一難去ってまた一難
「うえー。……気持ち悪い」
レインハイトの見下ろす先には、首から上がなくなった巨大なダークガルムの亡骸があった。すぐ近くに切断された生首も転がっており、その生々しさに若干の吐き気を催していたところである。大量に流れ出た鮮血により辺りは血生臭く、一秒でも早くこの場を立ち去りたい気分だ。
もちろん、これを自分がやったのだということは細部に至るまで鮮明に覚えているが、こうして一度冷静になってみると、こんなに大きな魔物をよく一人で倒せたものだ、とレインハイトは遅ればせながら己のしでかした事実に震えていた。
今になってから震えるというのもおかしな話だが、実際にこの巨大な魔物と対峙していた際は、不思議と体が竦み上がるほどの恐怖は感じなかったのである。
「自分でやったんでしょ! もう! 少しは手伝ってよ」
シエルはそんなレインハイトに向かって少し咎めるような口調で言った。
彼女は現在、レインハイトが倒したダークガルムの胴体にロープを巻きつけている最中だ。レインハイトでも流石にこの巨体を持ち上げて運ぶことはできないため、ロープを巻きつけ、引っ張って運ぼうという作戦である。
しかし、運べる運べない以前の問題として、レインハイトはこんな大きな物体を運びたくはなかった。理由は単純明快だ。臭いし、重いし、疲れるからである。しかし、そのような気持ちを含んだ視線を先程からシエルに送ってみてはいるものの、何度か目が合ったにもかかわらず、彼女はそれを一顧だにせず無視を決め込んでいる。どうやら彼女にはレインハイトの気持ちを斟酌する気はないようだ。
レインハイトに視線もくれず忙しそうに動きまわるシエルの左足には、驚くべきことに、あるはずの深い傷が跡形もなく消え去っていた。
つい先程のことだ。シエルの怪我の状態は悪く、レインハイトは獲物を諦め、シエルを村まで背負っていこうとしていた。しかし、その旨を伝えた際、対するシエルは余裕の表情を浮かべ、自らの足に魔法を使った。すると、みるみるうちに傷が塞がり、立ち上がれないほどの傷があっさりと治ってしまったのだ。
シエルが使った魔法は、治癒魔法という高度な魔法だった。シエルは若干十二歳にして、村では一、二を争う優秀な魔道師なのだ。
そんな便利な魔法が使えるならば、どうして戦闘中にさっさと使って怪我を治さなかったのだ、と思うかもしれないが、シエルに言わせれば、「治癒魔法は繊細な魔力コントロールが必要な魔法で、戦闘中に片手間で唱えられるほど簡単な魔法じゃないの」だそうだ。一度魔法を完成させてしまえば多少心が乱れたところで壊れることはないらしいが、まず魔法を完成させること自体が難しいんだとか。
怪我といえば、レインハイトもダークガルムを殴った際に拳に傷を負っており、縄の巻きつけ作業中のシエルは、ちょうどそれを思い出していた。
「そうだ、レイン……あれ?」
シエルは自分が少しむくれていた事を忘れ、やや張り切りつつレインハイトの手に治癒魔法をかけようとした。しかし、先程までは確かにそこに存在していたはずの彼の手の傷は、既に跡形もなく綺麗に治っているではないか。
「……何? シエル」
レインハイトは己の傷が治ったことに気付いていないようだ。もしかすると、傷を負ったことさえ忘れているのかもしれない。シエルは傷の話をしようか少し迷ったが、治ったのなら気にすることはないか、と無理やり自分を納得させた。
「ううん……なんでもない」
記憶が無く、謎の魔法を使い、魔法を使わずとも傷が治る驚異的な治癒能力を持つ。こうなるといよいよ化け物じみており、いかにも怪しい人物だが、シエルにとっては些細な事だった。
レインハイトは命の恩人だ。ブツブツ文句を言いながら隣で作業を手伝ってくれる少年の横顔を見つめ、シエルは己の鼓動が早くなるのを感じた。
一方、レインハイトは自分の右手を見つめ、先程の戦闘を思い出していた。シエルに聞いた話では、体から赤黒い霧が溢れ出し、それが大剣の形になったらしい。大剣は、ダークガルムを倒し、気を抜いた瞬間、また霧となって体に戻っていった。なんとも不思議な現象である。
レインハイトにはこの現象に心当たりがなかった。もしかしたら記憶が戻るかもと期待したが、そんな気配は一向にない。シエルもこんな魔法は見たことがないと言っていたし、そもそも、あれが魔法かどうかも謎である。
「終わった!」
と、レインハイトがサボっている間に、シエルが作業を終えたらしい。
シエルの手際は良かった。レインハイトが手伝ったことといえば、ロープを巻くためにダークガルムの巨体を少し持ち上げたことぐらいだ。あとの作業はすべてシエルがやったようなものである。狩りの腕前から見ても、やはりこういったことには慣れているのだろう。
二人で協力し、全ての獲物をダークガルムの主の死体に括りつける。後はロープを引っ張って村まで運ぶだけだ。
森を抜け、村に着く頃には息も絶え絶えだったレインハイトだが、本来ならば成人した長耳族の男十人ほどで運ぶ重量だ。いくらシエルが魔法で運搬を補助したとはいえ、レインハイトに掛かった負荷は相当なものである。これで疲れなければもはや人間ではない。むしろ、これを一人で運びきった時点で既に異常だと言えるだろう。
村に到着すると、入口付近に立っていたエルフの男が駆け寄ってきた。恐らく番兵のような役割の者だろう。レインハイトの運んでいる獲物の量を見るなり目の色を変え、シエルといくつか言葉を交わしたあと、大急ぎで村の中に走っていった。人手を集めに行ったのだ。
この量を村に運び入れるのは一苦労だろうな、とたった一人で獲物を運び切ったレインハイトは、他人事のようにそう呟いた。
数分後、レインハイトの協力もあり、獲物はなんとか村の中まで運び込まれた。周囲を森で囲まれたエルフの村は、想像していたよりも広く、その全容を確かめることはできない。
運び込んだ場所は村の居住区であったらしく、中心にある井戸を囲むように木製の民家が立ち並んでおり、その中からは村人のエルフがわらわらと見物に出てきていた。
どうやらレインハイトの倒した巨大なダークガルムは主として恐れられていたらしく、多くの村人たちが、その巨大な獲物をひと目見ようと集まっていた。自然に他所者であるレインハイトに注目が集まるのは仕方のないことだろうが、彼からすれば心底鬱陶しい視線であり、レインハイトは無意識の内に視線を遮るようにシエルの後ろに隠れていた。
「よお、シエル。主を倒したんだってなあ。さすが俺の見込んだ女だ。……ん? 誰だこいつ」
その時、レインハイトの側にいたシエルに話しかけてきた人物がいた。切れ長の目にいやらしい笑みを浮かべた茶髪の少年だ。歳はレインハイトより少し上だろう。やけにシエルに対して馴れ馴れしい。その少年がレインハイトに視線を移した。
「はじめまして。僕はレインハイトと言います。森で倒れていたところをシエルさんに助けていただき、この村まで案内してもらいました」
レインハイトは先手を取り、とりあえず挨拶をしておくことにした。あまり第一印象は良くなかったが、見た目で人を判断してはいけない。実はとてもいい人なのかもしれない、と嫌な顔ひとつせず丁寧に礼をする。
「フン、他所者に名乗る名などない」
が、しかし、どうやら見た目通りの人物であるらしかった。レインハイトもあまり期待していたわけではなかったので、苦笑いで済ました。
「ちょっとエミール! 何よその態度! 主を倒したのはレインハイトなのよ? 私が死にそうになったところを助けてくれたんだから!」
レインハイトは軽く流したが、シエルは我慢できなかったようだ。眉を顰め、怒りの表情でエミールという少年に食って掛かる。
「はっ! そんな他所者に倒せたのかよ。それなら俺でも倒せただろうな」
エミールはレインハイトを見て吐き捨てるように言った。流石に少し頭にきたが、やはり苦笑いだけで済ませるレインハイト。
そんなレインハイトを見たシエルが、それが気に喰わなかったのか、更に顔を赤くし、声を大にして怒った。
「エミールなんか私にも勝てないくせに! あんたじゃお漏らしして逃げ帰ってくるのがオチよ!」
お漏らししたのはシエルだったが、レインハイトは黙っていることにした。こう見えてもレインハイトは空気が読める男なのだ。
「なんだと!」
逆上したエミールが手を伸ばし、シエルの肩を突き飛ばした。エミールは加減したつもりだったのだが、ダークガルムとの戦いで疲労したシエルは簡単に体勢を崩し、そのまま地面に尻餅をついた。
「ったた……」
シエルが打った尻を擦りながらエミールを睨んだ、次の瞬間。
「っ!?」
凄まじい殺気がエミールを襲った。全身を刺すような空気の変化に、周囲にいた野次馬は何事かと動揺し、距離を取る。
「お前……シエルに何しやがる」
殺気の発生源はレインハイトだった。
自分に対して失礼な態度を取られても決して怒らなかったレインハイトだが、シエルに手を出された瞬間、いとも簡単に決壊した。怒りの奔流が殺気へと変化し、コップから溢れ出る水のように、レインハイトの中で許容量を超えた殺気が周囲に流れ出た。
エミールは何が起こっているのかわからず、その場に立ち尽くしていた。本能的に危機を察したのか、その足はガタガタと小刻みに震えている。
レインハイトはその様を眺めつつ、ゆっくりとエミールまで距離を詰めた。
「……頭が高い」
レインハイトは怒りに揺れる真紅の瞳でエミールを睨んだ。放つ殺気が更に強まるが、燃えるような怒りとは裏腹に、レインハイトの表情は冷たい。
エミールは声も出せずにその場に尻餅をついた。しかし、その程度ではレインハイトの怒りは収まらず、ダークガルムの時と同じように、赤黒い霧がレインハイトを中心として渦を巻いた。そのまま先の巨大な大剣の形を取り、レインハイトの右手に握られる。
半ば無意識の内に剣を作り出したレインハイトは、尻餅をつくエミールの首筋に剣を当てた。溢れ出す怒りに際限はなく、それに比例し、周囲へと放つ殺気も強まっていった。
「……シエルに謝れ」
レインハイトは底冷えのするような声を放ち、エミールに謝罪を促した。
周りの者は誰一人として動けなかった。急速に変化した状況に理解が追いつかないのだ。辺りは静寂に包まれ、誰一人として声を上げる者はいない。
首元に当てた剣先で少し切れたのか、エミールの首筋から血が垂れた。彼に突きつけられている剣は、鋼のように硬いダークガルムの主を切り裂いた剣と全く同じものである。切れ味はすさまじく、さして力を入れずとも、人間の首など容易に跳ねることができるだろう。
「……ご、ごめ……なさ……」
それを肌で理解したのか、エミールは震える声で謝罪した。その顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃであり、股の間からは、生暖かい液体が流れ出ている。
しかし、エミールのたどたどしい謝罪を耳にしたところで、やはりレインハイトの怒りは収まらなかった。一体自分のどこからこの激情が生み出されているのか全く分からないが、本人の困惑など関係ないとばかりに、エミールに対しての激しい怒りは次第に強まって行った。
強烈な憤怒に突き動かされ、とうとう腕の一本くらい切ってしまおうかという考えにまで至ったその時、レインハイトは唐突に背後から衝撃を受け、思考が停止した。
「レイン! ……もういい……もういいから!」
レインハイトに抱きつくように、シエルが後ろから体当たりをしたのだ。
彼女は必死の形相で、私はもう気にしてないから剣を消して、とレインハイトに訴えかけた。
すると、まるで夢の中の出来事であったかのように、レインハイトから放たれていた殺気が一瞬で引いた。握られた大剣は形を崩し、霧となってレインハイトに吸収される。
動機を失った怒りは干潮を迎える波のように急速に引いて行き、やがて綺麗に消え去った。
「何事だ!」
騒ぎを聞きつけたのか、初老の男性が従者二人を連れ、人垣をかき分けながらこちらに歩いてきた。長く伸ばされた見事な白銀の顎鬚を撫でながら、初老の男性はレインハイトを訝しげに眺める。
「あ、お父さん……」
「シエル……?」
シエルがお父さんと言ったのは、初老の男性の右側にいた従者だ。シエルと同じ美しい白銀の髪に、誠実そうな顔立ち、エルフにしては屈強な肉体を持っている。その手には大きく反りのある剣が握られていた。臨戦態勢というわけではなさそうだが、その構えに一切の隙はない。
強者の気配を敏感に感じ取ったレインハイトは、無意識に剣を生成しようとする己を抑えこんだ。挑んだところで勝てる気がしなかったからだ。
背筋に冷たい汗が流れるのを感じつつ、レインハイトは仮に斬りかかられた場合に備え、警戒を強めた。
「お父さん! 話を聞いて。剣は向けないで!」
シエルに父と言われた男性は、レインハイトにしがみついたままのシエルに説得され、迷っているようだった。少し視線を彷徨わせたあと、シエルの父は初老の男性と顔を見合わせ、数秒後、慣れた動作で剣を腰の鞘に収めた。
「……ふむ。シエル、ワシの家で詳しく話を聞かせてもらおう。もちろん、そっちの黒い子もな」
初老の男性が落ち着いた口調で話した。黒い子というのは、恐らくレインハイトの髪のことを言っているのだろう。
シエルとレインハイトは、歩き出した初老の男性の後に続いた。素早く従者二人がレインハイトの両脇に付く。すると、シエルに父と言われていた方がレインハイトの耳元に口を近づけ、
「いつでも拘束できる。抵抗はするな」
と囁いた。もちろん、下手に抵抗するつもりなどレインハイトには微塵もなかった。シエルの父もかなりの使い手だろうということは見て取れるが、その反対側に位置する金髪の青年の実力もそれに引けを取らぬだろう力を持っていることが伺えたからだ。もしここで暴れでもすれば、今度こそ本当に斬り伏せられてしまうかもしれない。そんなのはまっぴらごめんである。
ふと、レインハイトが後ろを振り返ると、エミールはいつの間にかいなくなっていた。逃げ足の早いやつだ。と思ったが、すぐに興味がなくなり、レインハイトは再び前を向いて歩き出した。
初老の男性が入っていったのは、辺りで一番大きな家だった。材質は主に木と土でできているのだろうか、作りは古いが、中はそれなりに広い。
きょろきょろと落ち着きなく部屋を眺めていると、レインハイトは初老の男性に促され、奥にある広い円形の部屋に通された。差し渡しは八メイルほどだろうか、天井も高く、よく声が反響しそうな作りだ。
初老の男性は、部屋の奥にある、床より一段高くなっている高座のようなところに座った。しかし、従者二人は未だレインハイトの両脇におり、警戒は解かれていない。
「ワシはマルス・フェアリード。この村の族長じゃ」
マルスという族長は、人懐っこい笑みを浮かべながら自己紹介した。従者の雰囲気からして、てっきり事情聴取という名目で拷問まがいのことをされるとまで邪推していたレインハイトは、突如として向けられたマルスの無警戒な笑顔に少々拍子抜けした。仮にも村人に刃を向けたのだ。それを考慮すれば、最低でも牢屋にぶち込まれるくらいはされるだろうと考えるのは当然といえば当然だろう。
「はじめまして。僕はレインハイトと言います。先程は取り乱してしまい、すみませんでした」
レインハイトはマルスの笑顔に応えるように、できるだけ誠意を込めて言葉を発した。無論、申し訳ないと思っているのは本心である。シエルを突き飛ばしたことに対する仕返しとしては、流石にあれはやり過ぎだったと今になって反省もしていた。
「ふむ、まだ幼いのに礼儀正しいのう。して、話とは何かな、シエル」
「はい、おじい様。実は……」
族長はシエルの祖父であった。その事実にレインハイトは少し驚いたが、顔には出さず、黙ってシエルの声に耳を傾けた。
祖父に対して、シエルは狩りに出てから村に帰ってくるまでの経緯をかいつまんで話した。
シエルはなるべく丁寧に、自分はレインハイトのお陰で助かったのだということを強調した。彼は村人に手を上げた罪人などではなく、自分を救った恩人であると。その際、勝手に村を抜けだしたことに対して紳士に謝罪もした。恐らく後で父にきつくお叱りを受けるだろうが、それは仕方のないことだろう。
シエルが話し終えるのを黙って聞いていたマルスは、険しい面持ちで顎鬚をひとなですると、ふっと表情を崩し、柔らかな笑顔を浮かべた。
「なるほどの、大変じゃったな、シエル。レインハイトくんも、よく孫を救ってくれた。村を代表して礼を言う。……ありがとう」
シエルの必死な説明の成果か、族長はレインハイトに嫌な顔ひとつせず頭を下げ、「エミールもきっと悪気はなかった、こちらからも厳しく言っておくから許してやってくれ」と付け加えた。
レインハイトはそれに軽い衝撃を受けつつ、快く要求を承諾した。やはりエルフが気難しい種族だという情報は間違っているのではないだろうか。
レインハイトがそうして目を白黒させている間に、シエルは彼をしばらく村に置いてあげられないか、という交渉を始めた。彼には記憶もなければ、所持金も無い。森の主を倒してくれた彼をこのまま村の外に追い出すというのは、あまりにも可哀想だと。
「……ふむ、記憶が無いとはそなたも災難じゃったな。そなたは主を倒してくれた。あれにはほとほと手を焼いておったのだ。その功績に対する礼として、そなたさえ良ければこの村に滞在することを許可しよう」
族長は人の良い笑みを浮かべ、シエルの提案を承諾した。
この人は孫に甘いのだろうか、それとも、森の主を倒したことがそれほど好印象だったのだろうか。そんなことを考えつつ、レインハイトは静かにシエルとダークガルムに感謝しておいた。
その時、ふと横を向くと、笑顔を浮かべたシエルと目が合った。彼女があまりにも嬉しそうに笑っていたため、レインハイトもそれに釣られ、彼女に向けて不格好な笑顔を浮かべた。
その様を温かい目で見守っていたマルスは、何かを閃いたかのように手を打った。
「……そうじゃ、調度良い。エリド、お前のところでレインハイトくんを預かってもらえんか? 面倒を見るからにはわし等の目が届く場所で過ごしてもらったほうが良いじゃろう。……ふふ、シエルとも仲が良さそうじゃしな」
最後の一言に妙な含みを持たせつつ、マルスはシエルに父と呼ばれていた男性に目を向けた。どうやらシエルの父親はエリドという名らしい。
「はい、私はかまいません。……ロイ、お前はどう思う?」
ロイというのは、残ったもう一人の従者だろう。艶のある金髪に、エリドに似た顔立ちの青年だ。
どこか飄々とした雰囲気持つロイという青年は、シエルに向けて笑みを浮かべ、声を発した。こちらの笑顔はマルスのような人懐っこい笑みではなく、何か企みがあるかのような意味深な笑みである。
「そうですね、シエルもかなり懐いているようだし、いいんじゃないですか? ……つーかシエル。お前こいつにほの字だろ」
後半の言葉は青年がシエルに耳打ちするように囁いたため、少し離れた位置にいたレインハイトには聞き取ることができなかった。
ロイという青年が元の位置に戻ったのを確認し、聞き取れなかった言葉が気になったレインハイトはシエルの方に目を向けた。すると、レインハイトと視線が交錯したのを境に、可愛らしくぽかんと小さく口を開けていたシエルの白い頬が、まるで肌に直接染料を垂らしたかの如く、みるみるうちに赤く変化した。
「お、お兄ちゃん! 何言ってんの!? ……ばか!」
「いてっ」
顔を赤くしたシエルは、ロイという青年の背中を勢い良く叩いた。あれはかなり痛そうだ。
会話から察するに、ロイという青年はシエルの兄らしい。蓋を開けてみれば、この空間にいる人物はレインハイトを除き、全員シエルの身内だったのだ。彼女が妙に落ち着いていたのもそのせいだろう。
「決まりじゃな。ではエリドよ、後は頼んだぞ」
「はい。シエル、レインハイト。……行くぞ」
エリドが族長に深々と礼をし、族長の家を出て行く。レインハイトもそれに習い礼をし、出口へと歩みを進めた。ロイはこのまま族長の補佐を続けるらしい。
「じゃあなシエル。頑張れよ」
レインハイトが家の出口に差し掛かった時、ロイがニヤニヤとしながらシエルに声をかけた。シエルに伝えるだけであればささやき声でも耳に届く距離なのだが、ロイはわざわざレインハイトにも聞こえるように大きめの声を発したようだ。
一体何を頑張るのだろうか、とレインハイトが首を傾げていると、
「お兄ちゃん、うるさい!」
とシエルが喚いた。
励まされたというのに、何故かむくれたシエルはそれを捨て台詞にし、急ぎ足でエリドを追いかけていった。先程もシエルは怒っていたようだし、もしかしたら兄と仲が悪いのかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えつつ、レインハイトは笑みを浮かべる族長とロイにもう一度深く礼をし、早足でシエルを追いかけた。
◇
程なくして到着したシエルの家は、かなり大きかった。族長の家ほど大きいわけではないが、これならレインハイト一人増えてもまだまだ余裕がありそうだ。
エルフの村の家はすべて一階からなる平屋であるらしく、背の低い円形の民家が続々と連なっている。家々の間隔は短く、近所付き合いが盛んに行われていそうだ。
フェアリード家にお邪魔したレインハイトがきょろきょろと物珍しそうに屋内を眺めていると、不意に肩を叩かれ、エリドに話しかけられた。
「先程は失礼した。シエルの父の、エリド・フェアリードだ。この度は娘の命を救っていただき、感謝している」
そう言うと、エリドは真摯な態度で頭を下げた。
「いえ、こちらこそ面倒を見ていただくことになり、感謝しております。できる限り、迷惑はかけないように致しますし、なにか言いつけていただければ、僕にできることであればやらせていただきます。不束者ですが、どうぞよろしくお願い致します」
と、返すように律儀に応対したレインハイトを眺め、関心したのか、エリドは目を見開いた。
「ほう、最初から思っていたが、やはり礼儀正しいな。貴族の出か? ああいや、記憶が無いのだったな、すまない。しかし、ロイとシエルにも見習ってもらいたいくらいだ」
エリドは硬い表情を少し崩し、笑みを浮かべた。少し頑固そうなところがあるが、いい人なのだろう。レインハイトも笑みを返しておいた。
「今日は色々と疲れただろう。何かやれとは言わん。自由にしていてくれていい。どうしても暇で仕様がないと言うのなら、シエルの相手でもしてやってくれ。……では、私は族長の護衛に戻る」
エリドはそう言い残すと、静かに家を出て行った。これで家に残ったのはシエルとレインハイトのみだ。要するに、二人きりである。
それからしばらくして、そっぽを向いてしまっていたシエルが、おずおずとレインハイトの方を向き、口を開いた。
「あ、あのさ、レイン。助けてくれてありがとう。忙しくてちゃんとお礼言えてなかったからさ、えへへ」
「シエルも助けてくれたから、お互い様だよ。こちらこそありがとう。……あ、そう言えば下着、履き替えたほうがいいんじゃないか? そのままだと後でかぶれたりするかもしれないぞ」
とレインハイトはシエルの股の下の水たまりの件を思い出し、からかうつもりもなく、単にシエルを心配してそう述べた。目上に対し敬意を払うことはできても、デリカシーという概念は彼には存在していないようだ。
「なっ! ……わ、わかった。着替えるからあっち向いてて!」
せっかく勇気を出してお礼を言ったのに、どうしてこうなってしまったのだろう。シエルは涙目になりながらも、泣く泣く着替え始めた。
冷静に考えてみれば、どちらかが部屋を移動してから着替えればよかったのだが、そんな単純なことにさえ気付かないほど、そのときのシエルは動転していたのだ。
それ故に、悲劇は起きた。
「あっ……」
小さな悲鳴とともに、どてっ。という音が辺りに響いた。立ったまま着替えていたシエルが、下着を履き替える際に転んでしまったのだ。
「シエル? だいじょ……あ」
音の発生源に反射的に振り向いたレインハイトの目に飛び込んできたのは、陶器のように白い尻、そしてそこからしなやかに伸びる細い脚であった。その正体はもちろん、彼に無防備な臀部を向ける形で地面に蹲ったシエルである。
上半身を包む衣服の布はちょうど腰の上辺りで途切れており、その下に続く下半身には現在下着すら身につけておらず、少女の眩しい素肌が惜しげも無く晒されている。足首に新しい純白の下着が引っかかっているところを見ると、一部始終を見ていなくとも、履き替える途中で転んだのだろうということが容易に理解できた。
色白の少女の体躯は、まだ発育途中とはいえよく鍛えられており、かと言ってゴツゴツしているわけではなく、しなやかで健康的だった。綺麗なくびれ、突き出た尻、そして美しい脚線美は、見る者を釘付けにする魅力があった。それは幼いレインハイトにさえ抗いがたい魔力を放ち、まるで首を固定されているかのように視線を逸らすことができず、眼前の素肌の色とは対立するかのように、レインハイトの顔は急速に赤みを帯びていった。
「……っ! いつまで見てるの! ばか!」
シエルは羞恥に我慢できなくなり、蹲った姿勢のまま器用にレインハイトの足首を蹴った。
「あっ! ごめ……うわっ」
油断していたレインハイトはその一撃でバランスを崩し、あろうことか、己の足元で蹲る半裸の少女に覆いかぶさるように倒れ込んでしまった。
その直後、このままではシエルが怪我をする、と瞬時に判断したレインハイトは、必死で両手を前に突き出し、何とか激突だけは免れることに成功した。間一髪である。
「いてて……何も蹴らなくても……」
目を開けたレインハイトに映ったのは、乱暴に右手を押さえつけられ、何者かの手に服の上から左胸を掴まれ、涙目で羞恥に震える少女だった。
一体誰だこんなことをする不届き者は、とレインハイトは現実逃避しかけたが、手に伝わる感触が、他の誰でもない、自分自身の仕業だということを示していた。
彼は現在、己の右手に伝わる感触に戸惑っていた。幼いながらも少し膨らんだシエルの胸は、柔らかく温かい。その蠱惑的な感覚は、レインハイトが必死に冷静になろうとする意思を妨げ、彼の脳内を大いに混乱させた。急いで身を起こそうとはしているのだが、倒れた衝撃で互いの脚が絡みつき、身動きが取れない。
「レイン……」
てっきり先程よりも凶悪な表情で罵倒を浴びせてくると思っていたのだが、シエルは何故かうっとりした表情を浮かべ、まっすぐに目を見つめてくる。互いの距離は近く、そこから生み出される不思議な空気に当てられ、レインハイトの鼓動が早鐘を打った。
出会ってから今まで、レインハイトはシエルのことをよく見ていなかった。もちろん美少女であることは理解していたのだが、こうして彼女に覆いかぶさり、その大きく可愛らしい瞳、小さく整った鼻、きつく引き結ばれた薄紅色の唇を間近で見る機会を得たことで、ようやく少女の持つ魅力の強大さに気付かされたのだった。
エミールが俺の認めた女だとかふざけたことを言ってたがとんでもない。あんな奴にシエルはやらん、などと錯乱しながら、レインハイトは重力に引き寄せられるかのごとく、徐々にシエルへと己の顔を近付けていった。
「シエル……」
レインハイトがすがるようにシエルを見つめる。
「レイン……いいよ」
お互い何がいいのかわからなかったが、シエルのその言葉が起爆剤となった。
戸惑いつつもレインハイトがシエルの後頭部に優しく手を回し、その唇へと口付けをしようとした……次の瞬間、
(……何だ? ……って何してんだ俺!)
レインハイトの脳に軽い電流が走った。原因は分からなかったが、幸か不幸か、その電流が我を忘れたレインハイトに状況を把握するきっかけを作った。
即座に理性を取り戻したレインハイトは、何故か目を瞑り可愛らしく唇を突き出しているシエルから離れようと必死に身を捩らせた。こんなところをシエルの父親にでも見られてしまったら、今度こそ本当に森で彷徨うことになるに違いない。
しかし、その時には既に冷静になるのが遅すぎていたのだ。レインハイトは数分後、もう少し早くシエルから離れていればよかったと後悔することになるのだった。
「あらあら。二人共おませさんね」
唐突に発生した第三者の声で我に返った二人は、ほぼ同時に飛び起きた。そのままレインハイトはシエルに背を向けて正座し、シエルはいそいそと服を着始めた。予め打ち合わせていたかのような見事な動きである。
「あら……邪魔しちゃったかしら?」
することの無くなったレインハイトは、戸惑ったような声を上げる第三者の方を見た。
肩まである美しい金髪、おっとりとした印象を受ける優しい眼差し、歳は二十代くらいだろうか。スタイルも良く、美人だ。レインハイトはこの女性にどこかシエルに似ている印象を受けた。
「お、お母さん! これは違うの!」
素早く着替えを終え、頬を染めたシエルが慌てて言い訳を始める。
なるほど、似ていると思ったら、シエルの母親だったのか、とそれを現実逃避気味に傍観していたレインハイトは、一人納得した。
「えっと……はじめまして、レインハイトです。しばらくお世話になります、よろしくお願いします」
シエルがひと通り説明し終わったところで、レインハイトは自己紹介した。
因みに、シエルの必死な弁解による半ば強引な決着ではあったが、先ほどの件は一応事故ということになった。
「あらあら、これはどうもご丁寧に。ミレイナ・フェアリードと申します。シエルとロイの母で、エリドの妻です。あまり緊張しないで、自分の家だと思ってくつろいでね」
ミレイナというシエルの母親は、エルフではなかった。特徴的な長い耳ではなく、レインハイトと同じ形の耳である。おっとりとしつつも、その所作には気品があった。人族とエルフの子ということは、シエルとロイはハーフエルフというやつなのだろう。
ミレイナとしばらく談笑したあと、レインハイトは少々手持ち無沙汰になってしまった。これからシエルは洗濯、ミレイナは夕食の準備にとりかかるそうだ。
二人には手伝いをやんわりと断られてしまったため、現在レインハイトは暇を持て余していた。何をしようかと考えた末、ミレイナに夕飯までには戻ると伝え、せっかくなので少し村を見て回ることにした。
外に出て少し近くを彷徨いてみたが、特に誰かに止められることもなく、自由に動き回れそうだ。
この長耳族の村は、田舎という言葉がしっくり来る野趣に富んだ村である。現在の季節は農繁期なのか、忙しそうに畑で働くエルフが多い。
何を育てているのかはさっぱりわからないが、恐らくこの村の食生活を支えているのはこうした農家達なのだろう。そろそろ夕食時だというのに、多くの村人たちがせっせと農作業をしている。レインハイトは物珍しそうにそれを眺めながら歩いた。
周囲を観察しながらのんびりと歩いていたレインハイトは、自分でも気づかない内に小高い丘へと到着していた。傾斜がかなり急であり、頂上まで登れば丘の下の人間に見つかることはないだろう。
レインハイトは丘の中心まで進み、その場に腰を下ろした。胡座をかいた状態で右手を前に出し、念じる。
レインハイトが何の為に人気のない場所を探していたかといえば、自分の身に起きた不可思議な現象を、できるだけ他人の目に触れずに詳しく調べたかったからである。
森で目覚めてから現在まで、やむを得なかったとはいえ、自分でもわけの分からない力を二度も使っている。こんな状態でこれからも得体の知れない力に頼るというのはかなり不安であった。
そこで心配性なレインハイトは、なるべく早い内に己に宿る得体の知れない力の正体を見極めようと考えたのだ。
レインハイトが武器をイメージして念じると、前回・前々回と同じく、周囲に赤黒い霧が発生した。霧は右手を中心にぐるぐると渦を巻き、やがてその手のひらへと収束していく。
今回イメージしたのは今までのような巨大な大剣ではなく、直径一メイルほどの細身の長剣である。柄の部分が最も最初に形作られ、そこを起点とし、柄から左方向に黒光りする鋭い刃が徐々に伸びていった。
よく目を凝らしてみれば、その見事な直剣は赤黒い光を放っており、どこか血液のような印象を受ける。よもや自分の血液で作られているなんてことはないだろうが、しかしそうでもなければ一体どこからこれほどの質量の物質が生成されているのだろうか。
レインハイトは地面に座ったまま三回ほど軽く剣を振り回し、具合を確かめたあと、戻れと念じた。すると長剣は形を崩し、赤黒い霧となってレインハイトの体に吸い込まれる。
「ふむ」
レインハイトはふうと息を吐くと、その場に背中から寝転んだ。全身を気だるさが駆け巡っており、武器を形成した事による疲労が溜まっていた。どうやら無制限に使用できるというものでもないらしい。
レインハイトはこれまでの実験により、黒い霧の正体をある程度予想していた。思案顔で頭の中の考えをまとめる。
恐らく、あの赤黒い霧の正体は魔力だろう。霧そのものが魔力なのか、霧を動かしている何かが魔力なのかはまだ完全には判別できないが、武器の生成に何らかの形で魔力が関わっているのは間違いないはずだ。
シエルが目の前で魔法を使用した際、レインハイトは確かに魔力の流れを感じることができた。『なんとなくそう感じた』というような不確定的なものではなく、確実な感覚だ。
レインハイトは、一般に「魔力」と呼ばれるものに対し、とかく敏感であった。彼がその気になれば、魔法を発動させる際の魔力の流れを正確に読み解くなどという曲芸じみた芸当はもちろん、読み取った魔力の流れを寸分違わず再現し、魔法を模写するという恐ろしく繊細な作業すら可能なほどである。
彼の感覚では、シエルが魔法を使用した際に感じた魔力の流れと、自分が武器の生成を行ったときの魔力の流れが似ているように感じたのだ。己の感覚を信じるならば、赤黒い霧は魔力で操作されていると考えて間違いなかった。
赤黒い霧に一応の決着が着いたので、レインハイトは目を開き、体を起こした。空の具合を確かめ、まだ夕飯には早いだろうと判断すると、再び思案顔で考え事を始める。
レインハイトには記憶がないが、しかし、知識はあった。きっと記憶を無くす前はかなり頭が良かったのだろう。十二歳という年齢とは到底思えないほどに、彼には様々な知識と思考能力があった。
だが、だからと言って自らの知識だけに頼り、この村を飛び出すのは危険だ。今回のダークガルムの件からもそれは大いに見て取れる。これからずっとこの場所に留まり続けるというつもりはないが、しかし、村の外に出るにはまず自分が充分に力をつける必要がある。ダークガルムの一件を経験し、レインハイトはそう強く思っていた。
この世界には危険が溢れている。自分の中の知識も、ミリスタシアの危険を数多く記憶していた。その最たるものが、ダークガルムのような魔物の存在である。
もし自分が完全な記憶喪失の状態だったら……と僅かに想像しただけで背筋に冷たいものが流れ、レインハイトは静かに体を震わせた。きっとシエルの言うことを聞かずに森を抜けようとし、あっけなく魔物の餌食になっていたことだろう。
そうならないようにするためにも、やはり入念な準備が必要だ。レインハイトは現在持てる限りの知識を使い、今後の予定を大雑把に決定した。
「まずは……」
――武器の形成を完璧にこなせるようになることだ。
レインハイトは取り回しやすい片手剣サイズの剣を形成した。ダークガルムの時のような巨大な剣は、使用する魔力の量が多いため形成するのに時間がかかるのだ。その点、片手剣サイズであれば使用する魔力も少なく、かつ高速で形成できることがわかった。
まずはこの形を体に覚えさせることにしよう。そう意気込んだレインハイトは、片手剣を形成しては霧へと戻すという作業を始めた。
まるで何かに取り憑かれているかのように、レインハイトは魔力が尽き、武器の形成ができなくなるまで練習を続けた。
彼は気付いていない。己が焦り、無理をしているということに。本人は記憶喪失を前向きに捉えているつもりなのかもしれないが、その姿は、生き急ぎ、前が見えなくなっているようにも見えた。
記憶が無く、己が何者なのかということさえ分からないレインハイトは、この一寸先すら見据えることのできない暗闇のような状況の中で、自分が心から信用できる「何か」が欲しかったのだろう。それが己にさえ得体の知れない力であったのだとしても、彼には縋れるような何かが必要だったのだ。
結局、日が落ちる寸前まで練習を続けたレインハイトは、薄暗い空の下、疲労により重くなった体を引きずりながら、来た道を引き返していった。