王女派の反撃
その数日後、アスガルド王国王都アイオリアにそびえ立つ長大な建造物、王侯貴族の住まう王城のある一室にて、レインハイト――もとい、黒衣の魔道師ジョーカーはとある人物に交渉に来ていた。
「……シエルさんとの共用ではなく、自分用の部屋が欲しい……ですか」
呟いたのは、レインハイトの雇い主であり、この部屋の主。アスガルド王国の第一王女にして、美しい金髪を持った絶世の美女、アトレイシアである。周囲には他に人影はない。
「ダメでしょうか?」
レインハイトはジョーカーとして動く際には常に身につけている白黒の仮面を外しており、その口調はプライベート時の砕けたものであった。
それもそのはず、本日のアトレイシアへの訪問は、彼女からの要請ではなく、レインハイト個人の独断によるものであったからだ。ジョーカーとしての装束に身を包んでいる理由は、王城に足を踏み入れる以上、万が一第三者に目撃された際に面倒事にならないようにというレインハイトの保険である。
客観的な視点から見れば、アポイントもなくいきなり王女の部屋に押しかけるという行為はいくら彼女の騎士とは言えども完全なる暴挙であり、到底許されるものではない。だが、見つかりさえしなければどうということはないのである。
先日の魔法学院侵入時と同じくして、レインハイトは《魔法の門》の力で王城の厳重な監視の目をくぐりぬけ、こうして何人にも発見されること無くアトレイシアとの接触を成功させている。少々魔力の消費が激しいためあまり連発できるものではないが、部屋に至るまでに通過した侵入感知系の魔法具等にも一切の痕跡を残していない。
つまり、レインハイトがその気になれば、誰にも気付かれること無く王城に住まう王族全員の暗殺を行うことすら可能というわけだ。
無論、彼自身にそんなことをするつもりは一切ないわけであるが。
「いいえ、問題ありません。空き部屋なら多少はあるでしょうし、私から学院長に頼んでみましょう」
「ありがとうございます! いきなり押しかけて無理言ってすみません」
「お安い御用です」
うふふ、と口元に手を当て上品に笑うアトレイシア。しかし、その心中は穏やかではなかった。だが、それはレインハイトに突然訪問された件に対して気分を害したというわけではなく、全く別の要因がもたらしたものである。
(……レインの話を聞く限り、今まではレインとシエルさんは同じ部屋で生活していたということなのですか!? もう二人とも十五歳くらいになっているはず……これは、一刻も早くレインに部屋をあてがわなければなりませんね! むしろ、王城に住まわせてしまうというのもいいかもしれません!)
たまたま浮かんだ案だが、よく考えてみれば実に合理的なアイデアではなかろうか。レインハイトは自身の部屋がもらえ、王城内に住んでいればジョーカーとしての仕事を行う際も動きやすく、アトレイシアも今よりは遥かに手軽にレインハイトに会いに行くことができる。二者ともに両得という素晴らしい妙案である。
「その……これはもしレインが良ければの話ですが、いっその事、この王城に住んでしまうというのはいかがですか? 私個人の使用人としてなら部屋をあてがう事もできるでしょうし、そうすればジョーカーとしても動きやすいでしょう?」
「なるほど……確かにそれはいい案かも知れないですね」
早速思い浮かんだプランを披露したアトレイシアは、肯定的な返答をするレインハイトに目を輝かせ、一歩近づいた。
「で、でしたら――」
「ですが、すみません。俺はシエルが学院を卒業するまで、あいつの側で面倒を見るって決めているんです。申し訳ないですが、王城から学院までは少し距離が開きすぎているので……」
だが、レインハイトの目的はあくまでシエルを見守ることである。彼女が学院を卒業した暁にはそうするのもいいのかもしれないが、現状ではなるべく彼女の近くで生活したいというのが本音であった。
「――そうですか。それなら、仕方がないですね」
「わがままばかり言ってすみません」
「レインが気にすることはありませんよ。普段は私のほうが迷惑をかけているのですから」
自身の提案を断られ、少しばかり悄然とするアトレイシアだったが、それを表に出すことはしなかった。なにせ、レインハイトを王城に住まわすことはできないにしても、シエルとの同居生活はこれで防ぐことができるのだ。自分と同じくレインハイトに好意を抱いているであろう彼女には悪いが、その事実さえあれば溜飲も下がるというものである。
「迷惑だなんて、そんな風に思ったことはないですよ。それに、対価も頂いてますからね」
体面上は王女専属の騎士として叙勲式まで行ったレインハイトだったが、彼自身はただの平民であり、王国の騎士団にも魔道師団にも所属していないため、その実態はアトレイシア個人に雇われる傭兵という扱いだった。そのため、レインハイトは月ごとにアトレイシア個人から給金を支給してもらうという契約を結んでいるのである。
それ故に、王立騎士団のいち部隊である『ヴァルキュリア』の隊長を務め、レインハイトと同じくアトレイシアの騎士としても活動しているオーレリアとは所得の差がかなり開いているのだが、この雇用形態はあまり権力に縛られたくないという理由からレインハイト本人が望んだものであるため、彼自身に不満は一切なかった。
むしろ、シエルの使用人として学院に住まわせてもらっているため宿代や食費の工面には心配がなく、仕事を始めた際の当初の目的の一つであった《魔法の門》の運用コストに充てる予定であった費用も、アトレイシアから賜った超高性能魔法触媒である《黄金の円環》の存在によってほぼゼロとなっているため、レインハイト本人としては十分すぎるほどの給金であると思っているくらいだった。シエルの父であるエリドに返す予定の借金もじきに用意できるだろう。
「……ああ、迷惑といえば、この前捕らえたはた迷惑な刺客達の尋問はどうなったんですか?」
迷惑、と言う言葉から連想したのか、レインハイトは先日のおとり作戦にてまんまと引っかかった、アトレイシア暗殺を目論む王子派の回し者達の話題に触れた。
「……その件ですが、レインにお伝えしなければならないことがあります」
「……? 何ですか? 急に改まって」
「私もつい昨日知ったのですが、件の襲撃者達は、その六名全員が拘束されていた地下牢にて惨殺死体で発見されました」
「な――ッ」
アトレイシアからもたらされた情報は、レインハイトを驚愕させるには十分な内容であった。
「殺されたということですか……? 一体誰に……?」
「犯人は現在調査中とのことですが、全ての遺体には鋭利な刃物で切り裂かれたような傷が無数に刻まれていたそうです。私の暗殺を企てた者たちに対して言うべき言葉ではないかもしれませんが……抵抗できずにそのような惨い殺され方をしたのだと思うと、彼等が不憫で心が痛みます」
「確かに後味は悪い結末ですね。……尋問の結果はどうだったんですか? 奴等、殺される前に何か吐きました?」
「ええ……彼等を裏で手引していたのは、数年前から王女派に資金援助をしてもらっていたヴィルザール子爵だったようです。いつ頃から王子派に内通していたのかは不明ですが……もしかしたら最初からそのつもりで近づいてきたのかもしれませんね」
アトレイシアは悲しげに目を伏せた。そう多くはないものの、アトレイシアはヴィルザール子爵と顔を合わせ、話をしたこともあったのだ。それほど親密な仲ではないとは言っても、決して気持ちのいいものではないだろう。
ヴィルザール子爵こと、ハロルド・フォン・ヴィルザール。その人物こそ、先日の襲撃事件を含め、アトレイシアをしつこく付け狙っていた犯人だったらしい。調べによると、どうやらレインハイトとアトレイシアが出会った際の事件にも関与していたようだ。
おびき出し作戦で捕らえた襲撃者のリーダー格の男、カル・レナートにレインハイトが独自に行った尋問で上がってきた名前も同じものであったため、恐らくそれは事実なのだろう。
「そして、そのヴィルザール子爵も――」
「――殺されていた。それも、襲撃者の六人と同じような傷を負った状態で発見されたと」
「その通りです。レイン、知っていたのですか?」
「いえ、ただの予想ですが……どう考えても、あからさまな蜥蜴の尻尾切りですからね」
まるで見てきたかのような正確な状況把握をしているレインハイトに目を丸くし、アトレイシアはそう尋ねたのだが、どうやらそうではないらしい。
確かに、言われてみればその通りであった。リスクを負った作戦で捕縛した襲撃者たちを尋問し、王女派がようやく掴んだ尻尾であるヴィルザール子爵という存在。それを王子派が自らの手で切り捨てることにより、それ以上の情報が漏れ出すことを防いだと考えるのが最も自然だろう。
アトレイシアの反応から察するに、レインハイトの予想通り遺体の傷が他の襲撃者たちのものと同じものだったというのは間違いない事実なようだ。そのことから見ても、同一人物の犯行である線が濃厚だろう。
「それだけ焦って手がかりを消しに来たということは、恐らく王女派内部に王子派の内通者がまだいるってことなんでしょうね。……あまりうろちょろされるのも面倒ですし、いっその事、一斉摘発でもしてしまいましょうか?」
「一斉摘発って……そんなことが可能なのですか?」
「ええ、できますよ」
対象と接触さえできればね、と付け足し、レインハイトはこともなげに肯定した。
「それは、一体どのような方法で見つけ出すのですか?」
「全員に直接聞いてやればいいんです。貴方は王子派の内通者なのですか? ってね」
不敵に笑みを浮かべながら、レインハイトは左手首につけた腕輪――《黄金の円環》に視線を向けた。アトレイシアから賜ったそれは、アスガルド王家に伝わる宝具の一つであり、どれほどの魔力を注いでも決して壊れないと言い伝えられている。
レインハイトは《黄金の円環》のその特性を利用し、膨大な魔法を管理、制御する常駐起動型多重魔法――《魔法の門》の行使に耐えきる触媒として重宝しており、腕輪の表面に刻まれた漆黒のラインには目も眩むような数の魔法が内包されている。
その中には、術者の周囲を監視する魔法や、あらゆるものを飲み込む魔法、そして、対象の感情を読み解く魔法というものも存在しており、それを使用すれば、王女派内部の密偵を簡単にあぶり出すことができるだろう。
「直接聞く、ですか。本当にそれで素直に答えてくれるならば苦労は……あ、以前レインが使っていた心を読む魔法を利用すれば――」
「そういうことです」
得心がいった様子のアトレイシアに、レインハイトはにこやかに肯定を返した。以前、アトレイシアはレインハイトが持つ『他者の心を読む魔法』を目の当たりにしているため、その答えにたどり着いたのである。
「確かに、レインの協力があれば間者の割り出しは可能でしょうが……よろしいのですか? 確か、レインは自分の魔法をあまり他人に見せたくないのですよね?」
レインハイトの主力魔法である《魔法の門》は、彼の持つ特異な魔力の特性を利用して構成され、現状ではレインハイト以外には扱うことができないという状態である。そのような背景を持ち、従来の常識から外れた挙動を見せる魔法なので、レインハイトは無用な厄介事を避けるためにその存在を出来る限り秘匿するように立ち回っているのだ。
その事情はレインハイトがアトレイシアと護衛の契約を交わした際に伝えてあったため、彼女はそれを心配しているのだろう。
「そうですね、もちろん極力人目につかないようにしたいというのはありますが……その点については、少し考えがありますから、恐らく大丈夫だと思いますよ」
「……?」
流石に今度はレインハイトの発言の意図を掴みかねたのか、小首を傾げるアトレイシア。そんな彼女に、レインハイトは薄く笑みを浮かべた。
「まあ、種明かしは当日のお楽しみということで」
◇
「アトレイシア様、して、本日はどのようなご用件で?」
ベルード・フォン・ドルーチェは、訝しげに眉をひそめながら、アスガルド王国第一王女、アトレイシアに尋ねた。
国王に割り当てられた領地にある本邸とは別の、王都内に存在するベルードの別邸。差し渡し五、六メイル程度の客室。そこには、白金に輝く髪を持つアトレイシアと、この家の主、貴族にしては少々貧相な体つきの中年男性ベルード、そして、王女の護衛と思われる犬獣人の女性騎士の三人のみが存在していた。
獣人の護衛が一人だけとは、珍しいこともあるものだ、とベルードは落ち着き無く周囲を見回している女性騎士をちらりと盗み見た。恐らく今年兵になったばかりの新人なのだろう。一瞥しただけでも既に若干頼りない感があるが、獣人であるからには聴覚、嗅覚に優れ、加えて身体能力も高いことだろう。通常の人族が多い王都では少々目立ってしまうという欠点はあるが、護衛にはうってつけの人材である。
実際はもう一人王女の護衛らしき人物がいたのだが、素顔を隠すように目深にフードを被った怪しげなその護衛は、王女の指示なのか、部屋に入ること無く扉の外で待機しているようだった。
女性騎士の方とは違い、それなりに場数を踏んでいそうな落ち着いた雰囲気を纏っていたが、あのような人物など、果たして王女が動かせる兵の中に存在しただろうか、とベルードは頭の片隅で考えつつ、質の良い四人がけのソファに座るアトレイシアの碧眼を見つめた。
「ええ、皆さんにちょっとした確認をさせてもらっているのです。ドルーチェ男爵」
皆さん、とは、王女派に所属する貴族達のことだ。ベルードは、既にアトレイシアが王女派を支援する貴族達を訪問して回っているらしいという情報を入手していた。
それというのも、一週間ほど前、アトレイシアは、王都に滞在している王女派貴族たちに招集をかけ、何やら会合を開いたらしいのだ。よほど勘の悪い者でなければ察しはつくだろうが、その目的は先日起きた王女襲撃事件の犯人探しだろう。
実際にそこで何が話し合われたかは今のところ不明だが、その後、今現在王都に居ながらも何かと理由をつけて会合を避けた王女派貴族達の元へ、アトレイシア王女が直々に訪問しはじめたらしいのだ。
そして、当のベルードも、一週間前の会合の誘いを無視した王女派貴族の一人であった。
「先日の会合に参加できなかった件についてでしょうか? 申し訳ありません、あの日はどうしても外せない商談の約束がありましたので……」
大方、先の会合では間諜は見つからなかったのだろう。ベルードは内心でほくそ笑みながら、外面だけは非常に申し訳無さそうな表情を浮かべた。
そう、このベルード・フォン・ドルーチェ男爵は、王女派でありながら王子派に内通する裏切り者なのである。
そのため、『外せない商談があった』というのは真っ赤な嘘であり、実際には、万が一会合に参加した王子派への内通者たちに何かあった際に備えて、保険として自宅待機していたというわけである。
無論、それはベルード一人だけではなく、その他にも内通者の何人かが何かしらの理由をつけて会合を避けていた。
「いえ、こちらも急にお呼び立てしてしまいましたので、参加できない方が出るのは仕方がないことです。そのことを責めるつもりはありません」
「お心遣い、感謝致します。次の機会には、必ず顔を出させていただきますので」
てっきり会合にでなかったことを糾弾されるのではと身構えていたベルードは、アトレイシアのあまりの聞き分けの良さに心中で笑みを浮かべた。
「そうですね、そうしていただけると嬉しいですわ。……ですがドルーチェ男爵、その前にひとつだけ確認させていただいてもよろしいかしら?」
「……? はい、何なりと」
訝しげに首を傾げながら答えたベルードの目を見つめるアトレイシアは、気持ちを切り替えるように居住まいを正し、王族らしい威厳に満ちた声を発した。
「では、嘘偽り無くお答えください。――ベルード・フォン・ドルーチェ男爵。貴方は王子派の内通者ではありませんか?」
「は……? ……な、何を仰っているのですか、アトレイシア様……」
「ですから、貴方は王子派に通じる裏切り者なのですかと聞いているのです。それとも……何か答えられない事情でもあるのですか?」
「そのようなことは、決して。……私は忠実な王女派支援者です。間違っても王子派の回し者などではございません」
いけしゃあしゃあと大嘘をついたベルードは、出来る限り真剣な面持ちでアトレイシアを見つめ返した。唐突に核心を突く問いを投げかけられたせいで多少動揺している自覚はあったが、純粋で無垢な王女のことだ、その言葉だけで簡単に信用してくれるに違いないとベルードは高をくくった。その侮りが、自らを窮地に立たせることになるとは知らずに。
「そうですか。……もちろん、私もそうであることを信じたいですが――」
その時、アトレイシアの右手の中指にある指輪が赤い光を放ち、何かを知らせるように三回ほど明滅した。それを確認したアトレイシアの目に僅かに悄然とした色が加わったが、指輪が放った光の意味を知らないベルードには、その場で何が起こっているのかを理解することができなかった。
「――残念ですわ。ドルーチェ男爵」
アトレイシアが哀愁を帯びた声で告げた直後、ノックもなしに部屋の扉が乱雑に開かれた。何事かと目を向けたベルードの目に写ったのは、部屋の外で待機していた目深にフードを被った怪しげな護衛の姿であった。
「ビンゴだな。……しかし、これでもう六人目か? ここまで裏切り者が潜んでいるとは予想してなかったな」
フードを被った護衛は、唐突な侵入者に目を丸くしているベルードに気付いていないのか、何やらわけのわからないことをひとりごちながらアトレイシアの隣まで移動していった。
「いきなり何だね君は!? ノックもせずに、無礼であろう!」
「無礼なのはそっちだろう? 王子派の犬が」
フン、と鼻を鳴らし、笑わせるなとでも言うようにベルードを嘲るフードの男。とても自分より身分の高い人間に向けての態度ではない。しかし、本来であればそれをたしなめるべき立場であるアトレイシアは、そのような振る舞いをするフードの男を止めること無く静観を貫いている。唯一、もう一人の護衛である女性騎士だけが、動揺を隠せずアトレイシア、ベルード、フードの男の三方向にせわしなく視線を向けていた。よく見ると特徴的な犬耳がしょんぼり垂れている。
「なッ……何を言うか!? 根拠もなしにそのような侮辱、私が貴族であると知っての狼藉か!」
そんな無礼極まりないフードの男と、それを止めようとしないアトレイシアの態度に苛立ちながら、ベルードは大声でがなりたてた。
確かに自分は王子派に通ずる裏切り者であるが、それを決定づける証拠はどこにもないのだ。根拠のない糾弾であれば、まだこちらにも勝機はある。ベルードは焦りつつもそう思考をまとめ上げ、ここからの立ち回りを組み立て始めた。
それが既に無駄なあがきであることを知らずに。
「根拠ならあるさ。まあ、男爵様にわざわざ説明してやる気はないがな」
「何だと!? 貴様、言わせておけば――」
フードの男とベルードの口論が更にヒートアップしかけたその時、鈴のように透き通っていながら、しかし抜き身の剣のような鋭さを持った声がベルードの反駁を遮った。
「――ベルード・フォン・ドルーチェ男爵。貴方は今日この時を持って王女派から除名処分とし、今後我々に対する一切の接触を禁止致します」
「あ、アトレイシア様……? よもや、このような者の世迷い言を信じたというのですか!」
「いいえ、これは私自身の判断による決定です。ドルーチェ男爵、これまで王女派を支援していただき、ありがとうございました。……それでは」
「……いいんですか?」
ソファから立ち上がり踵を返そうとするアトレイシアに、護衛の男が確かめるように小声で問いかけた。
「ええ……叩いても出てくる情報は先の五人と変わりないでしょうから」
「ふむ……まあそれもそうですね。了解です」
少しだけ考えるような素振りをしたあと、やはりアトレイシアにしか聞こえることのない小声でその決定に従ったフードの男は、くるりと反転すると、そのやり取りを呆然と眺めていたベルードに語りかけた。
「喜べ男爵、尋問は無しだとさ。王女様が寛大でよかったな」
「……なぜだ……いったい何が……」
しかし、ベルードにはフードの男に反駁する気力は残っていなかった。直前のアトレイシアの無慈悲な宣告が本気のものであると知り、許容限界を超えてしまったようである。
もっとも、彼からすれば裏切り者であるという決定的な証拠もなしに絶縁状を叩きつけられたに等しい状況なため、茫然自失となってしまうのも仕方ないことなのかもしれない。
王女派とのパイプがなくなってしまった今の状況では、本来の居場所である王子派に戻ったとしてもいい顔はされないだろう。特に、ベルードは資産もそう多くない下級貴族であるため、資金援助という点ではあまり貢献できないタイプの支援者だ。王女派内部からの情報提供と言う強力な武器を失ってしまった以上、王子派から見たベルードの利用価値は半分以下に下がったと言っても過言ではない。
「……フン」
鼻を鳴らしたフードの男は、ショックのあまり返答を返すことができない様子のベルードに興味が尽きたのか、身を翻して既に客間の扉から退室しようとしているアトレイシアの後を追った。
「ニナ、置いていくぞ」
「は、はい! ……し、失礼するであります!」
めまぐるしい展開についていけなかったのか、立ったまま硬直していたニナと呼ばれた獣人の女性騎士は、退室際のフードの男がかけた言葉によってハッと我に返ると、うなだれるベルードに一礼し、そそくさとフードの男の後を追って退室していった。
「…………」
一人部屋に残されたベルードは、それから暫くの間、三人が出ていった扉を呆然と眺めることしかできなかった。




