偽りのアトレイシア 前編
「アトレイシア、どうしたんだ? 治療はもう済んだんだろう?」
カル・レナート等王子派の襲撃者たちとの戦闘を片付け終えた直後、何故か地面に座り込んだままのアトレイシアの元へとたどり着いたジョーカーは、目線を合わせるように膝をついてしゃがみ込み、アトレイシアの顔を覗き込もうとした。
「……ジョーカー? これは……ええと、その……」
膝を抱えるような状態で尻餅をつくアトレイシアは、怪我を負ったのであろう右足首を両手で隠し、ジョーカーの視線から逃れるようにして俯いている。どことなく挙動不審だ。
「ジョーカー殿、理由は不明ですが、どうやらアトレイシア様は治癒魔法が使えないようでして……」
なかなか答えを返さないアトレイシアを見かねたフロードが、すかさず横から助け舟を出した。
「何だと? ……本当なのか? アトレイシア」
「は、はい。申し訳ありません……」
「謝る必要はない。俺が治そう、足を見せてくれ」
アトレイシアの足の怪我を軽いものだと決めつけていたジョーカーの背筋に冷たい汗が流れる。何故自身で治癒ができないほどのひどい怪我である可能性を考慮していなかったのかと、過去の自分に腹を立てた。
少し躊躇した後、アトレイシアは患部を隠すように覆っていた両手を外した。ジョーカーは恐る恐るそれを覗きこむ。
「……見たところ目立った外傷はなさそうだな。痛むか?」
「はい……少し……」
最悪の状態を覚悟していたジョーカーだったが、露わになったアトレイシアの足首に大きな傷跡はなく、ほっと息をついた。少し腫れているように見えるが、軽い捻挫だろう。
冷静になって考えてみれば、アトレイシアは一国の王女である。当然のことだが、生まれた時から王女だったのだ。故に、今に至るまで、周囲の者たちから大層大切に育てられたに違いない。
これまでずっとそんな生活を送ってきたのだから、恐らく、こういった怪我をしたことなど数えるほどしかないだろう。つまり、己の身体に怪我を負った経験がほぼゼロに等しいのだ。
例えば、今回足に怪我を負ったのがシエルだった場合、難なく治癒魔法を使いこなし、すぐに戦線に復帰できただろう。自身が怪我をした経験が多くあり、それを治した経験も同じだけあるからだ。
だが、アトレイシアにはその経験が全くと言っていいほど無い。痛みという感覚に慣れていないため集中を乱され、治癒魔法を発動させることができなかったのだろう。
ジョーカーはひとまずそう結論付け、治療の準備に取り掛かった。フロードの目があるが、先ほど加速を見られているため今更出し惜しみをしてもあまり意味が無いだろう。
「『呼出』――Recovery−02」
ジョーカーは、速記魔法を駆使して中級の治癒魔法である回復を呼び出した。
速記魔法による自然魔法の発現は、術者の直接的な制御がないため精度や威力は一般的な詠唱法に少々劣るが、その代わりとして『完全自立起動』を可能としている。
制御演算処理法陣の補助を受けることにより、魔力という動力さえあれば、例えここから術者であるジョーカーが離れたとしても、『世界の干渉抵抗力』によって存在を消されるまでひたすらに効力を発揮し続けるのだ。
生まれつきの体質で魔力の制御を行える範囲が極端に狭いジョーカーが、どうにかして自然魔法を使おうと試行錯誤した末に生み出した努力の結晶である。
「ジョーカーは治癒魔法まで使えるのですね……」
「以前にも使ったことがあったはずだが、忘れたのか?」
アトレイシアには、以前王都で再会した際に速記魔法を使用して治癒魔法を起動するところを見せたことがあった。まだそう時間は経っていないはずだが、あまり印象に残っていなかったのだろうか、とジョーカーは軽くショックを受ける。
「そ、そういえばそうでしたね! 今思い出しました! あ、あはは……」
しまった、と口に手を当てわかりやすく動揺したアトレイシアは、苦しい言い訳とともに作り笑いをすることで話題を誤魔化した。
そのあまりに不自然な態度に少々不信感を持つジョーカーだったが、今ここで深く追求するほどの問題ではないと判断し、話を進めた。
「アトレイシア、怪我の方はどうだ? そろそろ治癒魔法が効いてくるはずだが……」
「はい、痛みはもうありません。ありがとうございます」
「気にするな、魔法の不調は誰にでもあることだ。……ところで、その怪我はどうやって負ったものなんだ? 事と次第によってはフロードに制裁を……」
ブツブツと物騒な単語をちらつかせるジョーカーに首を振り、アトレイシアは否定の意思を示す。
「ふ、フロード卿のせいではありません……私が未熟だったのです」
「……どういうことだ?」
詳細を求めるジョーカーから目をそらすように俯いたアトレイシアは、少しの沈黙の後、訥々と離し始めた。
「いえ、その……先程馬車に襲撃を受けたとき、いち早くそれに気付いたフロード卿が私を抱えて馬車から脱出させてくれたのですが、慣れない靴を履いていたせいか、地面に降ろしてもらった際にバランスを崩し足を挫いてしまったのです……」
恥ずかしそうに締めくくったアトレイシアの足を覆う『踵の部分が細く尖った靴』を見たジョーカーは、納得とともに少々の気まずさを感じた。つまり、アトレイシアは何の障害もない場所で一人で勝手にすっ転んだ挙句足首を挫いてしまったというわけである。
「そ、そうだったのか。無理に聞き出してしまってすまなかった。……もう立てるか? 手を貸そう」
謝罪と同時に話を逸らし、ジョーカーは未だ地面に尻餅をついた状態のアトレイシアに手を差し伸ばした。
「あ、ありがとう……ございます。ジョーカーは優しいのですね」
一回躊躇した後、おずおずとジョーカーの手を取って立ち上がったアトレイシアは、どこか不服そうな面持ちでそう呟いた。
「そうか? 普通だと思うが……」
「クク……フフフフフ……」
その時、アトレイシアに返答を返したジョーカーの後方で、堪えきれずに漏れ出てしまったというような笑声が聞こえてきた。
「どうしたフロード。気でも触れたか?」
わけの分からないタイミングで唐突に笑い出したフロードの方へ振り返り、ジョーカーはその理由を問うた。
向き合う形となったフロードの仮面の眼窩からは、暗く塗り潰されたジョーカーのものとは違い眼球が覗いているのが見て取れる。
「ククククッ……フフフフ……フフハハハハハハハハッ!」
何がツボにはまってしまったのかは不明だが、フロードはまだ笑い声を抑えることができないようだ。その楽しげに細められた目を睨みつけるジョーカーがいい加減苛立ちを覚え始めたその時、ようやく笑い地獄から脱したフロードが口を開いた。
「フフ……申し訳ありません、あまりに滑稽なやり取りだったもので思わず吹き出してしまいました」
「……お前、俺に喧嘩を売っているのか?」
「おや、まだお気付きでないのですか? ふむ……このままでは流石にジョーカー殿が可哀想です。そろそろネタバラシをしてあげてもよいのではないですか? アトレイシア様……いいえ、オーレリア殿」
確信に満ちたフロードの声を向けられたアトレイシアは、ビクリと大きく肩を揺らし、動揺した。
「……どうしてここでオーレリアの名前が出てくるんだ? フロード、お前やはり頭がおかしくなったんじゃ――」
脈絡もなく飛び出した女騎士の名を耳にしたジョーカーが本気でフロードの頭を心配し出したその時、それを遮るようにして焦燥に満ちた声が上がった。
「フロード卿!? な、なぜ私がアトレイシア様ではないとわかったのだ!」
「……は?」
アスガルド王国の第一王女、アトレイシアの口から飛び出した意味不明な発言に、ジョーカーは数秒間完全に思考を停止した。
もしやおかしくなったのはフロードではなく自分自身なのではないかという疑心暗鬼に陥り、『解析方陣』で自身のバイタルをチェックしようかという考えがジョーカーによぎったとき、口端を釣り上げたフロードの朗らかな声が耳に届いた。
「どうしてわかったのか、ですか……心外ですね。男性であればともかく、私が美しい女性を見間違えるはずがないでしょう? 確かに、アトレイシア様もオーレリア殿も絶世の美女であることに変わりはありませんが、それは同一のものではなく別々の美しさだ。多少変装して誤魔化したとて私の目は誤魔化せませんよ」
「変装だけではなく認識を阻害する魔道具も使っているのだが、それすらも通用しないとは……どういった方法で見抜いたのかはわからないが、流石だな、フロード卿。しかし、冗談にしても私のような女と比べられるのはアトレイシア様に失礼だろう。不敬な発言は謹んでくれ」
通じているようで微妙に噛み合っていない会話を繰り広げるフロードとアトレイシア――に扮していたオーレリア――を眺めるジョーカーは、そこに来てようやく事態を飲み込み始めていた。
彼等の話から察するに、ジョーカーがずっとアトレイシアだと思っていた人物は全くの別人であり、それは王女アトレイシアに変装した女騎士オーレリアだったということなのだろう。
「これはどういうことだ、アトレ……オーレリア。俺は影武者を使うなどという通達は受けていないぞ。アトレイシアは今どこにいる」
オーレリアには適当な任務を与え王都を離れていてもらうようアトレイシアに指示を出していたはずだが、一体何があったのだろうか。状況の把握につとめつつ、ジョーカーはひとまずアトレイシアの居場所を問うた。
オーレリアは「心配するな、私が責任を持って安全な場所に匿っている」と答えると、もう演技をするつもりがなくなったのか、そのままいつもの口調で話しを続けた。
「いやはや、アトレイシア様を言いくるめるのにはかなり苦労したものだ。安全のため私が影武者をすると何度言っても、ジョーカーを裏切る訳にはいかないなどと駄々をこねて聞かなかったのでな、今回ばかりは私も譲るわけには行かなかったゆえ、少々強引になってしまったが身動きを封じて待機してもらうことにした。……と言うか、そもそもこんな危険な作戦にアトレイシア様本人を参加させられるわけがないだろう?」
ふう、と腰に両手を当てたアトレイシアそっくりのオーレリアがため息をつく。
確かに、注意深く観察してみれば顔立ちに少し違和感があり、身長も本物のアトレイシアに比べれば高く、仕草は本来の気品に溢れたものとはかけ離れている。何故今になるまで気づかなかったのかとジョーカーは自身に対して苛立ちを覚えたが、それが先程オーレリアが言っていた認識を阻害する魔道具とやらの効果なのだろう。声まで同じように聞こえるとは、かなり高性能な魔道具なのかもしれない。
「……確かに、影武者などという手があったならそうするに越したことはないが……しかし、なぜ俺にまで入れ替わったことを黙ってたんだ?」
「そんなもの、私がお前を信用できなかったからに決まっているだろう。アトレイシア様が何故ああもお前を信用しているのかは知らんが、私からしてみればお前も立派な裏切り者候補だ」
オーレリアにきっぱりとそう言い切られ、ジョーカーは仮面の奥で目を見開いた。
「……なるほど、周りのことばかりで失念していたが、言われてみれば俺も相当怪しい人物だったな」
素性も目的も不明ながら、唐突に現れ王女の騎士になった仮面の男。今現在の王女派内において、これ以上悪目立ちしている存在は居るまい。
無論、ジョーカーは王女暗殺を目論む王子派の手先などではないが、その事実は彼の正体を知るアトレイシアただ一人にしかわかり得ないことである。
「自覚はあったのだな……」
呆れたような表情を浮かべるオーレリアから視線を外し、ジョーカーはしばし物思いに耽った。議題はオーレリアの変装についてである。
認識を阻害する術式、オーレリアの言っていたそれに想像がつかないわけではなかった。髪型や髪の色、衣装などの本物と一致している部分の印象を強く与え、逆に顔立ちや体格差などの本来違和感を覚えるはずの差異を誤魔化し、結果的に本物であると誤認させる。種が割れてしまえば効力も薄れるような術だが、その強力さはジョーカー自身が身をもって体験したところだ。
今回はそれを利用したのがオーレリアという味方陣営の人物であったからまだ良かったものの、今後それを敵側にも使用されない保証はなく、もし使われることがあれば非常に厄介である。
今日の作戦を決行するにあたり、ジョーカーはありとあらゆる状況を想定してきたつもりであったが、まだまだ見通しが甘かったのではないかと心中で歯噛みした。もしかしたら、《魔法の門》という強大な力を手に入れたことで、無意識の内に敵を侮っていたのかもしれない。
相手は知性の低い魔物ではなくものを考える人間なのだ。単純な力だけでなく、ジョーカーでは想像もつかないような様々な策謀を巡らせてアトレイシアの命を狙ってくることもあるかもしれない。再三に渡る襲撃の失敗により、今後はよりその兆候が強まることが予測されよう。
そういった事情を鑑みた結果、ジョーカーはアトレイシアの護衛をすることになった際に自身へと定めていた一つの禁則事項を破ることを決意した。
もっとも、禁則事項などとは言っても、禁忌や邪道といった類のものではなく、単にジョーカー個人のポリシーとして避けていた行為というだけであるが。
そうと決めたらジョーカーの行動は迅速だ。手始めとして、その場にいるオーレリア、ついでにフロードの魔力を周囲に張り巡らせてある『解析方陣』によって解析、情報の保存を行う。これにより、ジョーカーは今後二度とオーレリアの変装に騙されることはなくなったということになる。
人間を含め、この世界の生物が持つ魔力は、その個体ごとに終生不変、万人不同の特徴――ジョーカーはこれを『パーソナルパターン』と呼んでいる――を持っている。それらは本来であれば特殊な技法や器具を用いなければ解析することのできない情報だが、ジョーカーの持つ独自魔法の一つ、優れた情報処理能力を持つ『解析方陣』を使用することにより、個人の魔力情報を仔細に調べることが可能である。
いくら正体を誤魔化すことのできる魔道具の力があれど、体内に流れる魔力の性質を変えることはできない。そのため、対象の魔力を『解析方陣』によって解析し、記録した本来の魔力情報との照らし合わせを行えば、その人物が本物であるかどうかを完璧に判断することができるのだ。すなわち、一種の生体認証である。
事実、先ほどの戦闘の際、仮面で素顔を隠したカル・レナートら三名の正体を見破ったのもこの方法を用いたからに他ならない。ジョーカーが解禁した禁則事項とは、この魔力を解析し記憶するという行為を、味方である王女派の者たちや護衛対象であるアトレイシア本人にも行うことであった。
今までジョーカーがその行為を避けてきたのは、それがアトレイシアのプライバシーを侵害する行為なのではないかと考えていたからである。
何故なら、魔力のパーソナルパターンを保存することによって可能となるのは、ただ生体認証を行えるという点だけではないからだ。
ジョーカーの周囲に常時展開されている魔法、『観測方陣』。その範囲内にいる人物の魔力情報を《魔法の門》内に保存されたパーソナルパターンから参照することにより、対象の居場所を把握することができるのである。先程の作戦中、ジョーカーが周囲に散った護衛の魔道師達の位置情報を正確に確認できたのはこの方法を使用したためであった。
つまり、一度魔力のパーソナルパターンを記録された者は、ジョーカーがその気になればいつでも現在位置を把握されてしまうということだ。前提として、展開された『観測方陣』の範囲内であればという条件はついているが、その効果範囲は術者の意思で自在に広げることができるため、膨大な魔力を持つジョーカーが本気になった場合、発見されずに逃れるのは至難である。
当然ながら、それはジョーカーが対象の居場所を把握しようと行動しなければ開示されることのない情報であり、第三者の目に触れることもないものである。しかし、いくら護衛と言えど、うら若き乙女であるアトレイシアにとって、男であるジョーカーがいつでも居場所を把握できてしまうという時点で相当なストレスを与えてしまうのではないかと考えたのだった。
無論、アトレイシア本人にはその事実を秘匿し内密に魔力を採取するという選択肢も考慮したが、平民である自分を対等な友人のように信頼してくれているアトレイシアを騙すのはできれば避けておきたかったため、それもやむなく却下となった。
しかし、ジョーカーのその考えは今回の作戦を経て百八十度変化した。なにせ、場合によっては命にかかわる事態なのだ。プライバシーに配慮する余裕などどこにあるというのか。
自身には他者を圧倒する力があるのだと慢心し、その結果取り返しのつかない失敗を犯すなどという愚かな末路をたどるのはまっぴら御免である。ジョーカーは緩みかけていた気を締め直し、決意を新たにした。




