ジョーカーの本領
自信に満ちたジョーカーの呟きは、数十秒前までアトレイシアが乗っていた豪奢な馬車のもとで待機するフロードの耳にも届いていた。
まだ攻撃の気配を感じることはできないが、ジョーカーがこの場面で適当なことを言うとは信じ難い。
フロードは生み出した魔力を集めると、すぐに無詠唱魔法で迎撃できるように用意し、未だ現れぬ襲撃者の姿を探す。
フロードが取った行動は、右手に攻撃魔法を、左手に防御魔法をそれぞれ準備することにより、敵の襲撃を防ぐと同時に反撃を行うという二段構えの戦法である。
一般的な魔道師ならば到底不可能であろう無詠唱魔法の同時発動だが、フロードは王都最強の纏魔術師と名高いオーレリアの対となる、最強の魔道師とされる男だ。その程度のことは平然とやってのけるのだろう。
敵側の立場になって考えてみれば、襲撃パターンとして最も可能性が高いのは周囲の町民に紛れての奇襲か。さて、どう攻めてくる。
フロードの迎撃準備が万全に整ったその刹那、“それ”は唐突に訪れた。
「……ッ!?」
生物としての本能か、魔道師としての直感か。
フロードは、頭で意識する前に飛来した脅威へとその目を向けた。
瞬間、標的ではないフロードにすら死を直感させるほどの凄まじい圧力とともに、アトレイシアへ向かって一直線に進行する“何か”が飛び込んできた。
魔力を目に集め動体視力を高めることでかろうじて視界に捉えることのできたそれは、音を置き去りにして突き進む一本の矢であった。
矢の速度は音速を軽く超え、なおも加速を続けているように見受けられる。
その物理法則をあざ笑うかのような現象を引き起こしている原因は、無論、世界を改変する神秘、『魔法』にほかならない。
目に見えた異変がないことから察するに、恐らく強力な風属性の魔法が付与されているのだろう。
「――『防陣』!」
焦燥するフロードは、先程から用意していた防御魔法を発動し、なんとか矢を食い止めようと試みる。
フロードが使用したのは、主に防御をする目的で使用される無属性の下級魔法だ。
直後、術者の意思に応え、アトレイシアと矢の間に割り込むようにして魔法陣が発生した。
仄かに光る魔法陣は、質量を持たないにもかかわらず、物理的な衝撃を緩和する壁としての役割を果たす――はずだった。
音速の矢が魔法陣に接触した次の瞬間、圧倒的な速度で進行する矢は、フロードが発動した魔法の障壁を薄紙一枚かのように安々と貫くと、その勢いを僅か程にも弱めること無く直進し続けた。
「馬鹿な……ッ!」
自身の予想を遥かに飛び越えた現象を前に、フロードはそう吐き捨てることしかできなかった。
いくら風属性の魔法の加護が強力なものとはいえ、付与されている魔法がそれだけであれば矢そのものの強度は変わることはない。
そして、フロードが使用した防御魔法は、たかだか矢の一本程度を止められないような貧弱な魔法ではないはずだった。
それならば例え放たれた矢が通常の数倍の速度を持っていたとしても、障壁は受けた矢の軌道をずらし、減速させる程度の効果は発揮してしかるべきである。
しかし、実際にフロードの目に映る矢には傷一つ無く、速度も障壁に接触する前とさほど変わってはいなかった。
苦虫を噛み潰したように口元を歪めたフロードは、残された僅かな時間でその原因を推測する。
思考を高速で回転させ、フロードはすぐさま結論を導き出した。
恐らく、敵は放った矢に風属性の魔法を付与するとともに、纏魔術によって矢自体を強化したのだろう。自身の外部へ魔力を放つ『放纏』の応用である。
つまり、一見ひどく脆そうに見えるあの音速の矢は、”見た目通りの強度”ではないというわけだ。
してやられた、小癪なことを、とフロードは歯噛みするが、今更になって悔しがったところで後の祭りである。
気付けば、疾走する矢は既にアトレイシアとの距離を僅か数メイル程にまで詰めてしまっていた。あと一秒も経たぬ内に、あの矢は彼女の胸を貫くだろう。
これは己の力が至らなかった結果だ、とフロードはせめて最期まで目を逸らぬようにと決意し、アトレイシアの姿を自身の目に映した。
せめてもの抵抗か、アトレイシアは自身の両腕を胸の前で交差させ、防御の構えを取っている。
しかし、飛来する矢はフロードの『防陣』を持ってしても軌道すら変えることができなかったのだ。アトレイシアの細腕などが大した障害になるはずもなく、容易く突破されてしまうに違いない。
胸の奥を諦観が支配し尽くそうとしたその刹那、
「な……ッ!?」
眼前に起こった唐突な変化に、フロードは両眼を剥いて驚愕した。
(……魔法陣……だと?)
何の気配も前触れもなく、青白く光を放つ魔法陣が文字通り瞬く間にアトレイシアの前方に現れたのだ。
その展開速度は、魔法名のみで魔法を発動させる無詠唱魔法を持ってしても到底到達不可能であろう域にまで達している。
幾百、幾千と魔法という名の神秘を目にしてきたフロードであったが、その経験を持ってしても、目の前で起きている現象に納得の行く説明をつけることができなかった。
しかし、当然ながら現実はフロードが落ち着きを取り戻すのを待つことはなく、着々と時を刻んでいく。
そして、そう時を待たずして音速の矢と青い魔法陣は接触の瞬間を迎えた。
光を発しながら回転する魔法陣に、放たれた矢の鏃が触れる。
予想に反し、矢と魔法陣に変化はなかった。矢はこれまでの速度を持ったまま進行を続け、魔法陣もその場にとどまったままである。
進行する矢の速度が落ちる気配がなかったため、フロードの期待は徐々に薄れていった。
しかしその数瞬後、はたと異変に気付く。
(矢が……突き抜けない……?)
突如現れたあの魔法陣が防御魔法であったならば、その結果は矢の進行を防ぐか、または矢に貫かれてしまうかのどちらかである。
だが、音速の矢は既に全長の半分ほどを魔法陣に侵入しているにもかかわらず、一向に突き破る気配がないのだ。
そしてそのまま何の異常も番狂わせも起きず、まるで水底へ沈んでいくかのように、襲撃者が放った矢は魔法陣に飲み込まれるようにして消えていった。
矢を吸収した魔法陣は、これで自分の役目は終わったとでも言うかのようにその場から跡形もなく姿を消す。
「……ふう」
緊張の糸が切れたのか、フロードは大きく息を吐いた。
一時は王女の死を覚悟したが、終わってみれば実にあっけないものである。
一呼吸置けたことでこの絶望的状況をあっという間にひっくり返してしまった者の正体に見当がついたフロードは、答え合わせをするような気分でその人物の方へと目を向けた。
果たして、その予想は的中していた。
フロードの視線の先に立つ黒ずくめの男――ジョーカーは、最初から矢が的中しないことを知っていたかのように、アトレイシアに背を向けるようにして立っていた。
事実、音速の矢を飲み込んだ『異次元空間』の操者であるジョーカーは、この状況を既に先見していたのである。
そして、そのさらに先までも想定していたからこそ、この現場で最も早く次の行動を取ったのも、やはりジョーカーであった。
魔力を行使すれば、そこには必ず痕跡が残る。それは魔法であろうと纏魔術であろうと変わることはない。
あらかじめ自身とアトレイシアを覆うようにして展開していた『観測方陣』が襲撃者の放った矢を感知したその瞬間、ジョーカーはそれを防ぐための『異次元空間』を発動させるとともに、その裏でもう一つの術式を起動していた。
その魔法の名は、『解析方陣』。
以前アトレイシアを襲った魔道師の嘘を看破した際にも使用していたこの魔法は、対象の身体情報を解析することはもちろん、範囲内に侵入した魔法や、僅かな魔力でさえも詳細に解析することができるのだ。
魔力に対して鋭敏な感覚を持つジョーカーでさえも感知することのできない霞のような魔力を辿り、『解析方陣』は襲撃者への軌跡を導いていく。
そして――
「そこか……!」
低く、確信を帯びた声音でそう呟くと、ジョーカーはわずかに首を回し、仮面の眼窩の先を睨みつけた。
距離にして3キロメイル程度だろうか。その仮面の向く先には、一つの人影があった。
高く見通しの良い建造物の屋上に立つその人影は、屋根の縁に片足をかけて身を乗り出し、こちらを窺うようにして覗き込んでいる。
残念ながら目深に被ったフードに遮られてしまい顔を確認することはできないが、その大柄な体格から見て、襲撃者は恐らく男なのだろう。
纏魔術によって視力を強化し、ジョーカーが指し示す人影を捉えたフロードは、そのあまりに開いた距離に息を呑み、その位置から正確に矢を射った襲撃者の技量に戦慄した。
「敵の位置はわかりましたが……これでは手が出せませんね」
こちらから反撃をしようにも距離が離れすぎている。強引に標的に届く程度の魔法を使用することもできるが、そんなことをすれば街の被害は免れないだろう。
いったいどうしたものか、とフロードはジョーカーに問うた。
「それはどうかな」
フロードの予想に反し、ジョーカーから返ってきたのは意味ありげな否定であった。
「何か良い策でも?」
「まあな――」
頷きを返したジョーカーは、続けて、
「――やられたからにはやり返してやるのさ。“奴と全く同じ方法”でな」
言い終わるとほぼ同時に、ジョーカーは音も無しに魔法を起動した。
襲撃者に向けて伸ばされた手のひらの先、そこに一つの魔法陣が現れる。
落ち着いた青い光を放っていた先ほどのものとは違い、その魔法陣の光は攻撃的な赤であった。
しかしながら、この赤く光る魔法陣は、先ほどの青い魔方陣と同じ『異次元空間』へと通じる門を開く魔法陣である。
同じ場所に通じているという共通点を持ちながらも全く違った色を放つその二つの魔法陣は、当然ながらそれぞれ別々の役割を持っていた。
青の魔法陣は、触れたものを『異次元空間』へと飲み込む役割を、そして、赤の魔法陣は『異次元空間』から飲み込んだものを“吐き出す”という役割を持った魔法陣である。
「――『反転放出』」
ジョーカーの指示に従い、赤色の魔法陣から凄まじい速度で”何か”が射出された。
「矢を撃ち返した……!?」
フロードが驚くのも無理はない。『異次元空間』から吐き出されたそれは、先程飲み込んだ襲撃者の矢であったからだ。
先刻はアトレイシアを脅かす脅威だった音速の矢は、今度は持ち主の襲撃者を貫く軌道で直進していく。
相手が矢に付与した魔法と纏魔術による強化はそのまま生かし、術者による制御のみを強制的に奪い取る。
それがジョーカーの使用した『反転放出』のからくりである。
フロードの呟きから数瞬後、空を切り裂き突き進む矢は、あっという間に標的の間際までたどり着いていた。
両の眼球に魔力を集め、錬纏により視力を強化し、ジョーカーは敵と矢が接触する瞬間を見つめる。
ジョーカーの『反転放出』発動から少し遅れて、自身の放った矢が跳ね返されるようにして迫ってきていることに息を飲んだ襲撃者は、その刹那、驚異的な瞬発力で上半身を大きく後方に反らした。
脳天を正確に狙った一撃は、逃げ遅れた襲撃者の頭髪を僅かに切り取るだけに終わった。
行き場を失った矢はそのまま直進を続け、その後方十数メイルほど先にある大木の幹へと深く突き刺さる。
「チッ……避けたか」
「しかし、後ろに大木があって幸いでした」
標的に的中はしなかったものの、町への被害は最小限に抑えられた形だ。
フロードは静かに胸を撫で下ろすが、しかし、それは偶然の出来事ではなかった。
的を外した矢が市街へ降り注がずに済んだのは、万が一に備え、ジョーカーが『反転放出』の射出角度を緻密に計算していたためである。
人の手だけでは成し得ることのできない、機械的と言っていいほどの精密魔法制御は、あらゆる魔法を内包し、それを統制する常駐起動型多重魔法《魔法の門》によるものに他ならない。
体質的な理由で魔法の『制御』が行えないジョーカーの欠点を補って余りあるこの魔法は、自他共に(寂しいことに『他』に該当する人物は今のところ一人しか存在しないわけだが)認めるジョーカーの最高傑作である。
「…………」
だが、ジョーカーは微動だにせず押し黙り、フロードの勘違いを訂正することはしなかった。
単に口を開くのが面倒であるという理由もあるが、ジョーカーにとって、自身の扱う魔法についての過小評価は歓待すべきものなのだ。
一般的な魔導師とは真逆を行く信念だが、それにはきちんとした理由がある。
ジョーカーが扱う《魔法の門》に内包された魔法の数々は、そのほとんどが彼のみが扱える”極めて特異な技術”を使用して作成され、作動している。
その極めて特異な技術とは、本来実現不可能とされている『世界の干渉抵抗力』の影響を受けない魔法を生み出すことができるというものである。
世界の均衡を保つため、魔法の継続的な行使を妨げる絶対的な秩序の力。人間というちっぽけな存在では決して破ることのできない強固な壁。
それが『世界の干渉抵抗力』というものだ。
このアスガルド王国で一般的に使用される自然魔法を例に出せば、種類によって長短はあれど、その持続時間は数十秒から数分の間である。数日ほど保つことはもちろん、数ヶ月間魔法陣が作動し続けるということはまずあり得ない。
しかしそれを嘲笑うかのように、ジョーカーの《魔法の門》は、半年以上前から現在に至るまで、その内に秘めた数えきれないほどの魔法を余すことなく制御し、今もなお作動させ続けている。
魔導師となってから日が浅いジョーカーだが、初めて《魔法の門》の起動に成功した際、それが百年以上続くこの世界の魔法史をひっくり返しかねないほどの異常事態だということはすぐに理解した。
それほどまでにとんでもない世紀の発明を、仮に他の魔道師に知られてしまったらどうなるだろうか。
魔法技術の発展のためだなんだと理由を付けて術式の開示を求められ、応じなければ無理矢理にでも制作方法を吐かせにくるという可能性も十分にあり得るだろう。
それが一般公開できるような代物であるのならここまで苦心することはなかっただろうが、現段階において、『世界の干渉抵抗力』の影響を受けない魔法陣は恐らくジョーカー自身にしか扱うことができないという致命的な欠陥を抱えているのである。
何故自分にしかその技術が使えないのかという原因を究明できていないため、問いつめられた際の答えすら持ち得ていない状態だった。
言うなれば、理論や設計図を製作する工程をすっ飛ばしていきなり完成品を作り上げてしまったようなものだ。
秘密が明るみに出たが最後、そんな状態のものに対して、質問者側の疑問が解消されるまで延々と質疑応答が行われるわけである。
そんな面倒ごとだけは決して起こしてはなるものかと誓ったジョーカーは、《魔法の門》に関しての情報はできる限り秘匿するように行動しているのだ。
「……俺は奴を追う。あんたはアトレイシアを安全な場所に避難させてくれ」
矢を避けた襲撃者の方を睨みつけながら、ジョーカーはフロードに指示を出した。
引き際を悟ったのか、敵は今にもこちらに背を向け走り去ってしまいそうだ。
「一人で向かうのは危険では? 相手の実力は未知数ですし、伏兵がいるかもしれません」
「せっかく釣り針に食いついてくれたんだ。ここまできて逃がしたくはない」
これほどお膳立てをしておいて逃げられましたなどという結末に終わっては、危険を冒してまで作戦に協力してくれたアトレイシアの努力が無駄になってしまう。
「……わかりました。しかし、くれぐれも深追いは禁物ですよ」
「問題ない。すぐに済ませて合流する」
フロードの心配を気に留めることなく、ジョーカーはすぐさま追跡の準備に入る。
「『呼出』――Assist−01――」
魔導師として優れたフロードに独自の詠唱法である速記魔法を見られてしまう上、ジョーカーにとっては貴重な『自然』の魔力特性を持った魔力を消費することになるが、この状況で出し惜しみをしていては襲撃者を見失ってしまいかねない。
リスクばかりを恐れて足踏みしていては、何も掴むことはできないのだ。
「――『二重加速』」
次の瞬間、術者の要求に応え、《魔法の門》は『複写』された魔法を瞬時に『転写』した。
重なり合う二つの魔法陣は、その効果こそ違えど、ある単一の目的のために作られた無属性魔法のものだ。
次の瞬間、地面を蹴る音を残し、ジョーカーは爆発的な加速でその場から走り去った。
「なっ……!?」
自己加速魔法。それがジョーカーの呼び出した魔法陣の正体である。
聞き慣れない詠唱に意識を持っていかれていたフロードは、僅か一瞬で視界から消えたジョーカーに度肝を抜かれた。
通常の詠唱とは明らかに違う詠唱法だが、無詠唱魔法とも毛色が違っていた。
発動したのは無属性魔法のようだったが、二つの魔法陣が同時に起動したように見えたのも見間違いではあるまい。
「全く、つくづく常識はずれな男ですね……」
今日一日だけで、あのジョーカーという男に一体何度驚かされただろうか。
あまりに驚きすぎたためか、フロードは最初に比べてある程度耐性ができてしまっていた。感覚が麻痺してきていると言い換えてもいいだろう。
「さて……」
ジョーカーについての興味は尽きないが、今はそんなことを考えているような場合ではない。
フロードは、未だに状況を把握できていないのか、呆けたままその場に立ち尽くしているアトレイシアの方へと目を向けた。
「一方的に任された仕事ではありますが、お姫様のエスコートの続きをするとしましょうか」
敵の攻撃があれで終わりだという保証はどこにもない。作戦はまだ続いているのだ。
自分の役割は、ジョーカーに任された通り、アトレイシア王女を護衛し、身の危険から守り抜くことだ。
「アトレイシア様」
そうと決まれば後は行動に移すだけだ。フロードはアトレイシアに声をかけると、
「私たちは、ひとまず王城を目指しましょう」
この王都アイオリアで最も目立つ長大な建造物、王族の住まう王城へと誘った。
今回も短いですごめんなさい。次回は長めになる予定です。




