不穏な影
◇ ◇ ◇
――迂闊だった……!
入り組んだ路地を駆ける人影は、全力で脚を動かしながら、心中で浅慮だった数時間前の自身を恥じた。
他に人の気配が全くない路地は周囲を建造物に囲まれており、陽の光が届かないため薄暗く、そこにいるだけでどこか不安感が芽生えてくる。
目深に被ったフードのせいで人影の表情はうかがい知れないが、ところどころ丸みを帯びた華奢な体つきから、おそらくは女性であろうことがわかる。体全体を覆うようなローブの上からでも見て取れるのだから、その下には相当に豊満な肉体が隠されているのだろう。
慣れない激しい運動により人影の呼吸は乱れ、もっと速くと叫ぶ意志に反し、体は泥沼に沈んでいくかのようにじわじわと重くなっていく。酸欠気味で息は荒く、四肢には一歩進む毎に疲労が凝縮され、今すぐに足を止めたいという衝動に駆られる。
「はっ……はっ……」
最近は平穏な日々が続いていたというのに、よりにもよって、どうして“彼女”が護衛に付けない今日なのだ。蓄積し続ける疲労のせいか、それとも焦燥のせいか、行き場のない怒りが人影の胸の内で燻り、今にも発火しそうになる。
こんなことになるのなら、はじめから饗宴になど出向かなければよかったのだ。
(……いや……)
この考え方はダメだ。こんな平和ボケした思考のせいで、たった今こうして痛い目を見ているのだ。路地を駆け続ける人影は左右に首を振り、思考のリセットを試みる。
こういった状況に陥った場合、楽観ではなく、最悪の事態を想定するべきだ。つまり、今の状況はすべて、敵側が仕組んだものだと考えたほうがいいだろう。
思えば、今回の襲撃には不審な点が多かった。まるでこちらの動きをすべて事前に知っていたかのように側についていた護衛二人を無力化し、更に、護衛と気取られぬよう町民の格好をさせていた護衛三人すらも正確に排除してみせたのだ。冷静に思い返してみれば、どこからか情報が漏れていたとしか考えられない。
「ハッ……ハッ……やはり内通者が居る……それも、私にかなり近い者の中に――」
人影が発したのは年若い少女のものであった。現在自分が置かれているこの状況の原因となった人物の特定のため、自らの交友関係について考えを巡らせる。
しかし、思考に気を取られすぎたせいだろう、自身が気づかぬ内に少女の走行速度は落ち、周囲への警戒も疎かになっていた。
「居たぞ! あそこだ!」
「――ッ!?」
声に振り返れば、曲がり角から現れた追手が二人。その片方が金属製の杖を少女に向け、たった今詠唱を終えた魔法を放とうとしているところであった。
「――『火球』!」
逃げていた少女と同じく、目深に被ったフードで人相を隠した襲撃者が放ったのは、火属性の下級魔法。赤く発光する魔法陣によって即座に世界の情報が改変され、何もない虚空に突如として業火の塊が発現する。優れた知性を持つ人間にのみ行使を許された、現実を歪める神秘の御業――魔法だ。
周囲の空気を焼き焦がしながら、炎の球は少女に向かって突き進む。直撃すれば、冗談抜きに全身まる焦げになることは明白である。
「くっ……!」
重苦しい体を強引に動かし、少女は地面を転がるようにして何とか火球の回避に成功した。狙うべき的を外して建物の壁にぶつかった炎の球は壁面の苔を焼き、周囲に煙を発生させる。
「チッ……」
「おい! 何してやがる!」
焦る襲撃者たちの声に、路地に這いつくばる少女はビクリと肩を震わせた。
(どうして……今のうちに逃げなきゃいけないのに、体が重い……!)
原因は単純だ。少女は数分前に襲撃現場である宴会場を後にしてから今に至るまでずっと走りっぱなしであったため、普段から鍛えているわけではない貧弱な肉体が限界を迎えたのだ。
(こんな……こんな所で……)
――死にたくない。
少女の全身に死への恐怖が駆けまわり、鉛のように重い体に逃避と言う名の活力を与える。
死という絶望から逃れるために、今は何を考えるより早く、この場を脱さねばならない。少女の中の本能がそう叫び、本人の意志に関係なく、停止した思考を無視して勝手に肉体に指令を送り、立ち上がろうとする。
しかし、そうして生へと縋り付くために本能が少女を支配しようとする一方、未だ思考を止めようとしない理性が耳元で囁くのだ。もう自分は充分に頑張ったのだから、そろそろ楽になってもいいのではないか、と。
少し考えればわかることだ。例えこの場を何とか切り抜けられたとしても、また次の機会が必ず訪れる。いつ終わるとも知れない戦いの日々の中、一時も休まる暇もなく神経をすり減らしながら、常に敵の勢力から命を狙われ続ける恐怖を味わい続けるのだ。それなのに、今死に物狂いになってまで生にすがる意味がどれほどあろうか。
確かに死ぬのは怖い。当然だ。生きとし生けるものならば、その多くが死を恐れているのは明白だろう。だが、「死にたくないか」ではなく、「生きたいと思っているのか」という問いを投げかけられた場合、少女には即座に肯定できる自信はなかった。いっそここで死んでしまえたら、このまま生き永らえるよりも楽なのかもしれないと思う自分がどこかに存在するのだ。
なぜ自分はこうも苦労しなければならないのか。普段であれば「そういう星の下に生まれてきてしまったのだから仕方がない」と強引に納得することができていた疑問が、死を目前にした今になって重く重くのしかかる。
今すぐに起き上がり駆け出さなければ魔法を躱したことで生まれたせっかくの隙が無駄になってしまうにもかかわらず、少女の肉体はひたすらに停滞を続け、その意志は底知れぬ思考の海へと埋没していく。
無論、その間も時は止まることなく進み続けており、そして当然ながら、襲撃者の魔手は少女に向かって着実に近づいていた。
「何だ……? もう逃げるのは諦めたのか?」
「そりゃあ好都合だ」
襲撃者達は不審そうに顔を見合わせると、四つん這いになったまま動かない少女に向かって歩き出した。抜き身の剣を持った乱暴そうな話し方の男が先頭に立ち、先ほど魔法を放った男がその後に続く。
「おいお前、どうして急に諦めちまったんだ? 生きるのが嫌にでもなったか?」
「余計な時間を取るな。すぐに始末しろ」
「うっせーな……いいだろ、少しぐらい」
そうして襲撃者が揉めている間も、少女は微動だにせず胸中で問答を続けている。彼女は彼等から逃げるのを諦めたわけではないが、かといって生き残るという選択を選ぶ決心がついたというわけでもなかった。
「チッ……これだから傭兵は……。貴様はこの任務の重要性を本当に理解しているのか?」
「はいはい、そりゃあ悪かったな魔道師さんよ。心配しなくてもすぐ済ませるさ」
流石にそんなことをしている場合ではないと思ったのだろう、剣を持った襲撃者は軽薄そうな笑みを引っ込め、足元で跪く少女を真剣な眼差しで見下ろした。
「嬢ちゃん、そこで大人しくしてろよ? ……できるだけ楽に逝かせてやる」
傭兵と呼ばれた男は剣を振り上げ、少女の首に狙いを定めた。後はまっすぐに剣を振り下ろすだけで、華奢な少女の首は容易く飛ばされることだろう。
自身に刃を向ける剣を呆然と眺め、ここまでか、と少女は自らの命運の尽きを悟った。
首を斬られるというのは一体どんな感覚なのだろうか、やはり斬られた瞬間は痛いのだろうか。少女はこの状況をどこか他人事のように観察し、来るべきその時を静かに待つ。
一度まぶたを閉じれば、今まで自分を支えてくれていた人々の面影が走馬灯のようによぎった。彼等を裏切るような真似をしてしまうことに対する罪悪感が芽生え、少女は届くはずもない謝意を心中でひたすら述べる。
「……あ……」
彼女が自身の死と向き合うにあたって、それは必然だったというべきだろう。
その時、次々と浮かんでは消えていく人物の中にある少年の姿が現れ、少女は思わず声を漏らした。
見も知らぬ存在であったはずの自分を、己の命を懸けてまで救ってくれた心優しい黒髪の少年。最後に言葉をかわしてから一年半が経過したが、あれから元気にしているだろうか。
なぜ今の今までそんな大切な人のことを忘れていたのだろう。頭の片隅でそう疑問を感じながら、少女はひたすらにその少年の姿を瞼の裏に投影し続けた。
今ここで死んでしまえば、あの少年とももう二度と会うことは叶わなくなるだろう。そればかりか、せっかく彼が決死の思いで救ってくれたこの命を無駄にしてしまう事にもなる。
それを自覚した瞬間、少女の体をかつて無いほどの衝撃が駆け抜けた。まるで自分の胸にぽっかりと穴が開いたかのような喪失感に、少女は呼吸をすることすら忘れてただ呆然とうなだれる。
「……い……や………」
終始悟ったような態度であった少女に起こった変化は内心の動揺だけにとどまらず、指先の震えに始まり、やがて肩にまで伝播していった。少女は両腕で自身の肩を抱いたが、おさまるどころか、震えは次第に増していくばかりだ。
しかし、時はいついかなる時も常に流れ続けるものである。今更後悔したところで少女の気持ちを斟酌してくれるはずもなく、“その時”はもうすぐ後ろにまで迫ってきていた。
「じゃあな。後で化けて出たりすんなよ」
今になって怖くなったのか、と心底つまらなさそうに震える少女を見下ろす襲撃者は、少し緊張感に欠ける言葉を告げ、さして感傷を抱くこともなく、その鋭い刃を少女の首に向かって真っ直ぐに振り下ろした。
襲撃者の手元に一切の狂いはなく、剣はまるで吸い込まれるかのように少女の柔肌に侵入し、肉が切れる生々しい音とともに赤々とした鮮血が周囲に飛び散った。
……が、しかし、
「おいおい嬢ちゃん……一体どういうつもりだ……?」
怒りで声を震わせる襲撃者の男は、目の前で己の右腕を抱く少女に尋ねた。
少女はまだ生きていたのだ。斬られた右腕からは勢い良く血が流れているが、即座に命を失うような傷ではない。
襲撃者の太刀筋には一切の狂いはなかった。ならば、なぜ少女は未だに生きいているのか。
答えは単純だ。剣が振り下ろされる寸前、直前まで生を諦めたようにその場を動かなかった少女が突然身を翻し斬撃を回避したのだ。
「私は……まだ、死ぬわけにはいかない……!」
先ほどまでとは違う、強い意志を碧眼に宿した少女は、間髪入れずに魔法の詠唱を開始した。
「我が契約に従い、炎の精霊よ、その力を分け与え給え――『炎』」
震える右手の指先に魔法によって作られた小さな火を灯し、少女はそれを襲撃者たちに向けた。その表情は凛として美しく、戦う覚悟を決めた戦士のものへと変わっている。
「フハハハッ……何をするかと思えば、そんなチンケな魔法で俺たちが怖気づくとでも?」
「おい……遊んでいないでさっさと殺せ! いつまでもそうしているつもりなら俺がやる」
少女の指先で儚く揺れる火を見た剣の男が愉快そうに笑い、その横で魔道師の男が苛立った様子で怒声を上げる。もともとそりが合わないのか、襲撃者達のチームワークはあまり良くなさそうだ。
「……お前、さっきからどうしてそんなに焦ってるんだ? こいつは魔道書を盗んだっていうただのコソドロなんだろ? ならそんなに躍起になって殺そうとしなくても、他にやりようはいくらでもあるだろうが。……へへ……この嬢ちゃん、近くで見ると結構いい体してるぜ?」
剣を持った男は布に包まれた少女の体を舐めるように眺め、好色な視線を向けた。男が何を考えているのかを敏感に察知し、少女はその場から一歩後退る。
しかし、冗談のつもりだったのか、剣を持った男はすぐに少女から視線をそらし、隣に立っている魔道師の男に鋭い目を向けた。
「どうも何かおかしいような気がするんだよな。……お前、もしかして俺に何か隠してることがあるんじゃねえのか? さっきだって何の躊躇もなく火の魔法をぶっ放してみたりよ。もし当たってたら、大事な魔道書ごと燃えちまってただろ。
いくら俺が傭兵だからって、業務内容くらいはきちんと正確な情報を教えて欲しいもんだ。金だけの関係でも最低限の信用は必要だろう」
両の目にありありと不信感を宿らせ、剣を持った男は魔道師の男に皮肉げな言葉を投げかけた。
彼等の話の流れから察するに、剣の男は魔道師の男に雇われた傭兵のようだ。魔道書を盗んだなどという身に覚えがない罪で命を狙われていることから見て、どうやら“本当の理由”を知っているのは魔道師の男だけらしい。少女は注意深く襲撃者たちに目を配り、一瞬の隙も見逃すまいと意気込んだ。
「今回の任務は奪われた魔道書の回収ではなくそいつの暗殺だ。焼き殺してしまっても何ら問題はない。……まあ、いろいろと疑問を感じるのもわからなくはないが、余計な詮索はしないほうが身のためだとだけ言っておこう」
「フン……傭兵なんざに教えるつもりはねえってか? ……まあいい、それなら俺は与えられた仕事を全うして金を頂くまでだ。まさか、報酬をもらえるって話すら嘘ってわけじゃないだろう?」
「無論だ、それについては心配する必要はない。きちんと前金も支払っただろう」
「ああ、前金にしちゃあかなり多すぎる額をな。……全く、俺はとんでもねえ仕事に首を突っ込んじまったのかも知れねえな」
やれやれと首を振り、剣を持った男はそれ以上依頼に関して追求することをやめた。下手をすれば自分の身が危うくなるかもしれないからだ。
依頼主に金で雇われる傭兵にとって最も大切なことは、請け負った仕事を成功させることではなく、何よりも優先して自身の身を守ることである。日頃から危機管理を徹底しなければ、常に危険がつきまとうこの業界で生き残ることは難しいのだ。
「……っつーわけで、非常にもったいないが嬢ちゃんにはさっさと死んで……ん?」
死んでもらおう、と言いかけたところで、傭兵の男は眼前の少女の違和感に気づいた。
「……おい、嬢ちゃん……その左手に持ってるモノは一体なんだ?」
男の人差し指が示す先には、少女の左手に握られたこぶし大ほどの茶色い球体が存在していた。
先ほどまではそんなものは持っていなかったはずだが、一体いつの間に用意したんだ、と傭兵が目を眇めたところで、少女は指先に火を灯した自身の右手を球状の物体から伸びる紐のようなもの――導火線へと近づけた。
「これは発火すると爆発を起こす爆弾というものです。ご存知ありませんか?」
「そんなことを聞いてるんじゃねえ! そいつを一体どうするつもりかって聞いてんだよ!」
あくまで平然とそう言ってのけた少女に対し、剣の男は震える指先を突きつけた。非常に嫌な予感が背筋に走り、体の後ろ半分の体温が一気に冷めていくような感覚に陥る。
「もちろん、爆発させるに決まっているでしょう。あなた達に乱暴されて殺されるくらいなら、私はここであなた達とともに死ぬ未来を選びます」
「正気かてめえ!? こんな所でそんなもん爆発させたら街はどうなると……」
「ここは人通りの少ない路地裏ですから、爆発の一つや二つくらいでは大きな被害にはならないでしょう。……まあ、どうせ今ここで死ぬんですから、仮に他の誰かに影響があったところで私の知ったことではありません」
少女は迷いなく言い切ると、躊躇う素振りすらせず、自身が握る爆弾の導火線に指先で火を着けた。着火された紐は火の粉を散らし、その名の通り、少女が手に持つ爆弾に向けて火を導いていく。
「クソッ! イカれてやがる! マジでやりやがった!」
火を着けてしまった以上、それを止めることはもうできない。爆弾を手に持つ少女になら可能だろうが、本人にはその気はなさそうだ。
「お父様、お母様。申し訳ありません、志半ばで散ってしまうことをどうかお許し下さい」
少女は大切な物を扱うかのように爆弾を両手で包み込むと、その豊かな胸に抱き、目を瞑って祈るように言葉を紡いだ。
目の端に涙を湛え天を仰ぐ少女の姿は美しく、フードの奥からちらりと垣間見えた美貌に、剣を持つ男は数秒の停滞を禁じ得なかった。
「……って見惚れてる場合じゃねえ! おい、さっさと物陰に隠れるぞ!」
「チッ……やむを得んな……」
こちらから手を下さずとも自決してくれるならば話は早い、と襲撃者達は心中などまっぴらごめんとばかりに大急ぎで来た道を引き返し、曲がり角へと消えていく。
「……ふぅ……どうやらうまくいったようですね」
ため息と同時に肩から力を抜いた少女は、手に持っていた爆弾を地面に転がした。
火の着いた導火線は爆弾の頂点に吸い込まれていき、辺り一帯を巻き込んで爆発……とはならず、勢い良く白煙を吐き出しはじめた。
「ただのけむり玉です。……爆弾なんてそんな物騒なもの、持ち歩くわけないじゃないですか」
そう呟いた少女は、襲撃者達が逃げていった方へ向けてしてやったりと舌を出した。
おどろくべきことに、先ほどの寸劇はすべて少女の演技だったのだ。相手にそうとは悟らせぬ堂々とした態度や、必要に応じて目尻に涙を浮かべたりなど、少女の演技力は役者顔負けの域にまで達していた。
「……ひとまずどこかに身を隠さないと……」
右腕の傷を確認し、あまり長時間放置する訳にはいかないと判断した少女は、襲撃者達が逃げていった方とは逆へと走りだした。地に足をつけるたびに傷口に鋭い痛みが走り、無意識のうちに口から声が漏れる。
少女は自然魔法だけでなく治癒魔法も使用することができるが、相手は二人な上に、おそらく一対一でも勝ち目の無い手練である。傷を治すことに気を取られてもう一度追いつかれれば、今度こそ命はないだろう。それ故に、少女は第一の目標として彼等から逃れることを選択したのだ。
幸いなことに、現在走っているこの路地を抜けることができれば、人の多い表通りに出ることができる。いくら彼等とて、人目のある場所で殺しをするようなリスクを負うことはないだろう。傷の治療はその後でも充分間に合うはずだ。
「……レイン」
ぽつり、少女はある一人の少年の名を呟いた。
止まることなく走り続けているせいで体力は摩耗し、失血と傷のせいか頭も少しくらくらしてきた。しかし、その名を一度呟けば、失ったはずの気力がたちまち回復し、次の一歩を踏み出す勇気をくれる。
「レイン……!」
もう一度、しかし今度は力強くその名を呟き、少女は誰も居ない路地をたった一人で駆け抜けていった。




