森のエルフ
魔導歴一六一年 雷の月(五の月)
背の高い木々が鬱蒼と生い茂る深い森の中。木の葉は青々しく、様々な植物がその芽を出し、地面に彩りを加えている。
大木から長く伸びた枝に生える葉が陽光を遮り、まだ夕刻頃の時間だが、辺りは少し暗かった。
「……生きてるのかな……? ……おーい」
そんな薄暗い森の中、幼い少女が、仰向けになって動かない少年の肩を揺すっていた。
吸い込まれそうな漆黒の髪、白い肌、中性的な顔立ち。傷の目立つ服を着たやや貧相な細身の少年だ。
反応がないことを確認した少女は「困ったな」と呟き、辺りを見回した。
そろそろ日が落ちるし、このまま放置していくわけにもいかない。いったいどうしたものか。こういう時はまずなにをしたらいいんだっけ、と少女は頭をフル回転させて考える。
「そうだ。まず息があるか調べないと」
言うが早いか、少女は少年に顔を近づけ、少年の顔をまじまじと見つめた。同じ年くらいの少年に、あと僅かで顔が触れ合う距離まで接近するのに抵抗がないわけではなかったが、今は緊急を要する状況だ。覚悟を決めて、自らの長い耳を少年の口元に寄せた。
少女は、耳が長いことが特徴のエルフと言う種族だった。種族全体を指す言葉として、長耳族とも呼ばれている。
美しい白銀の髪は、少年より少し長いくらいで、動きやすいように短くまとめられていた。顔にはまだ幼さが残るが、十分に美人と呼べるだろう。血色の良さそうなその白い肌は、健康的な美しさを放っていた。背には弓矢を背負っており、狩りの帰りなのか、仕留めた獲物もそばに置いてある。
少女が少年の口元に耳を寄せると、規則的な呼吸が聞き取れた。
とりあえず少年が生きていることが確認でき、ほっと胸をなでおろした。次の瞬間、
「ぺろっ」
「ふぇ!?」
いつの間にか目を覚ましていた少年が、目の前にあったエルフの少女の耳を舐めた。唐突な刺激に驚いた少女が飛び上がり、数歩距離を取る。その顔は真っ赤だ。
「いきなりなにするの!?」
少女は少年に向かって叫んだ。急に耳を舐められたのだ。当然の反応といえよう。
それに加えて、長耳族の耳は他の種族に比べて敏感である。少し遅れて少女には強すぎる刺激が全身を駆け抜け、背筋がぶるりと震えた。初めて感じる感覚に戸惑いつつも、少女は少年をきつく睨みつける。
「……ん? ああ、ごめん。目の前に珍しい耳があったからつい……悪気はなかったんだ。……ところで、ここはどこ?」
対する少年は落ち着いていた。見開かれたその赤黒い目に邪気は無く、舐められた耳を抑え、半泣きで睨んでいる少女の視線を意に介していない。
「……ここは私達長耳族が暮らしている森だよ。人族がなんて呼んでいるかは知らないけど、私達はこの森を『マナの森』って呼んでる」
少女は少年を睨みつけつつ、律儀に答えた。
(おおお! 本物のエルフだ! ……って、あれ? 何でこんなことで俺は喜んでるんだ? エルフなんてこの世界じゃ当たり前の存在なのに)
少年は己の感情に首を傾げ、ブンブンと首を振り、余計な思考を吹き飛ばした。
それにしても、粗相をしてしまった自分の質問に素直に答えてくれる辺り、割といい子なのかもしれない。少年は微笑みつつ、ひとまず自分の言葉が通じることに胸をなでおろした。
「……おかしいなあ。何で俺はこんなところにいるんだろう。なにも思い出せないや。……と言うか、私は誰?」
少年には記憶がなかった。自分が何者なのか、ここがどこなのか、何故ここにいるのか、全く思い出すことができない。
「えっ? きみ、もしかして記憶がないの?」
先程までの態度を変え、心配そうに少年の顔を覗き込むエルフの少女。
少年はしばらく黙って考え込んでいたが、やはりなにも思い出せないままだ。途方に暮れていると、チリッと一瞬頭が痛み、僅かな記憶が戻った。
それに喜んだ少年は、すぐそばで覗きこむ少女に笑顔で話しかけた。
「心配してくれてありがとう。まだ記憶は無いままなんだけど、自分の名前と歳だけは思い出せたみたいだ。……あ、せっかくだし自己紹介するよ。僕はレインハイトと言います。十二歳です。レインって呼んでください。どうぞよろしく」
そう言って右手を差し出すレインハイト。少女は少し戸惑っていたが、やがてレインハイトの手を取り、握り返した。
「私はシエル。私も十二歳。よ、よろしく」
シエルという少女は、こういったやりとりに慣れていないのか、少し緊張しているようだ。
シエルが手を握り返してくれたことに満足したレインハイトは、再び思案顔で考え事を始めた。
「うーん、これからどうしよう……」
レインハイトは考える。これからどうすればよいのかと。彼はこの世界についての記憶もほとんどなかった。
国や町といった物があるのは知っている。それは記憶にある。しかし、それがどこにあるのか、ここからどう行けばそこにたどり着けるかということが全くわからない。そもそも、記憶を無くす前に自分がどこにいたのかさえわからないのだ。
暫くレインハイトが記憶を絞り出そうと唸っていると、シエルが身支度を整え始めた。
置いて行かれるのかな、とレインハイトは悄然と肩を落とす自分を抑えることができなかった。しかし、行きずりの少女に迷惑をかけるわけにはいかないし、仕方ない。一人で何とか頑張ろう。そう決意した時、
「とりあえず私の住んでる村まで案内してあげる。日が落ちたら魔物も出やすいし、危ないから今日はもう森をうろつかないほうがいいよ」
と、シエルからまるで女神のような優しげな声が掛けられた。
やはりシエルは優しい良い子なのだ。エルフは人間嫌いで無愛想だという知識が片隅にあったが、レインハイトはそんな役に立たない情報は脳内の遥か彼方に押しやった。
「本当に? シエル、ありがとう! あ、それ持つよ」
シエルにお礼をし、レインハイトは彼女の傍にある重そうな獲物を持った。
レインハイトが軽々と獲物を持ち上げたことに驚いたのか、シエルは目を見開きつつ、「意外と気が利くんだね」と礼を返した。どうやら初対面でいきなり耳を舐めた変態少年というイメージが先行しているらしい。
因みに、獲物の正体は大きな猪であった。全長は一メイル程で、横幅も広く、かなり重さもある。文句の付け所がないほどの見事な大物だ。これをひとりで仕留めたというのなら、シエルの狩りの腕前は相当なものだろう。
「まあ、こんな時間の森に置き去りはできないよ。魔物も出たりして危ないし」
魔物。これもレインハイトの記憶にあった。定義は曖昧なのだが、基本的には、人間に直接的な害をなす生物のことを指す言葉である。
通常の生物が魔力の影響を受け凶暴化したものが起源だと主張する説や、進化の過程でより過酷な状況に対応できるように強力な肉体や能力を得て行ったという説がある。
種類は様々だが、通常の生物とは比べ物にならないほど攻撃的なものがほとんどだ。無論、レインハイトやシエルのような子供が襲われたらひとたまりもない。
「そりゃ怖いね。じゃあ急ごう」
「急ごうって……レイン、それ重くないの?」
顔色一つ変えずスピードを上げたレインハイトを唖然として見るシエル。
何がそんなにおかしいのだろうか、とレインハイトは首を傾げた。
シエルはレインハイトの担いでいる巨大な猪を指差していた。この獲物のサイズは、成人した長耳族の男でも運ぶのに一苦労する重量を誇っているだろう、推定百キロ近くはあるのでは……とシエルは思っていたのだが、
「これ? そんなに重くないけど。……強いて言えばデカくて運びづらいのと、獣臭いのが厄介だな」
レインハイトは平然として答えた。その顔は無理をしていいところを見せようとしているようには見えない。素で言っているのだ。
シエルは素直に驚いた。彼は平凡な人族に見えるが、実際は力の強い他の種族なのかもしれない。
実を言えば、レインハイトを見つけた時、シエルは困っていたのだ。大人たちに黙って一人で森に狩りに出向き、獲物を仕留めることには成功したものの、その獲物が重すぎてなかなか帰ることができないでいた。このままでは日が落ちてしまう。急がねばと一生懸命獲物を引きずりながら帰っていたところ、倒れているレインハイトを見つけたのである。
正直なところ、その時のシエルは自分のことだけで手一杯であったのだが、しかし、己が良心に従い、やむを得ず助けたレインハイトがこういった形で役に立ってくれたのは嬉しい誤算であった。
これなら日が落ちる前に集落に帰り、親にどやされることもないだろう。シエルはほっと胸をなでおろし、レインハイトの前を進んだ。
「……? レイン。ちょっと待って」
異変はその直後に起きた。いち早く気配を察知したシエルが右手でレインハイトを制止する。何事かとレインハイトがシエルに問いかけようとした時、それは姿を現した。
黒い体毛に体を覆われた一匹の狼だ。様子を窺うかのようにこちらを睨み、その場から動かない。シエルが素早く背中の弓矢を構えた。流れるような動きだ。しかし、その表情は優れない。彼女は険しい表情で狼を睨み返し、忌々しげに呟いた。
「ダークガルム……」
ダークガルム。狼の魔物である。群れを成し、集団で狩りを行う。その生態は通常の狼とあまり変わらないが、しかし、その個体一つ一つが強力なのだ。魔力によって変異した体毛は鎧のような硬さを誇り、爪や牙は刀剣の如き鋭さ持っている。
どうしてこんなところにダークガルムがいるのだろうか。この辺りの一帯は先日村の大人たちによって一掃されたはずだ。もしかしたら、その時の生き残りなのかもしれない、とシエルは推測した。
レインハイトの抱える獲物の匂いにつられて現れたのだろう。幸い、まだ幼体のようだが、それでも危険な相手だ。子供はまず手を出すなと大人たちにもよく言われている。
「でか……」
と、レインハイトが感想を漏らす。そう、ダークガルムは通常の狼より巨大である。成体にもなると体長は五メイル程にもなり、その巨体に反して俊敏な動きで獲物を翻弄し、狡猾に狩りを行うのだ。
目の前に現れたのは幼体だが、しかし、それでもレインハイトより一回りは大きな体躯を誇っている。全長は約二メイル程度だろうか。その漆黒の狼のたくましい四肢の先からは、鋭い爪が覗いている。
ダークガルムの爪の切れ味は凄まじく、いとも簡単に獲物の肉を切り裂くことが可能である。例え眼前の魔物が幼体だといえども、決して油断はできない相手だ。
ダークガルムも警戒しているのだろう。こちらを睨みつけた状態のまま、なかなか仕掛けてこようとしない。
「レイン! 私の後ろに隠れて」
まずはレインハイトを安全な位置に誘導しなければ、と考えたシエルは簡潔に指示を出した。戸惑いつつも、それに素直に従うレインハイト。
森で狩りをする以上、魔物に遭遇する可能性は必ずある。人間の天敵とも言える凶悪な魔物と相対した場合に備え、例え女子供であろうと、自分の身を守るための訓練は必ず積まされる。
この世界において狩人は、狩猟者であると同時に、戦士であることが求められるのだ。
魔物との戦闘を即座に選択したシエルは、矢筒から矢を取り出し、弓にかけ、力の限り引き絞った。その動きに一切の淀みはない。
その直後、殺気を感じたのか、ダークガルムが弓矢を構えるシエルに向かって唐突に走りだした。恐ろしく俊敏だが、しかし、その動きは単調である。一直線に向かってくるその獣は、格好の的になった。
静かな音を立てシエルから放たれた矢は、駆けるダークガルムの眉間に直撃した。ぎゃいんと悲鳴を上げ、ダークガルムが前のめりに倒れこむ。
「やった!」
と声を上げ、真っ先にレインハイトが歓喜した。
しかし、矢はダークガルムの眉間を貫通することはなかった。硬い頭蓋骨に弾かれ、鏃は砕けている。頭を揺さぶられ脳震盪でも起こしたのか、今のところダークガルムは倒れたままだが、このままではすぐに起き上がり、またこちらに向かってくるだろう。これ以上近付かれたら危険だ。
『アレ』を使うしか無い。シエルはそう判断した。実戦で使うのは初めてだが、今は命の危機だ。父も本当に危ない時は使いなさいと言っていた。今こそ、その本当に危ない時だ。シエルは両の目を瞑り、言葉を紡ぎだした。
「我が契約に従い、風の精霊よ、我が手に吹き荒れる嵐の力を与え給え――『付与・風』!」
シエルは詠唱と平行し、弓を引き絞っていた。慎重に照準を倒れているダークガルムに合わせる。
(……次こそ仕留めてみせる)
詠唱が終わると、構えた弓の前に魔法陣が現れ、発光した。引き絞る矢に確かな手応えを感じることから察するに、どうやら魔法は成功したらしい。
ほっと胸を撫で下ろすシエルだったが、それで気を抜くことなく、自分の力で引けるだけ矢を引いた後、魔物に向けて矢を放った。
レインハイトは、シエルが唐突に詠唱を始めた際、「一体何をしているんだ」と呆気にとられていた。しかし、そう思ったのも一瞬。魔力の流れを肌で感じると、頭の奥がチリチリと痛み、記憶が引き出された。
レインハイトはシエルが何をしたのかをすぐに理解した。
この世界に存在する、絶対的な力。魔の者に対向するために編み出された、人間にのみ使用を許された神の御業、魔法。
そう、シエルは魔法を使ったのだ。
ドシュッ! と鋭い音を立て、先ほどとは比べられないほどの勢いで射出された矢は、いとも簡単にダークガルムの眉間を貫き、その穴から脳髄を飛び出させる。
やがて、ダークガルムは勢い良くドクドクと血を流し、びくりと体を震わせ、絶命した。凄まじい威力だ。
「やった……倒せた……」
その様を見届けたシエルは、呆けたようにその場にへたり込んだ。無事に魔法が成功したことで緊張の糸が切れたのだろう。
「今のって魔法だろ? シエルはすごいな!」
対し、自分のことのように喜ぶレインハイト。二人はお互いに見つめ合い、笑顔を浮かべた。
予想外のハプニングであったが、終わってしまえばあっけないものであった。先ほどまで感じていた恐怖は歓喜へと変化し、二人は小躍りを始めたくなるほどの気分の高揚を感じた。
こうして、記憶をなくし、重い獲物を運び、魔物に襲われ、それを見事打ち破るというスリルあふれる二人の大冒険は終わりを告げた……かに思えた。
その時、それは唐突に訪れた。ダークガルムの死体の少し後方。その地面に落ちていた太い木の枝が、ばきりと音を立てた。二人が驚いてそちらを見ると、ゆらりと動く巨大な黒い塊が姿を現し、停止した。
「うわ……さっきのより大きい」
レインハイトはその塊を眺め、ぽつりと呟いた。
その黒い塊の正体は、ダークガルムであった。呑気な感想だが、必死に魔法を用いて魔物を倒したシエルとは違い、ただ後ろで突っ立っていただけのレインハイトからすれば、もう一度シエルが魔法で倒してくれるだろうと思うのも当然だろう。精々、獲物が増えて運ぶのが大変になるな。としか考えていない。
一方、シエルはかつて無いほどの恐怖を感じ、全身を粟立たせていた。これまでに何度か大人たちと一緒に狩りに出向き、ダークガルムと対峙したことはあったが、あの大きさは異常である。成体であることは間違いないが、遠目から見ても、平均的な成体よりも大きな体積を誇っていることが見て取れる。全長は約八メイル程か。それを確認した時、シエルは記憶が呼び起こされるのを感じた。
以前、大規模な狩りに出た大人たちが家に来て父に報告をしていた際、こんな話をしていた。
『ダークガルムの主がいた』
父に話していた大人のうちの一人が、恐怖で震え上がりながらそう言った。その魔物は通常のダークガルムに比べ二倍近くの体積を誇り、その大きな体躯からは想像できないほどの俊敏さで自分たちを襲ってきたのだと。自分たちも魔法と武器を使って迎撃したものの、傷を負わせることには成功したが、その間に前衛にいた数人が一瞬で殺され、命からがら集落に逃げ帰ってきたと。つい最近のことだ。シエルはよく覚えていた。
「逃げよう。レイン」
声は震えていた。大人たちが束になって敵わなかったのだ。自分の魔法が通用するはずがない。そう考えたシエルは、パニックに陥りそうになりつつも、自分達が生きて帰ることを最優先した。好判断と言えよう。
「え? さっきの魔法で倒さないの?」
レインハイトは無邪気に首を傾げながら問うた。少し大きくなっただけで、先程倒した魔物と大差ないと思っているのだろう。
「さっきのやつとは比べ物にならないくらい強いよ。悔しいけど、獲物はここに置いて逃げよう。そうすればすぐには追ってこないだろうし、村もここからなら走れば結構近いから」
優しく、幼い子供に言い聞かせるようにシエルは話した。
レインハイトはなにも知らないのだ。この魔物の恐ろしさもきっと知らない。先程の戦闘の際は運良く脳震盪で倒れてくれたから倒せたのだ。あれがなかったら、きっと今頃は二人共無事では済まなかっただろう。幼体をたった一人で退けられただけでも奇跡なのだ。あんな巨大な魔物に歯向かうなど、考えただけでもぞっとする。
シエルはレインハイトを急かしつつ、素早く逃走の準備を終えた。
「そうなの? りょ、了解」
レインハイトはそれを聞いてようやく状況を飲み込んだらしく、震えた声で答えた。抱えていた獲物をその場に置き、シエルと一緒になるべく音を立てないようにその場を離れようと足を動かした。
数歩ほど歩みを進めた時、ダークガルムの主とレインハイトの目が合った。
「ひっ!」
「大丈夫、獲物は置いてきたから、あっちに向かうはずだよ。行こう」
レインハイトが小さく悲鳴を上げ立ち止まったが、シエルがその背中を押した。
シエルには確信があった。それはそうだ。目の前に美味しそうな獲物が置いてあるのに、それを放ってこちらに向かってくるはずがない。一応警戒はするが、まあ大丈夫だろう。
シエルがそう油断した直後。ダークガルムの主の視線が、先刻倒したダークガルムの幼体の死体の位置でぴたりと止まった。そして、今度はシエルに視線が向けられた。
「あ……」
そこでシエルは悟った。自分が先ほど倒した魔物は、あの主の仲間か、子供だったのだろう。自分には魔物の表情など見てもわからないが、この瞬間だけは、ダークガルムの主が怒りに震えているように見えた。
グルルアアアアアッ!
その直後、油断すれば失禁してしまいそうになるような殺気を放ち、咆哮を上げながら、巨大なダークガルムが目にも留まらぬ早さで向かってきた。
ダメだ。もう助からない。誰か、誰か助けて、と声も出せないままシエルは懇願した。恐怖により足が地面に縫い付けられ、その場から一歩も動くことができない。
「シエル! 何してるんだよ! 早く逃げないと!」
レインハイトが叫んだ。呆然としていたシエルは、その声でかろうじて我に返った。そうだ。レインがいるのだ。記憶を失い、右も左も分からない状態のレインが。
シエルは心配そうに自分を見つめるレインハイトに視線を向けた。本来ならば戦闘力のある自分が守るべき立場なのに、私は一体何をしているんだ、と自らの心に鞭を打ち、シエルは諦めかけていた意識を再び生き返らせた。
前方を確認すれば、ダークガルムの主は既に二人の眼前にまで迫っている。心配そうにシエルを見つめるレインハイトは、未だそれに気付いていない。
このままでは二人共やられてしまう。早く避けなければ。シエルは竦みそうになる体を気合だけで動かし、棒立ちしていたレインハイトを突き飛ばした。
「うわっ!」
なにが起こったかわからず尻餅をついたレインハイトだったが、その直後、咆哮を上げシエルに飛びかかるダークガルムを目に捉え、シエルに助けられたのだと察した。
レインハイトを突き飛ばしたことにより、シエルは完全に逃げ遅れてしまっていた。眼前に迫る巨大な魔物を視界に収め、押しつぶされそうな恐怖に抗いながらも前方に寄った重心を必死に引き戻し、決死の覚悟でダークガルムから逃れるように横に飛んだ。飛んだ勢いのままゴロゴロと横に転がり、立ち膝の状態で起き上がる。
「シエル!」
「大丈夫……っ!」
シエルは左足に走った鋭い痛みに顔を顰めた。逃げ遅れたことにより、完全には攻撃を避けきれなかったのだ。傷は深く、立ち上がることができそうにない。もしかしたら、腱が切れてしまっているのかもしれない。
傷口からは勢い良く血が流れているが、しかし、今はそんなことを気にしている場合ではない。シエルは己の左足に向けていた視線を上げ、前方の巨大な魔物へと向けた。
ゆらり、とダークガルムの主はゆったりとした動作で頭を動かし、その漆黒の瞳でシエルを睥睨した。獲物に手傷を負わせたのを確認すると、ゆっくりと一歩一歩歩みを進める。まだ距離はあるが、逃げることはできないだろうと確信したかのように、その動作は遅い。後ろに倒れているレインハイトには目も向けない様子を見ると、やはり狙いはシエルなのだろう。
「我が契約に従い、風の精霊よ、我が手に吹き荒れる嵐の力を与え給え――『付与・風』!」
シエルは腹の底から湧き上がる恐怖を何とか押さえつけ、最後の抵抗とばかりに魔法を詠唱し、弓矢を構えた。
必死で逃げていたため気付かなかったが、ダークガルムの主は体中のいたるところに傷を負っていた。剣で付けられたような傷が多く、既に傷口は塞がってはいるが、見ているだけでも痛々しい傷の数々だ。村の大人たちが付けたものだろう。
顔面には眉間から左目の下辺りにわたって深い傷があり、左目は閉じられている。恐らくもう開かないのだろう。恐ろしく巨大な隻眼の魔物は、どこか歴戦の戦士然とした空気を漂わせていた。
シエルは一瞬息を呑むと、その傷を目印に照準を合わせた。先程倒した時はうまくいったのだ。きっと倒せる。そう自らを鼓舞し、弓矢を射出する体勢に構えた。恐怖で腕が震えるが、今は気にしていられない。絶対に外せないという緊張感に苛まれながら、慎重に狙いを定めた。
グルルアァアアアア!!
そのとき、ダークガルムの主から咆哮とともに凄まじい殺気が放たれた。弓の狙いを定めることにのみ集中していたシエルは、無防備な体にその殺気を直に受け、数瞬前にはあったはずの敵意や戦意を根こそぎ刈り取られた。
シエルは突如硬直した己の体に困惑し、呆然と眼前の魔物を眺めた。彼女には己に何が起こったのか理解できなかったのだ。
それから少し遅れ、殺気を受けた全身が粟立ち、体中の毛穴からどっと汗が吹き出した。集中により少し抑えられていた恐怖が、腹のあたりからまた上へ上へとせり上がってくるのを感じ、シエルは震えが止まらなくなった。
そこでようやく、シエルは己が目の前の巨大な魔物に本能的に屈してしまったのだと理解した。やがて動揺による振動が腕にも伝わり、構えていた弓が大きく震え、定まっていたはずの照準をかき乱し、狂わせた。
ダークガルムの主は、未だゆっくりとシエルに歩みを進めていた。シエルの僅かばかりの殺気を受けたところで、動じることはない。ゆっくりと、そして着実に。ダークガルムはシエルとの距離を詰めていった。
「うわあぁあああ!」
じりじりと距離を詰めるダークガルムに根負けし、シエルは恐怖で頭がおかしくなりそうになりながらも、叫び声を上げながら矢を放った。
鋭い風切り音を立て放たれた矢は、幸運なことに、逸れること無くダークガルムの眉間に飛んでいった。直撃だ、そうシエルが確信した刹那。ダークガルムはその巨体からは想像もできないほどの素早さで動き、空気を切り裂きながら向かってくる矢を流れるように躱した。行き場を失った矢はダークガルムの真横を通過し、その奥の大木に突き刺さり、虚しく音を立てる。
シエルは弓を放った体勢のまま、呆然とその光景を眺めていた。切り札の魔法を外してしまったことにより、「もうダメだ」という諦念が彼女の心を支配し、それと同時に、忘れかけていた死への恐怖が喉元までせり上がってくる。
死に直面したことにより湧き上がった諦めと絶望の入り混じった感情の中、シエルの心は、ただ貪欲に生を求めていた。
「嫌……嫌……死にたくない! ……誰か助けて……お父さん……助けて……」
涙で顔を濡らしながら、いやいやをする子供のように顔を左右に振り、シエルは助けてと懇願した。今ここにはいない、己の父親に対して。
彼女の座る地面には、生暖かい水たまりができていた。恐怖のあまり、ついに失禁してしまったのだ。しかし、現在のシエルにはそんなことを気にしていられる余裕はなかった。
巨大な腕を振り上げたダークガルムに対し、シエルは瞑目し、己が切り裂かれるその瞬間をただ待つことしかできなかった。
幼い少女の何倍もの質量を持つ腕が唸りを上げ、今まさに少女の体を切り裂かんとした、次の瞬間。
ゴッ! と何か固いものがぶつかったかのような鈍い音が周囲に広がった。
自分が切り裂かれた音だろうか、とぼんやりと考えていたシエルだったが、一向に意識が途切れないことを不審に思い、恐る恐る目を開け、自らの体を見下ろした。
不思議なことに、もう二度と見ることは叶わぬだろうと確信していた己の両手両足は健在であり、どこかに傷を負った痕跡すらなかった。見間違うはずもなく五体満足である。左足を怪我しているが、それは目を瞑る前の状態のままだ。
何故だろうか。呆然としたまま前方に視線を移すと、そこには自分とダークガルムの間に、こちらを庇うように背中を向けて立つ一人の少年の姿があった。
シエルはその少年に見覚えがあった。吸い込まれそうな漆黒の髪を持つ、たった数十分前に知り合った不思議な少年。レインハイトである。固く握りしめられた少年の拳は皮膚が剥がれており、その傷口からは血が流れていた。
ダークガルムの方に視線を移すと、レインハイトから少し距離を取り、よろよろと蹈鞴を踏んでいた。
状況から察するに、ダークガルムが自分に腕を振り下ろす直前、突如その間隙に飛び込んできたレインハイトに、思いっきり横っ面を殴られたのだ。
あれほどの巨体をよろめかせるほどの威力のある拳があの細身から繰り出されたとはとても思えないが、現にダークガルムの主は平衡感覚を狂わされ、未だに満足に立つことすらできていない。いったいあの一撃には、どれほどの力が込められていたのだろうか。
「……レイン……?」
シエルは、何故レインハイトが目の前にいるのか理解できなかった。彼はとっくにどこかに逃げているものだと思っていたのだ。そして、例え彼が逃げていたとしても、それを攻める気もなかった。あの状況だったら、自分なら逃げているだろうと思ったからだ。
しかし、彼は逃げなかった。シエルのように魔法が使えるわけではないのに。
シエルの危機を察したレインハイトは、己の危険など顧みず魔物の眼前に丸腰の状態で飛び込み、彼女に襲いかかるその獣の顔面に、素手で殴りかかったのだ。
シエルは今一度、自分をかばうように立つ少年を眺めた。両の手をきつく握りしめたその少年の体は、抑えがたい恐怖に当てられているのか、小刻みに震えている。
当たり前だ、誰だってあんな巨大な魔物は怖いに決まっている。
しかし、それなのに何故、それほどの恐怖を感じているというのに、レインハイトは逃げずに戻って来たのだろうか。いくら考えてみてもシエルには理解できなかった。
しかし、その直後、彼女の疑問はすぐに解消されることとなった。
「お前……シエルに怪我をさせたな……絶対に許さねえ……!」
レインハイトは怖くて震えていたのではなかった。怒りを抑えきれずに震えていたのだ。
シエルからはレインハイトの顔は見えない。しかし、シエルにはレインハイトの表情が怒りで歪んでいるだろうということが容易く理解できた。先刻は茫然自失で気付けなかったが、レインハイトが凄まじい殺気を放っていたからだ。それを向けられているわけではないシエルにさえ、肌を針で刺されているかのようなびりびりとした感覚が全身を駆け抜けていた。
その殺気のせいなのかは分からないが、いきなり顔面を殴られたダークガルムの主は反撃をすることもなく、あろうことか、その場から数歩後退りをした。
その様を目撃したシエルには、レインハイトより遥かに巨大な体積を持つダークガルムが、突如眼前に飛び込んできた少年に怯えているように見えた。圧倒的な力を誇る森の主が、たった十二歳の少年を恐れているのだ。
レインハイトは怒りにより赤味を増した眼球を動かし、自らの右拳をちらと見た。皮膚が裂け、そこから血が出ているが、痛みはほとんど無い。しかし、このまま素手で戦ったところで、あの恐ろしく硬い魔物には致命的なダメージを与えることができないだろう。
さて、どうしたものか。レインハイトは怒りとは切り離されたように動く頭を働かせ、考える。鋭く、重く。あの巨体を断ち切るためには、長さもある程度必要だろう。怒りが渦巻く頭の中、眼前の獣を屠るための武器の姿をイメージする。
レインハイトは傷を負った右手を前に出し、手を広げ、瞑目し、念じた。少しずつだが、右手に熱のようなものが集まってくる。「己のイメージが今形になろうとしている」ということが、レインハイトには見えていなくとも感じられた。体中の力が右手に集まっていくような不思議な感覚である。少々戸惑いつつも、レインハイトに迷いはなかった。
ちょうどその時、シエルはレインハイトの異変を目の当たりにしていた。レインハイトが右手を前に出し集中を始めたのを境に、彼の周囲に赤黒い半透明の霧のようなものが溢れ出し、徐々にその突き出された右手に集まって行ったのだ。
暫くの膠着状態のあと、最初に動いたのはダークガルムだった。レインハイトの右手に霧が集まっていく様子を見て焦ったのか、今まで狙っていたシエルからターゲットを変更し、レインハイトに向かって飛びかかった。
レインハイトの眼前に迫ったダークガルムは、シエルにした時と同じように、ゆっくりとその丸太のような右腕を振りかぶった。
その腕一本の質量のみで、相対する少年一人の重さを軽く上回るだろうということは誰の目にも明らかだ。ただ重力に従いその腕を下ろすだけでも、小さな少年に致命傷を与えることは容易だろう。
シエルはその光景を食い入るように眺め、こらえ切れずに口を開いた。
「レイン!」
レインハイトが何をしているのかはわからないが、このままではダークガルムの攻撃が当たってしまう。いくら怪力の持ち主のレインハイトといえども、あの質量を持つ腕を叩きつけられればひとたまりもないだろう。
しかし、そんなことはレインハイトにもわかっているはずだ。ならば何故逃げないのか。まさか、今度こそ恐怖で動けなくなってしまったのだろうか。
シエルはその時、何もできない自分に歯噛みしていたが、辛うじて自分の手に武器が握られているのを思い出し、即座にレインハイトの援護をしようと弓を構えた。魔法を付与している時間はないが、矢を放つだけでも邪魔くらいにはなるだろう。
しかし、シエルがいざ弓をダークガルムに向け、その眉間に照準を定めようとした次の瞬間。無慈悲に。必殺の威力を持つ巨大な魔物の腕が、空を切り裂き、瞑目する少年へと振り下ろされた。
シエルは見た。真っ二つとなり、おびただしい血を吹き出しながら舞い上がる肉片を。
ガアアアアアッ!!
しかし、悲鳴を上げたのはダークガルムだった。
よく目を凝らして見てみれば、舞い上がったのは振り下ろされたダークガルムの右腕であった。巨大な腕は凄まじい勢いで血しぶきを上げながら重力に従い弧を描き、少し離れた地面へと落下していく。
シエルは困惑した。誰が、どうやってあの巨大な腕を断ち切ったのだろうか。しかし、そんな疑問が脳裏を駆け巡ったのも一瞬、シエルはレインハイトの存在を思い出し、視線を僅かにずらした。
レインハイトの右手には、赤黒い巨大な剣が握られていた。彼の体躯を上回る長さを誇るその長大な剣は、目の前に迫った巨大な獣を切り裂くために、彼自身が作り出したものであった。常人ならば扱えるはずもない長さと重さを持ち合わせた大剣だが、持ち主たるレインハイトの怪力によって、重力に逆らい、軽々と持ち上げられている。
レインハイトは目の前で蹲る巨大な魔物を冷たく見下ろした。その視界に映るのは、右腕を切断され、苦痛にもがき苦しむダークガルムである。
魔物は低い唸り声を上げ眼前のレインハイトを睨み返すが、その漆黒の瞳には先程までの力はなく、まるで天敵に睨まれた小動物のように、捕食者に対する恐怖に揺らめいている。ちょうど中間辺りで切断された右腕から流れる真紅の液体は、既に大きな血だまりを形成していた。
レインハイトは暫くそのまま手を出さず、抵抗のできない巨大な魔物を睥睨し続けた。こうしてシエルを傷付けた魔物が苦しんでいる様子を眺めれば、己の行き場のない怒りが少しは鎮まるかもしれないと考えたためである。
しかし、いくら無様に地面に這いつくばるダークガルムを眺めたところで、彼の怒りは一向に収まることはなかった。怒り渦巻くレインハイトの胸中では、これだけで済ませてはならない。シエルを傷付けた罪は、こんなものでは償いきれない。この程度で許す訳にはいかない、と何かが叫び暴れている。
まるで自分の心ではないかのようだ。レインハイトは己の心をどこか他人事のように傍観していた。高ぶる感情は理性だけでは制御できず、荒れ狂う怒りに抗うことができない。脳裏ではこうして冷静に物を考えることができるというのに、何故か眼前の獣に対する怒りは加速度的に強まっていくのだ。
レインハイトは蹲るダークガルムを品定めするかのように、その頭の先から尻尾の先端に至るまで、ゆっくりと視線を動かし、しばし黙考した。
次はどこを切り裂いてやろうか。腕か、脚か。どこを切り刻めば、この怒りを静めることができるのだろうか。燃え盛る炎のような怒りと切り離され、冷徹に思考できるようになった頭で数瞬考えたレインハイトは、魔物のある一点に狙いを定めると、黒光りする大剣を持つ右手に力を伝え、勢い良く振り上げた。
次の瞬間、シエルは、先程よりも大量の鮮血を撒き散らし、重力に逆らい空中へと舞い上がる黒い塊を見た。