危険な就寝
「こんなに遅くまでどこに行ってたの?」
オーレリアを交えたアトレイシアとの会議を終え、警報術式等に引っかからないよう細心の注意を払って魔法学院の敷地内にある女子寮の一室に帰還したレインハイトを待ち受けていたのは、その部屋の正式な主であるハーフエルフの少女、シエルだった。アトレイシアとの話し合いが長引いてしまったせいもあり、時刻は既に深夜である。
部屋には月明かりが差し、白亜の内壁を青白く照らし出している。明かりを灯さずとも視界は十分確保できよう。学院の設備として光を放つ魔法具も備え付けられているが、これだけ明るければ使う必要はないだろう。シエルもそう判断したのか、魔法具は起動されていなかった。
「ただいまシエル。まだ起きてたのか」
出来る限りに平静を装い、レインハイトは部屋に備え付けられている勉強机まで歩いていき、椅子に腰掛けた。
今日に限らず、このような時間帯に帰宅することはそう少なくない頻度であったため、王城に引けを取らぬほど厳重な学院の警備の目を抜けることは《魔法の門》を擁したレインハイトには朝飯前なのだが、こうしてシエルが部屋で待ち受けているパターンは初めてのことであり、思わぬ伏兵に若干の動揺を隠せなかった。
もっとも、シエルが起きていることは部屋に入る前から『観測方陣』によって既に把握済みではあったため、扉を開けた瞬間に目を白黒させるような最悪の事態は避けられただけ僥倖と判断すべきか。
「おかえり。……それで? 一体何してたの?」
軽く話を逸らそうとしたレインハイトだったが、あえなく軌道修正を図られてしまった。どうやらシエルはこの程度で追求を諦めるつもりはないらしい。
窓から差し込む月光に照らされたシエルの銀髪はいつも以上に神秘的な輝きを放っており、心理的な作用もあるのだろうか、レインハイトにはそれがどこか冷たい色のようにも感じられた。
ありていに言ってしまえば、少しビビっていた。
「……別に、どこだって良いだろ」
とは言え、王女の騎士として仕事をしてきたなどと正直に答えられるはずもないレインハイトは、強引に話を誤魔化す方向で方針を固めた。無論、適当な理由をつけて切り抜けるという方法も頭をよぎったのだが、アトレイシア関連のこととなると妙に勘の鋭いシエルに嘘が発覚するのを恐れたのである。
「ふーん……なんか怪しい……」
「何が怪しいんだよ? ……つーか、じりじり近寄ってくんな」
「ほら、動揺するとすぐ目を逸らすんだから。レインはわかりやすいなあ」
「ど、動揺なんてしてないぞ? お前が顔を近付けるから思わず逸らしちまっただけだ」
「別にそこまで近づいてないでしょ! ……もう、こっちは真剣に心配しているっていうのに」
頬を膨らませ、ぷりぷりと怒った様子のシエルはため息をつく。
「それは悪かった。でも、心配されるようなことはしてないよ。……詳しくは言えないけど、最近仕事を始めてさ、今日はそれが少し長引いちゃっただけなんだ」
「仕事……? そんな話、私聞いてないけど」
「そりゃあ話してないからな。まあ、相談ぐらいはするべきだったかもしれないが……でも、別に話さなきゃならないっていう理由もないだろ?」
「むう……それはそうなんだけど。……詳しく話せない仕事って、何か怪しい商売とかじゃないよね?」
「失礼な、至極真っ当な仕事だぞ。そんなに心配するなよ」
なんせこの国の王女の護衛なんだからな、とレインハイトは心中で付け加える。
実際の雇用形態で言えばアトレイシアとの個人契約であるため厳密には傭兵という形式なのだが、はたから見れば完全なる近衛に見えるだろう。ただの平民から一躍大出世である。
「心配するよ。……それに、今回のことを抜きにしたって、昼間も私が授業を受けている隙に色々と好き勝手してるんでしょ? 学院中で噂になってるんだから」
「そ、そうだったのか……一応目立たないようにしてるつもりだったんだけどなあ……」
「最初に起こした騒動が大きかったからね、レインは注目されてるんだよ」
もう二年近く前、シエルの魔法学院入学早々にレインハイトが起こした事件を思い返し、シエルは苦笑を浮かべた。
シエルの入学当時、その付き人として魔法学院で暮らすことになったレインハイトは、些細なきっかけから上級生といがみ合いになり、最終的には学院の生徒会長であるエリナまでを巻き込んだ大きな事件を引き起こしてしまったのである。
そして、その現場を目撃した生徒は多く、噂が噂を呼び、レインハイトは生徒でもないのに学院の有名人となってしまったのだ。
流石に今は当時ほどの熱はないが、それでもレインハイトの顔はシエルの代から上の世代の生徒たちには知れ渡っていると言っても過言ではないだろう。最近は鳴りを潜めているが、そろそろまた一悶着起こしてくれるのではないかとレインハイトに期待している者も一定層いるとかいないとか。
「基本的に俺は被害者だったはずなんだが……噂には尾ひれが付くと言うが、困ったもんだぜ」
「レインは反撃が過剰すぎるの。それに、怒ると何しでかすかわからないし」
「そうかあ? 俺、怒った時も割と冷静だったと思うんだが」
レインハイトはかつて自身が激怒した際のことを思い返したが、どれほど怒りがこみ上げてこようと自棄になって暴れまわることなどはなく、むしろ普段よりも思考力や判断力などは冴えていたという記憶があったためそう結論付けたが――
「そ、そう……冷静な状態なのに他人にあんな仕打ちができるんだ……」
「ん? なんだって? 後半がよく聞き取れなかった」
シエルがどん引きしていることには気づかず、レインハイトは聞き返した。
怒りを覚えた際のレインハイトの容赦の無さは客観的に見ても少し異様だとシエルは思っているのだが、本人には全く自覚がないらしい。
「な、なんでもないよ」
なんだか怖くなってきたシエルはそれ以上の追求を諦めた。確かにレインハイトは怒らせると色んな意味で怖いが、彼が怒りを覚える要因は基本的には正当なものであり、発作的に癇癪を起こすような性格でもないため、そこまでこだわる必要を感じなかったのである。
「そうか? なら良いけど」
そんなシエルの心の逡巡など知る由もないレインハイトは、日中に気を張り続けてきた反動か、シエルとの会話で幾ばくかほぐれてきた口から、気恥ずかしくて話したくなかった『仕事を始めた本当の理由』について語り出した。
「……お前と王都に来ることになったときさ、生活費だって言ってエリドさんにお金持たせてもらったろ?」
「うん、私の分も合わせてもらったんだよね? ……どうして娘の私じゃなくてレインに管理を任せたのかお父さんを一度問い詰めたいところだけど」
「最初はそんなに手を付けずに返すつもりだったんだけど、ちょっとずつ使ってる内に結構な額になっちゃってさ……だから、せめてシエルの学費を差し引いた分だけでも返せるようにならないと、エリドさんに合わす顔がないんだ。……それが仕事を始めた理由だよ」
そう、レインハイトがアトレイシアの護衛を請け負ったのは、何も情に絆された末の慈善事業などではなく、現実的な下心があってのことだった。
もっとも、だからといって困っているアトレイシアの助けになればという気持ちが少しもなかったかと言われれば、無論そうではないのだが。
「あー、だから去年と一昨年の長期休暇は忙しいとか言って一緒に帰ってくれなかったんだ?」
「……まあな。悪いが、俺なりのけじめってやつだ」
アイオリア魔法学院では、多少のずれはあれど毎年七の月の頭から八の月の終わり辺りまでが長期休暇となり、授業が行われなくなる。その間、多くのものは故郷の実家に帰省し、そうでないものは短期の仕事や自主学習、自主鍛錬などをして過ごすこととなる。そして、当のシエルもご多分に漏れず、長期休暇の際は毎年故郷の村へと帰省しているのだ。
しかし、先程の話の通り、レインハイトは借りた資金を返せるようになるまではシエルの父であるエリドに顔を見せるつもりがなかったため、一緒に帰ろうと言うシエルの誘いを断り一人黙々と魔法の研究を続けていたのである。
さらに言えば、その研究に思いのほかのめり込んでしまい、結果的には費用がかさみ帰郷が遠のいてしまうという本末転倒な状況に陥ってしまったというのだから目も当てられないのだが、この情報はシエルに話すと確実に説教を食らうと判断したため、レインハイトはだんまりを決め込んでいる。
「でも『どうしてレインは帰ってこないんだ』ってみんな寂しそうにしてたなあ……」
一番寂しがっていたのはシエル自身だったが、それをレインハイトを前にして直接告げる勇気はシエルにはなかった。
「うっ……今の仕事が順調に行けば、今年は一緒に帰るよ」
「本当? じゃあ期待して待ってる。……ふふ……でもそっか、村に帰るのが嫌になっちゃったわけじゃなかったんだ」
「そんなの当たり前だろ。実際に過ごしたのは短い間だったけど、過去の記憶がない俺からしたらあの村が俺の故郷だよ」
かつて過ごしたシエルの故郷、長耳族の住まう村での出来事を脳裏に思い浮かべ、懐かしむとともにレインハイトは言った。
今から三年前、マナの森でシエルに初めて出会った日以前の記憶を無くしているレインハイトにとって、彼女とともに過ごしたあの村は第二の生まれ故郷と言っても過言ではなかった。
「だって、二回も誘いを断られたら普通そう思うじゃない? むしろ、最近あんまり話す機会もなかったから、嫌われちゃったのかと思ってたんだよ?」
「はあ? なんで俺がシエルを嫌うんだよ。そんなわけないだろ」
「そ、そうだよね! ……変なこと言ってごめん」
レインハイトの強い否定を受け、なんだか嬉しくなってしまったシエルは顔を赤くしながら謝った。
それもそのはず、先程のシエルの発言は、彼女が最近本気で思い悩んでいたことであり、もしも肯定されてしまっていれば今後二度と立ち直れなかったであろう重要案件であったのだ。レインハイトが同室していなければ、今頃飛び上がって喜んでいたことだろう。
「いや……確かに俺も最近自分のことばかりでシエルと話す時間を作れてなかったと思う。一緒の部屋で過ごしてるからって、気持ちまで通じるわけじゃないのにな。反省するよ」
不安そうな表情を浮かべたシエルに罪悪感を覚えたレインハイトは、己の事情ばかりを優先してきた最近の行動を省み、謝罪した。
そもそも、シエルの付き人として身の回りの世話をする使用人、というのがレインハイトの表向きの顔であり、そのような背景から生徒ではないにも関わらずシエルと同室での生活を許されているのだ。
それが身寄りも稼ぎも無かった当時のレインハイトがシエルとともに過ごすための方便だったのだとしても、あれから一年以上が経過してもなお『いい加減に出て行け』などとは言わず部屋に置き続けてくれているシエルには感謝してしかるべきだろう。
よくよく考えてみれば、シエルも今年で十五になるのだ。年頃の少女なのだから、家族のような存在とは言え、一年の殆どを同年代の男と同室で暮らすという生活にストレスを感じていないとも言い切れない。
レインハイト個人としては、少なくともシエルが魔法学院を無事卒業するまでは傍で見守っていきたいと考えており、それ故の共同生活であったのだが、シエルは思いの外学院生活をうまくこなしている様子であり、何も年がら年中寝食をともにせずとも問題ないだろう。
以前から多少は想定していたことだが、これはそろそろ本格的に自立を考えなくてはならないかもしれない。ひとまず、今度外出したときに学院の近場にある宿や物件を調べてみようとレインハイトは心に留めた。
「……ふぁあ……えへへ、安心したら眠くなってきちゃった」
「おっと、夜更かしして明日に響くと良くないな。そろそろ寝た方がいい」
口に手を当てながらあくびしたシエルの呟きを耳にし、少々物思いに耽っていたレインハイトは慌てて顔を上げそう促した。
普段であれば既に床についているだろうシエルの睡眠時間を現在進行形で削っている原因であるため、多少の責任を感じたのだろう。
――が、しかし。そこでシエルがとんでもないことを言い出した。
「うん……レインも寝るんでしょ? せっかくだし、今日は前みたいに一緒に寝よ?」
ベッドに腰掛けるシエルは、ぽんぽんと自身の隣を叩いてレインハイトを誘導してきた。もしや、眠気のせいで自身が何を口走っているのか判断がついていないのではなかろうか。
「いや、それは不味いだろ。いつも通り、俺は床でいいよ」
レインハイトは部屋の隅に置いてある小さめの座布団を指差しながらそう言った。あれに座って壁に背を預けながら眠るのが、彼の最近の睡眠スタイルである。
今から一年ほど前だろうか、流石にそろそろシエルと同じベッドで寝るのは不味いと考えたレインハイトはついに決心し、シエルに適当な理由をつけベッドでの睡眠から脱することとなった。
その際、もともとあまり睡眠を取らずとも何の支障もなく活動できるタイプであったため、睡眠中に何か問題が発生した際に迅速に動けるようにとこの方法を取っていたところ、《魔法の門》が完成し不意打ちの心配をする必要がなくなった今でもそれが癖になっているのだった。
「だーめ、レインがベッドで寝ないなら、私も寝ないもん」
「おま……急に子供みたいなこと言い出すなよ」
今日はやけに押しが強いな……とレインハイトは困り顔で思案する。何かこの状況をうまく切り抜ける方法はないものだろうか。
「……そんなに私と同じベッドは嫌なの?」
「えーっと……嫌とかそういうんじゃなくてだな……」
「嫌なんだ……私、やっぱり嫌われてるんだ……」
「あぁもう! わかったよ! わかったからそんな顔するな!」
うるり、と瞳を湿らせたシエルが今にも泣きそうな顔でそんなことを言いだしたため、レインハイトは仕方なく全面降伏の構えを取った。
いつの間にこのような厄介極まりない技を覚えてきたのか、恐らくは彼女の友人のソフィーナ辺りの入れ知恵という線が濃厚だろう。
「ほら、これでいいだろ?」
同年代の少女に半泣きで同衾を迫られるという意味不明な状況に軽く頭痛を感じながら、レインハイトはおずおずとシエルとは反対側からベッドに入った。もう数センチで床に転がり落ちるかどうかという位置取りでシエルからなるべく距離を取る。
どうして反対側なんだ、という懐疑的な視線を送られはしたものの、幸いシエルは文句を口にだすことはなく横になった。
「ふふ……久しぶりだね、こういうの」
「……そうだな」
「……なんでそっぽ向いてるの?」
「いや、向かい合って寝るのも変だろ」
「そんなに照れなくてもいいのに」
「あのな……早く寝ないと明日起きれなくなるぞ」
状況が状況であるためか、背後でクスリと笑うシエルから妙な色香を感じてどきりとしてしまうレインハイトだったが、背を向けていたことが幸いし、シエルにそれを悟られることはなかった。
「ふぁあい……それじゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」
流石に眠気に耐えきれなくなってきたのか、シエルはあくびをしながら返事をすると、数秒と立たずに寝息を立て始めた。
こちらはまだどぎまぎしているというのに、これでは男女が逆なのではないのか。レインハイトはそう思わずにはいられなかった。
「完全に寝入ってるみたいだけど……抜け出して床で寝てるのがバレたら怒るよなあ……」
監視の目がなくなったところでベッドからの離脱を考えたレインハイトだったが、見つかった際のリスクを恐れ中断した。
「……まあ、たまには良いか」
それから何かいい打開策はないかと数十秒ほど思案していたレインハイトだったが、日中の疲れもあってか、思考を放棄して眠りにつくことを選んだ。慣れないことをしたせいか、なんだか妙に疲れていたのだ。
膨大な魔力を持つレインハイトからすれば、今回の戦闘による魔力の消費は大したものではなく、事実、既に現在ではその消費分を取り戻してなお余りあるほどの魔力を自然回復している。
しかしその反面、作戦立案者として指揮を取り、アトレイシアの護衛として常に周囲に気を張り続けていた事による精神的疲労はそれなりに大きかったらしく、先程のシエルとの会話で緊張が解けたことにより、積み重なった疲れがどっと押し寄せたというわけである。
もっとも、レインハイト本人にその自覚はないようだが。
「……つか、この感触はもはや凶器だろ……」
温かい羽毛布団と柔らかなベッドに挟まれたレインハイトは、その極楽とも言える心地よさに思わずそう呟かずには居られなかった。当然のことだが、床に座って眠るのとは大違いである。
普段から夜更かしすることが多く睡眠時間を削りがちなレインハイトは、いっそ凶悪とも言えるその誘惑に抗えるはずもなく、久方ぶりの深い眠りへと落ちていった。
◇
翌朝、レインハイトは気持ちのよい目覚めを迎えていた。久し振りにベッドで寝たからなのか、なんだか頭もスッキリしている。昨日の疲れは完全に解消できたようだ。
いつも通りシエルよりも早く目覚めたレインハイトは、とりあえず体を起こそうとして、何か違和感を感じた。
横腹のあたりだ、生暖かい何かが背後から巻き付いているような謎の感覚の原因を辿り、寝転がって反転したレインハイトは次の瞬間、直前の己の行動を後悔した。
眼前には銀髪の美少女エルフ、シエルの顔がほぼゼロ距離で視界いっぱいに広がっていた。朝っぱらから青少年が目にするには少々刺激が強すぎる光景と言えるだろう。レインハイトに巻き付いていたのは、彼女の腕だったわけだ。
「――ッ」
反射的に上げそうになった声をなんとか堪えた自分自身を、レインハイトは心中で褒め称えた。今この状態でシエルの目が覚めようものなら、確実に面倒な事態が巻き起こるだろう。軽く済めば平手打ち、重ければ『死』だ。
無論、そうなった際に実際に待ち受けているのは、赤面して数瞬慌てるも何かを勘違いしたシエルがすべてを受け入れたように両目を瞑るという更にカオスな展開なのだが、彼女に好意を寄せられていることに微塵も気付いていないレインハイトには、到底予見できるものではないだろう。
(……くそ、一体何をどうしたら良いんだ?)
《魔法の門》を作成することになった際、ありとあらゆる状況や場面を想定しその対策を組んできたレインハイトだったが、こんなにも恐ろしい状況を想定したことは一度もなかった。これならばまだ、数百・数千に及ぶ敵に囲まれたり、突如として水中に閉じ込められたり、至近距離での大規模爆発に巻き込まれるというような危機的状況のほうが楽に対処できるだろう。
「……んぅ……」
レインハイトが混乱した頭で『目覚めたら美少女に絡みつかれていた』という状況の対策案を真剣に考え始めたその時、シエルが小さく身じろぎした。
体を強張らせるレインハイトだったが、数秒たってもシエルが起きる気配はなかった。ただ息が漏れただけのようだ。
(ふーっ……驚かせるなよ……!)
胸をなでおろしたレインハイトは、声を出せないため心中で悪態をついた。
(……しかしこうして見てみると、シエル、前より大人っぽくなったよなあ……)
シエルが寝ているのを良いことに、レインハイトはまじまじと彼女の顔を見つめた。初めて出会った頃の幼さは徐々に無くなり、どんどんと大人の階段を登っているように感じられる。
無論、成長したのは顔だけではない。徐々に視線を下にずらしていくレインハイトの視界に映ったのは、呼吸に合わせて上下する豊かに育った二つの山だった。
いや、胸だった。
(……ってオイ! どこ見てるんだ俺は!)
バッ、とシエルの方を向いていた首を素早く天井へ戻し、レインハイトは気持ちを落ち着けようと軽く深呼吸した。何と恐ろしい吸引力なのか、気を抜けばまたそちらに視線を向けてしまいそうになる。
しかし身体面だけでなく、その他の点でもシエルの成長は目覚ましいものがあった。特に魔法の成績の伸びは凄まじく、今年は八脚にも手が届くだろうともっぱらの噂である。なにせ、生徒ではないレインハイトの耳にも入ってくるほどだ。よほど騒がれているに違いない。
八脚とは、アイオリア魔法学院の別名である『スレイプニル』――その由来となった八本脚の馬に因んだ制度であり、学院の成績上位者八名だけが名乗ることを許される名誉ある称号だ。
つまり、シエルは約1000人にものぼるこの学院の生徒達の中で、上位八人に食い込むと言われるほどの実力をつけてきているというわけである。
シエルも有名になったなあ、と悪目立ちにかけては学院で右に出るものはいないレインハイトは自身を棚に上げそんな感慨を抱いた。
《魔法の門》の開発や纏魔術の鍛錬で忙しかったため、そこまで評価されているシエルの現在の力を直接確認できていないのが実に残念である。今度軽く手合わせでもしてもらおうか、とレインハイトは俄然シエルの成長に興味が湧いてきた。
(――おっと、そんな余計なこと考えてる場合じゃない。いい加減この状況から抜け出さないと)
しばし脱線していたレインハイトだったが、自身が未だシエルに囚われたままであることを思い出し、思考を切り替えた。
先程から暫く様子を見てはいるものの、胴に回されたシエルの腕は動く気配がない。シエルの寝返りに合わせてスマートに抜け出す作戦だったのだが、持久戦は諦めたほうが良さそうだ。
少し強引かもしれないが、こうなったら強行突破しかあるまい。なに、絡みついてきたのはシエルの方なのだ。もし途中で彼女が起きてしまったらそう正直に事実を告げればいい。レインハイトは覚悟を決め、横腹に回されたシエルの腕を引き剥がすべく掴もうとした……その時、
「……うぅん……」
「――なっ!?」
掴もうとしたシエルの腕に力が入ったかと思うと、ぐい、と背後へと一気に引っ張られた。数拍遅れて柔らかな感触が背中に生じる。自身に何が起こったのかを察したレインハイトは、流石にこらえきれず赤面した。
要するに、未だ睡眠中のシエルに抵抗する暇なく抱き寄せられたのである。
先程までは何とか理性を保っていたレインハイトだったが、背中を包むシエルの蠱惑的な感触によって今にも屈服してしまいそうだ。
「おい、これは流石にシャレにならな――」
耐えかねたレインハイトがついにシエルに声を上げて講義しようとした瞬間、背後のシエルの寝息がレインハイトの首筋を撫でた。ぞくり、と背筋を駆け抜ける謎の感覚とともに、レインハイトの理性はついに決壊した。
直後、自制の効かなくなったレインハイトは自身に巻き付いたシエルの腕を強引に剥がし取ると、即座に体を反転させ、シエルに覆いかぶさるようにしてマウントポジションを取った。
流石に寝ている相手を無理矢理ってのはダメだろう、と普段のレインハイトであればそう考えて当然の状況だが、今の彼は興奮状態にあり、とてもではないがそんな思考に割ける脳のリソースは残されていなかった。
シエルを見下ろすレインハイトの目に映るのは、細くて白い首筋だった。そのきめ細やかな肌に齧り付きたいという欲求がふつふつと湧き上がってくる。
これは自身が吸血鬼であるが故の衝動なのだろうか……いや、そもそも自分が吸血鬼であるなどという証拠はまだどこにもないのではなかったか。あれはヴィンセントの馬鹿げた妄言だ、何故あのような男の言葉を信じようとしているのだ。
意識のない相手に手を出すことへの後ろめたさから生じたものか、僅かに残った理性でレインハイトはそのようなことを考える。
幸か不幸か、その数秒ほどの停滞により、レインハイトが決定的な行動を起こす前に事態は変化を見せた。
「……ん……レイン……?」
シエルが目を覚ましたのだ。目を開けた瞬間至近距離にレインハイトの顔があるという状況に頭がついていかず、寝ぼけたようにただレインハイトの名を呟いた。
そして、徐々に覚醒していく思考とともに、首を動かし周囲の状況を確認、何故かレインハイトにマウントを取られていることを把握した。
「え、えぇえ……!?」
現状を理解し、困惑の声を上げるシエル。それはそうだろう、レインハイトも逆の立場であったなら同じ声を上げている自信があった。
「……シエル」
「れ、レイン……?」
だが、レインハイトは止まれない。吸血鬼としての本能か、はたまた男の性か、得体の知れない強烈な衝動が内からレインハイトをかき乱し、シエルの首筋へ近づいていく己を制御することができない。
しかし、ついにレインハイトの唇がシエルの首へと触れようとしたその刹那、電流のような衝撃が脳に流れ、先程までの高揚が嘘だったかのように、一気に冷静な状態へと引き戻された。
そう、確かあれは三年近く前、記憶を失った状態で森で目覚め、村にあるシエルの家に案内された際、不慮の事故で今と同じようにシエルを襲ってしまいそうになったことがあった。その時、先ほど流れた電流のようなものが頭を駆け抜け、冷静さを取り戻した経験をレインハイトは思い出した。
この電流は幾ばくか残った理性が見せた抵抗の残滓だったのだろうか。確かに、このようなその場の勢いだけでシエルに手を出してしまえば後で絶対に後悔することは目に見えており、そう考えれば得心も行くのだが、しかし、本当にそれだけで片付けて良いものなのだろうか。
レインハイトは、今の衝撃からどうにも自身ではない何者かの意思を感じざるを得なかった。それも、何らかの導きと言うよりは、それ以上は踏み入ってはならないという警告のような意味合いが強いように思える。
「ど、どうしたの……? 大丈夫……?」
と、その時。未だレインハイトに組み敷かれるような体勢のシエルがそう声をかけてきた。思考の海に埋没仕掛けていたレインハイトはその声にハッとして現実に舞い戻ると、不安そうに瞳を揺らすシエルと目が合った。
その奥の奥、困惑、驚愕、そういった表に出ている感情の裏に、ほんの少し、ほんの僅かなものであったが、もう一つの感情が見て取れた。
――畏怖。それがその感情を差す名であった。恐らくシエル本人すら認識できない程の微細なものだが、しかし、それは確かに存在していた。それを向けられているレインハイトだからこそ、揺らぐ瞳の奥に潜んでいるそれを感じ取ることができたのである。
「――ッ! ……悪い。ちょっと頭冷やしてくる」
それは、レインハイトを打ちのめすには十分な事実であった。
一時の衝動に身を任せシエルを危うく襲いかけ、命の恩人である彼女に恐怖を抱かせておいて、自分はシエルの保護者だなどとよく言ったものだ。これでは保護者どころか、使用人としても失格である。
俊敏な動作でベッドの上から離脱し、レインハイトは逃げるように部屋を出ていった。
「……へ?」
一人残されたシエルは、ポカンとした表情でレインハイトが出ていった扉を暫く眺めていた。
「なによ……レインの意気地なし」
てっきりそのまま『一線』を越えてしまうものだと覚悟していたシエルだったが、何を思ったのか、レインハイトは上から覆いかぶさっただけでシエルの体に指一本触れること無くその場を後にしてしまった。もしかしたら、自身の魅力が足りなかったのかとシエルは軽くショックを受ける。
先ほどレインハイトはシエルが怖がっていたのだと思い込んでいたのだが、実際のところはそうではなかったのだ。シエルにとってはレインハイトは想い人であり、昨日の夜に一緒に寝ようと誘ったときも、こうなることを心中で期待していたくらいである。
レインハイトがシエルの瞳の奥に見た恐怖の感情は、レインハイトに対してのものではなく、これから体験するであろう未知の『行為』に対する不安から来るものであったのだ。
これ関しては、シエルとレインハイトのどちらに対しても攻めることはできないだろう。不幸なすれ違いであった、としか言いようがあるまい。
そして、この両者の思い違いが解消されないまま、レインハイトはついにある決断をしてしまうのであった。




