、そう〈いきる〉な。いまは、がまんしとれ。おめぇらの時代は必ず来る」

(そんなに〈跳ね返る〉のはやめろ。がまんすれば、お前たちの時代は必ず来る)


 ST郎は、そんな思いで、XやZに接していたはずです(あくまで妄想ですのでご容赦を!)。


 これからの話、X氏とZ氏に関する記述は、元山陽新聞社専務・赤井克己さんの著作『瀬戸内の経済人 人と企業の歴史に学ぶ24話』(吉備人出版)を、大いに参考にさせていることをお断りしておきます(以下『瀬戸内の経済人』と記述します)。


 XとZは、業界の改革派とされていました。当然彼らは立志伝中の人。少年時代から土方として汗を流し、自分の才覚だけを頼りにのし上がってきたのです。


(ワシと同じ境遇じゃ)ST郎は、その事実にシンパシーを感じ、頼もしくも思っていました。


(先人がワシに与えてくれたもんを、今度はあいつらに伝えりゃあえぇ)


 しかしXとZにとってST郎は、超えるべき壁ではなくて、倒すべき存在だったのです。誰を責めることもできません。そういう時代だったというしかないでょう。Xは慎重な思慮分別の人、そしてZは剛胆な武闘派でした。ST郎の資質を分担するかのような、ふたりで一つ。二世代・20歳下の彼らは、ST郎の牙城を次々と突き崩そうとします。


 1932年(昭和7)5月15日、犬養毅首相が、公邸で軍人たちによって暗殺されました。五・一五事件です。太平洋戦争の無条件降伏へ至る、テロによる政権転覆と軍部独裁への策謀が表面化する、嫌な動きの始まりともいえる事件でした。犬養は、岡山初の総理大臣。ST郎はその有力後援者でした。大宰相であると信じる犬養への、援助は惜しまない。所詮は政治家と癒着した利益誘導が目的じゃないの? という誹りは甘んじて受けます。ただ当時は、現代と様相がかなり違います。


 かつての日本には、「パトロン」(オネェちゃんたちのパパではないです。念のため)、「たにまち」(*2)と呼ばれる人たちが存在していました。落語でいうなら「おだん」(*3)です。見返りは度外視して、これは! と思われる、政治家や官僚、学者、絵描き、音楽家、作家、力士、役者、芸人、職人、学生たちを金銭面で支えた確かな一群。


 卑近な例で恐縮です。ST郎は、直系はもちろん、婚姻関係を含む縁戚の子どもたちすべてに、当時としては十分以上の教育を与えています。学費はもちろん生活費のすべてを援助して、男の子たちは大学、女の子たちは女学校を修了させました(例外がふたりいるのですが、その話はいずれまた)。


 ST郎にとっては、あたりまえのことでした。「得てあまりあるもんは、世の中に返すべきじゃ」。身内への援助の先に、ST郎は「パトロン」としての自分の役割を見ていたと思います。


 犬養はST郎にとって、支えるに足る存在でした。それが、あえなく凶弾に倒れた。普通選挙で選出された多数派が政権を担当する。功罪はともかく、それはルールです。そんな、戦前最後の政党内閣が崩壊しました。ST郎が前世代から受け継ぎ、また自ら築いた人脈は、鉄道の世界はもちろん、政財官、法曹、そして軍にまで広がっていました。ドン・ヴィトー・コルレオーネに通底する、ST郎の「レーゾン・デートル」の一端です。


 XとZは、そこを切り崩さない限り、自分たちの生き残る道はないと考えた。不穏、というと語弊がありますが、新たな動きがはじまっていたのです。



*1 ゴッドファーザー:1972年公開のアメリカ映画。監督フランシス・フォード・コッポラ。原作マリオ・プーゾ。


*2 たにまち:相撲界の隠語。力士たちを金銭面で支える支援者・贔屓筋ひいきすじのこと。大阪の「谷町」在住の有力者が、ひいきの力士の出世のためなら無償の援助を惜しまなかったことから生まれた言葉だそうです。


*3 おだん:旦那のこと。役者や芸人の面倒をみてくれる=お金をくれる存在に、敬称の「御」をつけてさらに略して呼んだと思われる言葉。ちなみに「旦那」の語源はサンスクリット語の「ダーナ」(施し)だそうです。


…………………………………………………………

■【其の2】妄想劇場 ST郎・脇役脇道彷徨編

…………………………………………………………


『ゴッドファーザー』は、何度観たかわかりません。PART1・2とも、DVDは持っています。深夜TVで放映された、コッポラ監督が自ら再編集した『ゴッドファーザー・サーガ』(*1)なんて、録画したビデオテープ(古いなぁ)が摩耗して、ノイズだらけになったことに呆然とするまで観たおしました。


 この映画には、内容に圧倒されたのとは別に、ちょっとした思い出があります。


「おもしれぇらしい。券をこうたから観てみぃ」


 父が3枚、『ゴッドファーザー』ロードショーの前売り券を買ってきました。父はほどなくひとりで観たようでした。高校生だった僕は、母と同行するのが気恥ずかしかったので、ひとりで観ました。母もひとりで観に行きました。


 父と一緒に観た映画は、いくつかあります。記憶が曖昧なのですが、『騎兵隊』(*2)、『旗本退屈男』(*2)はよく覚えています。西部劇と東映時代劇が多かった。


 忘れられないのは、母が不在だったある夜のこと。父とふたり。お好み焼き屋で豚玉を食べて、映画館に行きました。おじちゃん、おばちゃんがやってるような岡山風のお好み焼きではなく、白衣の焼き方さんがテキパキ焼いてくれる、当時岡山では珍しかった関西式のキレイな店でした。


 ついでに岡山風のお好み焼きをご説明しておきます。


(嗚呼、脇道話が、さらにあらぬ方向へ……)


 小麦粉の生地を薄いクレープ状に丸く伸ばし、鰹節(店で供されていたのは安価・雑多な魚粉だったと思われますが)、キャベツ、ネギ、天かす、紅ショウガを載せ、肉などをその上にかぶせます。次に「糊」代わりの生地を少量回しかけて一気に裏返す。肉野菜に火が通った頃合いで、刷毛でソースをたっぷり塗ると、ソースが焦げる音とともに、こうばしい香りが爆発します(マヨネーズを加えるという概念は当時ありませんでした)。


「なんだ広島風じゃん!?」。いえいえ、これは岡山風です。続きをどうぞ。


 最後に青のりを振りかけて完成……ではないんですね、これが。なんともう一回裏返してすばやく二つに畳みます。半月状にでき上がったお好み焼きを、端からコテで切ってハフハフいただく。懐かしいなぁ。ちなみにわが家では、ソースではなく醤油を使います(紅ショウガ・青のりも無し)。これはこれで、実に美味いです。現代の、岡山のお好み焼き事情はどうなっているのでしょうね。「岡山風」が滅んでいないことを祈ります。


(そろそろ話を、せめて本筋から逸れた横道にまで戻したらどうなの?)


 そうでした。映画の話に戻ります。上映されていたのは『世界の夜』(*4)という作品でした。


 映画テータベースの「allcinema」によると、「大ヒットした『ヨーロッパの夜』に続いて作られた、世界のゴージャスなナイトクラブのショーを集めた『夜もの』の一編」という、イタリアのドキュメンタリー映画です。


 当時、僕は8歳くらい。スクリーンには、パリ、コペンハーゲン、ブラックプール(イングランド)、ハンブルグ、ニューヨーク、ラスベガスと、目眩く夜の大人の世界が映し出されました。It's a show time! いまなら、さすが一流のショーはすごい! と感嘆するところかもしれませんが、ガキの僕には刺激が強すぎました。パリの有名なナイトクラブ「クレージーホース」の豪華絢爛たるヌードショーをはじめとする、キレイな女の人たちの裸の洪水に、僕の意識はぶっ飛んだのです。


「うわっ、おっぱい(*5)じゃ! ええんじゃろか、こんなん観て……?」

(おぉッ、パイオツ! こんなのを観ていていいの、オレ?)


 曲芸やコーラス、ダンスといった、数々あったはずの他のシーンなんか、まったく覚えていない。そんな、映画でした。


「どこへ連れていってもろうたん?」


 母に聴かれたと思うのですが、なんと答えたか記憶がありません。「父と僕の男の秘密」とでも思っていたのでしょう。しかし父は、なぜあの映画を選んだのか? 生前、理由を聞いておくべきでした。深い意味はなかったような気もしますが。


 かつてもいまも、僕にとって父は「複雑」きわまりない捉えどころのない存在です。ともあれ、


(『ゴッドファーザー』を)「観てみぃ」と、父は言いました。前売りチケットを買ってきたのは、それが最初で最後のこと。そこに因縁を感じたりするのは、またまた果てしない妄想のせいかもしれません。


 ようやく話の本筋に戻れるような気がします。


 ST郎(そうです。ここは彼の話です)は、パトロンとして支えていた犬養毅首相暗殺という、不測の事態に直面していました。『ゴッドファーザー』とST郎。どう話に落ちをつけるのか!? ここは、話を続かせてください。



*1 ゴッドファーザー・サーガ:『ゴッドファーザー』PART1・2を、未公開シーンも含めて、TV用に編年体で再編集した450分(7時間30分)の超巨編。


*2 騎兵隊:1959年(昭和34)公開のアメリカ映画。監督ジョン・フォード、出演ジョン・ウェイン/ウィリアム・ホールデン。


*3 旗本退屈男:1930年(昭和5)から1963年(昭和38)まで30本製作された人気の時代劇シリーズ。主演市川右太衛門。記憶にあるのは第24作『旗本退屈男 謎の南蛮太鼓』(1959年公開/東映)だったと思います。


*4 世界の夜:1961年(昭和36)公開。監督ルイジ・ヴァンツィ。


*5 おっぱい:ナイトクラブのショーですから、オールヌードではありません。「乳首飾り」等の極小&超きらびやかなコスチュームに包まれたヌードだったことをお断りしておきます。どうでもいいですよね、そんな話!


…………………………………………………………

■【其の3】妄想劇場 ST郎・跡取全員残念編

…………………………………………………………


 ST郎には、ふたりの男の子がいました。不惑を目前に授かった、待望の長男・A助。そして42歳で誕生した次男・KN造です。


 どちらも、実に激しい気性の持主でした。土建業にはぴったりなんじゃないの?、と思われるかもしれません。しかし、業界の親玉であるST郎が手を焼いた、というより匙を投げた。常軌を逸した、というと語弊がありますが、「とんでもない」人間であったことは確かです。おいおい、説明します。


 土建屋にならないためだけに、生まれてきた。


 もって回った言い回しですが、ふたりについての、僕の正直な印象です。


 ふたりには腹違いの姉がいました。「御大 壱」でも触れたYS子です。何の因果か、激しい気性は彼女も持ち合わせていました。それは、ST郎にとって、頼もしくも口惜しいものでした。たまたま娘だったために、少壮の名医と謳われていた医師・中島KS男に嫁がせることになった。ST郎の閨閥形成作戦だったと思います。


「YS子が男じゃったら……」(こんな苦労はせずにすんだものを)


 ST郎の呻きが、いまも聞こえてくるような気がします。YS子=中島の伯母さん。


 僕は、この話のなかでは、半部外者的立場に終始しています。大半の登場人物が戦前に生を受けているなか、たまたま、忘れた頃に生まれた「付録」のような立場なのです。なので、「中島の伯母さん」の激しさは、微かな記憶にとどまっています。


「お姉さん(中島の伯母)が来られる」


 幼稚園に上がるか上がらないかの頃。伯母来訪の知らせがあると、わが家は色めき立ちました。僕が起きている時間にはほとんど家にいなかった父・KN造は、被害を回避できました。


「えっ、伯母さんが来るん!?」。高校生だった兄は、風のようにいなくなってしまいました。残された母が、伯母さんの口撃を一身に浴びていた。


 矍鑠かくしゃくという、死語に近い言葉が似合う伯母だったように記憶しています。KN造にとっては、20歳も年の離れた姉でした。当時はすでに60代後半。シブい和服にピンと伸びた背筋。小柄でやせていたと思うのですが、あたりを睥睨へいげい(難しい言葉が続くなぁ)するかのような、プライドの塊(気位が高い、っていうやつです)。迫力ある人でした。


 モノクロのフレームのなかに、シルエットの伯母と母がいます。僕は、そのシーンをどこから見ていたのか。物陰から、息をつめて覗いていた? 安っぽいテレビドラマみたいな、ありがちな光景ですね。「あっちにいっとりなさい(行っていなさい)」。少なくとも、母が伯母を応対していた部屋からは追い出されていたはずです。


「お父さん(ST郎)にどう申し訳するんじゃ!」


「KN造はなぜおらん(いない)!」


「(これから先の)ヨシユキの家を、どうするつもりなんじゃ!!!」


 弟たちのていたらくに切歯扼腕し、女に生まれた自分を詛うかのような伯母の口撃は、終わることがなかった。シルエットの母は、「申し訳ありません」と、ひたすら平伏していました。


 1950年代の後半。ヨシユキ組は、躍進するXやZを、ただ指をくわえて眺めている状況に追い込まれていました。


 息子たちの現実に直面したST郎は、戦前、すでに手を打ってはいました。「YS子の〈強靭な〉血に可能性を見いだすしかない」。昭和初年、夫を病で失っていたYS子の長男・MGS郎を養子に迎えて、事態の解決を図ろうとしていたと思われます(「御大 壱」掲載『新日本人物大系 産業人物篇』による)。


 MGS郎は、父の4歳下、母の2歳上の1915年(大正4)生まれ。ST郎が幼い頃から庇護し、東京帝国大学法科に進んだ秀才でした。しかし、彼もまた、違う意味で「土建屋にならないためだけに、生まれてきた」人間だったのです。


 MGS郎=「中島のおじさん」には、しっかりした思い出があります。穏やかとしか形容しようがない人でした。関係でいえば、僕の、約40歳年上の従兄にあたります。年下の母を「叔母さん、おばさん」と、亡くなるまで気遣い敬愛してくれていた。干し柿づくりの名人でもありました。自宅の庭の渋柿を、大切に丁寧に、濃厚なのに軽やかな逸品に仕上げる。そんな人でした。この干し柿は、生前の父も毎冬の楽しみにしていました。柑橘類の皮を、開いた干し柿とともに巻き簀で固め、それを輪切りにする。お茶うけや、ブランデーとかウィスキーのつまみとして好んでいた。


 帝大を卒業したMGS郎は、高等文官(キャリア官僚)には目もくれず、就職した大企業(当時の日本の産業を代表する繊維会社)も早々に退職し、郷里である岡山県郡部の教師となる道、そして中島姓に戻ることを選びました。当然、土建屋など、その選択肢にはなかった。いや、おそらく叔父さん=KN造(僕の父)を差し置いて、ヨシユキの当主になるなど、思いもよらなかったのだと思います。


 伯母の強靭な血は、息子には受け継がれなかった。「やさしすぎるんじゃ、MGS郎さんは」。母の言葉が思い出されます。


「なんでこうもいびつなんじゃ……」


 こうなるとむしろ、せつないですね。依るべき男の子たちがすべて、ST郎にとっては「残念」な人間だったわけです。ST郎と「ゴッドファーザー」ドン・ヴィトー・コルレオーネが、ふたたび僕のなかで重なります。


「お前が、私の後を継ぐとは思ってもいなかった」


 息子たちのなかでただひとり大学を終えた優秀な三男。家族の反対を振り切って、第2次世界大戦に志願兵として従軍し、勲章を得て帰還した英雄。一族の永遠を願うドン・コルレオーネは、三男のマイケルに違う夢を託していました。


「コルレオーネの名を持つ知事、上院議員を見たかった……」(*1)


 しかしマイケルは、家業であるマフィアのドンとなることを選んだ。


 父親と息子の関係って、けっこう辛いですね。思い通りに事は運ばない。歪な突然変異「Y染色体」の儚さなのかもしれません。どうしてもぶつかりますよね、父親と息子は。その果てにあるのは……徹底して父親を忌避・拒絶する。もしくは、いろいろあった末に、和解して父親を受け入れる。通過儀礼ってやつですかね。もうひとつ、安穏というとなんですが、はなから自分を捨てて、遺伝子コピーマシンとして生きる、という選択肢もあると思います。動物=人間って因果なものです。


 まぁ、ヨシユキ組もいろいろあったようで、ST郎は究極の選択を迫られます。結果的に僕の父・KN造が、家業を継ぐことになるのですが、その経緯はいずれまた。


 話を本筋に戻しましょう。ST郎には、憂慮するべき事態が起こっていました。二世代下のXとZが岡山の土建業の主導権を握るべく、正面からぶつかってきていたのです。



*1 上院議員を見たかった……:マーロン・ブランドとアル・パチーノの対話シーンによる。当時の新旧を代表する名優同士の静かな演技の応酬にしびれます。「(ぜんぶ)わかってるよ、パパ」。「そうだったな……」。跡取りへの助言が、いまやすべて老婆心にすぎないことを悟ったドンが、一言だけ付け加えます。「敵との会談を仲介する人間、それが裏切り者だ」。死を間近に感じる父親の、最後の警句。カッコよすぎです、マーロン・ブランド!


……………………………………………………

■【其の4】妄想劇場 ST郎・敗北追認編

……………………………………………………


 XとZが頭角を現したのは1920年代半ば(大正末頃)。ふたりは、Sという、同世代の人物を仲間に加え、業界の旧弊刷新に乗り出した、と『瀬戸内の経済人』に記載されています。


 XZ&Sの「3人組」は30代後半、ST郎は還暦を目前にしていました。


「旧勢力=既得権益者による談合を廃すべきだ! オレたち若手にも平等なチャンスを!」


 3人組の、行政を巻き込んだ「入札方式」刷新作戦はしかし、「談合で甘い汁を吸っていた連中の猛烈な抵抗……」(『瀬戸内の経済人』)にさらされ、あえなく頓挫します。業界秩序を乱す「鬼っ子」たちを目の前にした、ST郎の立ち位置はどうだったのでしょう。岡山県土木建築業組合の初代組合長在任中の出来事でした。


 ST郎の内なる声を妄想してみました。


 ──ふむ、やりよるのぉ。

 (なかなか手の込んだことをやるヤツらだ)

 じゃが、事を急ぎすぎじゃ。

 ワシにはワシの絵図があるけぇ、すこぅし(少し)待っとれ。──


 ST郎が超えなければならない、幕末から明治にかけて巨万の富を築いた旧勢力が、隠然とした勢力を未だ保ち続けていました。ST郎の右腕だったTK原のおじいちゃんの述懐。「……XやZは、お祖父さんの前じゃあ小そう(小さく)なって、口も満足にきけんかった(きけなかった)」は、あながち的外れではないと思っています。


 潰せ。


 旧勢力は、間違いなくそう思ったはずです。のど元に刺さった小骨ともいえない、「僅かなノイズ=若造たちの反抗」の芽は、摘んでしまうに限る。


(潰すのはたやすいことじゃが、それでえぇんか?)


 自分の才覚ひとつでのし上がろうともがく若者を、ST郎は潰させなかった。それが、彼らに対しての大きな「貸し」、TK原のおじいちゃんの述懐につながったのです。しかし、3人組は新時代を体現するリアリストでした。


「御大(ST郎)」への借りは借りとして、甘んじて受ける。じゃが、ワシらが目指す道は別なところにある。いまに見とれ!


 時代は激しく動いていました。昭和初年から太平洋戦争がはじまる前年、1940年(昭和15)頃までの主な出来事を列挙します。


 金融恐慌〜第1回普通選挙〜共産党への大弾圧〜

 パリ不戦条約調印〜張作霖爆殺〜

 世界恐慌〜ロンドン軍縮会議調印〜

 浜口雄幸総理大臣暗殺〜満州事変〜満州国成立〜

 五・一五事件〜ドイツ・ヒトラー内閣成立〜

 特別高等警察による小林多喜二虐殺〜国際連盟脱退〜

 アメリカ・ルーズベルト大統領就任〜ワシントン軍縮条約破棄〜

 天皇機関説問題〜二・二六事件〜

 日独伊防共協定締結〜総選挙での社会大衆党の躍進〜

 盧溝橋事件・上海事変(日中全面戦争)〜

 第二次国共合作〜南京事件〜国家総動員法成立〜

 「東亜新秩序」建設声明〜ノモンハン事件〜独ソ不可侵条約締結〜

 ドイツ軍ポーランド侵攻(第二次世界大戦勃発)〜

 朝鮮人の強制連行・「創氏改名」強制〜

 第二次近衛内閣成立と大政翼賛会結成〜

 日独伊三国同盟締結〜紀元2600年式典 etc.


 最悪の戦争が、すぐそこまで迫っていました。そして……3人組の、あくなき挑戦も続いていました。『瀬戸内の経済人』から引用します。


 ──(前略)若手3人組の共同受注はその後も順調だった。

 こうなると、より大きな仕事に挑戦したくなるのは人情。

 まして3人とも働き盛りの40歳代。

 受注すること自体で一目置かれ、

 儲けも大きい鉄道工事を目指した。

 当時、鉄道大臣指定の請負業者は全国で約60。

 岡山県には3業者しかいなかった。(後略)──


『新日本人物大系 産業人物篇』(1936年:昭和11発行)に、ST郎は次のように紹介されています。


 ──岡山県土木建築業組合顧問、

 大日本土木建築連合組合評議員、

 ヨシユキ組主、鉄道省指定工事請負人、土木建築業──


 岡山では3人しかいない、鉄道省指定工事請負人のひとりがST郎でした。当時の、日本・大陸の物流を支える唯一最大のインフラ、鉄道関連工事の元請けとなる資格を持つ立場でした。


「借りは借りとして……」、3人組は、奇策に打って出ます。打倒すべきカウンターパートのその先、3世代上の旧勢力・藤原兵太郎を新たな仲間に引き入れたのです。藤原は、古くからの鉄道省指定工事請負人(*1)。ST郎にとっても、超えなければならない前世代のひとりでした。敵の敵は味方というやつでしょう。結果的に旧勢力の一掃につながるST郎の台頭を、藤原は苦々しく見つめていた。上げ潮の3人組の庇護者として、業界の主導権を奪い返す。仁義無用の権力闘争ってやつですね。


 1932年(昭和7)、3人組は藤原を代表者とする合資会社を設立。鉄道工事に本格的に乗り出す資格を得ました。しかし、幸か不幸か、藤原があっけなく亡くなります。藤原にとっては人生最後の、そしてXとZにとっては未来を懸ける大勝負でした。藤原の不幸を受け、Xが新たな代表者として表舞台に立つことになります。


 棚からぼたもち。3人組の深謀遠慮というか、想定内の展開という匂いがする。なんてことをほざくと関係各所から指弾されそうですが、ここは、平にひらに、ご容赦ください! へたれ野郎の詮方ない妄想ですが、無一物からのし上がる過程で、ST郎も似たようなことをやったはずだ、と思っているからです。既得権益を持つ老人を転がす、したたかに活用する。誰もそれを責められないと思います。


 雌伏30年。自他ともに認める、土建業界の大立て者としての至福を謳歌しようしたそのときに、ST郎の負けは、はじまっていました。再度、『瀬戸内の経済人』から引用します。


 ──(前略)同業者間の結束を固め、

 不正談合を排除する組織づくりにも力を入れ、

 1941年(昭和16)4月苦労の末、

 「岡山県土木建築請負業組合」を設立した。

 東京、大阪に次いで3番目。

 Xは副理事長に、Zは理事に就任した。

 このとき理事長になったのはヨシユキST郎、

 作家ヨシユキJNN介の祖父である。

 翌1942年(昭和17)はXの生涯で最も充実した年となった。

 岡山県土木建築請負業組合理事長に就任、

 S本を副理事長に据え、

 業界かじ取り役としての奔走が始まった。

 この年岡山商工会議所会頭に、

 また日本土木建築請負業組合連合会会長にも就任。

 (以下略)──


 岡山の、土建業者の組合がどのような変遷を経たのかは謎です。信頼できる資料とされている『新日本人物大系 産業人物篇』記載の「岡山県土木建築業組合」(1922年[大正11]創設)と、この「岡山県土木建築請負業組合」の違いはなんなのでしょう。「請負」というフレーズが加わっているだけですが、その意味は大きいのかもしれません。少なくとも、旧弊(ST郎?)打破に成功したことを、高らかに宣言していますね。


 ただ、「東京、大阪に次いで3番目……」という文言には、違和感があります。2大都市に続く業界団体の設立というのは、大正時代の、ST郎の「岡山県土木建築業組合」のことだったのではないでしょうか。確証もなく書いています。事実関係をご存知の方がいらっしゃればご教示ください。


 XとZはともあれ、ST郎を1年間という期限付きの理事長に据えることで、「若気」の借りを返しました。ST郎は72歳、XとZは50代を迎えていました。



*1 古くからの鉄道省指定工事請負人:岡山の土建業・政財界を支配したと思われる菱川吉衛は、当時すでに亡くなっています。藤原兵太郎は、岡山県南部を基盤として鉄道工事に大きな実績を残した藤原槌松の関係者でしょうか? ST郎・藤原と並ぶ、3人目の鉄道省指定工事請負人も含めて確認できませんでした。


……………………………………………………………………

■【其の5】妄想劇場 ST郎・「多様=混沌」不可避編

……………………………………………………………………


 犬養毅首相が凶弾に斃れて、ST郎は中央政界で支援する大きな存在を失いました。犬養の跡を継ぐべき政治家たちは、小粒としか思えなかった。犬養暗殺から敗戦まで、13代・11人の総理大臣が政権を担当しました。約4800日(13年間)。11人のうち軍人出身者が8人。例外は、外務官僚出身の廣田弘毅、華族の近衛文麿(3回組閣)と、司法官僚出身の平沼騏一郎でした。


 平沼は、犬養に次ぐ、ふたり目の岡山県出身の総理大臣(在任:1939年[昭和14]1月〜8月/238日)。しかし彼は、県北の旧美作国・津山藩士の末裔、しかもバリバリの司法官僚でしたから、ST郎は接点を求めなかったというか、そりが合わなかったと思います。


 嗚呼、またまた話があらぬ方向に!


 言葉も文化もひたすらに平準化(東京化)され、のっぺりとした国になりつつある日本ですが、一枚皮をはぐと、そうでもない。隣接した地域間の歴史的な軋轢や確執、互いの忌避感情が根強く残っているのがおもしろい。


 江戸時代、日本は270以上の大名領(藩)によって分割統治されていました。いまはわずか47の都道府県です。約6倍の行政単位が、かつて「国」として存在していたわけです。そこに江戸以外の重要都市、金山・銀山、物流拠点など、幕府の直轄地であった「天領」が相当数入り組んでいて、ほとんどモザイク状態でした。大名といっても、100万石の加賀前田家もあれば、3000石でも大名格を与えられていた三河吉良家(忠臣蔵の吉良さんです)なんてケースもある。隣町は、価値観がまったく違う「別の国」といった感覚。めんどくさいけど、いたしかたない話だと思います。


 均質な単一民族なんて幻想でしょう。日本語だって怪しいもの。


 学生時代の呑み友達というか、よくおごってもらった年上の板前さんの母上にお目にかかったとき。秋田県南部の言葉で語りかけられて、温和な人柄と、単なるへたれ学生の僕に対する、身に余る好意はひしひしと伝わるのだけれども、話されていることが99%理解できなかったことがありました。奄美大島出身の同級生の話もおもしろかった。


「奄美と琉球(沖縄)を一緒にせんといてくれよ。オレらは奄美王朝の末裔なんだ。(ましてや、江戸期に実効支配されていた)薩摩なんか単なる夷狄にすぎない」という言葉には、のけぞりつつもワクワクした覚えがあります。


 わんやぁ やが かなしゃあ……(奄美語)


「I love you」です。


「かなしゃあ……(好きだ・愛してる)」という、なんとも哀感ある響きが、いまも心に残っています。「多様=混沌」であることは人間の摂理だと思います。でもそれは効率が悪い、とされているのでしょうね。つまんない時代です。


 ただし、相容れないというか微妙な関係性を保つ混沌地域は、いまも確かにあります。僕が知る限りでも「青森県:津軽vs南部」「山形県:庄内vs山形vs 米沢」「福島県:浜通りvs中通りvs会津」「群馬県:前橋vs高崎」「埼玉県:浦和vs大宮」「長野県:長野vs松本」「静岡県:静岡vs浜松」「愛知県:尾張vs三河」「広島県:備後vs安芸」「福岡県:福岡vs北九州」などがある。仲が悪いというか、他を無視しているというか、甚だしい場合は、文化や言葉がまったく違っていたりします。


 岡山県で言うと「備前(岡山市など)vs備中(倉敷市など)vs美作(津山市など)」です。


 35代総理大臣・平沼騏一郎の出身地・美作は中国山地に抱かれた、かつては相当雪深かった地域です。江戸時代は、外様である岡山藩のお目付役として徳川親藩の松平氏・津山藩が支配していた。岡山にとって津山は、めんどくさい(煙ったい)存在でした。美作出身の同級生が「納豆文化」で育ったと聴いて、唖然としたことがあります。岡山と納豆の話はいずれ書きますが、実はけっこう衝撃的な思い出です。ともあれ備前と美作は、(互いを)嫌いというより、ある一定の距離感が厳然として存在する、といった感じです。なので、平沼首相とST郎は接点を結びようがなかったと思います。


 一方備中は、中小大名領と岡山藩の支藩が交錯するモザイク地域でした。そのなかに、先述した天領(江戸幕府直轄地)の倉敷がありました。岡山市と倉敷市は、昔から境界を接しています(一部都窪郡という小さな地域を挟んではいますが)。しかし、


「上様(徳川将軍家)のご支配下にあるワシらとおきゃあま(岡山)じゃあ、格が違う」


 いまも残る天領のプライドが、すべてであるように思います。岡山藩は、表高32万石・実高(*1)60万石とも70万石ともいわれる外様の大藩。270藩の中でも、御三家に継ぐ家格の国持大名(*2)でした。しかも徳川家とは縁戚関係を結んでいたので、隣接する天領の人々の心を逆なでする、傲岸不遜(またまた難しい言葉だなぁ。相手を見下した態度のことです)な行いが多々あったのでしょう、きっと。そのしこりが、倉敷をかたくなにさせた。


(倉敷の皆さんご容赦を。揶揄しているのではなく、単なる妄想ですので……)


 未来永劫ふたつの街が手を結ぶことはありえないでしょう。それくらい仲が悪い。僕が子どものころから「岡山・倉敷合併案」がありました。1962年(昭和37)、県知事主導で岡山と倉敷の広域合併が進められました。ところが、調印式の寸前に倉敷市長が失踪するという大事件が起こって、合併はご破算になりました。誰が糸を引いたのか、どんな思惑があったのか。歴史の闇に沈む、謎の出来事です。


 まぁ、言葉は似ているけれども、歴史や文化の「多様=混沌」を残していまに至るわけですから、それもまたいたしかたないと思います。


 もういいんじゃないの、脇道妄想は!


 そうでした。昭和初年、ST郎は犬養の次に支援するべき人物に巡り会っていました。



*1 実高:表高は幕府から与えられた名目上の石高。幕末に至るまで大名たちは盛んに新田開発を行い、農産物の収量増を図りました。その実質的な石高が「実高(内高とも言う)」です。


*2 国持大名:(Wikipediaより引用編集)近世江戸時代の大名の格式のひとつで、領地が一国以上(もしくは相当)である大名のこと。国主とも言う。加賀・前田、薩摩・島津、仙台・伊達、熊本・細川、福岡・黒田、長州・毛利、土佐・山内などの大名約20家です。


……………………………………………………………………………

■【其の6】妄想劇場 ST郎は何処に?……備前猶太同根論編

……………………………………………………………………………


 昭和を代表するジャーナリストで社会評論家の大宅壮一おおやそういち(*1)という人がいました。もうずいぶん前に亡くなっていますが、白髪の、獅子舞の獅子頭のような顔が印象的な、迫力あるオジさまでした。権力におもねらず、不毛なイデオロギー論争には組せず、自由人の立場で舌鋒鋭く数々の評論活動を行った、戦前・戦後を通じての、マスコミの巨人でした。


 大宅は毒舌家で知られていますが、そのときどきの社会風潮を的確かつ簡潔に表現した造語・流行語を多数生み出したことでも有名です。たとえば……「太陽族」「一億総白痴化」「駅弁大学」「男の顔は履歴書である」「家庭争議」「恐妻」「口コミ」etc. 「家庭争議」「恐妻」「口コミ」は、あたりまえの日本語としていまでも認識されていますよね。該博な知識に裏打ちされた、人並みはずれた、言葉選びのセンスの賜でしょう。


「一億総白痴化」なんて、当時の意味合いとは違いますが、どこへ向かおうとしているのか誰も答えを見いだせない、日本人のいまを想定していたとしか思えなかったりして……。


 そんな大宅に、一定の年齢以上(要は年配者ということです)の岡山人は、苦い思いを抱いているケースがある。自意識過剰と言ってしまえばそれまでの話ですので、与太話としておつきあいください。1958年(昭和33)から1年間『文藝春秋』に連載した「地方の人物鉱脈を探る」という記事のなかで、大宅は、「岡山県人は〈日本のユダヤ人〉である」と、書きました。ユダヤ。漢字表記なら「猶太」となります。しかし思いきったこと言いますよね。ダブル問題発言といってもいい。いまなら、即座に世界中に配信されて、SNSなら大炎上しかねない。時代が違うといえばそれまでなのかもしれませんが。


 ユダヤ人を揶揄する気持ちなど、僕は毛頭持ち合わせていないことをご了解の上、以下をお読みください。


 ステロタイプな「ユダヤ人」像というと、「選民思想」(*2)、「排他主義」(*3)、「拝金主義」(*4)、「裏切り者」(*5)といった、ネガティブな言葉が浮かびます。一方で、科学・思想・文学・芸術・経済分野で世界を変えた多彩な人材を輩出していることも、また事実です。


 それがなぜ岡山人と結びつくのか?


「御大 壱」で大洪水の話を書きました。確かに大昔から岡山は洪水に見舞われてきた。しかし、その他の激甚災害というレベルの記録は実に少ない地域なのです。洪水は結果的に、肥沃な農耕地を生み出した、と考えていいのかもしれません。なので、江戸時代にこんな話が残されました。岡山藩・池田家の参勤交代道中で荷担ぎ役の小物たちが唄い、山陽道・東海道に広まったといわれる俗謡があったそうです。


 ──わたしゃ備前の岡山育ち 米のなる木をまだ知らぬ

 (中略)

 備前岡山 住み良いところ 白いおおままに鯛添えて

 岡山街々 夜更けて通りゃ 鼓・太鼓や三味の音

 (以下略)──


「米のなる木をまだ知らぬ」というと、米に縁がないという感じを受けるかもしれません。でもこれは、米を口にすることがあたり前すぎて、岡山人(特に備前人)は、「米は木に自然に実って、なんの苦労もなく収穫される」と思っているという、けっこう鼻持ちならない宣伝なのです。続く歌詞も、「(あんたたちと違って)岡山は豊かで贅沢なところなんじゃで(なのだよ)」という、高慢な意識がありありです。


「飢えることなんか想像もできない豊かな土地に暮らしていて、ごめんね。まぁ、君たちもせいぜいがんばんなさい」。そう言っているのも同じですよね。そしてもうひとつ。「御大 壱」で触れた、備前を宗教的に支配したとされる「日蓮宗不受不施派」の残滓もあると思います。


「そんなの関係ねぇ、面従腹背じゃ! 日蓮様の教え、法華経の妙法を授けられたのはワシらだけ!  ワシらは、ワシらの道を行く!」


 不受布施の思想を弾圧した現実へのアンチテーゼ。江戸時代初期に禁教とされた信徒たちは、受施派(穏健日蓮宗)に宗旨替えしたとみせかけて実は、頑にその教え、法灯を守り続けました。


「選民思想」「排他主義」……うぅむ、ネガティブ・ユダヤにみごとに符合する。


 戦国時代に成立したといわれる『人国記』(全国地域別の人々の気質を記した書物)に、「(備前人は)理屈っぽい、意地っ張り、人を頼りにしない、金銭万能主義」と書かれていたという話もあります。まさに「拝金主義」。近代では「怜悧、合理的、先進性はあるが打算的、抜け目ない出世上手」なんて言われているそうで、いよいよ大宅の指摘が信憑性をおびてきます。


 ついでに「裏切り」についても触れておきます。


 織田信長と同時代を生きた、宇喜多直家という武将がいました。備前の名族の生まれだそうですが、祖父を謀殺されて父親ともども浪々の身となり、40年あまりを費やして備前と備中・美作の一部を支配する戦国大名に成り上がった。痺れるのはその評価。端的に言うと権謀術数と下克上の権化なのです。


 直家の一生は、謀略・裏切り・暗殺の限りを尽くしたものでした。日本で初めて、鉄砲で暗殺を行ったという記録もあるそうです。敵対勢力はもちろん、無能不要と断じた主君、そのときどきに利用しただけの多数の妻たちの血筋、政略による娘の婚家を、直家は徹底的に抹殺しました。


 そんな数々の悪行によって直家は、美濃の〈まむし〉斎藤道三や大和の松永弾正久秀と並ぶ「戦国の三悪人」と呼ばれてもいます。


 ただ、その言われようは、さすがに、いかがなものかと思います。戦国時代は、なんでもありの時代だったはずです。生き残るために「手段を選ばない」のはあたりまえでした。「毘沙門天」の生まれ変わりを信じて、戦うことだけに専心した上杉謙信を除けば、武田も北条も毛利も織田も豊臣も徳川も伊達も、権謀術数の限りを尽くして天下に覇を唱えようとしていたはずです。しかも斎藤道三・松永久秀は、天下統一が現実であることを日本中に知らしめた、〈魔王〉織田信長の師匠ともいえる先進的な大名でした。営々として受け継がれてきた因習から解き放たれた自由人たち。


 関所の撤廃、閉鎖的だった市(市場)・座(職人組織)の自由化など、経済活動を阻害する要因をバッサリと排除する。すると、抑圧されていたフリーの商人・職人をはじめさまざまな人びとが集まり、富の蓄積が飛躍的に高まる。城下町の誕生です。鉄砲という最新兵器の装備も、その富があれば容易に実現したし、農業生産に縛られていた家臣たちを、季節(農閑期・農繁期)を問わず動員できる常備軍とすることもできた(兵農分離っていうやつですね)。


 直家も同じでした。山城にとじこもり、既得権益を守ることに精一杯の旧勢力たちを抹殺・排除して、洪水の危険はあるけれども肥沃な備前平野の中心に城を築き、商人たちを呼び寄せて岡山の町を造りました。西の毛利、東から迫り来る織田という超巨大勢力と渡り合える力を持つことができたわけです(もちろん、ときどきの状況を機敏に察知して、両巨大勢力に「付いたり離れたり」という離れ業を行っています)。


 申し訳ありません。何の話を書いているのか、自分でも分からなくなってきました。ただ、これ以降の展開に必要不可欠な話だと思っていますので、しばしおつきあいください。


 もうひとり岡山には、有名な「裏切り者」がいます。小早川秀秋。豊臣秀吉の甥で、中国地方の名門・小早川家の養子になった人物です。彼の名を知らしめたのは「関ヶ原の戦い」での「裏切り」でした。徳川家康率いる「東軍」と対峙した「西軍」の中核にありながら味方の軍勢に襲いかかり、天下分け目の合戦の勝敗を決するキーマンとなりました。秀秋は「関ヶ原」の論功行賞で、備前・美作と備中半国にまたがる55万石(*6)の大守になります。考え方によれば、天下泰平の江戸時代を産んだ功労者ともいえなくはない人物です。でも、「裏切り者」の刻印を消せないまま、わずか20歳で早逝。跡継ぎがいなかったため、あっけなく改易されて、池田家が藩主として岡山に入封することになりました。


 時代の流れを先読みし、生き残ることを突き詰めた直家。時代に流されるしかなかった秀秋。まったく違うふたりですが、そのネガティブなイメージが、大宅の「岡山人=猶太人」論の根っこにあったような気もします。


「問われれば、備前(岡山)人と答えるのはいたしかたないが、すすんで言うべきではない」


 この言葉を肝に銘じて青年時代をすごした人物を、ST郎は担ごうとしていました。


「……すすんで言うべきではない」。出自を知られることは避けるべき、って、なんか「備前猶太同根」論を裏付けてしまう話じゃないの??



*1 大宅壮一:1900年明治33)〜1970年(昭和45)。大阪生まれ。東京帝国大学中退。後進を育成するために開設した「大宅壮一東京マスコミ塾」(大宅マスコミ塾)からは500名近くの塾生が巣立ち、ジャーナリズムを支えた著名な人物も数多く輩出した。没後に設けられた「大宅壮一ノンフィクション賞」はノンフィクション作家の登竜門として有名。


*2 選民思想:ユダヤ人こそが唯一神ヤハウェ(キリスト教の「God=デウス」、イスラム教の「アッラー」と同一である考えられている存在)に選ばれし、世界に冠たる民族であるという考え方。


*3 排他主義:「バビロン捕囚」以降大国に翻弄され、国を失って世界に散らばり定住したにもかかわらず、信仰・言語・文化をかたくなに守り、強固で独自なコミュニティを崩さなかったことに起因する見方だと思います。


*4 拝金主義:キリスト教では不浄とされた「金融業」に手をつけた、というより、経済活動を拡大させるために、誰も手をつけたがらない「不浄」の役割を担うことに活路を見出した、という感じはします。『ヴェニスの商人』のシャイロックが、文学に描かれたその典型。善くも悪くも現代の資本主義の原型をつくり出し、いまもなお、凡夫の想像も及ばない影響力を世界の裏側で保持している。フリーメーソンやモサドの暗躍など、陰謀史観の権化みたいな扱いもされますね、ユダヤ人は。


*5 裏切り者:イエス・キリストをローマ人に売って、磔にさせた。ユダヤ教とキリスト教。同根の、神との契約に基づく宗教間の、2000年を経てなお歩み寄ることのない決定的な溝です。八百万の、ぬるい、宗教観ともいえない意識下にある僕には、ちょっとついていけない感じがします。


*6 55万石:直家が築き、嫡男である秀家が継いだ宇喜田領のすべてです。秀家は豊臣政権の五大老の一角を占め、関ヶ原の戦いでは「西軍」の副将として〈誠実〉に戦って敗れました。直家の子とは思えない結末。ただし簡単には死ななかった。生き延びて死罪を免れ、有名な流刑地である八丈島への「流人第1号」になりました。83歳で逝去。21世紀のいまも子孫が残っているそうです。実にたくましい。関ヶ原の結果はともかく、直家の血のなせる技だと思います。ちなみに秀家は、戦国時代を代表する超美形・イケメンだったそうです。


…………………………………………………………

■【其の7】妄想劇場 ST郎・リーダー待望編

…………………………………………………………


 1936年(昭和11)秋。岡山市桶屋町のヨシユキ組の門前に横づけされた黒塗りのクルマから、中折れ帽に三つ揃いの背広姿の老紳士が降り立ちました。


「問われれば、備前(岡山)人と答えるのはいたしかたないが、すすんで言うべきではない」


 この言葉を肝に銘じて青年時代をすごした人物。ST郎が、非業の死を遂げた犬養毅総理大臣に続いて担ごうとしていた、前朝鮮総督・宇垣一成うがきかずしげ陸軍大将(当時は予備役)です。揃いの法被姿で出迎える男衆に案内された玄関では、ST郎が満面の笑みで待ち受けていました。


「宇垣さん、よぅおいでんさった(よくおいでくださいました)」


「いゃあ御大、ご無沙汰」


 朝鮮総督とは、戦前日本が併合していた朝鮮半島(現・韓国+北朝鮮)の、軍事権、立法権、行政権、司法権の行使、朝鮮王室や公族・貴族の保護・助言を行うことを、内閣から一任された重要ポスト。任命されたのは陸海軍の大将クラス、もしくは総理大臣経験者に限られていました。宇垣は同年8月、臨時代理の半年間を含め約6年間努めた、その職を辞したばかりでした。


 ヨシユキ組応接間。


「あらためて、お悔やみ申し上げます」


「その節は、ご丁寧なご挨拶痛み入ります」


 帰国直後、宇垣は妻の急死という不幸に見舞われていました。


「宇垣さんは確か、ミルクティがお好みじゃった思うて用意させました」


 恭しく、応接間に茶菓を運び入れる女中たちを従えた女。


「そうじゃ、ご紹介せにゃならん。今春嫁いでみゃありました、息子の嫁でございます」


「お初にお目にかかります。ヨシユキTM子でございます」


「おぉ、ご子息の……。宇垣です、以後お見知りおきを」


 ごま塩の口ひげを蓄えた、下あごが張ったがっちりとした輪郭。への字に結んだ口元と、心の起伏をまるで感じさせない、冷めた眼差し。それがTM子に対して破顔一笑。なんともいえない愛嬌のある表情に変わりましたた。


(この方が、あの有名な……)


 TM子。同年春に、わが家に嫁いできた僕の母。


 ヨシユキの家に入って半年あまり。知事や市長、国会議員など、有力者の相次ぐ来訪応対にも慣れてきていたTM子ですが、宇垣の威厳にはさすがに緊張したそうです。姑のMR代(ST郎の妻)が東京の長男・A助宅に居を移していたために、20歳そこそこのTM子がヨシユキ組の女主人の役割をになっていました。


「宇垣さんはなぁ、よぅ(何度も)ヨシユキ組にお見えになって、ST郎おじいさんと話しこんでおられた」


 母に聴かされていた話を思い出しました。


 宇垣は1868年(慶応4)備前国磐梨郡潟瀬村大内(現・岡山市東区瀬戸町大内)に生まれた、純備前人です。ST郎の1歳年長。父親を早くに亡くした農家の五男。小学校を卒業後代用教員となり、10代で郡部の小学校の校長になった。いまでは考えられない話です。しかし宇垣は、軍人となることを切望していました。


 教員時代の蓄えをもとに、東京の士官志望者予備校を経て陸軍士官学校(*1)に入校。Wikipediaでは、志願兵として陸軍に入り、軍曹で入校したとされていますが、その他の資料では教員から軍人の道を目指したと記述されている。そのあたりの曖昧さは、まぁよしとしましょう。志願兵から大将にまでなった、たたき上げと言ってもいい珍しい例だとすれば、実に興味深い話ではありますが。


 22歳で士官学校を卒業。150人中の11位という成績(*2)でした。そして、32歳でエリート軍人養成機関・陸軍大学校(*3)を卒業しています(第14期・39人中3位)。優秀でした。以後2度のプロシア(ドイツ)留学を経て、1916年(大正5)少将で参謀本部第一部長、1923年(大正12)陸軍次官、1924年(大正13)には中将で陸軍大臣、そして翌年の1925年(大正14)加藤高明内閣の陸軍大臣として、「宇垣軍縮」(*4)と呼ばれる、大幅な陸軍の整理縮小を実現させて大将に登りつめます。57歳。陸軍大学を卒業するまではかなり時間を要していますが、その後は実に順調なコースを歩んでいます。


 宇垣は、実戦の軍歴がほとんどありません。日清戦争(1894〜1895年)当時は新米士官でしたが大本営に配属されて、戦地に赴けなかった。日露戦争(1904〜1905年)中はドイツから呼び戻され、第8師団の参謀になりますが目立った活躍なく終戦。そして第一次世界大戦(1914〜1918年)ではすでに少将に任官していて参謀本部の中枢にいた。実戦経験がないまま大将になる。意外な感じですが、日本軍、特に陸軍では特異な例ではありません。


 陸軍大学校というエリート養成機関を経なければ、将官への道はほぼ閉ざされていた。しかし陸大はあくまで、参謀(指揮官の補佐役、戦略・戦術のエキスパート)養成機関でした。戦争という行為の、勝ち負けはともかく、国と国民の存亡を左右する、リアリスティックな決断を行うべき最高指揮官を育てることを、国を挙げておこたった、あまりにも哀しい現実。


 ウソのようなホントの話です。それが1945年(昭和20)の、完膚なきまでの敗戦を招いた遠因のひとつです。


 語弊がありますが、究極の選択として戦争を選んだのは運命としましょう。はじめてしまった戦争はいたしかたない。大切なのはその終わらせ方への構想力。その必要性を感じていた人たちは、政権中枢・軍の最高意志決定機関からみごとなまでにオミットされていました。もしくは最前線で死ぬしかなかった。定説によれば、海軍の山本五十六元帥はその典型です。


 宇垣もそのひとりだった! と、断言する資格など僕にはありません。ただ、彼のことを調べるにつけ、とんでもない現実主義者だったことだけはわかります。運命という諦観に身を委ねる前にやるべきこと。迫り来る戦争を回避する選択肢はなかったのでしょうか?


 人払いしたヨシユキ組応接間。ST郎と宇垣の話が核心に迫ります。


「大命が下るんは、いつごろと思うとりゃえぇんですか」


「軽々しく口にするべきではないですが、年明けには形をつけなければと思っています」


 1936年(昭和11)は、二・二六事件に端を発する軍部の台頭、議会と軍部の対立、泥沼化しつつあった中国情勢に、国内の不安が高まっていました。それを救う強力な内閣の首班は「宇垣しかいない」。そんな気運が、日本に満ち満ちていたのです。


「問われれば、備前(岡山)人と答えるのはいたしかたないが、すすんで言うべきではない」


 宇垣ならではの横顔と岡山県人像に迫るつもりでしたが、話が長くなってしまいました。



*1 陸軍士官学校:1874年(明治7)設立のフランス式から、1887年(明治20)にプロシア(ドイツ)式に教育体系が変更された新・士官学校の第1期生にあたります。


*2 150人中の11位という成績:宇垣の成績・経歴等はWikipediaによる。


*3 陸軍大学校:陸軍の参謀を養成するために設立された高等教育機関。設立から敗戦で廃校になるまでの64年間で、3485人しか卒業できなかった超難関でした(年平均54・45人)。30歳未満の大尉・中尉にしか受験が許されなかったそうですから、宇垣はギリギリすべりこんだ形です。


*4 宇垣軍縮:(Wikipediaより編集引用)第一次世界大戦後の世界的な軍縮の気運と、関東大震災の復興予算調達の必要性によって実現した軍備の縮小。21あった師団(1万名程度で編成)のうち4個師団(約3万4000人)を削減。そのなかには岡山の第17師団も含まれていました。これ以前にも3回にわたって約10万人の兵力削減が行われていましたが、師団数は維持されたままで指揮官(将官や士官たち)はポストを保持し続けていました。「宇垣軍縮」はそこにメスを入れ、思いきったリストラを行う結果となりました。これが、宇垣にとっても、その後の日本にとっても大きな意味を持つ出来事となりました。ただし、削減した予算は、ちゃっかり陸軍の軍備近代化に費やされた、という事実も忘れてはなりません。


……………………………………………………………

■【其の8】妄想劇場 ST郎・この男に懸ける編

……………………………………………………………


 ヨシユキ組応接間。傾きかけた陽射しが、ソファから身を乗り出して語り合うST郎と宇垣の横顔を浮かび上がらせていました。


「これだけ待ったんじゃから、宇垣さんの思うまま日本を経営されりゃぁええ。微力じゃが、ワシにできることはなんでもやりますけぇ」


「御大にそう言っていただけるのは、本当にありがたい。時間がかかってしもうたのは、私の不徳のいたすところです。じゃが、朝鮮からこの国をじっくり眺めることができたのは幸いでした」


「両党(*1)の思惑も、宇垣さんへの一本化で一致しとる。岡山選出の議員連中も異存などありゃあせん。右へ倣えじゃ。議会を押さえて、軍へのにらみも効かせられるとなると、これまでにない本格政権になりますなぁ」


「軍に子飼の勢力があるのは確かですが、ご存知のように敵もまた〈ようけ〉(たくさん)おりますからなぁ、私には」


 宇垣の評価は「毀誉褒貶(またまた難しい言葉だなぁ)相半ばする」なんて生やさしいものではなく、好悪・愛憎が両極端にはっきりと分かれるものだったようです。


「備前ものに油断するな(*2)」。陸軍内でまことしやかに語り継がれた風評だそうです。


 確かに一癖・二癖あるかもしれないが、なにもそこまで言わなくても……と、備前ものの僕は思います。こういうレッテルは、一朝一夕にははがせないものです。なので宇垣は、士官学校では「問われれば、備前(岡山)人と答えるのはいたしかたないが、すすんで言うべきではない」を胸に刻んで生きたのです。


 農民出身の教員からの転身で軍内の人脈皆無。しかも「備前もの」。宇垣の軍人生活は、大きなマイナスからのスタートとなりました。頭抜けて優秀だったのはもちろんですが、宇垣は軍人というより政治的な動きが似合う人間だったようです。少尉に任官した当時の陸軍は薩摩、長州の二大藩閥が覇を競っていました。後ろ盾のいない宇垣は、薩摩閥の庇護を受けて頭角を現します。しかし後年、一転して長州閥の田中義一(後の陸軍大将・首相)の知遇を得て、薩摩閥と対峙しつつ一気に陸軍中枢への階段を駆け上ることになります。


 この一件で、宇垣は「変わり身が速い」「蝙蝠のような男」(*3)と評されることになりました。また、傲岸不遜な「過剰なほどの自信家」「権力欲の亡者」とも呼ばれました。


 すなおに読めば、あまりお友だちにはなりたくないですね、この人。


 でも『週刊文春』(2012年8月30日号)の連載コラム「こんなリーダーになりたい・11」(佐々木常夫 筆)を読んで、思わず膝を打ってしまいました。サー・ウィンストン・チャーチル。イギリス首相として第二次世界大戦を勝利に導いた、20世紀を代表する大政治家・不世出のリーダーについての話です。以下引用します。


 ──(前略)

 そもそも彼は政治家として名を残すことが最終目的であり、

 そのためには軍人になって

 功を立てるのが近道という動機から軍隊を選んだのだ。

 (中略)

 そのような動機であったから

 ともかく結果の出るチャンスを掴もうと、

 あらゆるコネを使って配属地などの希望を通してきた。

 以前、広田弘毅は「自ら計らわぬ人」

 吉田茂は「自ら計る人」と書いたが

 チャーチルの自ら計るやり方は吉田茂の比ではなく、

 厚顔無恥ともいえるほど露骨なものであった。

 このことはチャーチルが過剰なまでに己の能力に自信を持ち、

 その能力をこの世で実現することが

 自分のミッションだと強く信じていたからで、

 そういう意味では並外れた資質を持っていたともいえよう。

 (後略)──


 名門出身のイギリス人の意識・行動が、貧しい農家出身の日本人のそれと酷似しているではありませんか。「チャーチル」を「宇垣」に置き換えても違和感ゼロ(しかもほぼ同世代です、このふたり)。最高権力を目指すのは、善くも悪くも、こういった〈アク〉の強い人間なんでしょうね。ともあれ宇垣は、長期にわたった陸軍大臣在任期間に、長州閥・薩摩閥に対抗する「宇垣閥」を、陸軍内につくりあげてしまいます。そして1925年(大正14)の「宇垣軍縮」を実現させて、自他ともに認める総理大臣の最有力候補となりました。


 宇垣の人気は国民的でした。さらに重臣、元老、軍幹部はもちろん、当時の日本経済を支えていた関西財閥、軍部の圧力に窮していた二大政党から圧倒的な支持を得ていました。無産政党(共産党を除く戦前の合法的社会主義政党)にまでシンパがいたといいますから、おもしろい。


「機を見るに敏」「八方美人」「融通無碍」。宇垣のもう一方の横顔です。いわゆる「人たらし」だったのでしょう。「核心」を語ることを巧妙に避け、相対する人間・勢力の我田引水的解釈に任せるという高等戦術も得意としていました。なかでも、関西財閥、在朝鮮財閥の支持に基盤を置く豊富な資金力は敵う者がありませんでした。


 ──(前略)宇垣の政界への投資額は、

 既に二百萬圓に達するとも稱(称)せられ、

 或は三百萬圓とも言はれてゐる。

 彼は、この莫大な金を、

 黙々として殆ど言はれるまゝに出して來た。

 しかもその範圍(囲)は、

 前にも述べたが、廣大無邊(辺)で、

 政當(党)關(関)係ばかりでなく、

 (中略)

 左右兩翼にまで、擴大されてゐたのである。

 (以下略)──

 ※『宇垣一成と近衛文麿』

 (來間恭 著/1936年 第百書房 刊)より引用。

 原文ママ。( )内は筆者注。

 

 昭和初年の二百万円は、物価比2000倍理論でいうと「40億円」にもなります。ST郎も、その資金の端っこを担っていたのだと思います。しかし、盤石であるはずの宇垣擁立が手間取ったのはなぜなのでしょう。


「失礼ながら〈某事件〉をひきずっとってもしようがない。あれはもう決着がついとる思うとります。用心にこしたことはないですが宇垣さん、もうこれは天命じゃ思うてください」


「天命……たしかに」


 総理大臣の椅子を目前にした宇垣の、一抹の不安が〈某事件〉の残滓でした。


 1931年(昭和6)3月、陸軍参謀本部の中堅幹部たちが結成した秘密結社「桜会」が主導し、右翼や国家社会主義者までを巻き込んだクーデター計画が発覚しました。議会・政党を解体し、軍主導の新政権を樹立する。その首班と目されていたのが、宇垣でした。宇垣がこのクーデター計画にどこまで関与していたかは謎です。計画そのものも杜撰極まりないものでした。「『核心』を語ることを巧妙に避け……」という宇垣スタイルが招いた結末(首謀者たちに不要な期待を抱かせた)という見方もあるようです。


 ともあれ計画は未遂に終わりました。そして、いかにも日本的な幕引きが行われた。計画に関与した全員を不問に付すのみならず、事件そのものが最高機密として闇に葬られたのです。残されたのは〈某事件〉という、曖昧模糊とした風聞だけでした。現在「三月事件」として記録されている〈某事件〉は、重すぎる幕切れを日本にもたらすことになります。


 宇垣自身は事件発覚後予備役とされ、朝鮮総督に任命されました。本人が事件に関与していたかどうかは問わないが、「まぁ一時日本から離れていなさい」という措置だったと思います。問題はその先。軍部主導で不法に国家改造を謀る動きに歯止めが利かなくなったのです。二・二六事件と、陸軍内部の絶望的な派閥争いが招いた結末は、言わずもがなですね。


 軍に軸足を置き、影響力を保っているにも係らず微妙な立ち位置にいる。陸軍の一部では、宇垣はまさに「裏切り者」でした。「敵もまたようけおりますからなぁ……」という宇垣の思いはリアルそのものだったのです。


 電灯が灯され、ST郎と宇垣がわれに返ります。つるべ落としの秋の夜が迫っていました。


「何度か声をおかけしよう思うたんですが、おふたりともお話に夢中で……」


 TM子に促されて時計を見やるST郎。


「おぉ、もうこんな時間か」


「お食事のご用意が整うております」


「宇垣さん、事を成す前に瀬戸内のうみゃあ(旨い)魚で力をつけてください」


「ありがたい。ふるさとの味は、私を裏切りませんからなぁ」


「明日は東京ですな」


「明早暁の『富士』で戻ります……」


「お気をつけて。朗報を待っとります」


 午前3時30分岡山発東京行きの特急「富士」(*4)の一等寝台に宇垣はいました。規則的で小気味いい列車のリズムに身を委ねながら夢見ていたのは、天皇から総理大臣を拝命する忘我の光景だったかもしれません。


 ──(前略)

 此處(処)まで書いた時に號(号)外が來た。

 宇垣拜辭(拝辞)の決定といふ奴である。

 組閣運動の最初から、風は、この方向を吹いて居たのであり、

 宇垣の前路に屹立していた

 混凝土コンクリートのような壁は、

 不動の姿勢でいたのである。

 ただ人氣があり、一種の人氣があり、

 何としても宇垣にやらせてみたいといふ

 無數の人々の要求は、宇垣を聲援して、宇垣をして、

 彼が既に振舞うた通りに、

 振舞はしめることに大いに與(与)っていたやうだ。

 宇垣内閣の夢は敢えなくも破れて了うた。

 (中略)

 軍人さんの世界のことは、我輩尋常人には判らないが、

 世の中は因果である、

 宇垣が覿面てきめんに今日の報償を得たからには、

 どうやら過去に於ける五障十惡(5つの煩悩10種の罪悪)の

 彼の大罪を想定してもいいやうである。

 因果の小車何んぞその廻轉(転)の正確なる耶。

 (以下略)──

 ※『二月以後』(若宮卯之助 著/1937年 東方書房 刊)

 1937年(昭和12)1月30日の記述より引用。

 原文ママ。( )内は筆者注。


 アンチ宇垣の書籍からの引用です。結果的に、クーデターを匂わせる軍から、陸軍大臣の任命を拒絶されて組閣できず、大命(天皇による総理大臣任命)を辞退せざるを得なくなりました。宇垣の夢(*5)はあっけなく潰えたのです。宇垣に懸けたST郎の野望も未完に終わりました。


 しかし宇垣はこのまま歴史の舞台から去ったわけではありません。日中戦争の泥沼化をただ傍観するのみで、有効な手だてを持たなかった近衛文麿首相が、改造内閣の外務大臣として宇垣を指名したのです。1938年(昭和13)5月。宇垣は70歳になっていました。


 宇垣は、優柔不断な近衛の方針撤回と中国との和平交渉開始を条件に入閣。イギリスの外交ルートを通じて、国民政府から現実的な和平条件を引き出すことに成功しています。相手国との信頼関係構築、確実な交渉ルートの把握、巧みな交渉など、日本の外交史でも特筆されるべき手腕を発揮。反米・反英に傾く日本外交に警鐘を鳴らしていた知米派の評論家・清沢洌は「日本は久々に外交を持った。外交官ではない人物によって」と宇垣を賞賛(*6)したそうです。しかしここでも「アンチ宇垣」の陸軍が立ちはだかりました。和平工作を妨害され、あげく後ろ盾であるはずの近衛首相が軍部側に立つ姿勢を見せたため、わずか4カ月で辞任せざるを得なくなりました。


「宇垣内閣ができていれば、太平洋戦争は避けられた」という声はかつて高かったそうです。これはしかし、あくまで「if」の世界ですから、なんとも言いようがありません。


「『核心』を語ることを巧妙に避け……」る宇垣は、自らの政権についてのビジョンのようなものは一切残していません。多くを語らないことで幅広い支持を得ていた一面はあると思いますが、その「核心」を探る試みはなされていたようです。政治学者でジャーナリストの佐々弘雄が、1933年(昭和8)の著作『人物春秋』(改造社 刊)で次のように類推しています。原文ママ。( )内は筆者注です。


 ──(前略)

 惟ふ(思う)にその(宇垣周辺の)

 各種運動を貫く共通性は

 次の如き要素に歸着(帰着)するのではあるまいか。

 一、統制方針シビリアンコントロールの徹底。

 二、満洲建設についての資本家の協力を可能にし

   且つ速進すること。

 三、對聯盟(対国際連盟)、對列強強硬外交の緩和。

 四、ファッショ國體(国体)運動の抑制。

 五、議會政治擁護、政當復活の方策。

 (以下略)──


「閉塞状況にある日本に、これらの課題解決が求められていることは間違いないが、宇垣がそれを実現できるとは思えない。宇垣以外の人間にはなおさらのこと……」とも、辛辣に佐々は書いています。ただ、その方針は驚くほど理にかなっている。日本の行く末を変えられたかもしれない、と思います。時流を敏感に捉え、リアリスティックに決断・実行できる政治センスを、宇垣が持っていたことは確かです。


「実体は謎だが何かを期待させる」。そういう人だったのでしょう。


 まぁ、とやかく言われ続けてきた〈備前もの〉(岡山人)の典型。〈食えない〉ってやつですかね。長々と書いてきましたが、岡山人のイメージを払拭できたなら幸いです(そんな訳ないか!?)。



*1 両党:戦前の二大政党。(立憲)政友会と(立憲)民政党。台頭する軍部との対立・妥協を繰り返して弱体化し、1940年(昭和15)の大政翼賛会成立とともに消滅しました。


*2 備前ものに油断するな:『岡山人じゃが・2〈ばらずし〉的県民の底力』(吉備人出版)所収「喬木に風強し 陸軍大将宇垣一成の傲岸と不運」(赤井克巳 筆)による。また、本稿中の宇垣についての記述は『人物春秋』(佐々弘雄 著/1933年 改造社 刊)、『明日の政権を擔ふ人々』(小林友治 著/1935年 普及社 刊)、『宇垣一成と近衛文麿』(來間恭 著/1936年 第百書房 刊)、『二月以後』(若宮卯之助 著/1937年 東方書房 刊)も併せて参考にしています。


*3 蝙蝠のような男:司馬遼太郎が、1968年(昭和43)1月から1年間『文藝春秋』に連載した「歴史を紀行する」というシリーズがあります。日本各地の歴史と風土の分析から県民性を浮彫りにしようとするものでした。その第8話「桃太郎の末裔たちの国」(筆者注:岡山県編)で、司馬は宇垣を「『備前ものに油断するな』の典型」「こうもりのような男」と酷評するだけでなく「宇垣の個性や政治行動についての批判から、そのまま岡山県民性がひきだされてきたきらいがないでもない」と書いています。司馬といい【其の2-21】に記した大宅壮一といい、日本を代表する著述家からさんざんに言われる〈岡山(中でも備前)〉って……これはもう笑うしかないですねぇ。(『岡山人じゃが・2〈ばらずし〉的県民の底力』を参考にしています)


*4 午前3時30分岡山発東京行きの特急「富士」:日本初の特急列車。東京・下関間を19時間あまりをかけて運行。1・2等車のみ(グリーン車以上の特等席)で編成され、食堂車では洋食のみを給していた。最終的には、下関・釜山間を連絡船で、釜山からは再度鉄路で満州の首都・新京(現・長春)までを結ぶ国際列車でした。発車時刻は「夜行列車資料館」掲載の1934年(昭和9)12月ダイヤによります(ちなみに東京着は午後3時25分)。


*5 宇垣の夢:宇垣一成内閣流産の経緯を記した『宇垣一成日記2』(角田順 編/1968年 みすず書房 刊)が 「宇垣一成内閣流産の経緯」に転載されています。1937年(昭和12)1月25日に御所に召し出されてから大命拝辞を決断するまでの、生々しい記録です。ご興味があれば、ぜひご覧ください。


*6 宇垣を賞賛:外務大臣としての功績についてはWikipediaの記述を参考にしています。


………………………………………………………

■【其の9】妄想劇場 ST郎・隠居覚悟編〉

………………………………………………………


 1937年(昭和12)1月30日(*1)。


 ヨシユキ組の事務所から続く長い縁廊をこけつまろびつ、TK原のおじいちゃん(当時はまだ壮年です)が、ST郎の居室に飛び込みます。


「おんてゃあ(御大)! えれぇ(たいへんな)ことになった!」


「なんなら(なんだ)? ほたえな(騒ぐな)!」


「ラ、ラジオを!」


 スピーカーからは、興奮したアナウンサーの声が流れていました。


「繰り返し臨時ニュースを申し上げます。宇垣一成陸軍大将が組閣の大命を拝辞されました」


(宇垣さん……)


 うろたえるTK原をよそに、ST郎は懐から取り出した煙草に火をつけ、深々と一服します。


「おんてゃあ……」


「KN造はおるんか(いるのか)?」


 と、襖が開くと、着流しの男が立っていました。凝った長襦袢をチラリと見せて、わずかに着物を着崩している。粋な着こなしというやつ。細面に七三の刈上げ。異様なのは黒めがね(サングラス)です。そのせいで表情が読み取りにくいものの、一報に接して、狼狽している様子はありませんでした。


「お父さん、えれぇことになりましたなぁ」


「KN造、まぁそこへ座れ」


 KN造。本稿でその人物に触れるのは初めて。当時26歳の僕の父です。1930年(昭和5)頃から太平洋戦争が始まる頃までの約10年間が、ST郎の絶頂期だった……と「御大 壱」に書きました。ST郎が誰も寄せつけなかった政界とのパイプ、それを完成させるはずの宇垣内閣の夢があっけなく崩れ去った。絶頂期の終わりを予感させる大事件でした。


「ワシもそろそろ身を引く時期がきたんかも(来たのかも)しれん」


「おんてゃあ……!」


「ちょうどえぇ、TK原もよぅ聴いとれ。組のことはKN造、おめぇに任せる」


 ST郎はすでに68歳でした。黒めがねの奥で、瞳が微かに動く。


「わかりました。これから出かけますんで、その話はまた、明日にでも」


「おんてゃあ……!!」


 事の重大さに、TK原は「御大」としか言葉を発せない。「拘泥すべきではない」と自ら課してきた「来し方」が、ST郎の脳裏を駆け巡ります。走馬灯。半世紀にわたるヨシユキ組と自分の結末と、まだ見ぬ「行く末」の激しい交錯。


「おい、出かけるぞ」


「はい」


 縁廊の先から届く、KN造とTM子の声を、ST郎は静かに聴いていました。


「遅うなる」


「はい、行っていらっしゃいませ」


 女中たちを後ろに従え「三つ指」で主人を送り出す、というやつです。このスタイルは、父・KN造が脳血栓で倒れるまで変わりありませんでした。1970年代後半の話です。母は出かける父を「行っていらっしゃいませ」と三つ指ついて送り出し、日中・深夜を問わず、帰ってきた父を「お帰りなさいませ」と三つ指ついて迎えていました。さすがに女中たちはもういませんでしたが。


 懐かしい光景。いまもこんなことをやっているのは、ひとにぎりの古典的セレブ層、高級料亭・旅館とか、レトロ感を売りにする風俗だけじゃないでしょうか。


 そろそろ、ST郎の〈残念な〉息子たちの話をはじめようと思います。複雑極まりない(=とんでもない)、ふたりの登場です。


*1 1月30日:宇垣に組閣の大命が下ったのは1月25日。陸軍のクーデターも匂わせる協力拒否を受けて組閣を断念したのが1月29日。なので、第一報が流れたのは1月30日であると判断しました。『二月以後』(若宮卯之助 著/1937年 東方書房 刊)にも、東京で号外が撒かれたのは1937年(昭和12)1月30日と記述されています。


(「御大」弐 御大はつらいよ 了)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ