アイオリア魔法学院入学試験 4
「あはははっ! ダウト、キミ最高!」
無事にS評価で試験を終え、待機場所へと歩いてきたレインハイトを迎えたのは、何故か今にも腹を抱えそうなほど大笑いするヨシュアであった。もしや二度も記録を抜かれたせいで気が狂ったのでは、とレインハイトは危惧したが、少々様子を観察したところ、ヨシュアが抱いているのはどうやらそういった感情ではないらしい。
「どうしたんだ? 俺が何かおかしなことでもしたか?」
「そりゃあおかしいとも! あれだけ大きな魔力許容量を持った魔石を立て続けに三つも高充填状態にしちゃうなんて、もはや意味不明すぎて笑うしか無いよ」
主席候補のヨシュアがこの反応とは、流石にやりすぎたか、とレインハイトの頬に冷や汗が伝う。先程はもうどうにでもなれと自棄になっていたため、加減についてはあまり考えていなかったのだ。
「……俺は魔力量だけには自信があるからな」
「はははっ! あれは自信があるとかそういう次元じゃないでしょ! ……いやあ、こんなに笑ったのは久し振りだ。……ああごめん、最初に祝福するのを忘れてたよ。ダウト、S評価おめでとう」
含むところのない無垢なヨシュアの笑顔を受け、レインハイトは軽く目を見開いた。あれだけの差を見せつけられて、出てくるのが本当に祝福だけとは。もし自分が逆の立場であれば、レインハイトは相手に対する嫉妬と羨望を隠しきれる自信がなかった。
無論、ヨシュアとて魔道を極めんとする魔道師、心中では様々な感情が渦巻いているのだろうが、それを露ほども表に出さないというだけで驚嘆に値する自制心と言えるだろう。むしろ、そのような素晴らしい人間性を持つ彼に対し、逆にレインハイトの方が嫉妬してしまいそうな程であった。
「ああ。……そっちも、A評価おめでとう」
「うん、ありがとう!」
特に深く考えずお返しのつもりで言った称賛だが、取りようによっては嫌味に聞こえるのではないか、と少々心配するレインハイト。しかし、やはりと言うべきか、返ってきたヨシュアの声は実に朗らかなものであった。
「……体調の方は問題ないのか?」
「ん? ……ああ、流石に戻ってきてすぐはちょっと気分が悪かったんだけど、多少は魔力が回復したのか今は大したことないよ。心配してくれてありがとう」
「ヨシュア。お前の見立てだと、確か今日の試験はこれで終わりのはずなんだよな?」
「うん、そのはずだけど……それがどうしたんだい?」
そう問われて、レインハイトは続く言葉をヨシュアに告げるかどうかをしばし逡巡した。これは恐らく「おせっかい」というたぐいのものであるだろうし、認識阻害魔法を使用している身の上では、強く印象を残すような立ち入った行為は避けたほうが良いものであるためだ。
だが、最終的にレインハイトが選択したのは、多少のリスクを負うことは承知の上での踏み込みであった。
「……お前の体調についてだ。魔力は戻っても、酷使した魔力回路はすぐには元に戻らないだろう。明日以降のためにも、今日はできる限り魔力の放出は抑えて、安静にしていたほうがいいと思うぞ」
「え? ……ダウトがどうしてそれを?」
レインハイトに自身の欠陥について言い当てられたことにより、本日初めてかも知れないはっきりとした動揺がヨシュアの目に宿った。
「なに、魔力量には余裕がありそうな割に苦戦していたから、もしかして回路の方に問題があるのではと思っただけさ。単なる当てずっぽうだったんだが、その様子だとどうやら正解だったみたいだな」
軽く肩をすくめながら答えるレインハイト。後半部分に関してはもちろん嘘であるが、正直に話すとかえって拗れると判断したためである。
「……参ったな、キミの前では隠し事なんてできなさそうだ」
レインハイトの嘘に気付くこと無く、ヨシュアは額に手を当て、力ない笑みを見せた。
「知られたくないことだったか? 悪い、少し配慮に欠ける発言だったな」
「いや、気にしてないよ。……それに、隠してたっていずれバレることさ」
「……何か原因に心当たりはあるのか?」
「先天的なものなんだ。今でこそこうしてそれなりに魔力を使えてるけど、幼少の頃は下級魔法すら満足に扱えなくてね。何度ももどかしい思いをしたもんだよ」
そこで一度言葉を切ったヨシュアは、恥ずかしそうに頬を掻きながら「実は、この歳で魔法学院の入学試験を受けているのも、それが原因だったりするんだ」と告白した。
「そうか……順風満帆そうに見えて、意外と苦労してきたんだな」
「まあ、それなりにね。……でも、だからといって同情するのはよしてくれよ? 確かに昔は自分の体を呪ったこともあったけど、今ではあの時の経験があったからこそ現在の自分があるんだと思うようになったんだから」
と片目を瞑って冗談っぽく告げるヨシュア。苦労話を聞かされ若干陰鬱な気分になっていたレインハイトは、これ幸いとすぐさまその態度に乗っかることにした。
「同情だと? ハッ、笑わせるな。二つの試験をどちらもA評価で切り抜けた奴のどこに同情すれば良いんだ?」
「あはは、それは確かに言えてるけど、どちらもS評価のキミに言われても嫌味にしか聞こえないよ」
「フッ……違いない」
顔を見合わせたレインハイトとヨシュアは、お互いの芝居がかったやり取りについに堪えきれなくなり、どちらからともなく笑い出した。
「――お二人とも、いつの間にそんなに仲が良くなったんですか?」
と、そこに柔らかな女性の声が一つ投げかけられた。レインハイトとヨシュアが揃って声の主の方に目を向ける。
「やあ、イリーナさん。試験はもう終わったの?」
「はい。結果はB評価止まりでしたけど……」
しゅん、と長い耳を力なく垂らしながら答えるイリーナ。この場にそれよりも下のC評価に終わった者が居ることを忘れているのだろうか。
さり気なく聞き耳を立てていた偉そうな少年が、イリーナの結果を聞いた瞬間見えない何かに刺されたようなリアクションを取った。哀れな……とその様子を目にしたレインハイトは偉そうな少年に同情の視線を向ける。
「充分な好成績じゃないか。気にすること無いよ」
「ありがとうございます、ヨシュアさん。……でも、お二人に比べると見劣りしてしまう成績なので」
ヨシュアとレインハイトを交互に見つめ、イリーナは自信なさげにそう答えた。
「僕が実際に試験を受けているところを見ただろう? 確かに結果はA評価だったけど、あれはギリギリのところで運良く取れただけのものさ。そう考えれば、イリーナさんとそう変わりない成績だと思うよ」
ヨシュアはそこでレインハイトの方へ目を向け、少し困ったような笑みを浮かべながら続けた。
「ダウトの成績とは……まあ、無理して比べることはないだろう。今回は運がなかったと思って、僕たちは明日以降の試験で挽回を目指そうじゃないか」
「そ、そうですよね! 魔力がたくさんあるからって、魔法技術の方まで優れているとは限らないですからね!」
「その意気だよイリーナさん、お互い頑張ってダウトの鼻を明かしてやろうじゃないか」
「はい! 頑張ります! ……ダウトさん、私、負けませんからね! むむむむむっ」
ヨシュアの言葉によって闘志を燃やすイリーナが、くりくりとした丸い目でまっすぐにレインハイトを見つめる。
「……そのような視線を向けられても困るんだが」
「ダウト、僕も明日は負けないからね」
イリーナの扱いに困っているレインハイトの横から、楽しそうに笑うヨシュアが更に畳み掛けた。こちらはイリーナとは違い半分冗談という感じの態度だ。
「はぁ……勝手にしろ」
真面目に相手をする気も起きず、レインハイトは疲れたようにそうあしらうのだった。
◇
その後、最終組であるレインハイト達の試験はつつがなく終了し、レインハイトを含めた特別枠の十五名の少年少女は、引率のアリアから明日の試験予定などを軽く聞かされた後、まだ試験を受けている一般枠の受験生達に先んじて解散となった。
ヨシュアやイリーナを始めとする特別枠の面々は、明日に備えて休息を取るためか、早々に王都内の宿に消えていった。
レインハイトはヨシュア、イリーナと軽く別れの挨拶を交わしつつ、彼等全員が魔法学院の敷地内から居なくなるのを待ってから、こそこそとクラヴィスの待つ院長室を目指して移動を開始した。試験が終わったら部屋に来るようにと、クラヴィスから事前に言われていたためだ。
「……今更だけど、あの野郎に良いように使われすぎてないか? 俺」
視界の先に見えてきた院長室を睨みつけ、レインハイトはそう漏らしながら深くため息をつく。当てつけにノック無しで部屋に突入してやろうと考えたレインハイトは、目前に迫った院長室のドアノブに手を伸ばすと、まるで自室へと帰る者のような気軽さでドアを開け放った。魔法によって気配を完全に断った上での行動であるため、魔力感知に優れたクラヴィスでも完全に不意打ちとなるだろう。
「呼ばれてきてやったぞ」
「……おや? ……これはこれは、お待ちしていましたよ、レインハイト殿。……ささ、そんなところに立っていないで、こちらにおかけください」
レインハイトの横柄な態度を気にもせず、機嫌良さげなクラヴィスは弾むような口調でレインハイトにソファを勧めると、前回訪問した時と同じく魔法具のティーポットを起動してお茶を淹れる準備を始めた。
不意を突くこと自体はできたようだが、期待していたほど大きな反応が得られず拍子抜けしたレインハイトは、ふんと軽く鼻を鳴らしてからクラヴィスの指し示したソファへと進み、腰を下ろした。
「いやあ、先程の試験では素晴らしい活躍でしたね。やはりあなたに依頼したのは正解でした」
「そいつは良かった。……俺は依頼を受けたことを後悔しているがな」
「まあまあそう言わずに……無事に依頼を完遂していただいた暁には、部屋の提供とは別に報酬金もお支払しますので」
クラヴィスから突如として飛び出した『報酬金』というワードに、気怠げだったレインハイトがピクリと反応する。
「……マジで?」
「もちろんマジですとも。それでレインハイト殿にやる気を出していただけるなら安いものです。……そうですね、レインハイト殿がヨシュア君よりも上の成績を収める度に、各試験ごとトーレ金貨を一枚づつお支払しましょう。本日は既に二回成功していますので、現段階での報酬は金貨二枚となりますね」
「試験ごとに金貨一枚!? や、やけに太っ腹じゃないか……」
突如舞い降りた儲け話に打って変わって色めき立つレインハイト。四半金貨や半金貨などではなく、通常のトーレ金貨ともなれば、それ一枚でも銀貨にして四十枚程度、大銀貨にして十五枚ほどの価値を持つ高額な貨幣である。
魔法の研究費用でかさんだ出費により常に金欠気味なレインハイトにとって、この臨時収入は慢性的な金銭問題を解決し得る一種の光明であった。
「いえいえ、レインハイト殿ほどの魔道師に依頼をするのですから、部屋の提供だけでは釣り合いが取れないと思ったまでですよ。それに、成果を上げたものにはそれ相応の報酬を渡すのは当然のことです」
「……なるほど、良くわかった。お望み通り、明日以降も全ての試験を最高成績で突破してやるよ」
自信満々に言い切ったレインハイトの両目が、完全に金に目がくらんだ者のする目になっていた。いとも容易くクラヴィスにうまく丸め込まれてしまった形だが、レインハイトには既に報酬金のことしか頭になく、金貨を得られるのならなんでも良いと半ば思考停止してしまっていた。
「フフ、ありがとうございます。実に心強いお言葉ですね。……では、明日以降もレインハイト殿には頑張っていただくとして――」
そこでフロードは一度口を閉じ、一拍置くことでレインハイトの頭を少々冷静にさせてから、続きの言葉を告げた。
「――ところで、少し話は変わるのですが……レインハイト殿、本日宿泊する場所は決まっていますか?」
「宿泊? ……ああ、試験は三日間続くんだったか」
一瞬なんのことかと首を傾げるレインハイトだったが、すぐにクラヴィスが何を言いたいのかを理解した。入学試験は三日を通して行われるのだが、現在レインハイトは白髪に眼鏡のダウトという架空の少年に変装しており、今まで通りシエルの寮室に戻って休むわけには行かないため、他に寝床のあてはあるのかと言いたいのだろう。
「忘れていた。特に決めてない」
宿のことなどすっかり頭から抜けていたレインハイトは、正直にクラヴィスにその旨を話した。
「そうですか……困りましたね。この時期は他の受験生達の予約でどこの宿も埋まっていますから、今から宿を取るのは難しいでしょう」
「では、試験が終わる度に髪色を元に戻すってのはどうだ?」
色が抜け落ちたように変色した自身の白髪を指差しながら、レインハイトはクラヴィスに尋ねた。
「申し訳ありません。もともとあの魔法薬はワンセットしか用意していなかったので、予備は無いのです。同じものを取り寄せることもできなくはないでしょうが、今からでは明日に間に合わせるのは難しいかと」
「そうか……なら、学生寮の空き部屋を貸してもらえないか?」
「空き部屋ですか? ……ないことはないですが、寮には学生が多く居るので鉢合わせてしまう危険があります」
「そりゃそうなるよな……仕方ない、今から街で宿を探してみて、無ければ最悪今日は屋外で夜を明かそう」
睡眠時に横になることを嫌い、野宿を経験したこともあるレインハイトは、寝床に特にこだわりはなかった。基本的に常に座った状態で眠りにつくため、どこで寝ても同じであろうというのが彼の考えである。
因みに、そのような睡眠法を日常的に繰り返しても特に起床時に気だるさや疲労の残りなどは見られず、生活に支障はまったくなかった。
もっとも、レインハイトはこういった異常な点が見つかる度に、自身が化物であるという証拠が増えていくような気がして少し憂鬱な気分になるため、精神的には多少の疲労は溜まっているのかもしれないのだが。
「いえ、私の依頼によって生じた不都合なのですから、依頼主として、レインハイト殿にそのようなことはさせられません。……少し待っていてください」
そう言って素早くソファから立ち上がったクラヴィスは、話は終わりだとその場から立ち上がろうとしたレインハイトをその場に留めると、院長机の引き出しの中を漁りだし、やがて何かを手に持って元の場所へと戻ってきた。そして、右手に持っていた物をテーブルに置くと、クラヴィスはそれをレインハイトの方にスライドさせる。
「こちらをお取りください」
クラヴィスが差し出したのは、金属製の鍵であった。形状と大きさからして、どこかの扉を開けるためのものだろう。
「……この鍵は?」
「図書館の近くにある空き部屋の鍵です。ソファくらいは置いてあったはずですので、ご自由にお使いください。……しばらく使われていないので多少埃が溜まっているかもしれませんが、まあレインハイト殿なら魔法でどうとでもできるでしょう?」
◇
――と言う経緯があり、
「……よし、近くに人の気配は無いな」
そして現在。周囲を気にしながら足音を立てずに歩く怪しげな白髪眼鏡の少年――ダウトことレインハイトは、試験前にしたクラヴィスとの会話の内容を思い出しながらアイオリア魔法学院の校舎を歩いていた。
普段のレインハイトであれば学院内を歩くのにこれほど細心の注意を払う必要はないのだが、現在は入学試験を受けに来た受験生ダウトに変装しているため、事情を知らぬ他人に見られて不審に思われないよう気を配っているというわけである。
なんだか潜入ミッションみたいで少し楽しいな、などと心中で呟きながら、索敵能力に自信のあるレインハイトは余裕の表情でサクサクと院内を歩いて行く。
「確か、奥から三番目って言ってたよな……この部屋か……?」
呟きながら、レインハイトはクラヴィスから受け取った鍵を目の前の扉に差し込み、ゆっくりと回転させた。ガチャリという解錠の音が小さく鳴ったのを確認すると、一気に扉を開け放つ。その瞬間、密閉されていた差し渡し十メイル程度の部屋の内部から埃っぽい空気が漏れ出し、レインハイトの体を撫でつけた。
一見、周囲を警戒している割に中に人がいる可能性を考える素振りが無いという矛盾した行動に見えるが、部屋の内部は既に『観測方陣』の魔力探知により誰も居ないことがわかっていたため、その心配はする必要が無いのだ。
「……あの野郎、何が『ご自由に使ってください』だ。人をこんな埃まみれの部屋で寝泊まりさせる気かよ」
恩着せがましい態度で話していたクラヴィスの姿を思い返し、レインハイトは苛立ちを言葉にして吐き出した。しかし、当然だがそのような悪態をついたところで事態は何も進行せず、吐いた怨念がクラヴィスに届くこともない。ただ虚しいだけである。
「……とりあえずこの埃をなんとかしないとな」
なんだかやるせない気持ちになったレインハイトは、ため息を一つつくと部屋の奥に向かって歩き出した。奥の窓を開放し、換気を行うためである。
「『呼出』――Wind−02」
窓を開けたレインハイトは、続いて《魔法の門》の機能を利用した独自の詠唱魔法である速記魔法を起動した。
呼び出された緑色の魔法陣は、空気を制御する風の属性魔法『気流操作』のものだ。魔法が室内の空気に干渉し、積もり積もった埃を巻き上げては窓の外へと吐き出していく。無論、外に人がいないのは既に確認済みだ。
埃よりも体積の大きなゴミなどは窓から捨てる訳にはいかないため、レインハイトはそれらを選別し、一箇所にまとめるという処理を魔法に組み込む。ここまで指示すれば、あとは制御を手放しても《魔法の門》内の『魔法を制御する魔法』の集合体である制御演算処理法陣が独自に魔法を操り、完璧に部屋を掃除してくれることだろう。
無風だった室内に突如として気流が生まれた事で部屋中に埃が充満したため、通常であれば一度部屋を出るべき状況であるが、レインハイトは気にもせずに平然とその場に居座っていた。よく見てみると、彼の周囲だけは何故か埃がなく、澄んだ空気が流れているという奇妙な光景が広がっている。これは彼が“常駐起動させているある魔法”によって、周囲に流れる埃を含んだ空気を防いでいるためだ。
その魔法の名は『作為された標準』。様々な魔法が組み合わさった、現状ではレインハイトだけが扱うことのできるオリジナルの多重魔法だ。
魔法の効果は、指定した空間内を予め定義した状態に作り変え、それを保ち続けるというものであり、動作範囲の温度管理を始め、埃やガス等の空気中の異物の除去や、光量の調整など、多種多様な要素を管理するという非常に便利な機能を複数備えている。
加えて、他の多重魔法と同じく制御の大半を制御演算処理法陣に委任しているため、人間の制御では到底不可能であろう元素レベルでの空間管理が可能となっている。デフォルトではレインハイトが活動する上で最低限必要な空気中の元素のみを存在させるように設定されているため、突如として人体に害のあるガスを吹きかけられたり、空気中の成分が変化したり、万一の事故で有毒ガスなどが多量に含まれる空間に飛び込んでしまったとしても問題なく呼吸を続けることができるという凄まじい性能を持っているのだ。常日頃から自己防衛を心がけているレインハイトの趣味全開――もとい、渾身の独自魔法である。
「……ふう、こんなもんか」
その後、『気流操作』の他に幾つかの浄化系の魔法を使用したことで、クラヴィスにあてがわれた部屋は最初の姿とは見違えるほどの清潔さを取り戻していた。今なら床に直接寝転がっても汚れることはないだろう。
人力で掃除をしていればこうは行くまい。レインハイトは魔法が使えなかった数年前の自身を思い出し、薄く笑みを浮かべた。
「さて、この後はどうしようか……って言ってもこの格好で出歩くわけには行かないし、できるのは《魔法の門》のメンテナンスくらいしか――」
顎に手を当て、うつむきがちに独り言を漏らすレインハイトは、そこまで呟いたところで何かを思い出したかのように顔を上げた。
「――そうだった。いい加減自然魔法に使う魔力の不足を解決しないとな」
レインハイトが生成する特殊な魔力――この世界の法則から外れた理外の魔力は、絶対の法則である『世界の干渉抵抗力』を無視するという唯一無二の特性がある。しかし、それと同時に、理外の魔力単体では無属性魔法を含めたほぼ全ての魔法の起動を行うことができないという弱点を持っているのだ。
そのため、レインハイトはついこの間まで、吸魔という特殊な例を除き一切の魔法を使用できず、今も他者の魔力を利用しなければ自然魔法を使うことができないという慢性的な魔力不足に陥っていた。常駐起動型魔法が増えてきたこともあり、いい加減ちまちまと他者から吸魔で魔力を奪うという方法からは卒業したいところである。
自身の持つ理外の魔力であれば使っても使い切れぬほど湧き出てくるというのに、難儀なものだ、とレインハイトは小さく嘆息する。
「とは言え、解決法に心あたりがないわけでもないんだが……あの魔法はまだ安定しないんだよな」
呟きつつ、レインハイトは脳裏にその“解決法”とやらを思い浮かべる。吸魔の持つ魔力変換機能、その術式の一部を抽出することで、レインハイトは既に魔力不足を解決する画期的術式を半ば作成し終えていた。
しかし、それで全てが丸く収まるほど現実は甘くなかった。理論上では問題がないはずなのだが、開発した魔法はどうしても安定した動作を保つことができなかったのだ。
「恐らく原因は単純なデータ不足だ。どこかで大量の動作データさえ手に入れば、術式の改善箇所が割り出せると思うんだが……」
頭を悩ませつつひとりごちるレインハイトは、その悩みのタネである魔法の設計図――魔法陣を左手の《黄金の円環》から出力されたディスプレイに映し出し、睨みつけた。
最初からわかっていたことではあるが、魔力とは宿した人物によって全く違う波長を持っているため、実験をしようにも毎回サンプルが変わってしまうことにより、安定したデータを取ることができないのである。
そこでレインハイトは、様々な種類の魔力を使用しての大規模なテストを行い、大量のデータを得ることでどのような魔力にも対応可能な術式を作り上げるという方法に希望を見出したのだが、現状ではそのような大きな実験を行えるほど資金にも他者の魔力にも余裕がなく、残念ながら問題解決には至れていないというわけであった。
「クソ……俺もあの野郎みたく金持ちだったらなあ……」
いけ好かない笑みを浮かべるクラヴィスの顔を思い出しながら、彼との圧倒的経済格差を憂うレインハイト。理不尽に打ち勝つ最強の存在を目指し、『魔法』という技術に手を伸ばしたところまでは良かったが、まさか魔法の開発にここまで資金が必要になるとは思ってもいなかったのだ。
アトレイシアの第二の騎士、ジョーカーとしての収入もあるにはあるのだが、雇い主であるアトレイシアには、現在のレインハイトの強力な武器となっている《魔法の門》、その根幹を成す国宝級の魔道具《黄金の円環》を無料で譲ってもらったという多大な恩義があるため、レインハイトは自ら申し出て給金を低めにしてもらっていた。
無論、それでも平民であるレインハイトからすれば充分すぎるほどの金額にはなるのだが、しかし、現在彼にはおいそれとその資金を使えない理由があった。それは、エルフの村で世話になったシエルの父、フェアリード家の家長であるエリドに渡された資金を返却するためである。
もっとも、エリドに渡された資金はあくまでシエルとレインハイト二人分の生活費として持たせてもらったものであり、当然ながらレインハイトに返済義務のある借金というわけではない。エリドを始めとするフェアリード家の面々も、村に戻ってきたレインハイトが銅貨一枚も返済しなかったところで誰も気にすることはないだろう。
だが、彼等フェアリード家は、金も、行くあても、果ては自らの記憶すらもなかったレインハイトに快く居場所を用意し、衣食住の全てを保証してくれただけでなく、更には纏魔術という、危険の多い世界で生き残るための術までも教えてくれたのだ。もはや命の恩人と言うだけでは足りないほどの存在である彼等に対して、せめて渡された資金を返すくらいのことをしなければ再び顔を見せることはできないだろう。レインハイトにもそれくらいの意地はあるのだ。
とまあそのような理由があり、レインハイトは自身が働くことで得た報酬は貯金することにしているので、少なくとも返却分の金額がたまるまでの期間はそちらの資金に手を出す訳にはいかないのである。
「うーん……金持ち……金持ちか」
いったいどうしたものか、と唸るレインハイトの脳裏に、天啓のごとく一つのアイデアが浮かんだ。
「――そうか、何も俺が直接金を出す必要はないんだ。裕福な第三者に興味を持たせて、実験費用を出させれば問題は解決するじゃないか」
得意げな笑みを浮かべたレインハイトは、すぐさま湧いてきたアイデアを形にすべく計画を立て始めた。金を持った第三者――つまりクラヴィスが興味を示すような実験のプレゼンを行い、情報を提供する代わりに出資をお願いするというわけである。《魔法の門》に興味津々だった彼ならば、魔法実験の情報という餌に簡単に飛びつくだろう。
「よし、さっさと明日以降の試験を終わらせて、クラヴィスの野郎に金をせびりに行くとするか」
今後の方針が決まったことで上機嫌になったレインハイトは、『開門』の魔法で『異次元空間』内から果物や干し肉等の食料を取り出すと、それらをつまみながら明日の試験に備えて《魔法の門》のメンテナンスを行い、部屋に引きこもったまま夜まで時間を潰していった。
◇
翌日の朝、アイオリア魔法学院の校門前には土属性の自然魔法で作られたと思われる大きな土壁ができており、その周囲に、前日の試験に参加した受験生たちが群がっていた。
上部に『一次試験通過者』という大きな文字が書かれたその壁には、白い塗料で大量の番号が記されており、それらは前日に行われた試験の通過者を示しているようだ。数は大体五百前後だろうか。昨日の参加者の数から計算して、半分以上は振り落とされたことになる。
結果を見て落胆する者と歓喜する者、両極端な反応を見せる受験生たちは、通過者は奥の校庭の方へ、失格者は受験票を受付に返却して帰路につくと言う形で次々に仕分けられていく。
それを視界に収めながら、白髪に眼鏡をかけた架空の少年ダウトに変装したレインハイトは、他の受験生たちに紛れて壁に書かれているだろう自身の受験番号を探していた。
「おかしいな……無いぞ……」
壁の数字は正面から見て左上から番号が若い順に並んでいるようなのだが、おかしなことに、レインハイトの受験番号である十三番という数字は見事に飛ばされており、どこにも見当たらないという状態であった。
前日に出したあの成績で落ちていることは流石に無いだろう、と心中で自身を落ち着かせるレインハイトだったが、それでも自分の番号が見当たらないという事実は着実にレインハイトに焦りを与えてくる。
「ダメだ、何回確認しても見つからない。やっぱり運営側のミスなのか……?」
「おはようダウト。そんなところで何をしているんだい?」
何やらぶつぶつと呟いていたレインハイトは、背後からかけられた声の方に振り返った。爽やかな声の主は、琥珀色の髪が特徴の眼を見張るような美少年、ヨシュアであった。
「ああ、ヨシュアか……いや、どういう訳か俺の番号が壁に書かれてないんだよ」
「番号? ……あー、ダウト……昨日引率してくれた先生の説明ちゃんと聞いてなかったでしょ?」
一瞬、何のことかわからず首を傾げたヨシュアだったが、すぐにレインハイトの言わんとしていることに気づき、呆れたような声音でそう訪ねた。
「は? ……まあ確かにところどころ聞き流していたのは事実だが、それがどうかしたのか?」
「やっぱり……あの大壁に書き出されている番号は一般枠の受験生のものだから、僕達特別枠の受験生の番号は無くて当たり前なんだよ。昨日先生がそう説明してくれたじゃないか」
「何? 完全に聴き逃してたな……じゃあ俺たちの番号はどこに書かれてるんだ?」
心の中で引率をしていたアリアに謝りつつ、レインハイトはヨシュアに尋ねた。
「あの隣りにある小ぶりな掲示板だよ。今は人が集まってて見えづらいけど……まあ、心配しなくても、ダウトは絶対に合格してると思うよ」
「……俺も十中八九問題はないと考えているが、しかし、現実に絶対なんてものは存在しないんだ、実際にこの目で確認してみるまで結果はわからないだろう」
ヨシュアが指差した掲示板の方へ共に向かいつつ、レインハイトは持ち前の慎重さを発揮してヨシュアに反論した。
「あはは、確かにそうだけど……ダウトって意外と心配症なんだね」
「そこは慎重な性格だと言ってもらいたいな。……と言うかお前、ちょっと馬鹿にしてないか?」
「ははっ、そんなことないさ、気のせいだよ。――っと、ほら、僕達の番号はあそこだよ。……良かった。十五人分あるから、特別枠は全員合格してるみたいだ」
笑みを浮かべるヨシュアを半眼で睨みつけつつ問いかけたレインハイトだったが、ヨシュアはそれを軽く流して話題を転換した。
少し釈然としないレインハイトだったが、自身の番号を確認することのほうが優先順位が高いと判断し、ヨシュアの追求を諦めて掲示板の方へと目を向けた。『一次試験通過者(特別枠)』と書かれたその掲示板には、確かにヨシュアが言った通り一番から十五番までの番号があり、レインハイトの受験番号である十三番もしっかりと記載されていた。
「ね? 心配なかったでしょ?」
嬉しそうな笑みを浮かべたヨシュアが、隣に立つレインハイトの顔を覗き込む。
「フン、結果論だな」
「あはは、強情だなあ」
鼻を鳴らして校庭の方へ歩みをすすめるレインハイトに、楽しげに笑うヨシュアが続く。
何はともあれ、レインハイトは無事一次試験を通過し、二次試験へと駒を進めたのだった。




